自作批判 いつものですね
自作批判する前に、修正をしろと怒られそうだけど、まあ、うん、こう拙い点を、開陳しながら、教えるのが教育であって、自分に自分で教育するのが語学学習のようなものだから、教師も生徒も無知の状態で切磋琢磨できることが大事なように、『無知な教師』のごとく、思い返せば、と反省しながら、学習するスタイルをーーーー延々と文字を紡げる作業を停止。
まずは、コピペ。
『
パンッ。
ドチュッ。
「命中」
遠い距離で、二つの音が同時に鳴る。スコープ越しに倒れていくのは、大きな蟲。頭部を打ち砕く大口径の弾丸は、人間の肉体全てを破壊する威力で、巨大な蟲を死滅させた。
ゴーグルを頭の上にあげて脱ぐのは、まだ幼い少女の顔。
「群れの中核を撃ちました。これより退避します」
ペアのラズロウが、通信を入れる間に、銃をしまう。
』
と、こういう小説の冒頭を愚かな少年が書いたとしようじゃないか。
問題点をあげる。
まぁ、初めの短い文を許したとしても、やはり、上の文が狂っているのは、描写の変更を読者に強いている文章が多すぎること。
なんとなーくスナイパーが撃っているシーンを描きたいのは分かるけど、蟲のイメージもできないけど、スナイパーの銃を後で拡大し、しかも、あとでゴーグルをつけた少女に、さらに、あれ、もう一人いるの、しかも、いる場所はどこよ、と、悩みけり。
書いているときに、一番やらかしてはいけないのは、読者に描写の修正を強いるような文を押し付けないこと。
高度な叙述トリックが毎回仕込まれているような文章だ。描写が破綻しているわけだ。
蟲のイメージが頭の中でできているから、漫画のように書いているんだ。ムカデのような蟲が、頭部を撃たれて、身体をよじりながら、倒れていく様子を。
そして、きっとスナイパーは廃墟のビルの上から、そこそこ遠い距離から撃っているということ。そして、周りは廃墟の都市と覆い尽くす森。森に飲み込まれたかつての都市。
哲学書ではないので、読み終わった後で、読み返せば、意味が分かるみたいな文では困るわけだ。
まぁ、ある程度は、そういう描写も許容される。殴られた後に、誰が殴ったか分からないようにするような。ヒキに繋がるような、描写。
基本の描写は、真っ直ぐ、他人が読んで、イメージが湧くものでないと困る。
コピペ、第二弾。
『
「あいかわらず、いい腕」
「やったら逃げろ。無駄口を叩かない」
「この距離だ」
「まだ、近くでは交戦中よ」
フェアリーは去りゆく。
都市の荒廃した蟲の巣穴から。
植物と蟲の庭園から。
人間が去った夏の午後の終わりの地球から。
』
おっと、まだ近くでは交戦中らしい。描写を修正しないと。スナイパーは、静かに暗殺したのかと思ったら、戦闘しているのね、他の、えっと何を足せばいいの、僕の頭の中のイメージに。
フェアリー、うん、専門用語キタコレ。説明は、まだない。
おっと、詩的な表現も混じってきたぜ。これはお手上げだ。
コピペに続け
『
「最近は都市が綺麗でいいわね」
軍の施設に還ったシェイラは、ラズロウと食堂に来ていた。固いフランスパンとドロドロに溶けたじゃがいもと玉ねぎのスープ。
「もう喰い終わったんだろう。人間の死骸も」
「おかげで、食事が楽でいいわ」
腐臭は鼻にこびりつくし、人間の遺骸は、食事を不味くする。
「行方不明者が大量」
「探す人がいなくなるから大丈夫よ」
「シェイラは、ずいぶん冷めたよね」
「もう何年、蟲の駆除をしていると思っているの」
「まだ2年」
「もう2年よ。出撃回数が多すぎ。いくらでもわいてくるんだもん」
狂った世界の歯車が回りに回って、凄惨さを、胃袋に閉じ込めて、綺麗に漂白されて、緑化されていく。
人間の大地は、蟲の大地へ。植物は、以前の大繁栄をもう一度噛み締めている。熱帯の雨林を焼き払うことをしなかったのが悔やまれる。
』
なるほど、今更、主人公らしき人物の名前が出るわけか。まぁ、別にそれくらいはいいけど。セリフから入るのはやめようよ。頭の中のイメージがつかない。で、食堂にいると。
そして来ていた。あ、もう座っている?それとも食事を受け取ってるの。分からんけど。喰うって漢字いいよね。なんか雰囲気的に。
セリフのやりとりは、別にマシな気がする。それに説明も十分ぐらい。
で、その後のセリフの連続はなんだろうか。あれ、ラズロウって男だっけ女だっけ。
でもね、セリフにシェイラって入れるのは正しい。この時、どっちが喋っているか混乱するから。セリフで、名前を入れるだけという簡易的なテクニックは、意外と有効。人が多い時とか、やたら名前を呼ぶけど、そういうことだと。
セリフ内容は、ちょっと人口的な感じがするけど、まぁ、無視してもいいかも。でも最後はセリフにしなくてもいい気もする。
で、いきなり詩的な表現と。散文芸術をかなぐり捨てたいお年頃。
コピペ4つ目。
『
「なんで、蟲を食べないのかな」
シェイラはスープをつつく。
スプーンに、じゃがいも色。薄いクリーム色。
「硬いし、中身なんてスカスカだからなぁ」
「食糧難」
「蟲は肥えさせても、食えない」
「もう生物として間違ってるよねぇ」
「人間様がピラミッドの頂点を独占できる時代は終わったということよ」
「食われたくないなぁ」
「食われる死に方って、人間、いつから珍しくなったんだろうね」
「西暦ぐらいからじゃない」
「人間同士で争っていれば、食い合わないし」
「共食いしないのに争うバカな男ども」
「奴隷という労働力が欲しかったからじゃない」
「いずれにしろ過去のこと」
「そうだね、過去のこと。現実が現実していると歴史の研究なんてできないよ」
「まだ、本を読んで、文字に埋もれてる贅沢な人なんているの」
「戦争中に技術は進むんだ」
「無駄な本を読まなくなるからじゃない」
』
詩的な内省から一気に話題をチェンジするのだ、諸君。
そして、地の文を気休め程度に挟んで。
セリフ。えっと対話編か何かですかね。
セリフによって何かを伝えるという説明調というやつですか。なんだか、怠惰なリアリズムにも溢れていそう。ここ、たぶん内省でもいけるね。だって、話し相手が聞き上手だと小説って大変なのに、一人芝居のような会話だなぁ。そして、やっぱり、これだけセリフが続くと読みづらいよ。どっちのセリフかも取りづらいし。
ラスト、コピペ。
『
歴史なんて知らない。僕らの国境の無駄な境を、蟲は考慮しないし。もう、かつてのナショナリズムなんて消えている。チンケな同族意識を、狭い範囲で確立するための作業が、実を結ばないから。世界市民は、自動的に、完膚なきまでの幼年期の終わりに、ファースト・コンタクトで、ぶち壊れた世界の中心に、楔として落下した。地球が宇宙船地球号だと、理解せざるを得なかった。
環境問題の遠大な距離とは違う目の前の危機ーーバグ。蟲たちは、平らげていく。人間の作ったバベルの巨像を。
シェイラは、ライフルを手に、食堂を出る。
ラズロウが武器を近くに置き続けるシェイラを笑う。
そのことに気づいても、別に振り返る気もしない。
シェイラは、武器を近くに置き続ける。
それが、存在の意義なのだから。
』
おっと、また何か語り始めたよ。
まぁ、いいとして。もう内省に逃げ込む文はいいとして。
ライフルさん、あったんですね。え、どういう形状ですか、どこに置いてたの。立てかけてた。大口径の弾丸を出すライフルを??
食堂を出たのに、笑うラズロウが見える。
あれ、視点はどこに。ああ、僕は神か。
「そのことに気づいても別にーー」
うん、あれ、やっぱり三人称単一なのかな。もしかして、結構、大きな声で笑ったのかな。
そして、いや、また語り始めたと。
え、終わり。
うん、蟲撃つ、食堂で話す、出て行く。
いやぁ、スバラシイ三幕構成だ。キャラクターの心情の動きがない見事な。羅生門という短編を読んだ方がいいぞ。
設定が長い。心情描写が無駄に長い。
短編は設定に時間はかけない。そんなことをしている間に終わってしまうぞ。まぁ、超短編ぐらいの文字数だったけど。
でも、心情描写を組み込むときに、もう少し考えないと、というかわざわざ書く必要ないから、身体表現で済ませればいいのに。内面の動きは身体に現れるのだよ、ワトソンくん。
と、自作を読み返すと、ツッコミだらけになるわけだ。
何か内向的に語ることは悪いことじゃないんだけどね。でも、ストーリーと離れている突発的な設定説明のような内省は疲れるなぁ。
見る側が大変な絵。コマ割りがめちゃくちゃな漫画の如き。その吹き出しは、誰の吹き出しで、どういう順番で読ましたいの、みたいな。
まぁ、だいたいの馬鹿げた文章の連立の原因を解消したい場合、描写の視点をきっちりと固定することだ。そして、そのレンズ越しから、見続けること。内省もストーリーの進捗、外部刺激を利用して、話との繋がりがある程度に抑える。
でも、ただ、そのレンズからのみ見ていると、情報伝達の問題で、読者の情報量と主人公の情報量の齟齬が解消できない場合が出てくる。
そこを埋めるには、一番簡単には、主人公もゼロスタートさせるという手がある。他は、読者に説明を与えるような事件やエピソードを挿入していくという手。三人称神視点で説明をナレーションしていくことも。
基本的に、インサイティング・インシデント。まぁ、ストーリーのきっかけから入ればいいわけだ。短編は切り抜くけど、長編は、そうじゃないから。ゆっくり、初めの出来事を書けばいい。まぁ、印象的な場面を切り抜いて、バックする手もあるけど。良きにはからえ。
自作批判を他作批判。
他作批判を自作批判。
批判しかしない人が嫌になるのは、自分に向けることがないからなのかな。純粋理性批判のように、まず、自分自身を批判せよ、となるときに、自分の防備を固める批評家。
まぁ、こういう短編の一番の問題は拙速なんだよなぁ。
拙速は、構造の欠如に出る。
まぁ、本エッセイも類に漏れず。
自己批判を自己批判するという入子構造をしてみても面白そうだな。




