断捨離考
断とは、モノを買わない、増やさないことを意味し、捨とは、モノを捨てる、取り除くことを意味し、離とは、モノへの執着をなくすこと、だそうだ。
断捨離的生活を体現していると、ミニマリストのような生活をすることになろう。
しかし、少し立ち止まってみよう。
モノを増やしても増やしても満足しないのは、肥満と同じことではないだろうか。
食べても食べても満足しないのは、何故か?
モノを増やしても増やしても、満たされない何かーー、それはダイエットをすれば解決するのだろうか。
モノを増やしても満足を得ることができないのは、それが本当の欲求を満足させていないからではないだろうか。
どうして、モノを増やしてしまうか?
答えは、モノがないから、ではないか。
逆説的に考えてみよう。
食事をしても満足しないのは、栄養素的に足りてないからで、ジャンクフードなどで炭水化物ばかり食しているからだ。結局、食べているようで、食べていないのだ。本当に必要な栄養価が得られたならば、自ずと、脳が満足の信号を発するはずだ。
モノを増やしているようで、増やせていない。
モノが増えるとは、どういうことだろうか。消費財のようなものは、あまり増えたりしないだろう。
家の中に、トイレットペーパーや洗剤、卵、ティッシュなどがありすぎるということは、あまり聞かない。一時的に、増えても、まあ、時間の経過の中で、問題なく消費されていくだろう。
買いすぎるのは、服や靴、時計、本、グッズ、アクセサリーなどの商品だ。
何を求めて、集めてしまうのだろう。
これらのモノに何を欲しているのだろうか。
それは、モノと自分との関係性ではないだろうか。
モノが、自分の人生に根付く可能性を求めてーー。しかし、現代社会は、速度が速く、服は一瞬で流行遅れになって、昔の着物のように、大切に保存することができない。自分の人生の一時期に着ていた服の大事さーー、それを感じづらい。
モノが持つ思い出、記憶を喚起する力が失われている。
古いカジュアルな時計を見れば、かつての若い自分を思い出す。本を見れば、いつ、どこで、この本を読んだか、思い出す。そういうモノが増えていけば、もう十分にモノがあるという満足感が与えられる。
人間にとって重要なのは、モノが自分の人生に根付いていて、繋がっている感触があることだ。
モノが沈黙している。モノが大量にあるのに、その、どれもが、自分には働きかけない。このなんとも言えない不安、世界との繋がりが見えない現代社会で、自分の周辺の世界さえ意味を欠いていく。
モノを求めて集めても、どれほど増えても満たされない。必要なことは、モノを根付かせるための方法なんだ。
人間関係も、他人からヒトになるには、関係性が必要だ。満員電車の横の人は、まだヒトになっていない。顔も身長も体型も服装も、全て忘れてしまう。多くの人間の中で、一人だと思ってしまう。
人間同士関係性の有無が、価値のあり方ならば、モノと人間の関係も、同様ではないか。
モノーーーー、それは物質ではない。そこに宿る大切なものが、物をモノにしている。
自分にとって、自分にだけの重要性というものが生じる。他の人には分からないかもしれないが、一個のペンが記憶を呼び覚ます。一枚の絵葉書が、一個の拾った石が、オモチャの指輪が、一冊のボロボロの本がーーーー。
少量のモノに囲まれて、満足している。なぜなら、どれもが大切なモノだから。自分の人生に関わったモノばかりだから。
『何を見ても何かを思い出す』