表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

紳士

 あれから、翔一とは何度もデートした。もう1ヶ月になる。玲奈は今日も一緒に出掛けるべく駅に降り立った。まだ待ち合わせまで15分あるので、翔一は来ていないらしい。

「触っちゃ、いけないのかなぁ……」

 ひとりボソボソと呟いた。

 お見合いを断ったあの日以来、幸いなことに翔一の頭痛は治まっていた。LINEが来ても「頭痛だから会いたい」ということはなかった。それはとっても良かったと玲奈も思っている。痛いのは誰でも嫌だし、玲奈も急に呼び出されることがなくなって、安心していられる。しかし、だ。今度は、別の問題が浮上する。

 翔一が、一向に玲奈に触れようとしない。いつぞやだったか、頭を「くしゃ」としたこととか、腰を抱えて人を避けてくれたこととか、「夢まぼろし〜」かと思う程にだ。手も繋ごうとしない。避けられている様で、こちらから腕を組むこともできないでいる。中学生かっ! と、ひとり突っ込んでいるのだが、意図が分からない。それとも翔一は、私を彼女としては思っていなくて、ただの友達で、頭が痛くなったとき助けてくれる「大切な恩人」だと思っているのだろうか。そっちなのかー!?

「それとも、ゲイ……?」

 声になった。マズイ、マズイ。独り言にしては、不穏なワードだ。考えるのは、よそう。よし、今日こそ手ぐらい繋いで歩こう! と決心したところで、翔一が現れた。

「お待たせ」

 なんとも爽やかなイケメンである。最近特に、頭痛ではない翔一に会っているので、爽やかさが増幅している。う〜ん……、ゲイじゃなくて、バイ……? イカン、イカン……。妄想を振り払った。

「今日さ、候補が2つあります。どちらがいいですか?」

「ふぉっ、相変わらす楽しいプラン、ありがとうございます」

 翔一は一日デート(だと、私は思っている)だと、必ず何某かのプランを提供してくれる。忙しいだろうに、意外にマメなところに驚いているのだが、こんなのを見ていると優秀な営業マンなのだろうと想像している。スマホで行き先を見せてくれる。

「両方……」

「それは、無理です」

「どっちも、いいね〜」

「気に入っていただけたようで、恐縮です」

「ふふっ、お勧めは?」

「両方」

「もう、堂々巡りだよ」

「ははっ、じゃ暑くなりそうだから、プラネタリウムにしようか」

「うん。よろしくお願いします」

 

 このプラネタリウムは、寝っ転がって星が眺められることで、カップルに人気の場所である。今日も朝から蒸し暑い。まったり星でも眺めよう。

 小説が題材になった物語になっている上映会らしい。プラネタリウムで再現された星空をバックに3G映像が映し出され、音楽も素晴らしい。もう、その画像の美しさに圧倒される。きっと一生本物は見ることができないだろう、完璧な星空が目の前で煌き続ける。しかもアロマの香りが心地よく、ここはエステサロンかドバイのスパか、と気持ちが一気に緩む。

 翔一は、デートがプラネタリウムのコースに決まった瞬間にスマホで予約をしたらしく、カップルシートが取れていた。大人3人は寝転がれる程の大きな円形のソファベッドに、クッションが何個か用意されている。場所が違えば、まるで回り出しそうなソファベッドである。実際に見たことはないが……。

 上映が始まれば、当然照明は真っ暗になる。これなら手を握っても、全然平気だよねぇ。そのためのカップルシートなんだから。ほら、前のカップルなんか、しっかり胸に抱かれて見てるよ〜、なとど玲奈は1人でワクワクしているのだが、翔一は一向に触れてこない。こないから小さなことにもイラっとしてしまう。髪をまとめたバレッタが、クッションに当たってコツコツと痛い。何度か頭を置き直したりしていたら、小声で翔一に話し掛けられた。

「どうした?」

「うん……。ちょっと、バレッタが当たっちゃって……」

 言われて確認するように玲奈の頭を見た翔一が、腕を伸ばしてきた。

「首の下に入れれば、どうだろ」

 腕枕をしてくれるという。うほっ、やった! 実際、首が腕に支えられ、ちょうどバレッタのある所が浮いて、きちんと落ち着いた。

「ありがと。ちょうどいいです」

 ドキドキで星空どころではなくなってきた玲奈が答えれば、

「よかった」

 と、翔一は何事もなかったかの様に、また鑑賞に戻ってしまった。そう、それ以上、何の進展もない……。逆に、腕がここにあるということは、繋ぐことはできないということに気が付いて、なんちゅう……と玲奈は落胆した。

 もう、これは純粋にこの物語を楽しもう! と覚悟を決めたところで……、翔一が玲奈の髪に触れた……。ちょうど指先辺りにある髪先を、くるくると指でイジっている。わっぉ! と、またもやモヤモヤしだした心臓を抱えつつ、玲奈は髪に神経を集中させる。

 ところが、クルクルしている指は、ずっとクルクルしているだけで、一向に他の動きに移らない。こっそり翔一の顔を覗けば、まるで平常心の顔で鑑賞している。何なんだ、オヌシは! 私の髪は鉛筆じゃないっての。クルクル手慰みにするんじゃない〜。触るなら、しっかり触れ! と思ったことが以心伝心したのか、一瞬ハッとしたらしい気配を見せて、パタッと触れていた指の動きを止めてしまった。玲奈は思う。やっぱり彼は、ゲイかもしれない……。


「面白かったなぁ。最新の装置って、僕らが小さい時に見たものとは全く別物だ」

「……ほんとだね」

「あれ、あんまり面白くなかった?」

「いえ、面白かったです……。できれば、タピりたい」

「喉が渇いた? じゃ、下に降りようか」

 がっくり肩を落とした玲奈だったが、タリーズのタピオカミルクティを飲んだところで、すっかりご機嫌は直っていた。

「それ、お腹一杯にならない?」

「なるなる」

「僕、苦手なんだよね」

「お腹一杯になるから?」

「そう」

「でもさぁ、それも変わらないと思うけど」

 玲奈は翔一が飲んでいるカップを差して、言葉を返した。

「これは違うよ。食感も違うし、モチモチしてないし」

「いやいや、変わらないって……」

「そうかなぁ」

「そうだよぉ。ナタデココ、お腹いっぱいになるでしょ〜」

 翔一はタピオカの変わりに、ナタデココをトッピングしていた。玲奈はいつもシラっと色んな事に対応している翔一が、たまに不思議なことをするのが面白くてしょうがない。ドリンク片手に2人で自撮り写真を撮って大笑いした。

 次はこのまま水族館に行くコースになっている。近場で色々済ましてしまうなんざ、年寄りのデートのようだが、玲奈は充分楽しんでいた。なんと言っても、水族館はいつ行っても楽しい! そして、触れることはできないが、横には翔一がいる。まぁ、それで今のところ充分だ。


 ここの水族館は、なんと言ってもペンギンである。よくもまあ、この構造を考え出したものだと、2人で感心しながら写真を撮る。プールの底から見る空飛ぶペンギンは、建築家の叡智の結晶だと諸手を上げて絶賛したい。もちろん、アシカやイルカのショーも楽しいのだが、玲奈のお気に入りは「かわうそ」ちゃんである。もう、翔一の手の変わりに、かわうそちゃんで充分満足した。15歳のアオハルカップルでも、30過ぎのアラサーカップルでも、楽しいことに差はない。きっと、60過ぎても変わらないだろうと玲奈は楽観している。


「少し早いけど、夕食にしようか。お昼、軽めだったし」

「うん、そうしよう。もう、今日は大満足〜」

「まだまだ、これからでしょ。大人の楽しみは」

「……うん!」

 期待させるなぁ……。でもまぁ、大きな期待はせずに、お酒を楽しみましょう。それも大人の醍醐味であります! レモンハイ、待ってろよー。


 電車で10分程移動する。今日は魚介が美味しいと噂の居酒屋だった。

「このサラダ、美味しいね。生臭さも全然ない」

 サラダに刺身が入っている。マリネになっているわけではなく、漬けになっている。白身は昆布締めにされていて、旨みだけで野菜としっかり調和が取れている。生のほうれん草も入っていたりして、面白い。春雨を揚げたものがパラパラとまぶされていて、その食感も楽しい。

「お通し代わりに、いいでしょ」

「うん。ここ、創作料理も美味しいけど、魚自体が美味しいね」

「まぁ、豊洲直送だからね。市場の中に店もあるんだよ」

「へぇ、行ったことある?」

「いや、観光客がすごいから、僕はいつもこちら」

「そういえば、脇田さんって嫌いなものあるの?」

「う〜ん、珍味系は、ちょっと苦手かな」

「珍味?」

「『ほや』、食べたことある?」

「『ほや』? ないなぁ」

「あれは、ダメだった。産地で食べれば美味しいかもしれないけどね」

「あとは?」

「くさやとかフナ寿司とか……、臭いが強いものはね。それ以外なら何でも食べるよ。ファストフードも、粉もんも、美味しければね」

「最後のひと言が、重いなぁ。確かに、脇田さんに連れてってもらったところ、美味しいところばっかりだけど」

「よかったよ。味覚が同じで」

 このセリフは、玲奈をこっそり歓喜させた。食べることが重要だという価値観が同じことは、やはり玲奈には大切だった。


 たっぷり食べて、しっかり飲んで、それでもまだ9時前だった。もう1件行くかと問われ、玲奈は「よっしゃー!」とついて行く。この辺で止めておけば、良かったかもしれない……。

「わぁ、ワインバーって始めて」

「美由紀さんとは、行ったことなかった?」

「うん。美由紀も特に拘りがないタイプなので」

「飲みやすいほうがいいかな。自分で選んでみる?」

「ううん。お任せします。あっ、でも、あんまり渋いのは、もうちょっと大人になってからで……」

「う〜ん。渋いのも、料理次第で美味しいんだけどね……。まぁ、まだまだ赤ちゃんの玲奈さんということで、軽めのオーストラリアくらいからいきましょうか」

「はーい、よろしくお願いします」

 本当に軽く爽やかな白から始めて、濃厚で甘めの白、最後に香り高い赤と続き、2軒目でもあり、玲奈は自分でも酔っ払っていると自覚するまでになっていた。

「今日は、よく飲んだね。玲奈さんと飲むと、ダメだな。つい、時間を忘れる」

「美味しかったね〜。こんなに色んなワイン飲んだの、初めて〜」

「少し多めにお水飲んで」

 と水を注いでくれる。ここは、使用済みワインボトルに水を入れて、各テーブルに置いてある。途中、何度か水を飲ませてくれたのだが、アルコール分解の効果はあまりなかった気がする。酔いました〜。

「大丈夫?」

 店を出たところで少しふらついた玲奈の腕を、翔一が支えてくれた。初めて触れてくれたのに、その頃にはすっかり酔っ払っていて、逆に拒絶していた。自分は酔っていないと顕示することの方に気持ちが大きく傾いており、

「大丈夫です〜。ちゃんと、1人で歩けますよ〜」

 と頑張って1人で歩いていた。少し困った顔をしながらも、翔一は横でゆっくり歩いてくれて、今から思えば腕にしがみつく絶好のチャンスだったのにと思う。

「電車、出たばかりだから、少し椅子に座ろうか」

 ホームに着いてそう言われて、椅子に座ったところまでは記憶があるが、そこからぷっつり意識が途絶えた。


 可愛いな……。翔一は隣に座った途端、こっくりし出した玲奈を思う。彼女はそれ程お酒は強くない。そのことは、もう随分前に分かっている。が、本当に居酒屋のようなガヤガヤした雰囲気が大好きなのだと気付いていた。

 酔っ払ってくると他人の悪口ばかり言う人は多いが、彼女はその逆で、人の面白さについて語りだす。自分と違う考えの人を「面白いよね〜。そんな風になんて考えてもみなくて〜」と笑い飛ばす。口癖は「まぁいっかー」で、それがどれほど許容値が高い言葉か、彼女は分かっていない。翔一も何度かその言葉に救われている。

 すっかり寝ている玲奈の頭にそっと触れて、自分の肩に引き寄せた。これで、後ろに倒れて頭を打つこともないだろう。すぐ目の前に迫った彼女の伏せられた睫毛を見ながら、昼間のことを思い出し、自嘲した。

 プラネタリウムで無意識に彼女の髪をイジッてしまい、あの時は焦ったな……。もう少しで、肩を引き寄せるところだった。気を付けなくちゃな……。

「すー、すー」と寝息まで立て出した玲奈を眺めて、翔一はボディバックから本を取り出した。今だけは、彼女の体温を感じていたい。肩に掛かる玲奈のわずかな重みが、これ程愛おしいのかと自分でも驚く。もう暫く眠っていて。その間だけでも、君は僕だけの君だから。


 玲奈は頭がガクッとなって目が覚めた。思い瞼を持ち上げれば、自分がいるのは駅のホームの硬い椅子の上だ。そういえば、さっきからずっと人の話し声やアナウンスの声、発車のメロディが遠くでしていたと思い出す。あっ、私誰かにもたれ掛かってる……、と左横を確認すると、翔一が文庫本を片手にゆっくりと玲奈の方に顔を向けたところだった。

「起きた?」

 びっくりして、思わず体を離した。

「えっ、はい……。ここ、どこ? って、今何時?」

「今、11時23分」

「……、起こしてくれればよかったのに……」

「最終前には、起こそうと思ってたよ。次の電車、2分後に来るから、歩ける?」

「……」

 そうだ。一緒に飲んで、2軒目で帰途に着いたはずだった。前の電車が出たばかりで、椅子が空いていたから座ったのだ。あれが確か、10時20分頃……。もう、ほんとに、この人は……! 寝ていたという恥ずかしさと相まって、一瞬で怒りが頂点に達する。

「ねぇ、脇田さんはどうしてそんなに紳士なんです!?」

 本をボディバッグに仕舞っている翔一に突っ掛かる。

「何? 急に」

「もっと怒ってもいいと思いますよ。こんなおばさんの酔っ払いほっといて、さっさと帰ればよかったのに……」

 少し困った顔をして、翔一は微笑んだ。

「そうもいかないと思うよ。一緒に飲んだのは僕だし」

「……、責任感強いんだね」

 電車が入ってくるアナウンスが流れた。それを聞いた翔一がスッと席を立った。玲奈は座ったまま立とうとしない。

「ん……。電車、来るよ」

「先、行って。私、次のにする」

「歩けない? じゃ、次まで待とうか……」

「もう、脇田さんは行って下さい。大丈夫だから。寝たりしないから……」

「そういう訳には、いかないよ」

 そう言って、もう一度隣に座ろうとする。その翔一の体を、玲奈は両手で押し戻して座らせようとしない。

「……どうしたの? 玲奈さん、飲み過ぎた?」

「いいの。先に帰って! ……ほら、もう出ちゃうよ」

 出発メロディが、もうすぐ鳴り止んでしまう。さすがの翔一も、少し戸惑いを見せた。が、やはり玲奈を置いて乗るわけにもいかず、結局そのまま、その電車はやり過ごすことになった。

「もう、せっかく乗れたのに……」

「いいよ。夜になったら割りと涼しくなってきたし、明日は休みなんだから、そんなに急いで帰ることもない」

「……」

 玲奈が急に立って、改札に向かって歩き出そうとする。

「どこ、いくの!?」

「私、もう一度飲み直してから帰ります。今日はごちそうさまでした。じゃ、また」

 翔一はあっけにとられつつも、玲奈の腕を掴んで歩みを止めさせた。

「ほんとに、どうしたの? もう、随分酔ってるし、これ以上飲んだら帰れなくなるよ」

「……。ほっといて下さい。また、頭痛くなったら連絡して。それで、いいでしょ」

 カチンときた。それでいいって……、随分な言い方だ。掴んでいた腕を引き寄せて、珍しく少し声を強めた。

「何怒ってるの。僕、何か気に入らないことでもした? 言ってくれなきゃ、分からないでしょ。」

「してませんよ。何にもしてないから……、腹が立つんじゃ……ない……」

 最後は下を向いてボソボソと独り言のように言うから、翔一には聞き取れない。

「玲奈さん、はっきり言って!」

「もう、離して。どうせこんなガサツなおばさん、傍にもいたくないでしょ」

 雅子の顔が浮かぶ。何で、今!? イヤだ、もー! 「どうせ」なんて、「かまってちゃん」の最低な常套文句だ。そう、私は雅子さんみたいにすらりと綺麗な、そつなく人を笑顔にできそうな大人の女ではない。歳だけどんどんとって、昔思っていた30歳の大人の女性とは、似ても似つかない。どうしてこんなイヤな言葉ばかり溢れてくるんだろう。いつも優しい脇田さんが、呆れてる……。たまらなく、自分が嫌! 分かっているのに、言葉が止められない。

「それとも……、脇田さんの興味のある相手って、男性なの……!?」

「……!」

 何、それ……。思わず手を放す。玲奈は酷く顔を歪めて、ほんの一瞬翔一の顔を見たが、次の瞬間にはもう向きを変えて改札に歩き出していた。

 ……っ、何、それ。こんなに一緒にいて、そんなことくらい分からないのか! 翔一は呆れ返って言葉にならない。後を追ってもう一度腕を掴んで、そのまま引っ張った。驚いた顔で振り向いた玲奈を、更に体に引きつけ、キスをする。これで、君はやっと分かるのか!?

 腰を抱いたまま、少し長すぎるキスから君の唇を解放する。はぁっ、と小さく息を吐いて、玲奈は呆然と翔一の顔を眺めた。

「僕はゲイじゃないし、君の事おばさんだって思ったこともない」

「脇田さん……」

 ふと玲奈は皆の視線に気づく。そうだった……。今、私達はキスをした……。

「……やだ、皆んな見てる……」

 さっきの電車で多くの人がいなくなったとはいえ、それでもまた直ぐにホームには人が戻ってきていた。反対側のホームにも人は大勢いる。翔一も気が付いて、腰を抱いている力を抜いた。どちらからともなく、ゆっくりと離れる。

「ごめん……、照れるな……」

「うん……」

 手を差し出されて、そっと玲奈はその掌に自分の手を忍ばせた。まだ興味が続いている皆の視線から逃れるべく、なるべくさっきの場所から離れて、こんどこそ列に並ぶ。ようやく周りは見て見ぬふりになり、そこに2人とも何とか居場所を作ることができた。

「飲み直すなら、うちに来る?」

 小さい声で、耳元に言われる。

「えっ……」

 繋いだ翔一の手に力が入る。せっかく引いた顔の赤みが、もう一度戻ってくるのが自分でも分かり、翔一の顔を見ていた玲奈はまた顔を伏せた。

「今日は、帰ろう」

 俯いたまま、小さい声で返す。

「どうして?」

「だって……、そんなつもりで言った訳じゃないし……」

 どんなつもりで言ったっていうんだ! もう……、戻れないよ。

 一緒に電車に乗り込む。途中、翔一も玲奈もひと言もしゃべらなかった。玲奈の乗り換え駅に着く。降りようとした玲奈の手を、翔一は放さない。その瞳をみつめて、玲奈は翔一の隣にそっと戻った。


「んっ、待って。ちゃんと……、聞きたいことも……ある……の……に」

「男をその気にさせといて、それは、通らないな」

「だ……から、ほんとに、そんなつもりで言った……わ……けじゃ……」

 翔一の部屋に着き、明かりを点ける間もなく翔一は理奈の体を引き寄せた。翔一だって酔っている。だが、体に巡っている力が、衰えることはない。玲奈の唇を何度も、何度も覆い、玲奈は言葉を伝えることもできない。やっと唇から首、デコルテと翔一の唇が移っていき、玲奈の言葉が声になる。

「翔一さん、どう……思ってるの」

「何が」

「はぁ……、私……の、こと」

「こうしたいって思うほど、好きだって言わないと、分からない?」

「う……ん」

 もう、立っていられない。それを分かっているかのように、翔一は寝室のドアを開けて玲奈をベッドまで連れて行く。そのまま愛撫は続いていく。

 翔一は怖かった。これまで自分を悩ませてきた頭痛が、起きないどころか治ってしまう相手がいるなんて、本当に思いもよらなかったのだ。だからこそ、その関係を変えたくなかった。もし君を抱いてしまえば、また同じことが起こるかもしれない。いや、きっと今度も同じになるに違いない……。何度も自問自答したことだ。だから、手を出せなかった。迷い続けていた。なのに……、

 

 ――脇田さんの興味のある相手って、男性なの……

 

 君が思うほど、男は制御が利く生き物じゃないんだよ。少しでも女性が綻びを見せれば、すぐにでもそれに乗じて、分け入ってしまうんだ。そんなことも知らずに……

「う……ん」

 そんな声を出したら、もう止められるはずもない。翔一もシャツを脱げば素肌が触れ合う。柔らかい君の感触が、僕をどんどん覚醒させていく。効き始めたクーラーの風に、君の髪がなびいた。

 理屈ではない感情が体を突き上げて、抱きかかえた君の背中を、離すことができない。何なんだ、この一体感は……。

 君が僕に回した手が、背中に強く喰い込んでいって、最後に、君の力が……、抜けていく……。


「翔一さん……、泊まってっていい? 眠い……」

 もう半分眠りながら、玲奈は聞く。

「いいよ。ゆっくり、お休み……」

 2人はお互いを抱き抱えるかのように、眠りについた。


「おはよう」

「……おはよう」

 玲奈はベッドで目を覚まし、隣で起きていた翔一から声を掛けられ、それではっきりと目が覚めた。自分が服を着ていないことに気付き、「ひゃっ」と布団を首まで引き上げる。くすっと笑った翔一が聞いた。

「夕べのこと、覚えてる?」

「うん……」

「よかった」

 翔一のどこか不安げだった顔が笑顔に包まれる。そのまま、おでこにそっとキスをされた。

「玲奈、かなり酔ってたから、分かってないんじゃないかって、心配だった」

 呼び捨て……。途中いくつか記憶が繋がっていない、とは言えない……。

「脇田さん、シャワー借りてもいいですか?」

「……ねぇ、ほんとに覚えてる?」

 うっ、なぜもう一度聞く? 恐る恐る翔一の目を見れば、少し悲しそうな顔をしていた。

「夕べはね、名前で呼んでくれたんだよ」

「あっ……」

 それは本当に自然に出たことだと思われるので、覚えていない……。ゴメン……。

「ごめんなさい……。少しだけ、繋がってない……」

「じゃ、聞き方を変える」

「……」

「僕とこうなって、後悔してない?」

「してない。それは、大丈夫」

「じゃ、よかった……。僕も後悔はしてない。だから……、シャワーどうぞ」

 玲奈がベッドから出て行った。そう、後悔はしていない。だから、もしまた僕の頭痛が始まってしまったら、君と離れなくちゃいけなくなるのを、今からこんなにも恐れているんだ……。


 ――大丈夫だよ


 誰かが、頭の中で言った気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ