お見合い
「こんにちは」
「こんにちは」
白のTシャツに黒のジャケットを羽織り、下は黒のパンツという出で立ちの彼は、先日お見合いをした吉澤孝一である。歳は37歳。製薬会社に勤めるサラリーマンだ。
どうしてこんな好条件の人が見合いなどをするのかといえば、✕1だからであり、研究職のため出会いが少ないからとのことらしい。ちなみに、前妻との間に子供はいない。別れた理由は、まあ月並みの「性格の不一致」ということだ。
第一印象は6秒で決まると言われる。会った瞬間のイメージとして、「嫌」だとは思わなかった。脳筋的なイメージの人は、いくらイケメンでもいただけない。理想は「知的で割とクールな人」なのだが、そういう人には玲奈の方が受け入れてもらえないと分かっていた。騒がし過ぎるとのことで……。本人は至って大人しいつもりなのだが、どうも自他共にとはいかない印象らしい。
というわけで、今回相手は割と玲奈の理想に近かったため、きっと玲奈の方が断られると思っていたのだが、なぜか次回も会いましょうと今日の日を迎えることになった。今日はドライブに行こうと誘われていた。
ドライブだと、周りを気にすることなく相手と会話ができる。数回のやり取りで結婚を前提とした付き合いに進展するお見合いという席では、いかに短い期間で相手を理解することができるか、というのが勝負なわけで、恋愛の様にダラダラと時間を無駄にはしないのだ。
よってドライブは、その手段である「会話」を思う存分するには打って付けのデートプランということになる。更に、運転を見れば、その人の別の一面を見る事もできる。意外とそちらの方が本質に近かったりするので、一石二鳥のプランだった。
吉澤は白のハリアーから降りると、「どうぞ」と玲奈に声を掛けた。
「天気が少し怪しいので、美術館でもどうかと思ってるんですが、いかがですか?」
「いいですね。よろしくお願いします」
そう出発して向かったのは、神奈川県立近代美術館・葉山館である。海沿いに面した、眺望がすばらしい知る人ぞ知る名美術館である。日本画の企画展が開催されていた。館内を回りながら話を進める。それ程混雑しておらず、絵を見るにはちょうど良い人混みである。
「僕、日本画が好きで、趣味が高じて自分で書いたりしてるんです」
「へぇ、すごいですね。公募展に出品されたりするんですか?」
「ええ、最近やっとし始めました」
「すごい。お仕事もお忙しいでしょうに。どうでしたか?」
「入選しました」
「わぁ、見て見たかったなぁ、美術館で」
「また、来年も出品する予定です」
「毎年続けられるのって、すごいですね。尊敬します」
「……やっばり、佐渡さんは分かるんですね。そういうの」
美術館なので、大きな声では話せない。なので、2人の距離は近くなる。会話をする時には顔も近くになる。吉澤は絵を近くで見るために少し身を屈めたままで、玲奈の方に顔だけ向けた。縁取りのない眼鏡の奥から、優しい目で見られていた。
「プロフィールに『師範』ってあったから」
次の絵に向かいながら、玲奈は答える。
「あぁ、あれは子供のお習い事の延長で」
「いえ、師範になられるまでには、色々大変でしょ。作品の出品とかもあるでしょうし」
「まぁ。でも、吉澤さんの様な情熱を持ってっていうのとは、少し違いますから。出せって言われて出しただけでしたし、生徒さんを持ちたいだとか、そういうこともありませんから」
「でも、続ける苦労は分かってる……」
「一応は……という程度です。小学生の頃から続けたていたことだったから、ほんとに大したことではないんです。ただ大人になっても習慣の様に続けていただけのことで、恥ずかしいです」
「いえ、僕、そういうことを理解してくれる人を探していたので、よく分かるんです。自分でやったことがない人には、決して理解してもらえないってこと。離婚した理由の1つにもなったことです。価値観を共有できない」
もう一度顔を向けて微笑まれる。玲奈は少し困ってしまった。何だかどんどん気に入られているような気がする。う〜ん……。気を紛らわすように質問を続けた。
「絵は、お休みの日に描いたりしてらっしゃるんですか?」
「普段はね。公募の前は、そういう訳にもいませんが」
「どうして、絵だったんですか?」
「僕の仕事、『色』がないんです。毎日同じ景色の中にいて……」
「そっか。お薬を創り出すお仕事ですもんね。それも凄いと思います。世の為人の為って」
「ありがとう」
そう言うと、肩を並べていた吉澤はスッと玲奈の手を取った。そのまま、繋いで歩く。驚いて顔を確認すれば、一度だけ微笑んで見つめられた。あとはもうそれが当たり前の様に並んで歩く。彼の手はベタベタしているとかいう事もなかったし、玲奈はそのことに生理的な拒否反応はなかった。触っていたいから握っているというよりは、連れて歩くために繋がれているという感覚に近かった。だから、期待した様なドキドキ感もなかった。
昼食は併設されているレストランに入る。全面ガラス張りの海沿い側のテラスから、美しい海岸の風景を見ながら食事をした。
「佐渡さん、食事の好き嫌いはありますか?」
「ありません。吉澤さんは?」
「僕、偏食気味で、食事作るの大変かもしれません」
あぁ、そうか。やはりお見合いである。結婚が前提なのだから、ご飯を作るのは私なのだ。この人の収入なら、共働きをする必要はない。
「お母様は、どうされていたのですか?」
「母は好き嫌いをなくそうと結構頑張っていた記憶ですが、結局食べないので、最後は食べられる物のみ作ってくれていましたね」
「でも、バラエティに富んでいた?」
「ええ。特に不満はありませんでした。僕、そんなに食べることに執着がなくて」
確かに、今日はスペシャルランチを頼んでいるが、半分くらい残している。
「そうなんですね。お昼は、お弁当ですか?」
「いえ、会社に食堂がありますので」
「それは助かりますね」
「ええ」
帰る途中、仕事のことなどを話した。
「今のお仕事は、どうですか?」
漠然とした聞き方を、敢えてした。それで、一番の本人の気持ちが出てくると思う。
「やはり、やりがいはあります。僕達の仕事は、人の命に関わることですから」
「そうですね」
「毎日、同じようなことの繰り返しですが、日々小さな発見もあるし、何より研究をすることは自分に合っています。もちろん企業ですから、結果も求められますし、研究員の生産性をどう測るかなんていう永遠の課題もありますが、それでも満足しています」
玲奈は運転している横顔を、顔を向けてしっかり見た。仕事をしている時の顔だと思った。きっと彼は、こういう顔をして日々仕事をしているのだと確信する。とても、いい顔だと思った。
「そうですか」
笑顔で応えていた。このまま、おつきあいを続けてみようと、前を向いた。
「玲奈さん、今どこにいる?」
ちょうど後30分程で、玲奈の家に到着するという時に、LINEが入った。
「吉澤さん、ごめんなさい。ちょっと、急な用事で、LINEしますね」
「どうぞ」
そう了解を取ってLINEを返せば、案の定翔一が痛がっていた。現在地から一番近い電車の駅を待ち合わせ場所に選ぶ。ここなら、翔一の家からも近いはずである。
「あの、すみません。近くの駅で下ろしていただいて構いませんか。ちょっと、急な用事ができてしまって。私じゃないと、解決しないみたいで」
「分かりました。急ぎましょう」
「ありがとうございます」
吉澤の理解ある行動に感謝しつつ、翔一の容態が何より心を占め始めた。
翔一は、駅のローターリーに入ってきた1台の白い車に目が留まった。1組の男女が乗っている。助手席の女性が降りるようだ。……玲奈だった。
翔一は目を瞠る。微笑んできっと「ありがとうございました」と言っていると思われるその姿から、目が放せない。僕は……、何やってたんだ。
そうだよ……な。彼女にだって恋人くらいいるはずだ。それを、僕は自分のことばかり考えて、簡単に呼び出して……。ホントに、何やってたんだ……。僕にしてみれば、彼女に会えば頭痛が治まるというメリットがあるが、彼女にとっては迷惑でこそあれ、何の利益もない。
運転手が降りようとした玲奈の腕を掴んだ。
「うっ……」
その瞬間、締め付けるような痛みが走る。彼はにこやかに笑って、玲奈に何か話している。玲奈は、そんな風に引き留められて少し驚き、それでもそれに応えてにっこり笑った。
「くっ……」
その瞬間、更に強い痛みがくる。あぁ、そうなのか……。彼女の心が動けば、僕の頭痛は酷くなるのか……。「はっ、まさかそんなはずはない」と自嘲するが、今、まさしくそうだと体が反応している。これが、心因性ってことなのか……。翔一は柱の反対側に回って、心を落ち着かせた。これ以上、迷惑を掛けてはいけない。彼女に見つからない様にしなければ……。自分から呼び出したことなど、もう忘れてしまう程、動揺が激しかった。
更にもう1つ離れた柱のところに移動したが、もうどうしようもなく頭痛が酷くなってきて、立っていられない。その場にしゃがみこみ、持っていた傘を支えに意識が飛ぶのを必死でこらえていた。「はぁ、はぁ」と自分の息の音だけが聞こえ、どんどん駅の喧騒が遠くなっていく……。
カラン……と、傘が倒れる音がした。
玲奈は翔一を探していた。さっきLINEを確認したら、もう駅に着いているはずなのに、見つからない。分かりやすい所にいてくれればいいのに……、と悪態をつきつつも、胸騒ぎがして自然と小走りになる。
「ぅんー……っ」
と唸るような翔一の声がした。どこだっ! 倒れた傘が柱の向こうにあることに気が付いて走り寄る。
「脇田さん!」
その場に翔一が、サワサワと降り出した雨に打たれて倒れていた。
「……」
「気が付いた?」
「玲奈……さん……」
「大丈夫? 頭、まだ痛い?」
「いや、もう大丈夫……、ここは?」
「駅長室」
「あぁ……、迷惑かけて……」
起き上がろうとする翔一を、玲奈は手助けする。
「フラフラしない? 少し雨に濡れたから、寒くない?」
タオルがあった。誰かが用意してくれたのだろう。
「大丈夫。ほんと、すまなかった」
「どうしてあんな分かりづらいところにいたの。探したんだよ」
「ごめん……」
「これからは、もっと分かりやすいところで待っててね」
「……」
駅長にお礼を言い、外に出た。玲奈は翔一を自宅まで送るという。翔一は当然固辞したのだが、これ以上心配させるなと言われ、不承不承送られていた。
「今日、いつから痛かったの?」
「10時頃かな……」
「なんでもっと早くLINEくれなかったの」
「家で横になってればいいかと思ったんだけど……」
「どんどん酷くなった?」
「……」
翔一は黙り込んでしまった。これからは、こんなことで呼び出してはいけない。
「玲奈さん」
「ん……?」
「申し訳なかった。自分の都合でいつも呼び出して、君の都合も考えずに……。誰でも病人から助けを求められたら、断れないよね。気が付かなかった。これからは連絡しないから、安心して……」
目をパチパチさせて、玲奈が驚く。
「やだ〜、何遠慮してるの! 苦しいの我慢してても、何にもいいことないよ。脇田さんは楽になりたい。私は楽にすることができる。だから頼む。簡単だよ。回り道はいらないでしょ。営業の鉄則だって、ウチの営業部長がいつも言ってるよ〜」
と晴れ晴れと笑う。
「玲奈さん……」
玲奈はVサインをして、更にニッと笑った。その笑顔に、ホッとした。凝り固まっていた頭と肩が、緩やかに解きほぐされていく。寄り掛かってもいいと、君は言う……。
「ありがとう……。では、これからもよろしくお願いします。くれぐれも、無理の無い範囲で」
できる限り迷惑を掛けないよう、祈るしかない。
「まかせて〜」
玲奈は翔一を送り届け、自宅であるマンションを始めて知った。鉄筋5階建てのオートロックがない建物である。これでいざとなれば、いつでも駆け付けられると安心した。
「亮君、今日はいないの?」
「今日は僕だけだよ。真凜ちゃん病気で病院行ったからね。ウチでお風呂入っちゃお」
月も変わり、真夏の暑さがはじまる前の、鬱陶しい季節である。蓮が翔一の家に来ていた。真凜は生後3ヶ月を過ぎたばかりだというのに、水疱瘡の症状が出たというので、病院に行っているのだ。先に蓮が掛かったので、そのままうつってしまったらしい。
生まれたばかりの子は、半年程母親から免疫を貰っているので、うつることはないと油断していたと明日香は言っていた。要するに、ママである明日香が、水疱瘡をやっていなかったということだ。つまり免疫がなかった。パパの雅也が運転して行ったので、蓮を預かることになった。実家より翔一の家の方が、はるかに近い。
ご飯は、近くの食堂に連れて行って、食べさせた。急なことだったので、翔一の家には食材がない。機嫌よく食べてくれたので、それはよかったのだが……。
「お家、帰る〜」
眠くなってきたのと、遊ぶものが無いのでつまらないのと、諸々でぐずり出した。こういう時亮太なら「なんとかレンジャー」になって戦ってあげるのだが、翔一にはその引き出しは無い。亮太は今日は接待で、既にすっかり飲んでいた。TVゲームもないので、途方に暮れてしまう。お袋にでも聞いてみるか……。
「どうしたらって言われてもねぇ、その内寝るでしょ。テレビでも見せて、一緒に寝てあげればいいのよ」
なるほど、テレビがあったか……。ところが、夜なので子供が好きなテレビなど、やっていない。そうだ! 本でも読んでやろう。ハリーポッターなら、本棚にあるはずだ。早速本棚に探しに立ったところでズキンッとする。
「ぅわっ……」
まずい……。頭が疼き出した。蓮がいるから、ここで痛がるわけにはいけない。遠慮する間もなく玲奈に電話した。
「もしもし、玲奈さん?」
「はい……」
「今、家ですか?」
「いいえ……」
いつもより歯切れが悪い。すると玲奈の後ろで声がした。
「佐渡さん、先に行ってるから」
男性の声だった。
「……ごめん。また、掛けます」
とそのまま電話を切ろうとした。すると、電話口で僕を呼ぶ声がする。もう一度スマホを耳に近づけると、まだ繋がっていて玲奈が話し掛けてくる。
「頭、痛いの? どこにいるの?」
その途端、痛いのが引いていく。あぁ、ほんとに遠隔治療でもされているようだ。
「助かった。今、痛いのが止まった。申し訳ない。デートの最中だったんでしょ。ありがとう。もう、戻って」
玲奈が息を止めたような気配が伝わってくる。溜息のように、言葉が戻ってきた。
「……戻ったほうが、いい?」
「何……?」
「脇田さんは、私がデートに戻った方が、いいの?」
「玲奈さん……」
言葉が詰まって、声にできない。いつも気持ちをはぐらかしてきた。不安が全てを曖昧にしてきた。どうすればいい……!? 玲奈が沈黙を破る。
「……なんでもない。気にしないで」
「戻らないで……、戻らないで欲しい」
急き立てられるように声になった。自分の気持ちは分かっていた。ただ、先の保証をできないことも同時に分かっていた。それが、僕を押し留めていた。それでも君を、あの男に渡したくない。お願いだ。許されるなら、もう、戻らないで……。
「……はい、分かりました。今日はこのまま帰ります」
やっと1つ、前に進む……。玲奈が静かに応えてくれた。
「玲奈さん……」
「はい……」
「ありがとう」
「……いいえ、おやすみなさい」
翔一は、胸が熱くなった。今すぐにでも会いたいと、はっきりと自覚した。
玲奈はスマホをバッグに戻しながら、改札口に向かう。先程の吉澤の顔が、浮かんで消えた。
今日は2度目のデートだった。夕食を共にしたのだ。あと1回のデートで、この後結婚を前提にお付き合いするのかどうか、決めなければならない。特に、嫌という感情はなかった。
先日のデートも、とてもスマートなエスコートで、絵画に対する知識も豊富で説明も上手だった。いろんなことに動揺がない。大人の余裕なのか、✕1の余裕なのか、帰り際には次もまた会いたいと直接言われた。
今日は夜景が見えるイタリアンレストランの個室が予約してあった。ワインを飲みながら、そこではお互いの家族のことなどを確認し合う。彼は長男なので、両親の面倒を見ることには責任があると言った。ただ、今すぐの同居などは考えていないようで、将来どちらかが1人になった時、本人が望めば引き取ることになるだろうという。しごく当然な考えで、玲奈も反対意見は持っていないと意思表示をした。
玲奈の方は姉と2人姉妹で、その姉が既に婿養子を取っているので、両親の面倒はお願いすることになっている。実際、既に同居していて孫もいるので、それは将来も変わることはないだろうと説明した。彼はとても納得している様子だった。
食事も終わり帰宅すべく席を立つ。そこで、玲奈の前に立った吉澤は、玲奈の頬に手を添えた。そのままキスをされる。拒否しなかった。柔らかい感触が唇に触れて、離れる。嫌ではなかった。彼は、玲奈の唇を確認するようにそっと親指でもう一度唇に触れた。玲奈を見つめるその瞳には、微笑みが添えられていた。
そのまま会計に向かうため部屋を出ようとしたところで、電話が鳴ったのだ。スマホの画面に翔一の名前を確認した瞬間、全てに迷いが出た。今のキスに対しても、急に翔一に見られていたかのような焦燥感を覚える。さっきまで、まるで平気だった全てが、ダメだと思えてくる。電話を取って翔一の声を聞いた刹那、それは確信に変わった。翔一は私のことをどう思っているのだろう……。確認したいというその想いが、洪水の様に押し寄せてきて、抗うことはできなかった。
――戻らないで欲しい
玲奈は、やっと落ち着く場所に流れ着いた気がした。胸につぅと痛みが走る。でもそれは、喜びであるのだとすぐに分かった。
「吉澤さん、申し訳ありません。このお話、なかったことにしていただけますか」
驚いた吉澤の顔が悲痛に歪んで、「それは、とても残念です」と一言だけ残して、店の前で別れた。
2日後、翔一は玲奈を夕飯に誘った。だが、玲奈が月末の忙しい週を迎えていて、とても無理だと返事が返ってくる。すぐにでも会いたいと思っていた気持ちが、少し冷静さを取り戻す。それで、翔一も先送りにしていた仕事を片付けることにした。報告書や評価表の記入など、パソコンを叩きながら、あの電話の後のことを思い出していた。
「翔君〜、今の電話の人、翔君のお嫁さん?」
また、突飛な発言を子供はするものだ。
「お嫁さんなんて、蓮、良く知ってるな」
本棚からハリーポッターを探し当て、読んでやろうとベッドまで一緒に移動しながら蓮の頭をくしゃくしゃする。
「だって、今、もう1人の翔君がそう言ったよ」
「もう1人?」
「うん、さっき、翔君のとこに来た。もう、いなくなっちゃった」
「蓮は、面白いこと言うなぁ。さぁ、魔法の国のお話、聴きたい人〜」
「は〜い」
蓮が片手を上げて元気良く返事をする。結局、ハリーの冒険が余程面白かったようで、寝るどころか興奮してしまい30分以上は読まされた。読書の楽しみに目覚めてくれれば、ラッキーだが……。明日香が引き取りに来た時に、そんなことも考え、本も一緒に渡しておいた。
「もう1人の僕……」
寝ぼけて、夢でも見ていたのだろうか。まぁ、子供の言うことにいつまでも囚われていては、笑われるなと仕事に戻った。
会社を出て、駅に向かう。今日の夕食は、駅の入り口にある立ち食い蕎麦屋にでもしようと足を早める。店内は割と混んでいた。それでも、お昼時のような体を斜めにしないと入れない程ではない。天ぷら蕎麦を頼んで、迷ったがビールも1本注文した。
「お隣、いいですか?」
「どう……、玲奈さんっ!」
周りが少し気にするくらいの声を出してしまう。慌てて小さな声にした。
「どうしたの!? 今、帰り?」
玲奈の会社は、1つ隣の駅の近くだ。ここは、帰るのと反対方向になる場所だ。
「うん、疲れた〜。夜間受付の郵便局、ここにまで来ないといけないの。歩いたー」
汗をかいている。それに反応してか、いい香りが玲奈からした。
「あの角にあるパン屋さんで夕飯買って帰ろうかと思ってたら、前のほうに脇田さんを見つけて……。ここに入るのが見えたから、パンはやめて、ご相伴させていただこうと思って」
とにっこり笑う。
「LINEしてくれれば、もっとちゃんとしたとこ行ったのに」
「ううん、もう早く家に帰って、お風呂に入りたいから、ここがちょうど良かったの。何、頼んだ?」
「天ぷら」
「じゃ、私も」
そういって、天ぷらを頼む。
「ここ、美味しいって知ってるんだけど、なかなか女性一人では入りづらくって。今日はラッキーだった」
「そっか」
思わぬ偶然に頬が緩む。ビールが来たので、玲奈にも注いでやる。「やった」と嬉しそうにコップを出すから、頼んでよかったとこっちまで嬉しくなる。乾杯して飲み干した。
「ぷはーっ!」
2人して、同時に声を上げた。揃ったことがあんまり可笑しくて、思わずデスる。
「おじさんみたいだよ」
「女も30にもなれば、おじさんみたいなもんです!」
「……、こんな可愛いおじさんは、いないけど」
ぽかんとした顔をして、真っ直ぐ見られた。これぐらい、もう言ってもいいんだよね。徐々に笑顔が溢れてきて、満面の顔で「ありがと」と言われる。ちゃんと、伝わったみたいだ。
蕎麦が出てきたので、先に玲奈に譲った。「いいよぉ」と言って遠慮したが、僕の方が食べるのは早いからと押し切った。一緒に、電車に乗ろう。
「美味しかったねぇ。今日ぐらい、私がご馳走したのに。すみません、ご馳走さまでした」
「どういたしまして。お礼言われるほどの店でもないし」
「今日はダメだったけど、今週末なら出掛けられるよ。締めも終わるし」
「……。じゃ、出掛けよう。どこ行きたい?」
「う〜ん、どこでも」
「よし、プランを練るか……。楽しみにしてる」
「うん」
一緒に電車に乗り、玲奈の乗り換えの駅まで話は尽きない。蓮のことや、仕事のことや……。次、乗り換えの駅だというところで、どうしても確認したいことを小声で聞いた。
「もう、いいの?」
「? 何が」
「僕と出掛けて……」
先日のデートの相手は、もういいのかと聞いた。それだけは、はっきりしておきたい。君はドアのほうを向いたまま、小さく答えた。
「ちゃんと、お断りしましたよ」
その答えを聞いて、横で同じようにドアの方を見ていた翔一は、改めて玲奈の顔を見る。玲奈もこちらを見た。ホッと肩の荷を降ろして、はっきりと伝えた。
「よかった」
玲奈は顔をくしゃっとさせて、肩をすぼめる。今にも「ふんふん」と鼻歌を歌いそうに喜んで、ドアに向き直した。ここが車内じゃないなら、肩でも抱きたかったな……。乗換え駅に着いて、
「お休み」「お休み」
と手を振って別れた。
「兄さん、この間はありがとう。助かった」
週末、妹の明日香から電話が入った。真凜は大丈夫なのだろうか。
「真凜ちゃんの様子は、どう?」
「もう大丈夫。さすがに乳幼児は、重症化はしないらしいの。ホッとしたわ」
「よかったな」
「それよりさ、兄さんハリーポッターは止めて欲しかった」
「何で?」
「もう、蓮が毎日読んでってうるさくて。パパがいればお願いするけど、いないと私が読むのよ。あれ、本が重いし長いし、蓮は興奮しちゃってなかなか寝ないし」
「ははっ、そりゃよかった。これで蓮も本の楽しさを覚えてくれるといいけど」
「でね、ハリーの次の本、持ってる? 今の、もうすぐ終わるのよ」
「あるよ。午後にでも、持って行ってあげるよ」
「助かる。今日じゃなくても、明日の日曜日でもいいよ」
「明日は出掛けるから……」
「あっ、もしかして、デート?」
「……うん」
「やっぱりー、蓮の言う通りじゃない」
「蓮、何か言ったの?」
「翔君、お嫁さんと電話で話してたって……。ホント? 結婚するの?」
「いや、まだそんなんじゃないけど……。蓮、僕にもそう言ったんだけど、まだ同じこと言ってるの?」
「何だかね、変なこと言うのよ。翔君がもう1人来て、電話で話してる人はお嫁さんだよって、翔君に言ってって言ったって。おかしいでしょ……」
「……うん。寝ぼけてたのかと思ったんだけど、ちゃんと覚えてるんだ……」
「子供は、時々不思議なこと言うからねぇ。まぁ、気にしないで」
「ああ」
「ところで、兄さん。……今度の人は、頭痛大丈夫なの?」
「それがさ……逆なんだよ。彼女に会うと、頭痛が止まる……」
「えっ、何それ! どういうこと!?」
「僕にも分からない。でも、いつもそうなんだ。声を聞くだけで治っていくこともあって。ちょっと助かってる」
「……そうなんだ」
「まぁ、どうなるか分からないし、正直、少し怖いかな……」
「そうだよねぇ……」
離れられなくなるってことだよね、あっ、だからお嫁さん?
――そうだよ
「えっ……」
急に、明日香が電話口で声を上げた。
「何、『えっ』て?」
「……いま、兄さん、しゃべった……?」
「何言ってるの? 話してるだろ」
「そうじゃなくて……、今、『そうだよ』って、言った?」
「……言ってないけど」
「……やだ、何これ。蓮が言ってたのって、これ?」
「何、ブツブツ? 大きな独り言?」
「……兄さん、その人、ホントに兄さんのお嫁さんになる人かもしれない……」
「お前まで、何言ってるの……。訳わかんないなぁ。まぁ、いい。本は持って行くよ」
兄さん、何か、すごいことが起こってる気がする……。明日香は切ったスマホを見つめながら、しばし呆然とした。