頭痛
「今日は遅くなったから、値下がりしててラッキー」
夜8時を過ぎたスーパーで、佐渡玲奈は惣菜コーナーでお弁当を眺めながら選んでいる。1人暮らしを始めて8年になる。玲奈は今年30歳になった。彼氏いない歴は、2年になる。元カレとは結婚も視野にあっただけに、別れた時はかなり凹んだ。理由は……、思い出したくないなぁ。
で、もう自分のために食事を作るなどということはしていない。あんな非合理的なことは、3年で卒業した。1時間掛けて作って、食べるのは10分だ。それで、片付けに20分程掛かって、残ったものや食材を次の日に食べなくてはならない、というプレッシャーに苛まれる。うん、実に無駄であると気が付いた。私に「きのう、何食べた?」と聞く人はいない……。今はほとんど外食かお弁当である。
「あれ、佐渡さんじゃありませんか?」
「……、えぇっと、あぁ、脇田さんでしたね。珍しいところでお会いしますね」
脇田だった。ジャニーズ系のかわいいイケメンである。年齢は20代前半か。玲奈の会社に工具などを卸している出入り業者の営業マンだ。よく納品をしに来た時に、顔を合わせる。
「御社へ伺った、帰りです。夕食買って帰ろうかと」
「そうでしたか、お疲れ様です。自炊ですか?」
「えぇ、一応。でも、ほとんど弁当買って帰ったりしてますけど」
「そうよねぇ。これから帰って作るのは、なかなか面倒ですよね」
「佐渡さんは、今日はハンバーグですか?」
「半額でしょ。今日はこのお弁当です。これで、充分」
「そうですよね。僕もそれにしようかな……」
お弁当コーナーであれこれ眺めだした脇田を横目に、玲奈は歩き出す。
「じゃ、お先に。失礼します」
「あっ、お疲れ様でした」
玲奈は隣の漬物の専門店で足を止めながら、やはり言葉にしておこうと、もう一度脇田のところまで戻り、声を掛けた。
「あの……、いつもウチの木村部長がすみません」
結局、ハンバーグ弁当を選んだらしい脇田が、弁当を持ったまま固まった。唐突過ぎるとは分かっていたが、きっと伝わるだろうと色々端折った。
「えっ。いえ……」
「脇田さんには感謝してるんです。1度、きちんとお礼が言いたいなと思ってたんですよ」
「……あの」
「木村部長はいつもあんな感じでイライラしているから、脇田さんにも随分きつく当たっているし……」
「いえ……」
「でもそのお陰で、一旦部長も溜飲が降りるんです。だから、少しの間、他の人への当たりが緩むんです。本来は社員がその役目をしないといけないんですけど、皆、用がない限り近づかなくなってしまって……。出入りの営業さんに、ご迷惑かけてしまって、本当にすみません」
「いえ……、僕の出来が悪いので、皆さんのせいでは……」
「いえいえ、あんな風に言うのは、脇田さんへだけではないんですよ。他社の営業さんにも、同じようなこと言ってます」
「そうなんですか……?」
「はい。お恥ずかしい限りですが……、社員も同じ扱いですから」
「あぁ……」
なるほど。
「でも、他の皆とも話してるんです。脇田さんはメンタル強いから、すごいなって」
「いいえ。僕、慣れてるんで……」
「こういうことは、慣れませんよ。皆、分かってます。キツイですよね……。本当に、ありがとうございます。懲りずに頑張って下さいね」
「……」
木村部長とは、工場長のことである。高校卒業後今の会社に入り、そのまま30年経つ。いわゆる叩き上げの職人管理職である。そして、叩き上げらしく言葉使いも荒く、仕事の仕方も自分のやり方以外は認めない「昭和」世代の希少な生き残りの様な人物だ。
「うちの奴らは、バカばっかりだ」と部下のことを、憚ることなくこき下ろす。しかしその豊富な知識と技術に、誰も逆らうことができず、彼は一生自分がパワハラ上司などとは気づくことなく定年を迎えるだろう。しかし今の時代、彼の様な人物は本当に社会からはみ出してしまう。実際、もう誰も彼に相談事をしなくなってしまった。「裸の王様」になっていることに、彼は気が付いていない。
ある意味、表裏がない人物なので、出入りの業者の人々にも同じように対応し、恐れられている。そしてこの脇田のことは、その中でも「下」の評価をし、「御用聞き」とか「パシリ」と陰で呼んでいる。言っている本人は面白いだろうが、聞いている周りの者は、もううんざりしている。どんな立場であっても、人の悪口を言い続ける人間が尊敬されるわけがない。
先日も脇田に対し「こんな提案しかできなくて、お前恥ずかしくないのか!」と、他社の人間を「お前」扱いし、叩きのめしていた。さすがにこの言葉を聞いた時は、脇田のことを心配したものだ。しかし、意外にも脇田は「恥ずかしい限りです」と軽くいなし、何ともない風情で帰っていった。木村部長以外の人間は脇田に対し、「ありゃ、結構しぶとい奴だぞ」と高く評価している。
そんな脇田が先日納品に来た時、木村部長に声を掛ける直前のほんの一瞬、緊張した顔をしたところを、玲奈は見てしまった。そうだ、表面上は軽く受け流しているように見えているが、本当は誰でもダメージを受けるのだと、玲奈は思い知った。もちろん、誰にも言っていないが……。
「すみません。プライベートな時間に仕事のことお話してしまって……」
「いいえ、こちらこ……、イテッ」
「亮く〜ん、いたー!」
脇田の足めがけて、幼稚園児が飛びついた。黄色い帽子に、スモッグを着ている。
「おっ、蓮、お菓子決まったか?」
「うん! 亮君だから、贅沢して、これ」
と「ポケモン」のパッケージのお菓子を脇田に見せる。お菓子自体より、入っているオモチャが欲しいのだろう。普段、ママにはおねだりできないんだろうな、可愛い。
「脇田さんのお子さんですか?」
「いえいえ、僕まだ独身なんで。甥っ子です。今日はめずらしく一緒に買い物で」
「そうですか。元気なお子さん。可愛いねぇ、何歳ですか?」
屈みながら、玲奈は「蓮」と呼ばれた子供ににっこり笑い掛ける。知らない人に話しかけられ、急に大人しくモジモジしだした蓮を横目に
「5歳ですって、答えろよ、蓮。情けないなぁ」
と脇田が代わりに答える。玲奈はにっこり笑って、蓮にもう一度話し掛けた。ごめん、ごめん、びっくりしたねぇ。
「恥ずかしいのよねぇ。いーぱい、お菓子買ってもらってね」
「……あの、ありがとうございました」
足の後ろ側に回ってしまった蓮を捌きながら、脇田は玲奈にお礼を言った。玲奈はお辞儀を返しつつ、2人から離れた。
「まったく、蓮。お前、ホントすばしっこい」
後ろからのんびりやってきたのは、脇田より10歳程年上と思われる男性だった。柔らかい表情をしているのだが、どこか遠くを見ているような、焦点が合わない眼差しをしている。
「翔君が遅いんじゃん。亮君は今日、ハンバーグ弁当なの? じゃ、僕もそれー」
蓮はすっかりやんちゃに戻って、脇田の足元ではしゃいでいる。
「亮太、さっき話してたの、誰?」
「あぁ、会社の取引先の人。ここ帰り道みたいで、偶然ばったり」
「なんかお前、嬉しそうだな……。狙ってるのか?」
「いや〜、それはない。年上だしねぇ。あそこの部長、パワハラ酷くて。謝られた。……ちょっと、励まされちゃったかな……」
「そうか……」
「何、兄貴。また、いつもの?」
「いや、大丈夫。頭は痛くない。けど、見たことあるような……」
「えぇ、無いでしょ〜。兄貴だって滅多にこの辺にはこないんだから。高校とか、大学とか? 今度、聞いておこうか?」
「……いや、いいよ。……いい」
「よし、じゃ兄貴もハンバーグ弁当でいい? 早く食べて、とっとと姉貴んとこ行こうよ。なぁ、蓮。お兄ちゃんになるんだもんなぁ〜。弟かな、妹かな、どっちかな〜」
「僕、弟がいい〜」
「そうかぁ。そうすれば、一緒に遊べるもんなぁ」
「うん。ポケモン一緒に探すんだー」
そうかそうかと、3人はレジに向かった。
「あれが、蓮君のパパかな」
まだ他の買い物で店内を回っていた玲奈は、遠くに3人の姿を見つけ小さい声でひとりごちた。もう1人、男性が増えていた。脇田よりかなり年上だと思われる。一旦止まって見ていた玲奈は、また歩き出そうとしてもう一度立ち止まった。あれっ? あの人、どっかで会ったかな……。引っ掛かりを感じてもう一度見る……。が、やはり気のせいだと洗剤コーナーに向かった。
「ぉぎぁ、ぉぎぁ」
看護師が待合室で待っていた亮太と翔一の元に報告に来る。
「おめでとうございます。女の子ですよ。パパさんはもうすぐ分娩室から出てこられますので」
2人でお礼を言い、思ったより早かった出産にホッとした。
「蓮、寝ちゃったな。明日起きたら、お兄ちゃんだぞ。妹だってよ、ちゃんと守ってやれよ。まぁ、ママに似て怖い妹になるかもしれないけどな……」
翔一は寝てしまった蓮に話し掛けながら、頭を撫でた。亮太は大きく伸びをしながら、翔一に確認する。
「兄貴はどうする? 僕、明日早いからもう帰るわ。雅也義兄さんに蓮を渡したら、兄貴も帰るんだろ?」
「あぁ、駅まで送ってってくれ。母さんに、蓮、預けてくる」
と蓮を抱え上げ、病室で待っている母の許に向かう。母は、娘の病室であれこれ準備に余念がなかった。
「女の子だって」
「あら、もう生まれたの? 今回は早かったわねぇ。蓮の時なんて13時間掛かったのに」
「2人目だからだろ。もうすぐ雅也君も来るらしいから、僕と亮太はもう帰るわ」
「分かった。気を付けてね。じゃ、蓮はこっち寝かせて」
と言われ、ベッドの端にそっと下ろした。
「あんたも早く、いい人見つけなさい。お父さんがあんたの年の時には、とっくにあんたは生まれてたんだから、お父さんに笑われるわよ」
翔一達の父は、2年前に病気で亡くなっている。
「……はいはい。じゃ、また週末に来るよ。明日香に伝えといて」
「亮太にも、言っといてよ。いい加減、誰かに決めろって」
「はーい」
適当に返事をして病室を出る。ため息を吐きつつ亮太の車に乗り込んだ。
「母さん、なんか言ってた?」
「いい加減、誰かに決めろってさ」
「うへぇ、またそれ。僕はまだ25だよ。なんで1人に決めなきゃなんないの、まったく」
「相変わらずだなぁ、お前は。その内、後ろから刺されるぞ」
「大丈夫だよ。重なってるわけじゃないんだから。ちゃんと綺麗に別れてから、次にいってるんだし」
「その間が、短かすぎるんだよ」
「しょうがないだろ、次々いい子が現れるんだから」
「……、刺されろよ」
「ひどっ。兄貴こそ、出会いはあるの? もう婚活した方がいいんじゃない。男は4人に1人が結婚しない時代なんだから、手遅れになるよ」
「……そうだな」
「兄貴、いつものあれ、気にしてんの? あんまり、臆病にならない方がいいと思うけどな。別に女性には関係ないんでしょ。前付き合ってた雅子さん、素敵な人だったのに」
「……そうだな」
「ヨリ、戻せないの?」
「戻せない」
「は〜、滅多に彼女できないくせに、相変わらずキッパリ言い切るなぁ。まぁ、順番的には兄貴が先なんだから、よろしく頼むよ」
亮太の車を降り、電車に乗り換える。座ることができた翔一は、車窓の外を眺めながら亮太の言葉を思い出す。……よりは戻せない。こちらから、無理やり別れているのだから……。
「すまない。これ以上、一緒にはいられない」
「どうして!? 私の何がいけなかったの……。言って、直すから。私、脇田さんが好き。一緒にいたい」
「ごめん……。君のせいじゃない。僕が悪い……」
「……他に、好きな人が、できたの?」
恐る恐る聞いている雅子の、思わず翔一に向かって伸ばされた手が、小さく震えていた。
「いや、そうじゃない。体調が、悪くて……。ごめん……」
その手を取って抱き締めてしまいたいという衝動を振り払い、翔一は頭を下げる。
「病気なの……!? やだ、早く教えてくれれば……。どこが、悪いの? 話して。一緒に直そ」
「ほんと、ごめん。精神的なもので……。ちょっと、1人にならないと……、君を傷つける」
「……どういうこと!? 精神的って……、苦しいの? ……まさか、私のせい?」
「いや、ほんとに違う……。ごめん。どうか君は、幸せになって」
ただ頭を下げることしかできなかった。雅子とは、それから会っていない。もう、1年になる。何度か連絡が来たが、返信することはなかった。雅子でも、ダメだった……。愛していたのに……。
いつも、そうだった。こちらから好きになっても、向こうから好きになってくれても、付き合いだして一緒にいる時間が増えてくると、頭痛が始まってしまうのだ。時には寝込むほどの頭痛になる。
いろんな医者に診てもらったが、結局最後は精神内科に行きついてしまう。病巣があるわけではないという。心の問題だというのだ。しかし、僕は辛いと思ったこともないし、その相手と一緒にいたいと思うし、当然、体を重ねたいと心も体も求める。
最初は大丈夫なのだ。2人のベッドの中でも頭痛は起こらない。なのに、しばらくすると必ず頭が痛くなりだす。そうなるともう、何をしてもダメなのだ。体に触れることはもちろん、声を聞くだけでも頭が割れるような痛みに襲われるようになる。そして、その人と離れれば、それは収まるのだ。理由が分からないのが一番つらかった。
彼女ができるたびに同じようなことが起こり、どんどん臆病になった。雅子は、向こうから告白してくれて、既に心惹かれていた翔一は、最後の賭けの様にその手を取った。それでこの結果である。僕は、確実に4人の中の1人になりそうだ……。
「おはようございます」
「おはようございます」
玲奈の朝は早い。会社が工場を抱えているため、始業が8時なのだ。10時と3時に15分の休憩時間もあり、現場を主体に会社が運営されている。玲奈は総務事務をしている。
「佐渡さん、残業管理のグラフ反映、済んでる?」
総務課長の久田である。係長が現場に行っていて不在のため、直接聞かれる。
「はい。先程終わりました」
「有給の消化は、大丈夫? 皆んな5日取れてる?」
「まだ16名程、消化されていません。強制的に休ませないと、今の仕事量では休めないかと……」
「誰だ? 後で、資料出力しといて」
「はい」
国の指導により、有給休暇の消化を年5日必ずしなければならないという法律が施行され、間もなく1年になろうとしている。猶予期間も終わるため、取れない社員がいる場合、1人30万円の罰金が科せられる。会社側からすれば、とんでもない法令である。が、そんな最低限の休みすら与えられないという自覚がないから、「とんでもない」という感情を引き起こすのだという事実に、中小の経営者達は気が付かない。
「支店回り、今日だったね」
「はい。10時になったら出掛けます」
「よろしく頼むよ。これから、会議だから、何かあったら係長に連絡しておいて」
「はい」
当社には3つの工場がある。月末近くなると、各工場を回り、必要書類を回収して回る。社内便を運送屋にでも頼めばよさそうなものだが、「ついで」の名の下に社員が直に回って回収する。もちろん月1回で足りるはずもなく、日々は営業マンがそれこそ「ついで」に運搬をしてくれる。ただ、出退勤や休暇届け等の書類の管理は、個人情報が多いため総務が直接回収して回るのだ。手続き自体は電子データで済んでいるのだから、何とも不合理な仕事である。きっと、そのうち無くなるだろう。
とはいえ、玲奈にとってはめったに外に出られない毎日から解放される、楽しい1日である。しかも今日は晴れている。意気揚々と会社を出て、地下鉄に向かった。
途中、花屋やインテリアショップ、ちらりとお気に入りのセレクトショップも1周しながら、各工場を移動する。私服に着替えて移動しているから、外回りの営業に見つかる可能性も極めて低い。ふふん、楽し〜。そんな風に、地下鉄で移動している時だった。
「うっ……」
小さい呻き声が、玲奈の斜め前に立っている会社員と思われる男性からした。玲奈は椅子に座ってスマホを見ていたので、そっと周りを確認する。左右の人は彼を気にする風でもなく、スマホや睡眠から離れたくないらしい。体調が悪いなら席を譲らなければと、失礼にならない様にその男性を観察する。顔を歪め、息を詰めながら吊革につかまっている。声が出るほどなのだから、どこかが相当痛いのだろうと、声を掛ける。
「私、次降りますので、よければお座りください」
席を立ってその男性を誘う。なんでそんなに驚く? このリーマン。
「……、ありがとう。助かります」
席を替わったものの、どうやら頭痛らしい様子が楽になるようには見えない。血管が切れた可能性もあるかも……。そう、私は意外と心配性……。
「あの……、大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」
またもや、大変驚いた顔をしながら、でも痛みで眉間のしわが緩むこともなくシゲシゲと眺められる。あら? その余裕なわけね。じゃ、大丈夫ね。
「大丈夫そうですね。よかったです」
こちらから決めつけて、にっこり笑っておいた。では、私は本当に次で降りるのでと、出口の近くに準備した。予定通りに降りた瞬間に
「ありがとう……」
と声が聞こえた。えっ、と足が止まる。声は、さっきのリーマンのものだ。思わず車内を外から確認してしまう。一緒に降りたのか……? いや、さっきの席に座ったまま、電車は発車していく。やだ、凄い聞き間違い。恥ずかし……。日本茶でも飲んで、落ち着きましょう……。と、ちょうど改札を出たところにある日本茶専門店に、ニコニコしながら足を踏み入れた。
今、どうして彼女は席を譲ってくれたのだろう。大体、なぜ体調が悪いと分かったのだろうか。さっき、突然頭痛が襲ってきた。それはいつも突然来る。そして原因は分からない。人混みの中だとか、車を運転している時だとか、時も場所も選ばない。しかも、そういう自分の苦痛を分かってくれる人は、滅多に周りにはいない。
実際さっきも、目の前で座っていたご婦人は、前を見ていたのに気づきはしなかった。それはそうだろう。「痛い」はもちろん、呻き声すら出していないのだから、気づきようがないはずだ。なのに3人も隣に座っていた彼女が気づくなんて、不思議以外の何物でもない。
しかも、救急車まで呼ぶかと聞いた……。この激しい痛みが分かる顔を、僕はした覚えはない。この頭痛は会議中にも起こるから、表情を変えずに苦痛に耐える訓練はできているはずだ。何だろう……、と考えながら気が付いた。
「えっ……」
思わず小さく声が出てしまった。隣の人がこちらを見たため、「すいません」と愛想笑いをしておいた。
頭痛が止んでいる。
どうした……!? とっくにさっきの駅は発車しているのに、思わず車内を見渡してしまった。彼女の姿を探す。いや、彼女は関係ないな……。でも、こんなに急激に直ることは本当に初めてで、何が何だか分からない。何が起こった……?
最後の支店で書類を回収し、アルバイトの庶務の出口さんと雑談を交わす。この工場の総務的な仕事は、この出口さんと上司の係長の2人で処理している。出口さんは2人の息子さんも手が離れ、家計の足しにとアルバイトとして働いている、いわゆるおばさんである。
「佐渡さんは結婚しないの? あっという間に年取るよ」
「出口さん、それセクハラ。今度言ったら、上に報告するよ」
「あはは〜。女性が女性に言ってもダメなの?」
「そうよ。マタハラもセクハラも相手が嫌だと思えば、性別は関係ありません」
「ひゃ〜、難しい世の中になったわねぇ。私が結婚する前は、こんなこと言うお局様はごまんといたけどねぇ」
「ほんとにそうですよね。みーんな上から少しずつ傷つけられて、自分が上になったら無意識に下を傷つけて、延々に繰り返してましたよねぇ」
「そうよ。だから、OLの頂点であるお局様には、絶大なる権力があったのに、今ではそれも、夢まぼろし〜、だわね」
「それでいいんですよ。余分なエネルギー使う必要ありません。結婚も離婚も、恋人だって異性か同姓かなんて人それぞれ違うって、やっと理解できる時代になったんだから、もっと自由にならないと。だから、結婚の話も私にはハラスメントだからね、出口さん」
「はーい、了解。じゃ、この写真は見ないわね? お見合い相手探してるんだけど〜」
「イヤだぁ、そういう事は、先に言って。見る見る〜」
「さぁ、そろそろ本社に戻らないと」
と、出口さんとの楽しい会話を切り上げて、玲奈は帰途に就いた。今度はJRに乗る。電車の揺れに体を委ねながら、車窓の景色をぼぅっと見ていた。不意に、今日の地下鉄でのことが思い出され、あれ? あの人どこかで会ったっけ……と、既視感の様なものに襲われる。……う〜ん、分からん。ということは、会ってないのと同じことだと思い直し、とっとと忘れることにした。月に1度の楽しい半日旅行を、無事終えた。
「脇田主任、今日なんだかいつもと違いませんか?」
外回りから会社に戻った翔一は、同じ課の広瀬に声を掛けられ、ハッとした。
「どう、違います?」
「何がどうってわけでもないんですが……、目の焦点がしっかりしているというか……」
「……いつもは、ぼぉっとしているという事ですかね」
「いいえ。主任にそんな失礼なこと言いません」
「……その言い方は、肯定したという事ですよ。まぁ、少し体調が楽なので、はっきりしているかもしれませんね」
「それは良かったですね。どこが悪くても、苦しいですからね」
この広瀬は翔一担当の営業事務をしている派遣さんである。2年目だが、本人の希望で派遣のままでいる。今年26歳で、可愛くほっとするタイプの外見で、社内では評判がいい。本人もまんざらでもないらしく、ここで結婚相手を見つけようとしている節も見られ、翔一も上手く見つけられることを陰ながら応援している。
この会社にも、男性の独身がわんさといて、まぁ自分もその中の1人なのだが、1日も早く結婚して欲しい男子ばかりが、日々むさ苦しい顔を突き合わせているので、誰でもいいから1人、孤独の牢獄から救い出してやって欲しいと、盛大に旗を振っている。
「本当に、今日は体が楽だ……」
報告書を作成しながら、改めて言葉にした。あの地下鉄での頭痛が収まって以降、どんどん体が軽くなっている気がする。こんなに体調が整っているなんて、何年振りだろう。少し気持ちが昔を探っている中で、ふいに彼女の顔が頭に浮かんだ。あの席を譲ってくれた女性。あれ? どっかで会ったことがあったっけ……。急にそんな思いに胸がもやもやと占領される。いくら思い出しても分からないので、コーヒーを一口飲んで、報告書を仕上げることに専念した。
この日の夜、2人は不思議な夢を見た。
「やっと、追いついた〜」
「待ってたよ……」