五十話 奏の精神世界 三
吸血鬼・フェリが扱う青い薔薇の紋章。それは負の感情を糧に体内に種を宿し花を咲かす。
佳代は既に身体のあちこちから薔薇の花を咲かせていた。その姿はもはやひとではなく、救う方法は絶望的だ。
『みんな消してやるっ!』
紅に染まった彼女の瞳が体内に眠る蔦へと伝令を送った。すると、反応した蔦がまるで意思を持つ生き物のように蠢き、シエラ達を襲う。
未だに佳代の攻撃で気絶したまま動けない遥。この距離は危険と判断したシエラは佳代の注意を引きつける為に場所を移動した。
愛する佳代へ無限の力を与える奏の心。この連鎖を断ち切らない限り、シエラ達に勝ち目は無い。
『ここは危険ね。早く復活してよ、ハルカ様……』
このまま彼女が暴れ続けたら精神世界は崩壊するだろう。精神世界の崩壊は現実世界において死ぬことと同じ。それだけは何としても防がなくてはいけない。
彼女達の戦いは、蔦とチェーンクロスのぶつかり合いとなっていた。
元々殺傷能力の弱い武器を使うシエラは、人間である佳代を傷つけるつもりはない。どこか隙を見つけて彼女を拘束出来たらそれで良い。そう考えていた。
『奏を守る──奏、奏……私の大切な……』
戦闘能力の高いエンプーサのシエラと、一般人の佳代。戦闘力の差は比較しようがない。
勝てないと悟った佳代は、繭の中にいる奏に近づく。
『させるかっ!』
シエラのチェーンクロスは、佳代が放った蔦の刃によってバラバラにされる。
武器を破壊されたシエラは少しだけ彼女から距離を取った。それ以上の追撃はないと悟り、唇に笑みを浮かべた佳代は眠る兄の頰に手を添える。
『奏、私と1つになろう。大丈夫──何も怖くないカラ』
そう呟いた佳代は最愛の兄の身体につぷりと青い薔薇の茎を刺し込み、互いの熱を味わう。さらに恍惚の表情を浮かべて天を仰いだ。
彼女の身体が光の粒子と化して消えたと同時に、奏を拘束していた繭が音を立てて崩壊した。
その中より二つの気を纏った奏が姿を現わす。彼は自身の動きを確かめるかのように手を動かして少しだけ口元を緩ませた。
『本当に同化してしまうなんて……』
シエラの呟きが聞こえたのか、くるりとこちらを振り返った奏は、佳代の声でこちらに刃を向ける。
『私は奏とこれで一緒、みんなここから出ていけ!』
奏の力も加わったせいか、佳代の動きは先ほどよりも速くなっていた。
『ぐっ……う、うぅ』
遥の友人だから彼らを傷つけずに戦うというハードルを上げた戦いが、シエラの戦術を狂わせていた。
目の前に立つ人間は薔薇に侵食された吸血鬼側の使い魔と同じ。頭の中では理解していた筈なのに一瞬の隙が彼に逆転の機会を与えていた。
『──シル、フ様……ハ、様……を』
『早く目を開けろ、ハルカっ……!』
なかなか術に反応しない遥を叱咤するシルフ。シエラは奏の手を解くことを諦め、消えゆく意識を集中して震える手を向ける。
『せめて……カヨさんと、分離させる……』
首を絞められ、意識が霞む中で見つけた自分に出来る最良のこと。
佳代は薔薇に侵食されているので、もはや半死人として生かすしか道はない。だが、まだ侵食されていない奏はひととして救う方法が残されている。このまま佳代と彼が同化してしまえば奏が壊れるのも時間の問題。
彼らの分離後は姉や主人達が何とかしてくれる──。仲間に対する絶対的な信頼を寄せるシエラは意を決して右手に全魔力を注ぎ込んだ。
「させないよ、使い魔」
奏の腹部にシエラの手刀がめり込む──筈だったが、振り上げた右手は見えない刃により吹き飛ばされた。
『ぐっ──』
激痛に顔を顰めたシエラは鋭い視線を声の主へと向ける。
『フェリ……き、さま』
それ以上シエラは抗議することは出来なかった。彼女の顔を、青い薔薇が巨大な仮面のように覆いかぶさってきたのだ。呼吸を奪われたシエラは残る片腕で抵抗を試みたが、薔薇に全てを吸われてしまい、そのまま動きを止めた。
「うふふ、脆いわねエンプーサ」
地面に落ちてゆくシエラはサラサラと細かい粒子となり、空気中に消えていく。その最期を見守っていたシルフは唇を噛み締め、フェリを睨みつけた。
『ちくしょう! なんでこんなっ……ハルカ様、起きて……!』
シルフが再び遥の胸に拳を振り下ろそうとした瞬間、頰を濡らした彼の手がシルフの手首を掴んだ。
「うふふ──佳代ちゃん。あなたのお兄ちゃんはあなただけのもの。存分に堪能なさい」
フェリはそう言うと奏の額に触れた。青い薔薇の紋章は不気味な光を放つと同時に、彼の身体から大量の蔦を伸ばす。
『フェリ様、私は永遠に奏と……』
「そうよ。あなたはもう大好きなお兄ちゃんを誰にも奪われることはない。後は最高の薔薇を咲かせなさい──それが私の糧に……」
フェリの目的は混血児の騎士の消滅。そのついでに彼女を利用して駒として使えたら良い。その程度の認識しか持ち合わせていないのだ。
負の感情が根付いた薔薇は、フェリにとっては極上の餌と化す。
「ん……?」
目的の達成が近づき笑みを浮かべるフェリの右手から、突然ぽたぽたと血が滴り落ちた。何が起きたか悟った彼女は僅かに口角を上げ、ぺろりと自分の血を舐めとる。
そして細めた目を、意識を取り戻した遥へと向ける。彼は静かな怒りを放ち、右手のグラディウスを真正面に構えていた。
『──思う存分やりなさい、ハルカ様』
肩口に乗っていたシルフが「力を貸す」と遥の左手首の紋章に触れる。刹那、光を放つ赤い薔薇の紋章。
「偽りの世界を掻き消す真実の旋風よ、悪魔の囁きを討ちその心を示せ……蒼風の協奏曲」
吸血鬼の言葉で紡がれた術と共に、遥の左手首から風の渦が二つ出現する。それは奏の身体を包み込んだ。
風は攻撃的な刃ではなく、対象の身体を優しく包み込み、風は魂を天へと突き上げる。
『い、や──にーにから、離れたく……』
佳代の身体が奏から分離したと同時に、眉を顰めたフェリが動く。彼女は赤い唇を吊り上げると、佳代の魂を飲み込んだ。
大量に負の感情を蓄え、ひとを捨てて歪んでしまった佳代は、負の感情を糧とするフェリにとって極上の餌でしかない。
咽喉がコクリと動き、赤い唇が満足そうに微笑む。
「いくら肉体を大人にしても、彼女は所詮子供。やはり感受性の強い子供の味は最高ね。うふふ、ご馳走様」
佳代が身体から離れた事で意識が戻った奏は、目の前で最愛の妹の魂が吸血鬼の唇に吸い込まれていく瞬間を見つめていた。
「う、あああああああああああっ!!!」
精神世界を支えている奏がついに狂う。その声は周囲の空間をぐにゃぐにゃと歪ませて鏡を割るように地面を次々と消していく。中の存在全てを消滅させる強い力に、シルフは遥の肩に乗ったまま囁く。
『ハルカ様、このまま此処にいては我々も消される。帰れる保障は無いけど、あの子の更に深い精神世界に行って妹の声を伝えましょう』
「佳代ちゃんの?」
『そう。彼も乗り越えないと行けないのよ、妹の死を受け入れなくちゃ』
判断に迷う時間は遥達に残されていなかった。既に表面の精神世界は崩壊している。意を決した遥は面を上げて力強く頷く。
大切な友人を救うべく、彼らは深部へと転移を試みた。




