四十四話 悪夢の始まり
いつもの交差点で千秋と別れた所で、遥のため息は明らかに増えていた。
フィーナに会ったら何と言おう。丸一日家に連絡をしていないことが気がかりだった。
連絡と言っても、ウィルは機械音痴で携帯電話が満足に使えない(そもそも人間の姿の時で、仕事をしている時以外は持ち歩いていない)
普通に電話を使えるのはリャナくらいだ。そんなリャナも一緒に家を開けていたのだから、確かに連絡という考えが抜けたのも仕方ないと言い訳したい。
けれどもそんな言い訳がフィーナに通用するわけも無いし、猫にされて家に隔離されてしまうかもしれない……
「素直に謝って、奏の妹についてた青い薔薇の紋章について聞こう。それが一番だよな」
玄関のドアに手をかけた瞬間、先にドアが開けられる。驚きに目を見開いていると、中からフィーナが出てきて遥に抱きついた。小さな少女の体重を支えきれなかった遥はそのまま後ろに倒れて尻餅をつく。
「ハルカ様ああああああっ!!」
「ち、ちょっと……フィーナ……」
鼻水をつけて胸元にすり寄ってきたフィーナは遥に抱きつきながらブツブツと小さな声で術を唱えた。
まさか、と思った瞬間既に遅く、遥の姿は淡い光に包まれ、人間から黒猫の姿へと変化する。
ばさりと遥の着ていた制服が落ちる。鞄と服をフィーナは無表情で抱え、また家から逃げようとした黒猫の尻尾を捕まえる。
ジタバタする黒猫を小さな腕に抱きしめ、家の中へと足を向けた。
「ウィル様、ハルカ様を捕まえました」
『は、離して、フィーナ』
暴れる遥をさらにきつく抱きしめたまま、リビングで地図を広げているウィルに近づく。
一日ぶりに見たウィルは少し疲れた表情をしていた。こちらに気づき、形のいい眉を吊り上げる。
「ハル……一体何処に行ってたんだ!」
思えばウィルと一緒に生活をしてきて、彼が声を荒げるのは初めてかも知れない。しかし遥としてもここで引き下がるわけにはいかない。
『そんなの、こっちの台詞だよ。俺を家に縛り付けて何処に行ってたんだよ』
「ハルカ様、貴方様はなんて事を! ウィル様は──!」
「……いや、いい。私がハルに黙ってフェリを追っていた事が悪い」
心外だと代わりに怒るメイサの抗議を遮り、ウィルは逆に怒りを鎮めて穏やかな声音に戻った。現状を話す気持ちになったのか、広げている地図を遥にも見せた。東京都の地図には、黒薔薇に侵食された地区や、変死体事件のあった場所、そして保育園の事件──
数多くの事件の発生した場所及び、ウィル、リャナ、メイサで手分けして魔力の流れるポイントを探った場所に印がつけられていた。
「フェリ=ティエノフの封印が解かれた。あいつは吸血鬼の中でも一番厄介な女。人間の精神から喰らい尽くし、自分の欲望のままに動く。そして誰にも屈しない……」
『俺の友達の妹に、青い薔薇の紋章がつけられていたんだけど、それって──』
青い薔薇の紋章の名前を出した瞬間、ウィルとリャナ、メイサ、フィーナの表情が凍りつく。
「もうフェリに関わってしまったのか……その子は……」
『彼女は、奏にとって生き甲斐なんだ。どうにか助けたい』
黒猫の双眸でウィルをじっと見つめると、ウィルは真剣な表情を少しだけ砕けさせた。
「……黒猫のハルを見ると、何だか初めて吸血鬼の力に目覚めた時を思い出すなあ」
「あ、ウィル様、はいっ!」
フィーナは満面の笑みで黒猫の遥をウィルの腕に抱かせる。吸血鬼から始祖と恐れられている男は、穏やかな父親の表情で黒猫の背を撫でた。
「──ハル、一人で無茶だけはしないでくれ……フェリは、アスラやノエルとは全く違う。下手をすると、お前が守りたいもの全て消される」
『どういう……』
自信に溢れているウィルの不安そうな声音に、遥もそれ以上問い返す事は出来なかった。
────────
「にーに、お布団入ってもいーい?」
ピンクの熊刺繍の入ったパジャマを着た佳代は、その夜も奏の部屋に来ていた。元々彼女には三階に自分の部屋が与えられているのだが、ここ二日間は奏と一緒に眠っている。
勿論、奏としても妹に好意を抱かれる事に対して不満も何もない。寧ろ佳代の寂しさが少しでも癒せるならば喜ばしい事として普通に受け入れている。
「おいで、佳代」
少しだけ布団をめくると、嬉しそうに佳代が胸元にすり寄ってくる。
「にーに、だぁいすき」
「うん、おやすみ、佳代」
既にうつらうつらしていた奏が目を閉じた瞬間、佳代の瞳が青い光を放つ。
『にーに、ダイスキ』
佳代の爪は青いネイルがついて不気味に伸びており、奏の背後に回されたその爪はプスリと音を立てて奏の背中に食い込んだ。
「……っう……」
途端に奏の表情から生気が抜かれていく。──彼がやつれた原因はこれだった。
フェリによって使い魔とされた佳代は、少しずつ奏から生体エネルギーを吸収していた。佳代の笑顔は変わらないが、声音が少しずつフェリと重なっていく。
『ねぇ、にーに……佳代と、一つになろお』
反応のない奏は既に魂が抜けかけている。呆然としている彼の唇にそっとキスをした佳代は、両手から白い糸を放つ。奏の身体に白い糸が絡みつき、それは部屋の四隅にも広がっていく。
普通の蜘蛛の糸とは違い、それは放った人間が死なない限り切れないものだ。
「か、よ……」
意識を取り戻した奏に、佳代はにこりと満面の笑みを向ける。使い魔の彼女は冷たい手のひらで奏の頰を包み、白い糸をさらに大好きな兄へ絡めていく。
『にーに、大丈夫だよ。佳代と、一緒に……』
佳代の身体は一瞬でフェリへ変わり、彼女は青い薔薇の紋章を奏の額へと植えつけた。
「お、前は……」
佳代の身体から妖艶な吸血鬼へと変わった様子を見て奏は驚愕の余り続く言葉を失った。しかし一度フェリの術に嵌ると抜け出す事は出来ない。
「お前は混血児の友人だからね……繭に引きこもる前に一仕事してもらおうか」
フェリの唇がゆっくりと奏に近づく。そっと触れた冷たい唇──彼女の〈死の口づけ〉が奏に植えつけられた。




