五話 閉鎖される渋谷区
東京都渋谷区。そこは若者の情報発信の中心部でもあり、どんな時間帯であってもこのスクランブル交差点は人が多い。ある意味観光名物のような光景だ。
その平和な日常的光景を上空から見下ろす青年は、ふっと口元を緩める。
「こんな狭い場所に、人間が密集するなんてな」
銀色に輝くフルートを片手に持った青年──アスラは、菖蒲色の瞳を紅に染める。その瞳は、これから始まる殺戮を楽しもうとする少年のように輝いている。
「さぁ可愛い半死人よ。この笛の音で踊れ…」
目指すは佐久間神社だ。
心の中でそう呟いたアスラは冷たい唇にそっとフルートを当てる。本来奏でられるはずの音色ではなく、その不思議な響きは、とある人物の鼓膜を刺激した。
「ぐ、あ、あああっ」
「な、に……これっ……!」
突然頭を押さえて蹲る2人の人間。 以前、アスラに味見された者達は、その特殊な音色によって半死人へ強制的に覚醒させられた。
『グヲヲヲヲヲヲ』
「ひ、ひぃっ! ば、化け物っ!」
スクランブル交差点の中央で、突然変異した二人の人間が、青色の硬い皮膚へ肉体を変える。着ている服は破け、額からは鬼のように白い角が飛び出した。
周囲の人間達は、当然パニックに陥り、慌てて逃げる人の波と悲鳴が響き渡る。
『ガアアアッ』
変貌したグールはもはや人ではない。耳は通常の四倍の長さまで先端が尖り、巨大な牙が唇から飛び出ている。
もう一人の女の方も赤い唇から鋭い牙を覗かせて、舌舐めずりをしていた。
「きゃあああああっ!」
「だ、だれか、警察をっ、うわっ!?」
時刻は夜の七時。人も多い時間で車もかなり通っている。しかしグールとなった彼らはお構いなくその車を片手で止め、運転手に噛み付いていた。
女の方は歩行者の肩を掴み、ケラケラ笑いながら首を噛み千切っている。辺りは人の悲鳴と、飛び散る血液で惨劇となった。
その様子を、つまらないものでも見るようにアスラは唇を尖らせて見下ろす。
「やはり半死人は知性が低い。お前ら、食事の前に佐久間神社に行けっての……全く」
アスラはフルートをしまうと、ゆっくりと交差点の中央に降り立ち、地面にそっと手のひらをあてがった。
『大地に眠る地神よ、我はアスラ=ティエノフ。今宵、この地を再び我ら吸血鬼のモノとする』
吸血鬼特有の言葉で地面に印を結ぶと、アスラが立っている場所から四方に黒い薔薇の蔦が広がっていく。
蔦が触れた部分──アスファルトも、壁も、全て漆黒の闇へと化す。数分の間に、黒い蔦が空全体を覆っていた。
「な、何だこれは、うわあああっ!」
黒い薔薇は意志を持っており、蔦に触れた人間の血液を吸い尽くしていく。人間の血液を吸い込んだ蔦は、母体である薔薇の花へ栄養を送る。
短時間で大量の人間の血液を得た黒薔薇は、その圧倒的な存在を示すように大きく花を咲かせた。
「さあ、革命の始まりだ……まずはこの土地からだ」
黒薔薇はさらに長い蔦を空まで伸ばし、渋谷全体にその蔦を覆っていった。
電車は全てストップ、道行く車も全て薔薇の蔦によって追突し、運転席の人間は血液を全て絞り取られていく。
途端に静寂が訪れる。数千人の人が、この近くに居たはずなのに、今は誰の声もしない。聞こえるのは、黒薔薇が血液を糧として、さらに巨大になり、花びらを大地に散らすだけだ。
渋谷区が閉鎖空間になった事で、当然だが国も動く。このありえない状況を放送する為に数機のヘリコプターが渋谷区に近づくも、縦横無尽に動く蔦にプロペラを絡まれて、墜落してしまう。
落ちたヘリは轟音と共に、火花と黒い煙をあげていた。
単純な人間達の行動にアスラはククッと笑い、指先から黒い薔薇を一本取り出してヘリに突き刺す。すると薔薇は火花さえも糧とし、蔦でヘリコプターを包み、そのまま呑み込んでしまった。
「佐久間神社に向かうか……まずは騎士様を始末しないと厄介そうだからな」
アスラは食事に夢中なグールをそのまま放置し、黒い霧と共に閉鎖された渋谷から姿を消した。
※ ※ ※ ※
あの留学生は、吸血鬼なのか?
「うわああっ!」
「は、ハルカ様、大丈夫ですか!?」
遥は渋谷区が黒薔薇の閉鎖空間になった夢を見ていた。あまりにもリアルな夢の所為で全身から冷や汗が止まらない。心臓も早鐘を打っていた。
「ゆ、夢? き、君は」
「わたくしは、ウィル様の使い魔、エンプーサのリャナと申します」
今まで母親を演じてきた事を詫びたリャナは、深紫色の瞳でこちらをまっすぐに見つめてきた。
彼女が着ている薄衣のローブは、多分この近くでは手に入らないものだろう。
「わたくしは、昔ウィル様に命を救われた下等な魔物でした。それに命を与えてくださったのが、ウィル様なのです」
「俺の両親は、吸血鬼なのか?」
「それは、わたくしからは……」
再び口籠る彼女は、あくまで主人の言いつけ以上を語るのは許されていないようだった。
「千秋が心配だ……佐久間神社に行く」
「あとはウィル様にお任せ下さい。その為にわたくしが此処に残っているのですから」
リャナはどうやら戦闘能力に長けているらしい。薙刀のような物を得意そうな顔で持っている。
しかし消えない胸騒ぎだけが胸に疼く。先ほどの崩壊した渋谷区は本当に夢だったのか?──それとも、これからアスラが行おうとしている【革命】に対する警告なのだろうか。