四話 ダンピール
何故遥の隣の席が偶然空いていたのか思い出せない。二日前まではあの席に別の生徒が座っていたはずだった。その記憶を辿ろうとすると何かが弾ける。
隣の席だと、授業が終わる度にあれこれ質問攻めにあう。プライベートに介入されたくなくて困惑する遥に助け舟を出したのは、後ろの席に座る奏だった。途中から奏にバトンタッチした遥は慌ててトイレに逃げ込んだ。
喉の奥が焼けるように痛い。胃がムカムカして気持ち悪い。そして、アスラから発せられる甘い血の匂いがまだ鼻の奥に残っている。
「毎日これはきついな……」
席替えを頼みたいところだけど、理由なく出来ないし、かと言って毎日質問攻めにあえばいつしかボロが出るだろう。渋々教室に戻る。その繰り返しを四限目まで続けた。
五限目からは自信をつけた女子達がアスラの周りを取り囲み、あれこれ質問攻めにしていたお陰で遥はようやく解放された。こうなったら毎日席を女子に明け渡して自分は千秋の所に行くしかない。
帰る前にようやく彼の血の匂いに慣れたものの、あの菖蒲色の瞳を見ていると、魂まで喰われるような……そんな変な錯覚に陥ってしまう。
「遥、帰るぞ」
「あれ……千秋、部活──」
テスト週間でも無いのに、サッカー部のエースである千秋が部活に来ない日など、今まで無かったはず。
顎でくいっと示した先にいたのはアスラ。部活に行くことよりも彼の存在を危惧しているのだろう。
放課後になると他クラスの女子まで集まってしまい、狭いクラスは黄色い声で賑わった。
ハーレム状態の中央にいる本人は全く嬉しそうな顔をしていない。寧ろ遥が帰ると言って席を立っただけで形の良い眉を寄せ、不機嫌を露わにした。
「あれ、遥君もう帰るの? もっとお話ししたかったな」
「うん、また明日……」
アスラの視線から逃げるように遥は鞄を強く抱きしめて教室を出た。
◇
校門を抜けたところで遥は盛大な溜め息をついた。やっと空気が美味しい。そう思えるほど長い一日だった。その姿をずっと横目で見つめていた千秋も苦笑するしかない。
「遥、今日は大変だったなあ」
「他人事みたいに言うなよ。彼は多分人間じゃない」
あの不気味な気は「ひと」ではない。千秋も彼がただの転校生でないことを悟っていたので否定して来なかった。
「早く魔祓いしてもらおう? うちに来いよ」
「いや……とりあえず今日は帰るよ」
なんだかどっと疲れた。幸い、千秋が臨時でくれた御守りがあるから大丈夫、と紐を引っ張る。
「そっか……それは俺に向けて作られたやつだからどこまで効くか分からないけど、お前用の御守りも母さんに頼んでおくな。とにかく気をつけろ」
「ありがとう。また明日な」
頼れる友人の計らいに感謝しつつ、二人はいつもの交差点で別れた。
◇
家に帰ると玄関の前に見た事もない魔法陣が描かれていた。円の中央部分を踏むと、それは一瞬だけ赤い光を放った。
謎の魔法陣を踏んでも何も異変は無かった。あれは何の為にあるのだろうかと首を傾げたままリビングに向かう。
「ただいま」
「ハル! おかえり、無事だったかい?」
待ち構えていたウィルに突然ぎゅっと抱きしめられた。庭の手入れでもしていたのか、今日もウィルの身体からは甘い薔薇の香りがする。
「無事って……いつも通りだよ」
大袈裟だなあと思い、そっとウィルの胸板を押してネクタイを緩める。
「……転校生と接触したか?」
鮮やかな碧眼は鋭さを増し、唇を尖らせる。こんなに不機嫌なウィルは初めてだ。
「アスラのこと?」
「ハル、明日から学校へは行かなくていい。いや……行ってはいけない」
それ以上ウィルは語ることなくリビングにあるいつもの椅子に腰掛け、朝のニュースと同じ内容を放映するテレビを睨みつけた。
なんだよ、一体……。
釈然としないまま、夕飯の支度をしている母に近づく。
「ねぇ母さん。ダンピールって知ってる?」
その言葉に規則正しく動いていた包丁の音がピタリと止まった。母の顔色は青ざめており、驚愕に瞳を大きく見開いたままこちらを見つめている。
「遥……」
「母さんは知っているんだよね。俺が何でこんなに、色々なものが視えるのか」
今まで、遥が両親を視る事は無かった。もし、彼らから違うものが視えてしまったら立ち直れないからだ。
数秒の沈黙の後、母は料理していた手を止めてキッチンの床に突然正座した。
「それは、わたくしからは申し上げられません」
「えっ……?」
その声は母のものではない。見た目は母なのだが、明らかに違う。
「ハルカ様……わたくしは」
リビングにいたはずのウィルがいつの間にか震える彼女の横に立っており、優しく労わるように彼女の頭をそっと撫でた。
「ありがとう、リャナ。後は私から話そう……」
ウィルの手に触れた黒髪の日本人女性は、まるで魔法が解けたかのように一瞬で金髪の美しい女性へと変貌した。
悲しそうな深紫色の瞳が、騙してごめんなさいと言っているように見える。
混乱する遥がたったひとつ理解したこと。それは、目の前にいるこの人が長年育ててくれた母ではないと言うことだ。
「ハル。お前は私と、藤宮華江の子に間違いはない」
「か、母さんは?」
「それは……またいつか語ろう」
目の前の女が母ではないと分かり、激昂の収まらない遥は、大声でウィルに突っかかった。
「ダンピールって何? 俺は、バケモノなのか?
それに、あの夢は!」
『ハル、落ち着きなさい』
碧眼が一瞬で紅へと変わる。
表情一つ変えていないのに、ウィルの瞳の色が変わっただけで心臓を鷲掴みされたような恐怖が全身を支配した。これはアスラに見つめられた時と同じ感覚だ。
死への恐怖と同時に、この瞳に全て支配されたいと願うほどの妖艶な魔力。
まるで催眠術にかかったように、遥はその場から動けなくなった。
「──」
声が出ない。言いたい事は山ほどあるのにあの瞳に囚われると歯向かう力が奪われてしまう。
『おやすみ、ハル』
額をトン、と触れられた瞬間、遥は強烈な睡魔に襲われて意識を失った。
がくんと床に崩れ落ちた息子の腕を支えたウィルは、リャナと呼んだ女性に合図を送る。
「後の事は任せた」
「はっ。わたくしの命に換えてもハルカ様をお守り致します」
左耳につけているパープルクリスタルのイヤリングを外した瞬間、立ち込めた赤い霧がウィルを包み込む。
穏やかな英国紳士は黒髪に紅の瞳、漆黒の蝙蝠の羽を持つ吸血鬼へと変貌した。
アスラの企みが分からない以上、迂闊に家を不在には出来ない。しかしこの繰り返されるニュースで見た変死体事件に彼が絡んでいるのは間違いないだろう。
遥の安全を確保したウィルは、天井の空間をぐにゃりと歪め、大きな漆黒の翼を翻して空へ飛び立った。
「ウィリアム・グレイスの名において──【結界呪法】」
屋敷全体がうっすらと白い光を放ち、そして消えた。これはウィルの魔力を使い、同族や魔物が侵入出来ないようにする結界のひとつだ。
そしてアスラの行動は、彼の血の匂いを追いかけるだけでわかる。
「ハルのお友達が危ない」
佐久間神社に向けてウィルは翼を大きく広げた。




