三話 紅の瞳
ホームルームが終わった瞬間、アスラの周りを女子が一斉に囲んだ。得意の質問攻めだ。おまけに隣のクラスの女子まで羨ましそうに廊下から教室を覗いている。完全に見せ物小屋状態になっていた。
しかし彼はその視線や質問を全く気にする素振りもなく、千秋の席まで逃げた遥の横に立った。
「藤宮遥君だよね?」
アスラは勝手に空いている椅子を引き寄せ、机に片肘をつくと菖蒲色の瞳でこちらをじっと見つめてきた。
何とも言えないその独特な紫色に見つめられると、意識まで吸い込まれそうになる。そして彼からはあまり大きな声では言いたくないが、甘い血の匂いがした。
そもそも、血が鉄臭くなく甘いというのもおかしな話なのだが、確かに甘い血の香りがした。
「どうして……俺の名前を?」
「君のパパを知っているからさ。ウィリアム=グレイス伯爵」
遥は何も言わずに閉口した。正直あまりウィルの名前を知られたくはない。
しかしここまで図々しく遥の家の事情を知っている素振りを見ると、彼もグレイス家の関係者なのだろうか。
そもそもウィルがどのような経緯で日本に来ることになったのか、息子である遥も具体的には知らない。
初対面の外人にプライベートな家の事情なんて言いたくない。俯いたまま口籠っていると、アスラはくすりと微笑み、きっちりと締められた遥のネクタイに手を伸ばした。
「──ッ!?」
「?」
バチッと何か見えない壁に拒絶されたアスラは、伸ばした手をすぐさま引っ込めた。
「混血児。君は、まさか何も知らないのか? いや、その方が都合が……」
アスラの独り言は遥の耳には届かないはずなのに、何故かクリアにその言葉が脳に響いた。
先ほども聞こえた【混血児】。それは一体、何の意味を示しているのだろう。
「おい遥、移動すっぞ。例の転校生は奏が案内してくれっから」
「遠藤奏と言います。アスラくんよろしく。学校の事は僕が案内しますから」
千秋と奏が来てくれたお陰で、アスラと取り巻きは一旦離れてくれた。
「じゃあまたね、遥君」
一瞬だけ向けられた、紅に変化したアスラの瞳。心臓をまるで鷲掴みされたような息苦しさと死への恐怖が脳裏を過った。
教室からゾロゾロと出て行く彼らの背中を見送った後、遥は握りしめていた手のひらが大量の冷たい汗で滲んでいることに気づいた。
「あいつ、ヤバいな」
「やっぱり?」
千秋は精神集中すると相手の心が読める。多分アスラの心を読もうとしたが、出来なかったのだろう。
ヤバいと直感的に感じるもう一つの理由。それは彼が遥に対する執着のような禍々しい気。
「……遥、今日はうちに来いよ。母さんに一度魔払いしてもらった方がいい」
千秋の母・佐久間愛菜は、千年続く佐久間神社の神の力を受け継ぐ巫女で、生まれつき両目を失っている分、心や気を察する力に長けている。
その神の手は触れた相手の未来を見つめ、行くべき道をそっと優しく照らしてくれるのだ。
愛菜が念を込めた呪符や御守りは、魔物を寄せ付けない効果がある。それを知っている千秋は、自分が幼少期から肌身離さず大切に身につけていた御守りを遥の首にかけた。
「俺が心を読めない奴は相当ヤバい。あいつからは距離を取って離れた方がいい」
「そうは言っても、席が何故か隣だからなあ……」
「大丈夫だ。必ずそれがお前を守ってくれる」
首にかけられた御守りを握りしめながら、遥はこくりと小さく頷いた。
◇
学校案内など必要ないのに。と心の中でぼやきつつ、アスラは適当に奏の説明を聞いていた。何よりも勝手に匂いで惹きつけてしまう女達が鬱陶しい。
廊下に出たことでクラスだけではなく違う階の女まで列に加わっていた。完全にアイドルのおっかけ状態になっている。
職員室の前で苦言を呈されたが、アスラがごめんなさいと話した瞬間、教師の方が詫びたくらい、彼に対して皆の反応は異常だった。
「──黒猫か」
強烈な視線に足を止めると、庭にいる黒猫が黄金色の瞳でただじっと奏とアスラを見つめていた。奏も黒猫を見つめ、ああと呟く。
「アスラくんは、イギリスから来たんだよね。黒猫って、やっぱりあちらでは珍しい?」
「いや、猫は好きだよ。本当……可愛い使い魔だ」
アスラは奏に気づかれないように、菖蒲色の瞳をすぐさま紅へ変えて黒猫を睨み返した。
鋭い眼光に気圧されたのか、黒猫は毛を逆立てると脱兎の如く校庭から逃げていった。
「ふっ……僕は嫌われたみたいだね。難しいね、動物と分かり合うのは」
口元を吊り上げたアスラは瞳の色を戻し、一通り学校案内をしてくれた奏に礼を述べる。
すると同じタイミングで教室から仲良く出てきた千秋と遥を見て、端麗な顔を顰める。
「次は移動教室なんだ」
「ああ、もう少しハーフの遥君と話しをしたい。案内ありがとう」
遥は見た目は日本人で全くウィルの血を継いでいるとは思えない。なのに一発で彼がハーフであると言い当てたアスラに、奏は驚きに目を丸めた。
「遥くんは日本人顔なのに、見ただけでハーフって分かるの?」
「分かるよ、彼は独特の香りがするからね」
意味深なその言葉を、奏は理解出来なかった。
◇
学校での様子を見つめていた黒猫は、校庭を出て、門を曲がった所で一人の女性にそっと拾いあげられた。
「偵察ありがとうございます、ティム様」
『ふぅ〜、危うく捕まる所だった。これを早くウィルに伝えないと。ティエノフ家が動き出したって』
黒猫は流暢な人間の言葉を話した。それに全く動じない女性は猫の焦っている様子を見てくすりと微笑んだ。
「元のお姿には戻らないのですか?」
『今は無理。疲れたから肩に乗っていい?』
「ええ。ハルカ様がお帰りになられるまでに、何か対策を考えないと……」
対策という言葉に黒猫が沈黙する。小さな頭を軽く振りながら大丈夫だろう? とクリクリした双眸で女性を見上げる。
『まぁ、ウィルが早めに混血児について息子に教えるべきだと思うけどね』
「ハルカ様が、その運命を受け入れて下さるか……」
『リャナがウィルとのラブラブ新婚さんを演じられなくなる事が辛い気持ちは分からなくもないよ。だってハルに全て告げるとしたら、例の母親の事も言わないといけないんだし』
新婚さんと言われた所でリャナと呼ばれた女性は顔をほんのりと赤らめたが、すぐさま真剣な面持ちに変わった。
「華江様の事……ハルカ様に告げるのは酷です」
『実の父親が、杭に穿たれて死ぬ夢を毎日見続ける方が酷だと思うよ。それに、あれはウィルの計らいだろ?』
そうは言われても、使い魔である自分らの出る幕ではないとリャナは沈黙するしかない。
ティムと呼ばれた黒猫もそれ以上言及する事もなく、リャナの肩に乗ったまま、「早く帰って寝る」とだけ話して瞳を閉じた。




