二十一話 黒い薔薇の紋章 二
翌朝──
『いいかい、ハル。もしも彼女達の手の甲が白い光を放っていたら、すぐ家に連れて来なさい』
『それって、何かまずいの?』
遥が学校に行く前に、ウィルは真剣な面持ちで白い光について説明をしていた。
彼女達に植えつけた〈印〉は吸血鬼、または半死人と関わると白い光を放つらしい。
一方、千里はようやく体調を戻しつつあった。しかし息子の千秋はまだ本調子ではないため大事を取って学校を休んでいる。
ウィルの命令で、彼らの周りを守っていたティムは、遥の学校周囲を監視することに切り替えていた。
朝––––登校しても周囲の反応は何も変わらない。
留学生のアスラが学校に来ない事に、クラスの誰もその話題に触れてこないのだ。
薄々おかしいとは感じたが、どうやら彼は、この学校に、最初から存在しなかったように、学生や教師達の記憶をすり替えたらしい。
アスラを覚えている人間は、遥と千秋、そして千秋の家族だけだ。
逆に、彼が吸血鬼であった事を皆に知られて不安がられるよりまだマシかも知れない。
「おはよう、遥君。まだ千秋君は体調悪いの?」
「ああ……うん、風邪みたいだよ」
学校側には千里さんから上手く言ってくれているようで、丈夫が取り柄の千秋が休んでも、今のところは特に問題は発生していない。
遥は自分の席に鞄を置いて、二人に声をかける。
「ところで、唯と加奈は昨日変わった事あった? 例えば、変な奴に遭遇したとか……」
突然の問いに二人は顔を見合わせていたが、別に。と小首を傾げる。
昨日の今日で考えすぎか。取り越し苦労に安堵した瞬間、遥は唯の右手の甲が白く輝いている事に気付いた。
「唯、その手……!」
遥は唯の手首を掴み、白い光を凝視する。その光の中央に薔薇の紋章が薄っすら浮かんでいる。
薔薇の紋章──それはアスラと同じ。彼か、それとも別の吸血鬼が動いているのか……。
「あ、あの〜……遥、君?」
何? と唯の顔を見つめると、彼女は頰を赤くしながら、ちょいちょいとクラス中の視線を浴びてる事を知らせていた。……確かにこれでは遥が唯の手首を掴んで求愛しているようだ。
慌てて唯の手首から手を離し、ごめんと謝る。
「あのさ、唯……悪いんだけど、今日学校が終わったらまた家に来てくれないか?」
「えっ? い、いいの!?」
心底嬉しそうな顔をする唯には申し訳無いが、彼女を招待するのは特別な理由ではない。
「うん。叔父さんも話したいみたいだし……」
「やったあ! じゃあ、お姉ちゃんに連絡してもいい?」
クラスの女子から反感を買わないように、唯は小声でそう確認してくると、いそいそと携帯電話を開いた。
元々唯の姉が吸血鬼や半死人に興味を持っていると言っていたのだ。早い内に、唯の姉も吸血鬼に接触していないか調べた方が良いだろう。
遥は「連絡がつきそうだったらお姉さんも呼んで」と唯に告げると、自分の席へ戻った。
────────
一方その頃──。
舞は朝から全身の血液が沸騰するような身体の違和感を感じていた。
少し歩いただけで息が苦しくなり、食欲は全く無い。血の匂いを感じると別の獣が目覚めたように興奮する。
大学に顔を出したものの、勉強出来る状態では無かったので、救護室で休んでいた。
かと言って特に熱がある訳でもなく、医務員も勉強疲れじゃないの? と笑っている始末だ。
「舞さん、次も講義受けられないのでしたらお家で休んだ方がいいわよ?」
「……そうですね、サークルに伝言残して帰ります」
舞は苦笑いを浮かべながらベッドからゆっくり起き上がった。すると、珈琲を淹れている医務員の近藤美羽の後ろ姿が視界に入る。
トップにあげたソバージュヘアから覗くうなじに、舞は視線を完全に奪われた。そして彼女とは別の何かが言葉を紡ぐ。
『乙女の血を……』
「なんか言った? 舞さ……」
くるりと振り返った彼女の背後には、舞が突っ立っていた。この一瞬でどうやって移動したのか、とか目つきが明らかにおかしいとか、そんな事も考えられないくらい僅かな時間。
彼女が持っていた熱湯の入ったやかんが、ガツンと音を立ててお湯を床に零しながら転がっていく。
八重歯を覗かせた彼女に左首筋を噛まれた美羽は、唇を震わせながら床にへたりと座る。
その様子を、舞は自分の唇についた血液をぺろりと舐めながらクスクスと笑う。
別人となった舞の影からノエルがスッと躍り出て、人形のような舞の頰をするりと撫でた。
「……さあ、半死人よ、お前に黒薔薇の種を与えましょう。この学校を薔薇の園にするのです」
『……畏まりました。ノエル様……』
美羽は操り人形のように、突然すくっと立ち上がると、乱れた白衣のまま救護室からゆっくりと出て行った。
すれ違う生徒達に薔薇の種を埋め込んでいるのか、断末魔の悲鳴があちこちから聞こえてくる。
静寂が訪れた僅か数秒後に、種から花を咲かせた黒薔薇の蔦が救護室の壁を轟音と共に貫いてくる。
既に洗脳されている舞は、ノエルの手に自分の頰をすり寄せ、恍惚の表情を浮かべたままだ。
蔦が暴れ、あちこちから聞こえてくる悲鳴を、自分とは無関係の世界であるかのように、ただ黙って聞いていた。
「この人間も半死人にならないのですね。ハンゾウと一緒ですか。では、道案内を頼みますよ、若き聖乙女の血の下へ」
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突如大学を襲った黒薔薇は、一時間程でT大学全体を包み込み、渋谷区上空と同じく渦のような暗雲をその場所のみ立ち込めさせた。
警察が動いても、車やヘリコプター、飛行機も全て一瞬で飲み込んでしまう。その巨大な黒薔薇も、手口も、全てが閉鎖された渋谷区と一緒。
事件から三十分後、大学から半径五キロ圏内は政府管理下において立ち入り禁止区域となった事が各局のニュースで放映された……。




