十九話 グールと接した乙女達
遥達が精神世界から戻ってから丸二日が経過した。精神世界でダメージを受け、まだ本調子ではない千秋は学校を休んでいる。
一方の遥は体力も回復したので、何事も無かったかのように学校へ通う。
自分の席について教科書をしまっていると、携帯電話を片手に「おはよう」と満面の笑みを浮かべた唯が声をかけてくる。
「ねえ、遥君。今日のニュース見た?」
「ニュース?」
「これこれっ。見てよ、変死体だって」
唯が開いている画面は、とある検索サイトのトップニュースだ。
そこには新宿にある公園で、昨日『変死体事件があった』とはっきり報道されていた。──あまり公にはされていないのだが、以前世田谷で起きた例の死体事件とほぼ一緒だ。
世田谷の事件が公とされていなくても、渋谷区が完全に閉鎖空間となっている為、政府も情報を出さざるを得なかったのだろう。
遥は精神を集中して、彼女の携帯画面をじっと視つめる。そこに映る死体には、通常の人間には見えない〈噛み跡〉が首にくっきりと浮かんでいる。
前回と違うのは、死体の手の甲にも黒い薔薇の紋章が浮かんでいる。あれは確か、千秋の心臓に刺されたものと同じ。
遥は無意識に左手の指を顎に当て、一体何が……と思案を巡らせる。無言になると、取り残された気分になったのか、唯はぷぅと頰を膨らませて機嫌を損ねた。
「んもぅ! 遥君はすぐ一人で考え込むんだからっ」
「あ、ごめん……携帯ありがとう」
唯に携帯電話を返した後もニュースの内容が頭から離れない。また別の吸血鬼が動いているような……妙な胸騒ぎを感じる。
黙っていると、唯は少しそわそわした様子で遥の顔を何度もちら見してきた。何か他にも用事が? と視線だけ彼女へ向ける。
「遥君の叔父様さ、私とお姉ちゃんの話しとか、しなかった?」
彼女が言う『叔父様』はウィルの事だ。彼は吸血鬼ですなんてことは言えないので、自分の父親はイギリスで仕事をしているという事にしている。
彼女の話の内容──唯と、彼女の姉についての出来事は昨日の喧嘩に遡る。
────
「まだ隠し事してるんだろ? なんで、教えてくれないんだよ。俺の小さい頃のこともっと教えてよ!」
「今はその時ではない。華江さんはハルを愛して……」
「母さんの名前で誤魔化すなよ……俺だってもう子供じゃない。吸血鬼は何をしようとしているんだ、千秋にあんなことをして……それに、千秋の母さんはどうなるんだよ!」
「……千秋君のお母さんは、私が必ず助け出す。それだけは約束しよう」
真っ直ぐに遥を射抜くウィルの瞳。しかし、あまりにも語ろうとしないウィルの態度は、息子である遥との溝を深めていた。
今まで仮初で作り上げてきた平穏がガラガラと音を立てて崩れていく。
「もう──嫌だ……! なんで俺は人間じゃないんだよっ!」
「ハル!?」
ウィルの制止を振りほどき、遥は暗闇へ飛び出していた。一瞬見えたウィルの哀しそうな瞳が胸に突き刺さる。
だからと言ってももう戻れない。もし自分がこの世に生まれてなければ、そして、ウィルが日本に来て居なければ──こんなことには、ならなかった筈なのだから。
遥が家から飛び出したのとそれとほぼ同時刻──唯は姉の舞といつものように買い物を済ませ、夜道を歩いていた。
「うふふ〜。今日は大好きな先生の本をゲットできたし超幸せっ」
「お姉ちゃん、最近変な事件多いしこんな時間危ないでしょ?」
「そうよっ! 私の聖地・渋谷がまさかの閉鎖!! あーん、来月新作のブランド発売予定だったのに、超ショック」
胸に参考書を抱きしめながら舞は残念そうに呟く。その瞬間、電柱の横から酔っ払いのようにフラフラした男がこちらに近づいてきた。
『グウウウウウ……』
「えっ、あれって──」
「変態さん? カメラ持ってくるべきだったわっ! も、もしかしてこれが例のバケモノかしらっ!?」
怯える妹と対照的に、サークルのネタになると嬉々とする姉。
獣のような声をあげる男の鋭い爪が振り上がる。ほほ同時に鮮やかな金髪が闇夜に揺らめいた。
『ガ、グ、ウウウウウ』
「眠れ」
不気味な声を上げていた男はそのまま電柱に激突してずるずると崩れ落ちた。その光景を黙って見つめていた舞の顔は興奮している。
突然の化け物の襲来に唯はへたり込んだまま動けなくなっていた。彼女の震える頭を撫でるのは、ふわりと微笑む金髪の男の手。
────
「カッコよかったのよ!!!」
「そ、そう……」
唯の鼻息まで聞こえてきそうなくらい眼前でそう言われ、流石の遥も顔を引きつらせた。
ウィルは昨日遥を探していた時に、偶然にも半死人の気配を感じてすぐに身体が動いたのだろう。
あの後は結局、リャナに追跡されてしまい、遥の人生初の家出は三十分もせず幕を下ろした。
「だ・か・ら〜」
「な、何……?」
唯はにんまりと笑い、遥の腕をきつく掴んだ。危うく手首の赤い薔薇の紋章が見えそうになったので、唯の手をさり気なく引き剥がす。
「──まさか、叔父に会いたいとか?」
「そっ! 昨日のお礼も言いたいし。ねぇ〜、ダメ〜?」
「ちょっと聞いてみるよ……」
いつもは唯の猛攻を躱してくれる千秋が不在の今、唯に勝てる自信なんてない。遥は携帯電話を持ち、廊下の方へ出てからそっと溜め息を吐いた。
────
結局、ウィルから快い返事を貰った遥は唯と加奈を連れて家へ案内する。
「ハルが守りたい女の子の友達も連れて来なさい」と言うウィルの真意は分からない。
家の門が近づくに連れて、遥の心境はかなり複雑になっていた。父親は不在と言う事にしても、母親はどうしよう。
(……リャナに変装してもらうしか無いか)
ウィルについて分かったことは、彼が吸血鬼の始祖と呼ばれている事。
そして彼の血液を得たものは、半死人ではなく、吸血鬼となる。それ程彼の血液は強い能力を持っているらしい。
つまり吸血鬼を増やすことも、始末することも容易い。そんな吸血鬼の頂点に立つ彼が、本来敵である人間の世界で呑気に過ごしている……これだけは理解に苦しむ。
「……ただいま」
悩んでいる間に家に到着してしまった。玄関を開けると、リビングの方からエプロンをつけたリャナがふわりと優しい笑みを浮かべて近づいてきた。人間の姿で。
「お帰りなさい、遥。お友達もいらっしゃい。どうぞ、ゆっくりしてね」
「は、はいっ!」
リャナの笑みに唯と加奈は顔を赤らめていた。やはり彼女は人間の姿でも隠しきれない魅力を醸し出しているらしい。
唯達をリビングに案内して、ウィルが書庫から戻るのを待つ。するとレザーソファーに座っている唯と加奈はそわそわと視線を彷徨わせていた。
「お嬢さん達、お待たせして申し訳ない」
地下のドアが開き、仕事の電話を終えたウィルは携帯電話を胸ポケットにしまいながら、穏やかな笑みを二人に向けた。ぱっと見ただけでは、彼が世間を賑わせている変死体事件に絡む吸血鬼だとは、誰も思わない。
値踏みするようにウィルは二人を見つめ、その瞬間はっと我に返り、一人で苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、つい不躾な視線を送ってしまった。君達があまりにも可愛らしいから」
「あのっ……ウィリアム様、昨日は助けてくださって、本当に……ありがとうございましたっ!」
唯は顔を真っ赤にしながら、ウィルに昨日のお礼と言いお菓子を手渡した。何の事か分からないウィルは袋を受け取ったものの、遥に目線で問うてくる。
「唯は、昨日叔父さんが助けた子だよ。こっちはクラスメイトの加奈」
唯と加奈を紹介すると、ウィルは一瞬驚愕に瞳を丸めていた。
「……若き聖乙女の血」
「何?」
ジャンヌ・ブラッド──確かにそう聞こえたような気がした。しかしウィルはそれには触れずに、前髪をさらりと避けて微笑む。
「ありがとう。ハルのお父さんは忙しい人で、日本には戻って来られないんだ。代わりに私が此処でハルが成長する姿を記録する役目」
「素敵ですね〜! 遥君って英国の血が混じっているから気品もあるし、内に秘めた魅力があって……」
興奮した唯が遥の容姿について語り始めたので、見かねた加奈が肘で小突いて止める。此処に来た目的は遥の話では無いのだ。
「えっと、実は私の姉……舞って言うんですけど、昨日のゾンビみたいな化け物についてちょっとお話を伺いたいそうで」
唯の言葉に驚いたのは遥の方だった。まさか昨日の半死人について聞きたいとは思っていなかったからだ。返答に困っているうちに、先にウィルの方が口を開く。
「化け物に興味があるなんて、素敵なお姉さんだね。……また此処に来るといい。歓迎するよ」
その言葉に唯は満面の笑みでウィルに近づき、その両手を握った。
「ありがとうございます! あっ、私馴れ馴れしいですね……ごめんなさい」
唯はウィルの碧眼に見つめられ、頰を赤らめていた。すると彼は彼女の手首をそっと掴み、甲にちゅっとキスを落とす。
ここは日本で、外国の挨拶するな……と思わず言いそうになるが、あまりにも美しい絵のようなその光景に、遥は唖然と見つめる事しか出来なかった。
「そちらのお嬢さんにも。──これはグレイス家に代々伝わる祝福を与える儀式なんです」
「は、はい……」
興奮醒めない唯を遥に託した後、突っ立っている加奈の前に跪き、手の甲に同じく口づけた。
お礼を言う事と、グールについてのアポを取る事が目的だった唯はふわふわした様子で帰りますと呟いた。
「大丈夫か? 唯、加奈……」
「すごく興奮しちゃった。あぁ、ウィリアムさんカッコいい……お姉ちゃんが居たら失神したかも」
「また明日ね、遥君」
興奮した唯の腕を掴み、加奈はぺこりとウィルに一礼する。庭の先まで見送った所で、遥は再びリビングに戻る。
「……大丈夫なの? 唯の姉ちゃんと会うって」
「あぁ。問題ない。それよりも、ハル。明日は彼女達と行動を共にして。ティムにも見張ってもらおう」
険しいウィルの表情に、昨日の新たな変死体事件。そして常人を襲うはぐれグールの存在──。
間違いなく何かが変わっていく。
何気ない日常の崩壊、友人達に忍び寄る魔の手……
遥の胸には言いようのない不安と恐怖が襲っていた。




