後藤さん
これは、僕の中で、ごくごく平凡で、特に印象もなかった「後藤さん」が、僕の中のヒーローになった話である。
その日の現場の雰囲気は、誰が、どう見てもピリピリとしていた。
僕らは通信回線の販売をする為に、マンションの集会室やエントランスを拝借し、そこでPR活動をする仕事を行っていた。
マンションでのPR活動は、事前に管理会社や、管理人さんと連絡を取り、日にちを決めて、住人さんに告知(ポスティングや、掲示板に告知など)を行う。
そこまでやってPR活動がやっと出来るのだ。
その現場も、いつもの手順をしっかりと行い、PR活動当日をむかえていた。
しかしその現場は、一つだけミスがあった!
管理会社、管理人さん、住民さんと告知はしていた。
だが、そのマンションは複数の棟に別れており、管理人さんも複数いた。
その内の数名の管理人さんまで連絡が届いておらず、しかもその知らなかった方の管理人さんが絶対的な権力者だったのだ!
普通、管理会社からOKが出ていれば問題なさそうなものだが、マンション運営において管理人さんは、しばしば絶対的な権力者になる。
事件は会議室で起こってるんじゃない。
現場で起こってんだ!
こういった気概の人が、マンションを守る為に、管理会社の決定を覆すのだ。
その日の管理人さんも、青島(織田裕二)のような気概を持った人だった。
「俺が知らん事は、勝手にやらせん!」
しかし、住民さんにも告知を打っている以上、なんとかPR活動はしなければならなかった。
僕はその時の現場の責任者を任されていて、なんとか管理人さんを説得しなければならなかった。
住民さんには決して迷惑をかけない事、すでに告知されていて楽しみに待っている住民さんもいることなど、とにかく思いつく限りの理由を述べて説得にあたった。
結局、開始時間を大幅に過ぎて、僕はやっとのことで、管理人さんの説得に成功した。
本来なら今頃、このマンションの隅々まで告知するにはどうしたらいいか、戦略を練っている時間だった。
しかし、大幅に開始時間をすぎた現場は、PR活動に必要な看板やテーブルの設置でバタバタになり、もはやそれどころではなかった。
ここで、僕の上司の鬼軍曹が、この報告を聞いて動いた。
鬼軍曹というのは、取引先の担当さんがつけたあだ名だ。
頭が切れて、パワフル、ミスをしようものなら鉄拳が飛んでくるのではないかという、迫力満載のその人は、怒るともちろん、とてつもなく怖かった。
そんな鬼軍曹が、現場のバタバタを聞きつけ飛んできたのだ。
責任者だった僕はビビリまくっていた。
鬼軍曹にいいわけは通じない。
もちろん実際に鉄拳は飛んでこないのだが、そんなこともありえるんじゃないかという恐怖があった。
現場についた鬼軍曹は、やはり戦略の定まっていなかった僕に、檄を飛ばした。
「ここは俺が仕切る!今すぐスタッフを全員集めろ!」
鬼軍曹の迫力は流石だった。
僕は急いでスタッフを集めに回った。
集められたスタッフは皆、緊張していた。
軍曹の迫力に気圧されていたのだ。
「お前ら、こいつが管理人さんと交渉している間なにしとったんや!
こんだけ大規模のマンションでなんの戦略も無しに成功すると思ってんのか!」
僕はみんなに申し訳なく思った。
僕さえしっかりしていれば、みんな怒られるはずはなかったのだから。
ちなみに、軍曹の名誉の為にいっておくが、その檄のおかげで、イベント自体は大成功だった。
流石!といったところである。
しかし、その時の僕らは軍曹の怒りにビビリまくって、空気はとても張り詰めていた。
そして全体に向けられていた怒りは、個人へと移っていった。
それまで自分には来ないだろうと思っていたスタッフの緊張は最高潮に達した。
その中に、後藤さんはいた。
いつもはぼんやりとしている後藤さんも、やはり極度に緊張していた。
「後藤!お前はこいつが交渉してる間なにしとったねん!」
「・・・すみません。なにもしていませんでした。」
後藤さん、ごめん。
軍曹の怒りは更に増す。
「そもそもこのマンションが何棟あんのかわかってんのか。」
良かった。
それくらいはわかるはずだ。
基本的な事は打ち合わせ済みだった。
このマンションは5つに別れている。
後藤さんもそれを知っているはずだ。
5。
あれ?
僕はその時妙な胸騒ぎがした。
しかしそれを考える前に、後藤さんはすかさず答えた。
「ごとう(五棟)です。」
現場が妙な空気になった。
普段であればちっとも面白くないこの発言は、最悪のこの雰囲気の中、最大限の効果を発揮した。
皆、笑ってはいけない、という雰囲気に耐えていた。
しかし僕は耐えられなかった!
これまでの緊張感が嘘のように、僕は大爆笑してしまった。
あの鬼軍曹でさえ、もはや堪え切れなくなっていた。
そんな中、後藤さんだけは一人、ポカンとした顔で僕らを眺めていた。
それから何度か、僕はこの話を「すべらない話」として披露するのだが、唯の一度も誰かを笑わせる事が出来ないでいる。
僕の話術が拙い証拠だ。
後藤さんがヒーローになったあの瞬間は、僕にとって間違いなくベスト3に入る爆笑だった。
僕は未だにこの話で爆笑が取れる日を願っている。