フタツキマエノ、メリークリスマス
向かいのテーブルに座る梨香が指先についたトマトソースをベロッっと舐めた。
彼女はその舌でついでに唇をぐるりと舐めまわす。左の口元に失敗した口紅みたいな跡が付く。僕は内心ちょっと笑ってしまったのだが、表情にはこれっぽっちも出さないでいたので、彼女はそのことに気付きもせずに目の前の皿の新しい一枚に手を伸ばした。
もちもちとした生地のマルゲリータ。この辺では珍しい、薪窯で焼いた香ばしい香り。
「そんなに美味しいか?」僕が訊ねると、「当たり前じゃない。この店があたしのお気に入りだって、知ってるでしょ?」と訝しげな顔で覗きこんでくる。「そうじゃない、口にソースが付いてるのも気付かずにモリモリ食べるくらい美味いか? って……わかってる、これ皮肉だぜ」わざわざ唇を指差しまでして言うのだが、彼女はたった今頬張ったばかりの口をもしゃもしゃさせて、眼ヂカラだけで抗議してきた。
普通に呼吸したつもりがため息になって、僕は自分でもちょっと驚いた。ナフキンをとって手を伸ばし梨香の口を拭ってやろうとするが、彼女はぷるぷる首を振って抵抗する。普通のため息を付いたつもりが、出てきたのはかなり深めの深刻な奴だった。彼女はまだもぐもぐと、口裂け女みたいな顔のままでしている。
中学生の頃描いてた『理想の彼女』は、もっとおとなしくって、可愛らしくって、ヒラヒラした服を着ている女の子だった。高校に入って初めて出来た彼女は確かに可愛らしくて、ヒラヒラの服を着ていたけど、おとなしくはなかった。次の彼女はヒラヒラもしてなかった。
以来、付き合う彼女は少しずつ僕の理想から離れていった。梨香はおとなしくも、ヒラヒラもしていない。まぁ、可愛くはあるけれど、それもなんとなく中性っぽい可愛さだ。
僕が理想から離れたのか、現実が僕に近づいたのかはよくわからない。そんなのはどっちだって大した問題じゃないんだろう。
終わったあとの気怠い雰囲気を楽しむのは、実はあんまり得意ではない。
というのも普段使わない筋肉を動員して、動いたり、持ち上げたり、転がしたりするわけだから、相手が人間じゃなけりゃ野良作業みたいなものだから。『お疲れ様でしたー、おやすみなさい』ってしたいのをなんとか堪えて、撫でてやったり、話したり、キスをしたりする。
もしちょっとでもサボると、僕は押し寄せてくる睡魔にやられてすぐグッタリしてしまう。そうなると雪山で遭難した時みたいに梨香がたたき起こしてくるし、三回もリピートすれば明日の朝は絶対に口を聞いてくれない。それは正直辛い。
彼女の話す話題はあんまり女の子っぽくなくて、「ナントカってブランドのバッグが」とか「誰それって有名人が熱愛発覚」みたいのは一切出てこない。「あそこの海でとれるイワシが旨い」とか「肉を煮込むときの新たなコツを発見」なんてのを、目をキラキラさせて喋るのだ。彼女は都内でイタリアンのコックをやっている。でも、このタイミングでする会話でもないだろうと、最初の大きな眠気の波と戦いながら僕は思う。
ちょっと体を捻って、そこにあった梨香の小さな肩にキスをした。
唇に伝わる彼女の体温が、頭の中をほんのちょっとだけ覚醒させる。
梨香はえんえんと喋っていた『フレッシュハーブの上手な保存法』の講釈を途中でやめて、僕の顔を覗いてきた。毛布の中から伸びてきた両手が僕の顔を引き寄せて、おでこのとこに『ちゅぅぅ』とする。小ぶりだけれど形のいい胸が目に入る。
いつからだろう?
『理想の彼女』の条件とは別に僕の中に発生した『彼女』に求める条件みたいなモノ。
それは理想の彼女の条件とは一つもかぶらない。おまけに相手によってちょっとずつ形を変える調子のいい条件でもあった。今は梨香の形になっていると思う。
梨香とはカラダの相性がいい。多分これも条件の一つ。
会話なんて実はほとんど合わないし、好きなテレビの番組も違うから、しょっちゅうチャンネルは争奪戦になる。生活のサイクルも違う。彼女は遅寝早起きだ。僕は六時間は寝ないと翌日は絶対にヤバい。なのでこうして一晩一緒にいると、翌日の事務仕事の効率はすこぶる低下する。ただ、それでも欲しいものって、誰しもあるだろう? 彼女の体に取り込まれると、僕の体は一度僕でなくなるのだ。なんていうか、背骨を新しいのに取り替えたくらいに自分の体が変わったような気がするのだ。
でも、それだけが条件ではない。
僕が『彼女』に求める条件――
「ああっ、ねぇ、今日って10月24日だよ」
「ん? そうだね」
「ちょっとぉ、すごいよー」
「なんで? 誰かの誕生日とかだった?」
「ううん、そんなんじゃなくって」
こんなことを言うヤツは僕の周りには他にいなくって、もしいたとしても『はぁ?』で済ましていると思う。だけど何故か梨香の口から出てくると、僕にとってその言葉は『世界で最初の大発見』みたいに聞こえてしまうのだ。お世辞でも皮肉でも冗談でもなく、彼女は僕の毎日にほんのちょっとだけスパイスを振りかけてくれる。100の現実に20のハッピーが付け足され、だれよりも大盛りの人生を送れる気がする。
僕が求める『彼女』の条件
それは僕の世界の色彩をより鮮やかにしてくれるコトなのかもしれない
毎日同じ速度で過ぎていくただの現実を、グッドニュースに変えてしまう特別なチカラ
梨香にはその魔力がある
「あと二ヶ月でクリスマス。楽しみだねー」
「……なんだよ、それ」
「えー、だってさぁ……」
これで二ヶ月分の幸せが、僕の明日からの毎日に付け足されたわけだ。