フィランソロピストの庭
※兄視点。
※グダグダ感がいつも以上に満載です
風の音に混じって、小さく健やかな寝息が聞こえる。
泣き疲れ、目元を赤く腫らした少女が、盛り上がった土の上で眠っていた。
「みーちゃん」
肩を揺すると、むずがるように身じろがれる。
「みーちゃん、どうしてそんなところで寝てるの。風邪ひいちゃうよ」
うっすらと開かれた目が、彷徨い、僕の姿を捉える。
ぼんやりと見つめ、それから涙を滲ませて、小さな口が嗚咽を漏らした。
「にぃに」
幼い頃から変わらない呼称が、なんだか酷く悲しげで、つられて泣きそうになった。
ごめんね。
心の内で何度も謝罪を繰り返す。
ごめんね、あるべきはずの当然の未来を奪ってしまって。
元の世界にいたら、可愛らしい制服を着て、恋の一つや二つ出来ただろうに。
「真っ黒だね。お風呂入って綺麗にしなきゃ」
努めて明るく言えば、今度こそ声をあげて泣かれてしまった。
宥めすかして抱きしめる。
ごめんね。
口をついて出てはこない謝罪を繰り返す。
この世界で生きなければならない君に、僕がせめて出来ることは真綿のように抱きしめることだけだった。
突然すり替えられた世界は、以前に比べればなんとも狭く、小さな物へと姿を変えた。
それに不満を抱いたことは一度としてなく、それ以上に、僕はこの世界を愛してやまなかった。
見たこともないものを当然のように知り、それらがどれだけ綺麗で醜いのかも全て僕の中にあって、そしてそれらを僕は無償で愛した。
僕の中で世界は完結していた。
ただ愛すべき世界として。
来るはずだった王の迎えも、来ようと来まいと僕には関係なかった。
閉ざされた場所で世界を嫌うことも、憎むこともなく、ただただ世界を愛でる。
世界に存在する全てを愛する神子は、いうなれば絶対的な博愛主義者だ。
それと引き換えに、世界に存在しうるすべてに特別な感情を抱くこともない。
この世界に来てからそんなふうに変わった僕の性質は、けれど、例外的に美衣への感情を変質させることはなかった。
ただ一人の肉親に対しての親愛は、今も変わることなく存在している。
それが、特別の範疇外だったのか、それとも美衣がこの世界の人間ではないためなのか、理由は知れない。
「みーちゃん」
泣き疲れて眠ってしまった美衣の頬は、痛々しほどに涙が乾いた痕を残していて、罪悪感が募った。
僕だけを捕えるための箱庭は、美衣までをも絡め取り、動けないように雁字搦めにして。
外の世界へと出してあげたくても、非力な美衣一人放りだすのは死へと投げ出すようなものだ。
緩やかに流れる穏やかな時を愛しみながら、心の壊れかけた妹を必死にこの世界に繋いだ。
「あそこに花壇作ろうか」
いっそ死んでしまったほうが、美衣にとっては楽だったかもしれないと知りながら。
少しずつ元の明るさを取り戻していく妹に、ほっとしながらもこの先の未来が不安だった。
このままではいずれ、また心を壊してしまう。
多彩な色がつき始めた庭を愛でながら、祈るように何かを待った。
妹を、美衣を、ここから連れ出してくれる何かを。
僕の祈りが届いたのか、ただの偶然か。
日課となった花探しから戻ってきた美衣に連れられて、現れたのはフェンリルだった。
美衣の首にすでにつけられている刻印に、ふつふつと腹の奥底で怒りに似た感情が湧きあがる。
「僕の妹にマーキングだなんて、何してくれてんだよ。この馬鹿犬」
フェンリルの刻印は伴侶の証だ。
そしてその証を持つ者は、フェンリルと同等の寿命を得る。
人間なぞより遥かに長く膨大な寿命を。
背負わなくていいはずの運命に、僕の胸にまた一つ罪悪感が募る。
「美衣、とてもいい匂いがしたから」
だというのに呑気なまでにそう言い放つフェンリルを見て、気が抜けてしまった。
いい匂い。
フェンリルがいうその匂いには、美衣がフェンリルを拒絶しなかったことが窺えた。
意識的にも本能的にも、どちらも拒絶しなかったからこそ、フェンリルは美衣から“いい匂い”を嗅ぎとったのだ。
だからと言って、当人に許可も得ずにマーキングはいただけない。
いただけないが…。
「ちょうどいい機会かもしれない。ねぇ、みーちゃん。外を見ておいで」
ここから出るには絶好のチャンスだ。
僕のせいでこの世界の全てを憎んでしまいそうな妹に、この世界がいかに綺麗なのかを見てほしかった。
そんな願いを感じ取ったのか、美衣は泣きながら、それでも頷いてくれて。
フェンリルに連れられて行ってしまう背中に、木々に紛れて見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
一人、残された神殿の中、庭を振り返る。
以前はなかった色とりどりの花が揺れている。
「みーちゃん」
一度も振り返らなかった妹を呼ぶ。
きっと、もう会うこともない。
何故なら、彼女がここに戻ってくることはあり得ないから。
迎えも来ないのだから、僕が外に出ることもなく、ならば会うこともないだろう。
「一人、か」
見渡す神殿はどこか広々として感じられる。
これが本来の姿で、だから、それ以上何かを思うことはなかった。
少しだけ瞼を閉じて、それから顔をあげ、何も変わることのない、あるべき日常へと足を踏み入れた。
庭は庭でも箱庭的な
フィランソロピストは慈善事業家ではなく博愛主義者で
ちなみにこの兄、自分が死んだことに気付いていません