下
これはなんていう喜劇だろう。
滑稽すぎて、もう笑うしかないじゃないか。
「あなたはだぁれ?」
返されない答えに同じ問いを繰り返す。
「ミィ…何を」
戸惑いの表情も笑いを煽る要素にしかならなくて、呑みこんだ笑みに肩が震えた。
その反動で涙がこめかみを伝う。
閉じた瞼の裏で大切な家族を思い浮かべた。
次いで思い浮かべたのは、唯一無二の存在。
リシタ。
リシタ、リシタリシタリシタリシタリシタ。
お願い助けて。
ここにはいない、綺麗な銀の獣に必死になって助けを求める。
苦しい。
目の前に晒されるだろう真実が、きっと私には痛い。
今でさえこんなに苦痛だというのに、そんなのきっと耐えられない。
「たすけて、りした」
呂律の回らない言葉は酷く幼く、掠れて聞こえた。
周囲が俄かに騒々しくなり、私にピタリと視線を合わせていたジンも顔をあげる。
「なっ…!?フェンリル!?」
驚きに顔を染めたジンを何かが吹き飛ばした。
「陛下!?」
アイリーンの悲鳴と、人の集まる気配。
一気に軽くなった体を起こしてジンを目で追えば、しっかりと受け身を取っていて、大事には至っていないようだった。
それにほっとしながら、影を落とす背後の存在へと顔を向ける。
「リシタ」
乞うように手を伸ばせば、銀狼は人へと姿を変えた。
銀髪の髪に金色の瞳をして、体を纏っていた毛皮は上質な服へと変わる。
造作のいい顔はひんやりとした印象を受けるけれど、その瞳がとても優しいことを私は知っていた。
「リシタ」
包むように抱きこまれて、心の底から安堵した。
少しだけ獣の匂いがするリシタの首筋に顔を埋めて泣く。
一頻りそうしてから、ジンたちを見れば血の気が引いた顔でこちらを見ていた。
リシタが恐いのだろうと結論付けて、ジンだけを視界に捉える。
先程、アイリーンが彼を「ヘイカ」と呼んでいた。
彼からではないが質問の答えを貰い、私はリシタの隣で毅然と立ち、ゆったりと神官の礼をとった。
「カユザク国王陛下、ジルラーン・アルチュセール・カユザク殿に問う」
外れない視線の先で、ジンが息を呑む。
「神子は必要か、否か」
どちらの答えを貰っても、私は声をあげて泣くだろう。
怒り、絶望、安堵、そのどれか、そのどれもかは知らないが。
肩に添えられたリシタの手が、緊張に冷えた体を温めてくれていた。
そろりと開かれた口に、ぎゅっと拳を握った。
「国としては欲しいのだろうな。神子が持つ力も魅力的だ。だが、俺はいらない」
神官たちからは非難の声が上がった。
私は、私はただ泣くのを堪えるのに必死だった。
「いら、ない…?」
「ああ。必要ない。俺にはもう、傍にいてくれる者がいるから」
「…そう」
なら、 はどこへ行けばいいの?
声に出しかけた問いは、咽喉に張り付いて言葉にならなかった。
リシタの腕に縋るように抱きつく。
リズムよく背中を叩く手を感じながら、波立つ感情を抑えた。
「こんにちは」
今日初めて聞いたリシタの声に顔をあげる。
「…ニィ、ニ?」
ふんわりと、まるでたんぽぽの綿毛みたいに漂う、透けた体の―――兄。
死んでしまった証みたいなその姿に、ひくりと咽喉を鳴らしながら、それでも泣かないようにと涙をいっぱいに溜めた瞳でその人を見つめる。
伸ばした手に、透けた手が重なってじんわりと温かい。
にっこりと笑うその人は、ゆっくりと唇を動かした。
聞こえてこない声に、言葉を追うように私は代わりに声に出した。
「さ・よ・う・な・ら?」
瞬間、大きな風が駆け抜ける。
巻き上げられた白い花弁が、雪のようにレッターニャに降り注いだ。
銀狼が森の中を駆けて行く。
森を抜け、見晴らしのいい場所まで来て、足を止めた。
「…うっわぁ」
銀狼の背から下りて、景色に見入った。
「すごいね、リシタ」
蒼い蒼い空よりも深い蒼が揺れる森の先にある野原が、王都を囲むように存在していた。
全て花の色だ。
「ニィニの色だ」
何より蒼を好んでいた兄の姿を思い浮かべ、少しの淋しさと一緒に懐かしさを覚えた。
あの時吹いた風は、王都全体を駆け抜け、全ての花の色を蒼色へと変えていった。
それが兄が残した置き土産のようで、切ない。
「美衣」
いつの間にか人の姿になっていたリシタに抱きしめられる。
「ね、ニィニはまだいるかな」
いつかした問いかけに、リシタは綺麗な微笑みを浮かべる。
その微笑みだけで、もう充分だった。
蒼く染められた花々は、一日を待たずに散っていき、幻蒼華と後に呼ばれるようになる。
ただ一つ。
王城の庭園のリシアーだけはその色を保ち続け、決して白に戻ることはなかった。
純白の乙女の庭と呼ばれた庭園は今、天涙の庭と呼ばれている。
…後1話