桜町プロジェクト
フードコーディネーターの照美が、日向大神宮で幼馴染と再会するところから始まります。京都の桜が弱っている。京都の人と人のつながりも、どこか希薄になっている。そんな話をしながら、久しぶりに懐かしい顔が集まっていきます。
三月の日向大神宮は、ひっそりとしていた。
照美はスマートフォンにメモを打ち込みながら、境内の石段をゆっくり上っていた。春の特集。京都の神社と食——フードコーディネーターとしての仕事と、ライターとしての仕事が、最近こうして交差することが多くなっていた。
日向大神宮は「京の伊勢」とも呼ばれる古社だ。住まいからすぐそこにある。近所に住んでいながら、ゆっくり歩くのは久しぶりだ。
境内の奥に進むと、桜の木が目に入った。
咲いていない。当然だ。まだ三月の初めだ。枝先もまだ硬く、どこか元気がない、老木なので仕方がないのかもしれない。
「照美?」
声がした。
振り返る。
男が立っていた。背が高く、上品に背筋ののびた、綺麗な目をした男だ。
照美は三秒、固まった。
「……藤原君じゃない!」
-----
二人で石段の上に並んで座った。
藤原君は矢印サイダーの役員をしているそうだ。勧修寺に住んでいる。最後に会ったのは——何年前だろう。
「なんでここに?」
「桜を見てた」
「桜、まだ咲いてないよ」
「わかってる」
藤原君は境内の桜の木をじっと見た。
「最近、京都の桜の花の寿命が随分短くなってるらしい。ニュースで聴いてな、気になって、桜の木の状態を見て回ってるんや」
「趣味で?」
「趣味で」
照美もつられて桜の木を見た。枝の先、つぼみの大きさ。
「なんか……弱ってる気がするよね」
「そうやろ。なんとかならないかなあ」
藤原君が少し身を乗り出した。「でも俺にできることなんてないし。照美、フードコーディネーターやろ、なんかわからへん?」
照美は少し考えた。桜と食——直接の接点は思い浮かばなかった。
「桜だけじゃない気もするんだよね京都」と照美は言った。「京都人どうしのコミュニティも崩れてきてる気がして。繋がりが希薄になってる。私達、京都人がもっと元気にならなきゃって」
深い意味はなかった。ただ、そう感じていた。
「なるほどなあ」
藤原君はゆっくりうなずいた。
「子供の頃、毎日一緒に遊んでたみんな、どうしてるかな」
しばらく、二人で黙った。三月の日差しが石段に当たって温かかった。
「缶蹴り、よくやったよね」
「私は観てただけでしょ」
照美がそう言うと、藤原君が笑った。「そうそう」
おもむろに、藤原君がリュックに手を入れた。缶をニ本取り出した。
矢印サイダーだった。
「懐かしい!」
「復刻版なんだ、昔のままの缶」
再会を祝って小さく乾杯、温かい午後にサイダーの泡が心地よい。
照美は飲み終えた空き缶を、大切にバッグに入れた。
-----
家に帰って、照美はパソコンを開いた。
桜、京都、イベント——いくつかのキーワードで検索した。
あるページで、指が止まった。
「第一回・伏見桃山城 大缶蹴り大会」
会場:伏見桃山城。主催・月海イベント企画。そして——桜まつりの関連イベント。月海って、月海渉の会社じゃない…
照美はもう一度読んだ。「桜町大神宮」という文字が目に入った。大会場所の近くに、この神社がある。多分昔、缶蹴りをした神社だ。照美は更にその神社を調べてみた。
創建は平安時代末期。桜をこよなく愛した公卿・藤原成範が建立した。成範は桜花の短命を惜しみ、落花を遅らせるよう天照大神に祈願した。神明はその願いを憐れみ、花の齢を三十七日延ばしたという——
照美は画面から目を上げて、問い合わせ先の電話番号に、電話をかけた。
-----
「はい、月海イベント企画です」
その声には、やっぱり聞き覚えがあった。
「……わたる?」
少し間があった。
「幼馴染の照美です。」
「照美か!」
笑い声が重なった。それだけで、十何年が縮まった。
「渉といえば——豊ちゃん、元気?」
「元気やで」
「三人で会えない?」
「どこで」
「桜町大神宮」
-----
桜町大神宮は、子供の頃と変わらなかった。
石畳の冷たさ。楠の大きな根。鳥居をくぐるときの、あの独特の空気の変わり方。
豊子は少し早く来ていた。夫である渉のイベント成功を願いに来たのだと言った。照美は手を合わせた。三人並んで、しばらく本殿の前に立った。
「桜、まだ蕾が固いね」と豊子が言った。境内の桜の枝が、風にかすかに揺れていた。
-----
三人で石段に腰を下ろす。
照美はイベントの話を聞きながら、渉の顔を見た。子供の頃より少し疲れた顔をしているが、話しているときの目は昔と変わらなかった。
「食べ物の店のコーディネート、やらせて」
「ほんとに?」渉の顔が明るくなった。
「豊ちゃん、一緒にやろうよ」
豊子が目を丸くした。
「私が?」
「豊ちゃんは子供の頃からお料理好きやったやん。私においしいおにぎりだのサンドイッチだのくれたよね。あれ、本当に美味しかった」
豊子が照れたように笑った。
「……やってみようかな」
「決まり」
照美は用意したメモを開いた。幼馴染たちの顔が浮かんだ。律子、藤原君、國男——あの頃のメンバーが次々と頭に出てきた。
「それにしても、みんな食べ物に携わってない?」
「ほんとだ…私みんな集める!」
「そうだ」と照美は言った。「勝のパンも売りたいね。利休あんぱん、知ってる?晴明神社の神水と上林春松本店の抹茶で作った——」
渉が黙った。
照美は気づいた。豊子も気づいていた。
「……別にええんちゃう、他にも出店者おるし」
「何があったの」
「何もない」
「話して」
照美が踏み込んだ。
渉は少しの間、楠の幹を見ていた。それから、ゆっくりと話し始めた。
-----
話し始めると、止まらなかった。
勝は上級生で体力もあったので、何をやってもかなわなかった。ある日を境に、何かが自分の中で変わった。うまく言えないが、走ることが怖くなくなって、それからいろんなことが変わった。
「ある日、僕が勝を捕まえて、勝がオニになったんだ。勝は僕を捕まえられなかった。」
それ以来、勝は缶蹴りをしなくなった。上級生達と一緒にいて、神社には来なくなった。ちょうどその頃、勝の父親が店を伏見から上京区に移した。聚楽第の近くに。それで二人の距離が自然に開いた。それだけのことのはずだった。
「何が原因かは、自分でもよくわからへん」
渉はそこで止まった。
照美と豊子は何も言わなかった。境内に風が吹いた。楠の枝か揺れた。
-----
翌日、照美と豊子は渉には内緒でブーランジェリー聚楽に行った。
勝は渋った。
照美が説得した。豊子も頼んだ。
勝は首を縦には振らない。
女二人で店を出た。豊子は帰り際、ショーウィンドウの利休あんぱんを三つトレーに乗せた。
「お金はいらないよ」
-----
その夜、豊子が利休あんぱんをテーブルに出した。
渉が何も知らずに口に入れた。
しばらく、黙っていた。
「……なんやこれ」
豊子は何も言わずに見ていた。
「こんなん食べたことない。なんやこれ、すごいな。美味い!もっと味わおうとすると、すーっと消えてしまう。どこで買ったん?」
「勝くんのパン」
渉の手が止まった。
テーブルの上に、食べかけの利休あんぱんがあった。渉はそれをしばらく見ていた。
-----
イベントまで時間がない。照美と豊子は動いた。
律子に電話した。「六甲からソフトクリーム持ってく」と即答だった。
藤原君に連絡した。矢印サイダーの缶と飲み物を提供してくれることになった。
島根の國男にも声をかけた。餅入りぜんざいを作ってくれるという。猿田くんのコーヒーショップにも話を通した。
出店者が揃っていった。勝だけを除いて。
-----
律子が京都に下見に来た日の夜、渉に電話してきた。
「りっちゃん、何時やと思ってんの」
「ちょっと聞いて」
律子の声は静かだった。迷いがない、昔からそうだ。
「勝ってさ、昔から乱暴な素振りしてたけど、いつも下級生のわたるのこと気にしてたよ。ほんとはもっと遠くまで蹴れたし、わたるが缶を見つけるまでじっと見てた。わたるの走りが早くなってからは、わざと負けてたんだよ」
渉は黙っていた。
「わたるも、ほんとは憧れてたんでしょ」
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
「……イベント、よろしくね、うちのソフトクリーム、美味しいんだよ。
…疲れたんで、おやすみ」
律子が電話を切った。
-----
翌日、渉は思いきって勝に電話した。
「パン、食べた」
勝は何も言わなかった。
「めちゃくちゃ美味かった。——イベント、来てくれへんか。秀吉と利休を仲直りさせたいんや、あの勝のあんぱんを伏見城で売りたい。お願いします」
間があった。
「……利休あんぱんしか持ってかへんよ。いろいろなパンは持ってかない。利休あんぱんだけや、それでもいいなら」
「もちろん。利休あんぱんだけでいい」
-----
大会前日の夕方、イベントの準備をあらかた終えた幼馴染たちが、桜町大神宮に集まってきた。
昔もそうだったように、誰かが声をかけたわけではない。当たり前のように集まった。
渉と豊子が先に来ていた。照美と律子、藤原君、それから島根から來た國男と伊勢の猿田くん。準備を終えた者から、自然に神社に足が向いた。最後に、勝がやって来た。
全員で本殿の前に並んだ。しばらく、誰も喋らなかった。みんなで手を合わせた。
参拝を終えて、それぞれが境内を懐かしく見回していた。國男がおもむろに言った。
「そういえば、勝があんまり乱暴なことばかりするから、照美が拗ねてあの倉庫に入って出てこなかったことあったよなあ」
「そうそう」と猿田くんが言った。「あの時は大変だったよな」
みんなの視線が照美に向いた。
「……えへへ」
照美が笑った。境内に笑い声が広がった。
-----
照美がバックに手を入れた。
満面にいたずらっぽい笑顔をうかべながら、矢印サイダーの空き缶を取り出した。復刻版の缶だ。
みんなが顔を見合わせる。
勝が思い切り蹴った——缶は高く舞い上がり、神社の隅の茂みの中へ消えた。
オニは渉だ。
渉は茂みの中へ入っていった。枝をかき分け、足元の枯れ葉を踏んで少し進むと、銀色の缶が落ちているのが見えた。
手を伸ばして、缶を拾い上げた、
そしてゆっくりと振り返る。
みんながいた。笑っていた。
渉も笑った。缶をみんなに見せるように持ち上げた。
それを合図に、皆が一斉に逃げ出した。
満開になった。温かい風が枝を揺らす。桜の花はひらひらと舞い揺れた。
鳥居の影が長く伸びた。伏見城が夕日を浴びて黄金に輝いた。
-----
終わり
-----




