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侍女リズ視点後編


 その日の出来事は、私にとって少なからず衝撃的だった。――もし「辞めさせろ」と言われても、庇ってもらえる存在になりたい。そんなことを、ふと思うようになったのだ。

 エドガーはひどく真っ直ぐで、正直、うらやましい。きっとお嬢様も、そういうところを気に入っていらっしゃるのだろう。

 お嬢様が婚約破棄されたときも、そうだった。

 侯爵様は、私たち二人だけを呼び出して言った。


 『エドガー、リズ。娘をしばらく国外に出す。ついていくか?』

 『お任せください!』


 ――早い。早いわよ、エドガー。熱量がすごいのよ。


 侯爵様は相変わらず彼を警戒していた。今度は、お嬢様の右腕のような存在になっているのが、お気に召さないのだろう。ちなみに私は、右腕ではなく利き足を目標にしている。

 侯爵様の視線を受け、私は静かに答えた。


 『お任せください』

 『信頼している。二人とも、頼んだ』


 正直、胸にじんときた。必ずお嬢様をお守りする――そう決意し、胸が熱くなる。


 そのとき、隣から妙な音が聞こえた。


 ゔぐっ……ずびっ……ぐっ……ぅ……


 ……ええ、エドガー。さすがですね。私の涙なんて、一瞬で引っ込みました。ありがとうございます。


 侯爵様は即座に退出を促された。当然です。いろいろと音がしていましたし。

 廊下に出ると、私は無言でエドガーにハンカチを差し出した。

 顔に押し当てたまま、彼が言う。


 『あり……うう……よ、よぐっ……汚れ……ずびっ』

 『差し上げるわ』


 ……返されても困るのだけれど。ハンカチ一枚では到底足りないでしょう?それに、あなたに支給されている服は、とても高価なのよ。

 仕方なく、私は彼を使用人の休憩所まで連れていき、落ち着くのを待つことにした。……どうして私が手を引いて歩かなければならないのかしら。

 

 しばらくして、ようやくエドガーは落ち着いた。


 『あ、ありがとう』

 『私たちの仲でしょう?』

 『あ、ああ……恥ずかしいな』


 そうね。同僚に見せるには、なかなかの顔だったけれど――


 あなた、それを仕える主人の前でもやっていたのよ。そう思えば、大したことはない。


 『一緒に頑張りましょう』

 『ああ!』




 お嬢様が公の場で恥をかかされたと知ったとき、私はふと思ってしまった。――身分制度なんて、なければいいのに、と。……不敬だとは、分かっているけれど。


 けれど、お嬢様は前を向いていらした。むしろ、その状況さえ楽しんでいるように見えた。

 休暇と言わず、いっそ庶民として生きてもよいのでは?そう思ってしまうほどに。

 その後、庶民の暮らしも少しは味わった方がよいのではないかと、エドガーと相談し、最初の宿を決めた。


 ――これが、大失態だった。

お嬢様にとって「少し大きめの宿」は、「寝る場所しかない狭い宿」だったのだ。

 しかも、私にとっての食事は、かつて前菜扱いだったという。もっとも、味付けは侯爵様推薦の料理人が担当していたため、昔とはまったく別物ではあったけれど。

 そのあたりで、私は何かが違うと感じた。

 あれ?湯浴みは……もし私たちがいなかったら、どうなさっていたのだろう。

 そういうことを、考えなかったのだろうか。

 疑問はあった。けれど、パン屋の一件で気づいた。

 ――ああ、余計なお節介だったのだと。

 なるほど。親の権力と財力は、使うためにあるのですね。


 さすがです、お嬢様。


 昔からそうでした。

 当時、第四王子に特別悪い評判はなかった。ただ、家の都合で決められた婚約に、私は勝手に同情していたのだ。

 はっきりと批判することはできない。それでも、お嬢様を慰めたいと思った。


 『お嬢様、政略結婚について、どうお考えですか?』


 たまたま二人きりだった。エドガーは普段いつもそばにいるため、こういう質問はなかなかできない。曖昧な言い方ではあったが、お嬢様は聡明な方だ。私の意図は、きちんと伝わっていた。


 『そうね。側室の子だもの。お父さまとお母さまが、いつまで表と裏の両方に出ていられるかしら』

 『……?』

 『裏だけでも構わないけれど、両方に関われた方が、ずっと快適よ』


 当時の私は、その言葉の意味をまったく理解できなかった。第四王子との政略結婚の話のはずなのに、なぜ公爵夫妻の話になるのか。――そもそも、側室の子であることが、どうしてその結論に繋がるのか。

 そして何より、表と裏とは何を指しているのか。

 疑問ばかりが、頭の中で渦を巻いていた。

 けれど、きっと深いお考えがあるのだろう。そう思うことにした。

 それに、お嬢様はまだお若かった。結婚というものの意味が、曖昧なのかもしれないとも思った。


 ――今思えば、恥ずかしい。私は主人を、どこかで侮っていたのだ。間違っていました。勝手な想像で決めつけてしまい、申し訳ありませんでした。


 お嬢様。あなたの結婚に必要なのは、権力と財力なのですね。きっと侯爵様が、ふさわしいお相手をご用意なさるでしょう。それでも、今度こそ。


 お嬢様が心から納得できる方と、幸せになってください。

 ……難しいことかもしれませんが。今はここで、どうかゆっくり休暇をお楽しみください。微力ながら、私もお力添えいたします。


 「リズ」

 振り返ると、お嬢様がいらした。

 「はい?」

 「あなた、何か考えていたでしょう。顔に出ているわよ」

 くすり、とお嬢様は笑う。

 「でも安心なさい」

 窓の外へ視線を向けながら、お嬢様は言った。

 「次は、私が決めるから」

 ――どれのことか、あえて尋ねはしない。お嬢様は、何でもおできになる方だ。必要であれば、必ずお声がけくださる。

 その自信に満ちた微笑みに、私の心は明るくなった。





お読みくださりありがとうございます。

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