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下準備の必要性

 掃除を始めた途端、リズに追い払われたわたしは応接室にいた。仕方なく椅子に腰掛けながら、ひとつの計画について考える。


 あのパン屋を買い上げるべきかしら。

 けれど店は平民の財産だ。強引に手に入れれば遺恨を残す可能性がある。それに、店主の精神状態によって味に差が出るかもしれない。慎重に進めるならーー今はお忍びだし、雇われる方が良いわよね。


 「エドガー、パン屋に行くわ。用意してちょうだい」

 「かしこまりました」


 苺コッペパンが待っている。

 まだ解放感で気持ちが落ち着かない。冷静になるまでは大人しくしておくつもりだ。だから今日は偵察だけ。良い関係を築くための第一歩。

 わたしは幸せな気分でパン屋へ向かった。暑い日差しの中、なぜか道には涼しい風が吹いている。颯爽と歩いていると、すれ違う人々は皆忙しそうだった。

 しかし不思議なことに、わたしの前では自然と道が開く。身分差がないはずの街で、まるで下位貴族でも歩いているかのようだ。この街の人々は譲り合いの精神に富んでいるのか、それとも新しい住人を歓迎しているのか……。どちらにしても、優しいことに変わりはない。やがて目的の店に到着した。


カランカラン


 「いらっしゃいませ」


 昨日の店主が笑顔で迎えてくれる。店内に入った瞬間、焼きたての香りが一層強くなった。昨日の感動を思い出し、思わず胸が高鳴る。


 いけない、落ち着きなさい。今日は冷静に交渉するのよ。

そう自分に言い聞かせて、わたしは口を開いた。


 「こちらで働くことは可能かしら?」


 店主は、ぱちくりと目を瞬かせた。戸惑う店主を見て、わたし自身も混乱する。


 ……違う。当たり前よ。もっと時間をかけて信頼を築かなければ、雇うほどの信用は得られないわ。落ち着くの。冷静に。進撃に——違う、真剣に。


 「え?」

 「ここで働けば、苺コッペパンを購入する手間が省けると思ったのよ」


 そうじゃないの。どう言えば伝わるのか考える時間もない。

 店主の腕に感動したと褒めるべきか考えていると、店主は困ったように笑った。

 ああ。これは——。

 断る時の顔だ。身分の高い人間が頓珍漢なことを言い出した時、角を立てないよう丁寧に断るための、あの決意の顔。


 「ごめんね。今は人を雇う予定がないんだ」

 「そう、残念ね」


 すぐに頷いた。

 良かった。わたしだから断られたわけではないのね。

 店主の邪気のない目を見て、変な含みがないことにほっとする。


 「失礼するわ」


 一礼し、店を出た。

 

 少し浮かれていたわね。下準備もせずに交渉するなんて失態だ。……でも、まだ挽回はできる範囲よね。店主の人柄も良さそうだし——。あの店は、やはり手に入れたい。


 「エドガー」

 「お調べいたします」


 さすが話が早い。今度はきちんと準備しなくては。

 浮かれていた心はすっかり落ち着いていた。宿までの帰り道は、行きよりも少し長く感じた。


 「あ」


部屋に戻って、気づく。苺コッペパンを買っていない。肩を落として椅子に腰掛けた。


 「お嬢様。こちらを」


 リズが差し出したのは、苺コッペパンだった。しっかり買ってくれていたらしい。労いも兼ねて、お茶を一緒に飲むよう指示する。


 「……次は、どうすればよいのかしら」

 「お嬢様なら問題ありません。いつも通りであれば、うまくいきますよ」


 思わず皮肉を言いそうになった。婚約破棄されたのに?あれは、上手くいったとは言えないわ。想定外の行動を取った王子の顔を思い出す。当時、彼は突然わたしを露骨に避け始めた。けれどどうでもよかった。婚約一年目で見限っていたから、放置していただけだ。それにしても——。まさか、あそこまで酷いお人形になっていたとは。見た目だけでいいでしょうに。知性はどこに落としてきたのかしら。聞けないことが、少し残念だ。

 わたしは王子の中身の在処を考えながら、机の上の手引書へ視線を落とした。


 《銀貨は宿に置かず持ち歩きます。重要です》


 ……残念ながら、この本にも載っていない。




 パン屋の調査を頼んだ次の日の夜、エドガーが報告に来た。

 仕事が早い。主人として誇らしい限りだ。


 「お嬢様、お時間よろしいでしょうか。簡単ではございますが、調査結果をご報告いたします」

 「ええ、聞かせて」

 「パン屋の店主の家族構成は三人家族でした。一人息子がおりましたが、五年前に出奔しております。奥方と二人で店を営んでいたようですが……三年ほど前に奥方とは死別されています」


 エドガーは淡々と報告を続ける。


 「現在は再婚や恋人などの話もなく、手伝いも雇っていません。店は完全に一人で回している状態です」


 ——あら?それなら、なおさら人手が必要なのではないかしら。

 昨日のわたしの申し出を断る理由が分からない。わたしの疑問を察したのか、エドガーはすぐに言葉を続けた。


 「元々、立地の関係か常連客が多くありません。そのため一人でも問題なく営業できているようです」


 なるほど。


 「……それに生活費の面では、奥方の薬代がなくなったため、以前より楽になっているようです」

 「常連客が少ないから人手が要らないのね」


 それなら話は簡単だ。買いに来る人が増えればいい。わたしは机の上の便箋を手に取った。とりあえず父にお願いの手紙をしたため——


 「お嬢様、問題がございます」

 「何かしら?」


 人手は徐々に増やせばいいのよ。最初はわたし一人でも、繁盛すれば自然と雇えるでしょうし。しかしエドガーは、珍しく真剣な表情をしていた。


 「店内が非常に狭く、店主と二人きりになってしまいます」

 

 ……それの何が問題なのかしら。


 「容認できません」


 きっぱり言われた。


 「扉は開けておけば良いでしょう」

 「外聞がございます」


 エドガーは少し声を強めた。


 「街の人々は夫婦だと思います」

 「……なるほど」


 確かにそれは困る。


 「では、新しい奥方も必要ね」

 「え?」


 友好国とはいえ、余計な噂を立てられるのは好ましくない。父の足を引っ張るような材料は、わざわざ与える必要もない。わたしがそう結論づけると、エドガーはぱちぱちと瞬きをした。 


 珍しい。侯爵邸ではあまり見ない反応だ。疲れているのかしら。


 失態を犯す前に注意すべきか迷っていると、エドガーは小さく咳払いをして頭を下げた。


 「……申し訳ございません。お嬢様のおっしゃる通りでございます」

 「そうでしょう?」

 「ただし、三人になりますと店は手狭です。改装が必要かと存じます」

 「それもそうね」


 あの店はとても小ぢんまりしている。可愛らしく、趣もある。けれど実用性という意味では少々難があるのも事実だ。働かせていただく以上、出資くらいは必要よね。


 わたしはペンを取り、父への手紙を書き直した。改装費用。設備の整備。人員追加の可能性。

 きちんと理由を添えてお願いしておく。——これで問題ないわ。ふふ。思わず口元が緩む。これで、あの店で働ける。……苺コッペパンのためにも。



お読みくださりありがとうございます。

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