甘味を知らない令嬢、苺を食べる
揺れる馬車の中、同乗していたリズに話しかけた。
「帰る御車達の護衛は足りている?」
「大丈夫ですよ。国境付近でしばらく滞在してから帰るそうで、新たに護衛を雇うと聞いています」
返答に胸を撫で下ろした。それから、停車した新しい馬車を降りた。御車は臨時で護衛が請け負ってくれた。
今の格好は、母が用意した麻の軽いワンピースに、丈夫な革袋を携えた庶民の出立ちだ。つい一週間ほど前まで侯爵家の令嬢だったなんて、誰が信じるだろうか。過去を示す装飾品はすべて家に残してきた。手元にあるのは侯爵家で学んだ教養と銀貨と――忠義ある者たちだけ。
あ、手引書もあったわ。
視界に入る隣国の街は、大した変化を感じなかった。しかし、帝国では気づかなかった音と匂いと、むき出しの熱気に満ちていた。石畳を行き交う人々の声、呼び込みの叫び、遠くで鋳鉄が鳴る音――埃っぽい路地の隅で、わたしはしばらくその喧騒に身を浸していた。
その様子を見守っていた慣れ親しんだ使用人たちを眺めた。今後はしばらくの間、離れることになると思っていた。しかし、着いてきてくれるようだ。今後の情勢では帝国にすぐ帰れる訳ではない。それでも共に来ると決めてくれた者たちだ。
主君として当然彼らの面倒を見るべきだ。しかし――父から渡された銀貨が革袋の中で手のひらにずっしりと沈むのを確かめる。忠義ある者たちを飢えさせるわけにはいかない。稼ぐ手段が見つかるまで保つかどうか怪しい。わたしは庶民の生活では、銀貨はどれくらいの価値があるのかすら知らないのだ。
それでも、なぜ金貨ではなく銀貨なのかは、この町に着くまでの旅で理解できた。それは――平民は金貨を使用しないのだ。つまり、金貨では買い物出来ない可能性が高い。金貨より価値は低い。けれど、この町で生きるには銀貨が必要だった。
「……お父様」
いつも不器用で、実利を重んじる父の顔が浮かぶ。銀貨の一枚を取り出したとき、空腹がこれまでにないほど激しく腹の底を突いた。鼻先をくすぐる香りがある。香ばしく、小麦の焦げる匂い――そしてどこか官能的で、暴力的にまで甘い匂いだ。
「……?」
誘われるままに足が進んだ。出処は素朴なパン屋だった。窓越しに見えるのは、白くふわりと盛られた生クリームがあふれんばかりに詰まった細長いパン。その上には、宝石のように真っ赤な苺が並んでいる。
――苺。
胸の奥がわずかにざわついた。そして、邸に自生する野いちごを思い出した。
「……エドガー、ここに入るわ」
カラン、カラン
エドガーが開けた扉の向こうは、さらに甘い香りに満ちていた。わたしは浮き足立つ気分で店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ!」
元気な声に、一瞬だけたじろぐ。こうして正面から歯を見せて笑いかけられるのは、初めての経験だった。
「……コッペパンを、一つ」
いつも通りに甘味を避けて注文した。店主が振り返り、パンを取ろうとする瞬間に気づいた。……違う、見ていたのはそれではない。唇はわずかに動いたが、言葉にならなかった。
その時、脳裏に声が蘇えった。
『ロッテ、我が家の家訓を忘れないように。不浄な甘味は毒。決して、決して口にしてはいけない』
それは婚約が決まって、初めて婚約者と2人でお茶会をした後だった。幼い頃のわたしに、厳しい顔で両親が言い聞かした。
完璧な令嬢でなければならなかった。だから、味を知りたい欲求を抱くことさえ自分に禁じてきた。
混乱のなか、わたしは無意識に手引書を開いていた。
《大丈夫、もう食べても平気です。それに、苺は祝いの果実です。縁起がいい食べ物ですよ》
「っ……」
もう一度ショーケースを見る。
「その、苺の挟まったものを、ください」
声は少しだけ小さくなったが、伝わった。店主はにっこり笑い、紙に包んで差し出す。
「苺コッペパンだね。はいよ」
受け取ったそれは、驚くほど軽くて温かい。潰さないように両手で持った。そして、外に出てテラス席に座り、包みを開いた。けれど、食べようとしたとき鼓動が聴こえるほど高鳴って緊張した。手も湿って包みが動くほどだった。
現れたパンは端まで苺とクリームが乗っていた。
それを見ながら、一口かじった。
――っ
雲のように軽い生クリームが舌の上で溶け、追いかけるように苺の甘酸っぱさが弾ける。
――甘い。
野いちごとは、まるで違う。硬くも酸っぱくもない。
――っ――っ
あまりの衝撃に喉が震え、胸の奥に熱いものが広がる。そして、視界がにじんだ。
「……?」
自分の頬に触れてみると、濡れている。それは次々溢れて、ハンカチで目元を抑えていたときだった。
胸の奥で何かがほどけたのを感じた。
――毒ではない。これは、救いだった。
凍りついていた何かが音を立てて溶けていく。
「美味しいですわ……」
言葉にした瞬間、胸の奥がさらにきしむ。鼻の頭についた白い生クリームに気づき、慌てて拭こうとするがうまく取れない。リズに声をかけようとしたとき、いつの間にか、手引書が開いていた。風は吹いていないのに、ページだけがゆっくりとめくられる。
《補足:苺コッペパンは、鼻にクリームをつけて食べるのが正式な作法です》
「……礼儀、なのですね」
通りすがりの子供がにこりと笑った。どうやらその礼儀は守れているらしい。わたしはそのままにして、もう一口かじろうとして、ふと止める。苺コッペパンを紙に包み直し、胸に抱き寄せた。
――これは、取っておきたい。
今すぐなくしてしまうのが惜しかった。……なんだかお腹も満ち足りている。
わたしは鉄人形だと言われた。けれど、そんなことはなかった。だって、甘味一つでこれほど感動できるのだ。しばらくして深く息をつくと、涙はいつの間にか止まり、感情は静かに落ち着いていた。
もう、酸っぱい野いちごだけで生きる必要はない。
わたしは舌に残る甘さを、そっと確かめた。
お読みくださり、ありがとうございます。




