異変も解禁
馬車は木々に覆われた森林の中を、軽やかに駆けていた。隣国へ向かう旅路は、拍子抜けするほど順調である。 少し蒸し暑い日中、小窓を開ければ柔らかな風が頬を撫でた。
今日も良い天気ね。……退屈なくらいに。
国境へ向かう旅にしては、あまりに問題がなさすぎる――そう疑問を抱いたのは、盗賊に襲われることもなく五日目の朝を迎えた時だった。わたしは相変わらず馬車の中で朝食を取っていた。
「治安が、良いわね」
「はい。不思議なくらいです」
待機していたリズの声は、いつもよりわずかに低い。国境付近では山賊の出没も珍しくない。この地帯を抜けるなら、庶民であっても護衛を雇うのが常識だ。
私たちは質素な馬車に乗り、大人数で移動する一団。目立つ富もなければ、襲う価値もない――そう思われているのだろうか。
……それにしても、静かすぎる。この領土の辺境伯は取り立てて優秀だとは聞いた覚えがないけれど、盗賊の取り締まりだけは厳しいのかしら?
父は優れた領主ではあるが、町外れには近づくなと常々言い聞かせていた。ここまで何事もないのは、かえって不自然だった。
暇を持て余しながら、どうでもよい思考を巡らせる。馬車では酔ってしまい、刺繍も手紙も手につかない。早く目的地へ着いてほしいと、ただそれだけを願った。
5日目の夕方
馬車は、国境にほど近い宿泊先で停止した。いつもは夜まで走るのだが、今日はまだ日が完全には沈んでいなかった。
「お嬢様ここから先の宿泊先は、共和国となります。ですので、本日で帝国は最後となります」
「分かったわ」
明日から帝国を出る――改めて意識すると胸の奥がひやりとする。 わたしは生涯、自国を離れることなどないと思っていた。幼い頃に決まった婚約。相手は外交任務を与えられない帝国の第四王子。だからこそ、出国という発想さえ浮かばなかったのだ。
幼き日から、婚約に対しての言葉に出来ない心情がモヤモヤと湧き出るのは、未だにやまなかった。父の決定に不満はない。それでも、納得はしていなかったのかもしれない。
この思いを打ち明けられる相手は現在もいない。王族が絡む話題など、誰にも打ち明けられなかった。
ふと、母が言っていた言葉を思い出した。『困ったら、これを読みなさい』と半信半疑でそっと手引書を開く。
ふふ、いくらなんでも無理でしょうに。
《納得しても後悔することはあります》
っっ……?
疲れているのね、いくらなんでも都合が良すぎるわ。
目の錯覚だと心を宥めつつ、一度深く呼吸してから、次のページを捲った。
《アドバイスとしては、これから得る物と、まだ手元にある物を大事にすることです》
……え?
この手引書どうなってるのかしら?母に限って変なものを渡すはずはないと思うのだけれど……勝手に見たいページが開かれるの?
わたしはアドバイスの内容などそっちのけで意味もなくパラパラ捲ったり、振ったり、表紙を眺めたりしてみたが特に変わった部分は見つけられなかった。
「お嬢様? いかがなさいましたか?」
部屋で待機していたリズが怪訝に小声になって尋ねてきた。そこでわたしはようやく我に返って奇行を反省した。
「なんでもないわ」
正直無理があるが、主人の言葉を疑ったりしないリズは素直に信じていた。とりあえず、いつの間にかモヤモヤは気にならなくなったので手引書への疑問は頭から振り払った。
その日の夜にエドガーが突然言ってきた。
「お嬢様、屋台をご存知でしょうか?本日は護衛もおりますし、少しだけ見物に行かれるのはいかがでしょうか?」
リズは「歩きやすい靴だから安心ですね」と笑顔でニコニコしていた。護衛や他の者達も賛成なようで誰もが微笑んでいる。いつもはこの様に突発的な発言はしない。格式を気にして町に徒歩で出る提案もされたことがなかった。そんな彼らが何を考えてるのか疑問に思う。わたしは不審感は残ったが、護衛の人数と顔を確認した後に了承した。
「そうね、よろしくてよ」
祭りの付き添いの護衛は四人ね。よく見知った者ですし、不測の事態でも実力と忠誠心は共に問題ないでしょう。……初めてだわ、祭りとはどのようなものかしら?
市場に行くと、とても賑やかだった。聴いたことのない音色が鳴り響く。地面や建物に光源があり、道がぼんやりと照らされていた。
「あら?子供も居るわね?」
「本日はお祭りですから、特別に外出させているのではないでしょうか?精霊祭だそうです」
屋台も種類があるし楽しめそうね。提案したエドガーと数人の使用人達は宿に残ったので、お土産として何か買ってあげましょう。
小一時間ほど見て回ってそろそろ帰宅しようとした時だった。端の方の屋台で売られていたキラキラ光る石が気になった。
「これは?」
「初めてみますね。店主これはなんです?」
「ひっひゃい。精霊が祝福していると言われるこの地方の石で、こ、子供達が磨きました」
よく見ると店主以外は背丈が小さい子供達や、顔つきが幼い者ばかりだった。
「孤児たちですね、お嬢様いかがいたしますか?」
「そうね、わたしはこれにするわ。残りは好きにしなさい。余った物は屋敷に送りましょう」
「……かしこまりました」
わたしは気に入った石を十個ほど選んで、支払いをリズに任せた。
屋台を見回り満足して帰宅すると、いつもと違う表情のエドガーが出迎えた。わたしは部屋に向かいながら思った。
......隠し事に向いてないのよね。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます!」
部屋へ戻ると、扉が開いた瞬間に拍手が響いた。忘れていたわ、十六歳になったのですねと他人事のように思った。毎年誕生日会を開いていたけれど、今年はパーティーも開けそうにないので祝ってもらえると思っていなかった。
宿に残った使用人達で準備したのだろう。内装に手が加えられ花々の匂いが部屋中を満たしていた。生花によって、とても華やかな印象に変化していた。
祭りへの提案はわたしを連れ出すための口実だったのだろう。いつもなら夜の街への外出は眉をひそめていたから――彼らは万一があるといけないと、夜は庭先でさえ渋るのに可笑しいと思った。きっと苦渋の決断に違いない。
わたしは、使用人達が用意してくれたプレゼントを前に、あれこれ思いながら胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
......パーティーでなくてもお祝いは出来るのね。
「これは匂い袋? まあ、わたしの絵もありますわ上手いわね。こちらは自分で編んだの?素晴らしい特技ね」
「実家が花屋です」
「絵が趣味でして」
「手縫いが得意なんです」
使用人達の特技が次々に明かされていく……新たな彼らの一面に驚いていると、今度は護衛が半数前に出てきた。
「では、僭越ながら我々は打ち合いを披露したく存じます。」
護衛達は迫力ある、素晴らしい剣の迫り合いを見せてくれた。終わったら、思わず立ち上がって拍手しながら褒めた。
「素晴らしいわ」
「いえ、剣舞などに比べますと華やかさに欠けてまして……」
「護衛なのだから華やかさは求めていないわ」
「は、はい。……ありがとうございます」
わたしは護衛たちが謙遜していたので、自信を持たせるために励ました。
すべてを終え、良い気分でベッドに横たわった。胸の奥は、穏やかな温もりで満ちていた。
プレゼントのお礼は何が良いかしら。やはり両親への一筆かしら?今のわたしでは何かを直接、用意するのは難しいものね。
あれこれ考えたせいだろうか、眠気が来なかったため、ベッドで手引書を開いた。
《成人した翌日からは甘いものを食べても問題ありません》
っっ!ふーん、明日になったら良いのね。なんだかドキドキしてさらに目が覚めてしまったわ。
翌日
馬車を降りると空気が変わる、帝国とは違う異国の匂いが漂う。御者はここまでだと言った。
「お嬢様の独り立ちとなり、これより先は目的地までお運びすることは叶いません」
「……ええ、今までご苦労様」
帽子を外し深く頭を下げるのを見ながら、わたしは声に出して御者を労った。それは、長く送迎してもらいながら初めてのことだった。
御者は深くもう一度一礼し、馬車を帝国へ引き返していく。その背中を見送りながら、変化した今を噛み締める。
新しい国。新しい暮らし。
その先で、 白く柔らかなパンと、苺の香りが待っているとは知らなかった。
お読みくださり、ありがとうございます。




