真っ黒い四角形
「原さん。休憩、一緒に行きましょ」
「あ、はい、もうそんな時間……」
「また紅茶、おごりますから」
「えっ、そんな。昨日もおとといも、佐倉さんにおごっていただいたのに悪いですよ。今日は私が」
「いいのいいの。だってわたしが、原さんを引っ張って休憩してるんだし、ねっ」
「……ありがとうございまーす。
はあ、でも本当に美味しいですねえ、この紅茶。最近は行ってないけど、お高いなんちゃらカフェとかのレベルですよ」
「給湯ポットと30円のティーバッグで、本格派のダージリンが飲めるって驚きよねえ。茶葉がいいんじゃないかしら、庶務課の林さん本当にセンスがいいわあ」
と言うか、佐倉さんの淹れ方がたぶんいいのだ。私が一人で自宅で淹れても、こんな風においしいのはできない。
それに茶葉を『ちゃよう』と言ってるあたり、彼女はかなりお茶にこだわりがあるに違いない。(ネット検索してみたら、ちゃばと呼ぶのは間違いらしい)
けれど、私は佐倉さんをそこまで褒めなかった。この年代のひとはむずかしい。会話には慎重になった方が良いと言うことを、大学時代のアルバイトで散々学んできた。
新天地でようやく得た仕事なのだし、つまらない人間関係のごたごたでふいにしてしまっては勿体ない。だから私は、この地味な風体と態度を活かし、流されたふりをして根付いて行こうと思っている、今日この頃。
差しさわりのない話題でいこう……お天気とか。ちらり、と休憩所近くの窓べりに目をやって、言う。
「……もうずいぶん、暗いですね。夕方というか夜みたい」
「……ほんとね。秋の日はつるべ落としって。原さん、一人暮らしにはもう慣れた?」
「ええ、何とか」
「宝山町だったっけ。あの辺は結構暗いでしょ? 気を付けてね」
「実家は田舎ですから、もっと暗かったですよ」
「え、そうなの? 神奈川県って都会じゃないの」
「いやー、神奈川もいろいろあるんです。うちみたいに海のない湘南とか、ふふ」
「へえー、そうなの。私は今市内住みなんだけど……、実家は祖父母の代から、熊戸って言うところなの」
「くまど? ええと……」
「自然公園の、はじっこのあたり。かろうじてバス停があるけど、うちについたら裏の方面にはもう、山しかないから真っ暗なのよ」
「へえー」
「だから夜なんてね、窓ガラスを通して何にも、何にも見えないわけ。窓がそのまま、ひたすら真っ黒い四角形なのよ」
「……」
無害な顔で頷き、私は佐倉さんを見ていた。……いや、夜に窓のぞく事って……ある? あ、星を見たかったとか。佐倉さん、夜空を眺めたいポエム少女だったのかな……。
佐倉さんは私を見ていない。まる縁めがねの奥の小さなまるい瞳が、何かを思い出そうと、さまよっているように見えた。
彼女の手元でマグカップがふいと揺れる、湯気が同時にゆらいだ。
「……でもね。中学生の時から、かしら……。そこに別のものが見えるようになっちゃって」
「別のモノ?」
「朝早く、まだあたりが暗いうちにカーテンをあけると、そこにおばけの顔が見えるのよ」
「おばけ? 幽霊ですか?」
「いえ、人間じゃないのよ。んんと……、うまく言えないんだけど。こう、毛むくじゃらな大っきな顔のケモノみたいな……。ゴリラとも猿とも違うなあ。口がぐーんと大きくて、牙がにょっきり出てて。たぶん笑ってるんだわ、あれ」
どうしよう……。
不思議ちゃんのおばちゃんだったのか。そういうひとに心を開かれちゃったら、あとあと面倒くさくなりそうなのに。
けれど何故だか、私は興味をひかれてしまってもいた。ついつい。怖い話は、嫌いじゃない。
「でも、目はしっかり私を覗き込んでるの。偶然じゃなくて、しっかりおまえを見てますよって言う感じ」
「ものすごく怖い話じゃないですか。佐倉さん、どう反応したんです?」
「身体じゅうがちがちにこわばっちゃって、動けなくなるの。あれって金縛りっていうのかしら……。それに目をそらすこともできないから、ひたすらおばけとにらめっこよ。でもわたし、そのおばけがどうしてそこにいるのか、わたしを見てるのか、何だか妙に納得できたのよ」
「……?」
「おばけとどのくらい見つめ合ってたかは、いつだってわからないの。そうしてるうちにボロボロッと涙がでて。それでふうっとまばたきができるようになって、わたしがぱちぱち目を閉じたすきに、おばけは消えてしまうのよ」
「……危害を与えてくるような、そういうのじゃないんですね」
「そう。でもやっぱり、ものすごく怖いのよ。何度も何度も、寒い日の暗い朝に、繰り返しそのおばけに会っていた」
「……」
「そうして、いつも我に返ってから、鎧戸をあけるの」
「……よろいど」
「そう、寒い地域だからね。旧い家は、窓ガラスの外側に鎧戸があるのよ」
「……じゃ、おばけは外にいたわけじゃなくて……」
佐倉さんは、休憩コーナーの窓に目をやった。そこもやはり、真っ黒い四角形。
「……そうね。おばけは外にいたんじゃない。わたしの中に、いたんだわ。……と言うか、今もたぶん一緒」
もしかして、今でもそれが怖いから、こうして私を休憩に誘うんですか……? 私は聞きかけて、やめる。
佐倉さんは、はにかんで笑った。
「いやだわ、ごめんなさいね。いい年したおばちゃんが、おばけを怖いだなんて」
やさしい目の周りが、ぎゅっとしたしわでいっぱいになる。撫でつけた白髪交じりの髪が、とってもきれいだ。
「……ごちそうさまでした、佐倉さん」
さいごを飲み干して、言った。
「どういたしまして」
「明日は、私の番ってことで。またダージリン、飲みましょう」
「え、ええ…?」
「でも、佐倉さんに淹れてもらっていいですか? 私が淹れても、ぜったいこんな風に美味しくはできないから」
「……」
ちょっと驚いた風、目を円くした佐倉さんを前に、私はうれしかった。――他の誰かに、怪物と身体を分け合って共存していることを打ち明けてもらったのは、初めてだ。
明日の夕方に紅茶を淹れてもらって、こんどは私の話をしようと思う。
……真っ黒い四角形。電源オフにした時のスマホの四角の中に、私がときどき見るもの。
毛むくじゃらの、ばけものの話を。
【完】