忘れない
「引揚者」という言葉は、もう死語といってもいいだろうか。半世紀以上も昔、昭和二十年代半ばごろには、普段の生活のなかでよく聞く言葉だった。
そのころ私は中学生になっていたが、私自身も上海からの引揚者だったので、引揚者と聞くと、同じ境遇の者として何となく親近感を覚えたものである。
同じクラスにやはり引揚者だという友達がいた。
「どこから?」
と、たずねた。
「朝鮮──」
「いつ、内地に帰ってきたの?」
「二十年の九月に──」
「えーっ、どうしてそんなに早く帰れたの?」
「うちの父、軍属だったので──」
敗戦の翌月に日本に帰ってこられるなんて……と、私は心底驚いた。たいていはそのあと、どうやって引き揚げてきたかお互いの体験談が続くのだが、このときばかりは会話が切れた。軍属という言葉に気圧されて私もそれ以上聞くことができなかったし、彼女の方も詳しい話はしなかった。
私が上海から引き揚げてきたのは、翌二十一年の四月である。アメリカの貨物船・リバティシップで、船底の鉄板にござを敷き、荒れた海に船酔いしながら博多の港に着いた。博多に着いたものの上陸はできずにそのまま船の上に一週間ほど留め置かれた。どうしてなのか理由は子供には分からなかったが、船酔いもなくなったので、デッキに上がって周囲の景色を眺めていた。そのとき十歳だった私が何を思っていたのか、記憶はない。
上陸してからはお定まりのDDTを白くなるほど振り掛けられ、窓ガラスの壊れたすし詰めの列車で、途中何度も停まりながら、父の郷里の福島県へ向かった。途中広島は夜だったが、身動きできないような車内で「ここに新型爆弾が落ちたんだって」「夜だから様子が分からない」というような会話が聞こえた。名古屋では、いつ来るか分からない汽車を待ってホームのベンチに長いこと座っていた。寒そうに見えたのか、誰か知らない小父さんが背広を脱いで私の肩にかけてくれた。
結局上海を出てから十日余りかかって、親子四人、父の従兄弟の家に辿り着いた。
昭和二十年八月当時、中国や朝鮮などにどのくらいの日本人がいたのか正確な数字は知らないが、旧満州では戦後の混乱で約二十万人(推定)が命を落としたという(2000年12月20日 朝日新聞)。また、苛酷な引き揚げ体験を綴った『流れる星は生きている』(藤原てい 著)がベストセラーになり、多くの人の涙を誘った。
こういう状況の中でも僅か一か月で混乱から抜け出せる人たちがいた──巷間言われているように、軍は一般の在外邦人を優先してはくれなかったのかもしれない。
ただ、軍隊に守られること自体も異常なことである。引揚者にかぎらないが、破壊された生活も家庭も戻ってはこない。命の尊さを言うなら、こんな愚は再び繰り返さないでほしい、と、六十年経った今も私はそう思う。