のり子達の日常:今を生きる子を支える者
「へえ、なかなか良い雰囲気の店ですね」
「俺の行きつけの店だ、ここのワインは美味いからな」
年末が近づいてきたある日、今井生支は部下の加来学を連れて飲みに来ていた。普段はのり子から今井刑事と言われている彼だが、警視庁で働いており時にこうして部下と酒を交わしながら交流を深めたりもする。
「今井さんってワイン好きですよね」
「まあ、他の酒も飲みはするが基本的にはワインだな。家にワインセラーもあるぞ」
「な、何か洒落てますね」
「別に格好つけるためのものではないんだけどな、ワインの保存のためだ」
そう言い、今井はワイングラスを数回回し、一口飲んだ。口の中で揺らしてじっくり味わい、一息ついた。
「ワインって常温で保存ってイメージがあるんですが、あとは冷蔵庫とか」
「別にそれでもいいんだが、ワインってのはデリケートな飲み物でな。温度や湿度、明るさ、振動、匂いとかの外的要因で味が変わってしまうんだ。それらを最適な状態にした空間がワインセラーなんだよ」
「へえ、そうなんですか。僕は冷蔵庫でしっかり冷やして飲むことが多いですが」
「まあ白ワインなんかはそっちの方が美味しいが、赤ワインは冷やしすぎると渋みや酸味ばかりが強調されて、コクやまろやかさが隠れてしまうからな。だから店で出されるものはある程度温度を上げてある、試しに飲んでみろ」
「あ……確かに味わい深い感じがします。僕はワインの渋みがちょっと苦手なんですが、これなら飲めるかもしれません」
加来は新しい発見に驚いたような顔をし、今井はそれを見て軽く微笑んだ。ワイン好きな彼としては、ワインの美味しさを理解してくれるのはやはり嬉しいのだ。
「それと、同じ赤ワインでもボディの違いや原料の葡萄の違いで、味わいも適正温度も変わる。それに出荷されてからすぐ飲んでも美味しいモノもあれば、長期保存した方が美味しいモノもある。開けてすぐ美味しいモノもあれば、ある程度空気に触れさせた方が美味しいモノもあるぞ」
「な、何か奥深いですね」
「まあ、ワインってのはそういう変化を楽しむのが一つ醍醐味だしな。ワイングラスの形状や入っている量にしたって、味や匂いを最大限に楽しめるように配慮されているんだ」
「そ、そうなんですか。てっきりお洒落だからと思っていましたが」
「とりあえず、美味しいワインが飲みたいならまずワイングラスを買うんだな」
今井はワインの話になると止まらないところがあり、加来もタジタジである。ちなみに今井はフルボディが好みであり、フランスワインをよく飲む傾向がある。その後もワインの話が続いたが、今井は何かに気付いたかのように急に話すのを止め、ワインをじっと見つめた。
「……ワインか」
「どうしたんですか今井さん、急に神妙な顔をして」
「いや、ワインってのは人に似ているなと思ってな」
「人に、ですか?」
「人は環境によって大きく変わるものだ。温かな環境で育てば優しい心を持ちやすくなるし、劣悪な環境で育てば悪しき心を持ちやすくなる。小さい頃は同じような純粋な心を持っていても、だ」
刑事として長く犯罪者と戦ってきた今井にとって、常にそれは感じることだった。人の心は良くも悪くも周囲に影響されやすい、まだ未熟な若い時代は猶更だ。
「優しい心を持っていたとしても、何か大きな外的要因によって突如それが狂う場合もある。ワインも雑に扱えば、あっという間に味が落ちてしまうようにな」
「確かに……似ているかもしれません」
「生まれながらの極悪人なんていない……と思いたいところなんだが、残念ながらそういう人もいるようだ」
「少し前に京都で起きた殺人事件、ですか?」
「ああ」
のり子が解決した京都の風桜家での殺人事件については、今井も報告を受けていた。生まれつき脳の情緒を司る部分に重大な障害があったとはいえ、身勝手な理由で殺人を犯し多大な恩がある人もを鼻で笑って罵倒した悪魔。今井も大いに心を痛めた。
「まったく、神様も罪なことをしてくれるものだ。それに、先天的にも後天的にも絶望的に恵まれない者もいる、か」
「……星嶋さくら、ですか?」
「……そうだ」
のり子の親友であり、宿敵である恐るべき凶悪殺人犯、星嶋さくら。【生贄の主】を名乗り、のり子が通っている学園の生徒を大量に殺害、その後は逃亡し様々な凶悪犯罪の黒幕として暗躍している。警察としても現状、彼女の逮捕は最重要事項である。
生まれつき倫理観が希薄であり、更に家族に邪魔者扱いされ学校では酷くイジメられ、心の闇は更に増大。ある日、父親を殺したことにより殺人が自分にとって至高の快楽だと確信し、凶悪殺人犯として覚醒した。
「のり子ちゃん、でしたっけ? 辛いですよね……自分の親友が凶悪殺人犯だなんて。僕だったら耐えられないですよ」
「……あの子も決して平気だったわけじゃない、一度は強い精神的ショックで丸一日目を覚まさなかったんだ。立ち直れたのは……周囲の温かな人達のおかげだよ」
「そう、ですか……そういえばのり子ちゃんとの出会いってどんな感じだったんですか? 聞いたことないですけど」
「……昔、とある難事件を担当していた時のことだ」
―――
「く……どうすれば良い? 全く手掛かりが掴めん。このままでは」
「あの……これ、ちょっと変じゃないですか?」
「君は?」
今井は声がした方向に振り向いた。そこには少女が立っていた、中学生くらいだろうか。礼儀正しそうで、なかなか可愛い子だ。
「これのここがこうで、だから……」
「な、なるほど、確かにその通りだ。これならいろいろ絞り込めるかもしれないぞ!!」
「ふふ、お役に立てたようで、何よりです」
―――
「刑事が中学生の女の子に殺人事件の捜査協力をしてもらう、普通ならあり得ないことだ。しかし、あの時は藁にも縋りたい状況だっただけに仕方がなかった。結果として、それまで難航していた捜査は驚くほどスムーズに進み、遂に犯人の正体も証拠も掴むことが出来たんだ」
「凄い話ですね、中学生の頃からもうそんなに」
「本人の努力もあったんだろうが、天性のモノも間違いなくあると思う。それに、あの子の凄さはそれだけじゃない」
「?」
「犯人の正体もトリックも暴いたのは良いんだが、一人殺し損ねた犯人が凶器を取り出してそいつを殺そうとしたんだ。俺は反応が遅れて間に合わなかった、しかし……」
―――
「ダメ!!」
「の、のり子君!!??」
今井は目を疑った。のり子が犯人と最後の標的との間に立ちふさがり、真っすぐな目で犯人を睨んでいるのだ。
「どきな!! いくら子供と言えど、邪魔するなら容赦しないよ」
「これ以上罪を重ねちゃダメだよ。この人のせいで、どうしてあなたの人生が滅茶苦茶にならないといけないの?」
「……どうでもいいよ、私の人生なんて。私はこいつが殺せれば、それで」
「そんなこと言っちゃダメ!!」
芯の通った、大きな声だった。中学生の女の子の叫び声に連続殺人犯が圧倒されている光景に、今井は呆然とするしかなかった。
「あなたを産んでくれた両親とか、大切に思ってくれてる人とかが今の言葉聞いたら、きっと悲しむし怒るよ。人生ってそんな軽々しく捨てて良いモノじゃない、欲しくても手に入らない人もいるんだから大事にしないと」
「……何よあんた、どうしてそんなに優しいのよ。あんたみたいのが傍にいたら、私だって違う道を選んでいたかもしれないのに……」
「お姉さん、もうやめて。犯した罪は消えないけど、償ってやり直せる。だから」
「……もう遅いわよ。もう……止められないの!!」
犯人は涙を流しながらそう言うと、凶器を突き出しながら最後の標的に向かって走り出した。その進行方向には……のり子がいる!!
「!!」
「危ない!!」
―――
「間一髪で犯人を取り押さえることが出来、のり子君は無事だった。犯人を連行した後、俺はのり子君に聞いたよ、どうしてあんなことをしたんだって」
「信じられないですね……中学生の女の子が殺人犯に向かっていくなんて」
「俺としてはもっと怒りたかったんだが、そもそも俺の反応が遅れたせいだからな、その手前強く言うことは出来なかった。そうしたら彼女は俯きながら謝って、言ったんだよ……『居ても立ってもいられなかったの』って」
今井は遠い過去を懐かしむような顔で、そう言った。加来もその言葉に心底驚いているようで、目を丸くしていた。
「何と言いますか……綺麗ですね、心が」
「ああ、澄んでいて真っすぐだ。だからこそあの子は愛されるし、人を救うことが出来る」
「それにしたってなかなか出来ることじゃないですよ。綺麗なだけじゃなくて、強いです」
「そうだ、心が綺麗で強い。そして……脆い」
「え?」
そう言うと、今井は少し心配そうな表情を浮かべた。その目は目の前のワイングラスを見つめているようにも思えた、落とすと割れてしまうような。
「あの子の心は耐久性に関しては年相応なんだ、優しすぎるがゆえにそこを突かれることもある。もしあの子に弱点があるとしたら、そこだな」
「……名探偵も万能じゃないってことですか」
「だからこそ思うのさ、推理では敵わない俺が出来ることは……あの子の心が壊れてしまわないように支えてあげることだって」
「……」
「あの子には素晴らしい友達がたくさんいるが、大人の俺だからこそ出来ることもある。もし人がワインだとしたら……あの子の心が安心して熟成していけるようにな」
今井は残っていたワインを一気に口に入れ、噛み締めるように飲んだ。その顔は決意に満ちており、大人の魅力に溢れていた。
「何だか今井さん……カッコいいですね」
「そうか? おだてても何も出ないぞ」
「正直な感想ですよ。何だか僕ももっとワイン飲みたくなりました。そうですね……イタリアワインをお願いします」
「おお、飲め飲め。ちなみに、旧世界のワインも良いが新世界のワインも違った味わいがあって良いぞ。旧世界ってのはヨーロッパ全般で、新世界ってのはアメリカやチリやアルゼンチン、オーストラリア、日本辺りのことを指すんだが」
「ワ、ワインの話はもういいですから」
戸惑っている加来をよそに、今井は日本のワインを注文した。届いたワインを見つめつつ、心の中にはのり子の笑顔が浮かんだ。あの子の笑顔が曇らないように自分はもっと強く頼もしくならなくてはと今井は思い、一口飲んで口の中でじっくりと味わうのであった。
~『のり子達の日常:今を生きる子を支える者』 完~
読んでくださり、ありがとうございました。
今回で「河澄のり子のこころ旅~心の闇との戦い~」はエピソード100を迎えます。
これもひとえに応援して下さる読者の方々の支えあってのことです、ありがとうございます。
実は今まで今井刑事のフルネームやのり子との出会いを描いたことがなかったので
今回は満を持して書いてみた次第です。




