プロローグ(心の闇)
心とは何だろう。人間誰しもが持ち、動物と決定的に違う点。日々の生活で人はそれを他人と通わせて生きていく、心のない生活などあり得ない。
しかし……一番身近でありながら、一番分からないのも心だ。家族、友人、恋人。近しい人の心すら分からず生きているのが人間だ。まして他人となればもっと分からない……ゆえに人はすれ違う。その先に待っているのは争いであり、悲劇である。
河澄のり子は幼い頃から謎に挑むのが好きだった。他の人が分からず困っていることに首を突っ込み、解き明かすのが快感だった。素質もあるのだろう、いつの間にか近所で評判の少女探偵として人気者になっていった。幼い頃はそれでよかった、しかしいつまでも【子供のお遊び】ではいられない。
―――
「分かったけど……分からないよ、今回も」
中学生になってから、のり子は謎を解く度にそう感じていた。事件の謎は解ける、しかし……人の心の謎はいつも解けないのだ。なぜあの人はあんなことをしたのか、あんなことを思ったのか……分からない。トリックが判明し、犯人が誰なのか、被害者との関係等は分かってもだ。
無理もないと言えばそうかもしれない。近所の些細な出来事の謎を解明してきたにすぎない小学生の時と違い、今は世間一般的な犯罪に関わっているのだ。もちろんのり子は警察ではないし、探偵事務所を持つ正式な探偵ではない。ある事件でちょっとした助言をし、それが事件解決に結びついたことがあり以来、とある刑事に事件が起こるたびにこっそり助力を求められているのだ。
「どうしたんだのり子君、事件は解決したのに浮かない顔をして」
「あ……すいません今井刑事、心配かけちゃって」
この人は今井刑事、先程言った【こっそり助力を求められている】刑事である。頼りない面もあるがそこは人生の先輩、推理力はあれど幼く世間知らずなのり子の年の離れた兄貴分のような存在だ。
「もしかして、また『分かったけど、分からない』かい?」
「あはは、その通りです」
「まあ、分からないこともないけどな。君のように心が透き通っているような子は特にね」
「大袈裟ですよ。私、そんな良い子ちゃんじゃないですし」
「いやいや、そんなことないだろ。澄んだ河と書いて河澄とはよく言ったものだ」
まったく、今井刑事は相変わらず私を持ち上げすぎだ。そもそも河澄は名字であって、私に付けられた名前はのり子だというのに。のり子はクスッと笑った。
「……だからこそ、分からないのかもしれないな」
「どういうことですか?」
「事件の動機っていうのは色々ある。怨恨、金銭、名誉、隠蔽、刹那的な衝動……どれも十人十色で理解するのは困難だが……更に厄介なのはそれらに当てはまらないものだ」
のり子は思案した。それらに当てはまらない動機……何だろうか。
「有り体に言えば、欲望とマイルールだな。人の欲望は果てがない、良い方向にも悪い方向にもね。前者ならいいが、後者になると……人は時にいくらでも残酷になれる。マイルールも同じだ、それを守るためという免罪符を振りかざして人はいくらでも身勝手になれる」
非常に重い言葉だった。そこは長い人生を生きてきた今井刑事だからこそ言える言葉だ。幼い身でちょっと探偵のまねごとをしている私とは違う。のり子は彼を素直に尊敬した。
「のり子君、君はまだ幼いし純粋すぎる。だから、小学生の時には目の当たりにしなかった人の【心の闇】に触れ始めるようになって、分からなくなっているんだと俺は思う」
「心の闇……」
パズルのように当てはめて解いてきた事件の謎とは違う、人の心の謎……【心の闇】。それの輪郭を少し知った今、のり子はこの先探偵を続けていくならもう【快感】だけではやっていけないと改めて感じたのだった。勇気と覚悟が、必要とも。
―――
そして時は流れ、のり子は高校生になった。更なる経験を積み、成長したのり子を祝福するかのように平穏な日々が続く。しかし……それを覆い隠すほどの大きな事件の闇がのり子を襲おうとは、この時のり子は夢にも思わなかったのだった。