お前なんかとは婚約を破棄してやる、そんな場面をのぞき見していた令嬢にこそ人生の転機が訪れました
2024/2/4 誤字脱字報告ありがとうございます!
2024/2/8 誤字脱字報告ありがとうございます!!
2024/2/8にレビューいただきました!!
素敵なレビューをありがとうございます!!Non様!!
2024/2/11 誤字脱字報告ありがとうございます!辺境伯のダーレン・ドラゴネシアは侯爵様であるので侯爵記載でしたが、ご指摘の通り辺境伯にした方が読みやすいですね。
2024/2/11 ダーレンの台詞を修正しました。また、話の区切りに入れていた漢数字やエピローグの文字を消しました。どうぞ読みやすくなっておりますように。
「君との婚約を破棄したい。君から婚約の破棄の申し出をしてくれないだろうか」
男性による嘆願する静かな声が、パーティ会場から遠い廊下の一角で響いた。
声音は静かだろうが、懇願している風情だろうが、内容は完全に自分本位で考え無しのものである。
「まあ、驚いた。侯爵家三男さんたらこんなにもおまぬけさんだったの?」
名ばかりの伯爵令嬢のヴェリカは、思わず小声で呟いてしまった。
だが彼女はその三男に酷い言葉を掛けられた当人ではない。彼女は婚約破棄の危機にある婚約者達を覗き見ている野次馬である。
否。
ヴェリカはこれは野次馬では無いと自分に言い聞かせた。
まだ完全なる他人だが、今夜を境に関係者になるはずである、と。
そのために、あの辺境伯の従妹が困った事にならないように、自分が侍女みたいにして控えているのでしょう、と。
助けて恩を売る、それよ、と。
今夜は王家主催による戦勝祝賀会が、王宮で開催されている。
ヴェリカの国が他国を占領したのではなく、敵国ジサイエルの侵攻を国境で退けることが出来たという、その祝いだ。
国境線を守り切った当地の騎士達ではなく、助力に駆け付けたけれど当地に辿り着いた頃には戦闘が終わっていた騎士達を労ってどうするのかとヴェリカは考えたが、誰にも言わずに胸にしまっている。実際に防戦の戦いをしていた騎士達の指揮官である領主様が、労いと褒美の為に王都に召喚されたのならば、ヴェリカは王家を批判するどころか感謝するべきなのだ。
辺境伯である彼が王都に来てくれなければ、王都から出られないヴェリカは彼に一生会えずじまいなのである。
ヴェリカには野望があった。
それは、結婚して家を出る、である。
彼女の両親は彼女が十二の年に亡くなり、伯爵位は叔父が継いだ。そのため、伯爵家の財産は全て叔父が管理する事になり、彼女の伯爵令嬢としての暮らしはそこで終わったのだ。
通常ならば叔父こそヴェリカを守るはずであるが、守るどころかヴェリカから本来の権利を奪い虐げるばかりである。
対外的にはヴェリカは伯爵令嬢のままである。
しかし実際は、部屋も持ち物も奪われて日陰の狭い客間に追いやられ、従姉妹達の小間使いの身分に落とされている。
それは、同じ兄弟でありながら兄夫妻と待遇が違う事に常に鬱憤を抱いていた叔父夫妻が、自分達の鬱憤晴らしをしようと試みているのかもしれない、そうヴェリカは考えて毎日を耐えている。
従姉妹達には新しいドレスを仕立てられ、出会いの為の茶会やパーティへと叔母達に連れられて仲睦まじく出掛けて行く。
もちろんヴェリカはそれを見送るだけだ。
そこでヴェリカは考えたのだ。
この牢獄から逃げ出すために、彼らが太刀打ちできない相手と結婚しよう、と。
そして彼女は自分が不幸になる気は一切無い。
彼女の幸せをわざと邪魔して来る従姉妹達に邪魔させる気も無い。
そう考えると、ヴェリカの願いを叶える方法は、ドラゴネシア辺境伯との結婚しか無いのである。
国境線を守り抜いてきたドラゴネシア辺境伯は、数多の戦闘で受けた傷跡と大熊のような強靭な肉体をお持ちだと国では有名だ。
言うなれば、か弱き乙女達が大柄で恐ろしい姿と忌避する外見を持つ男性である。だからこそ好都合とヴェリカは思う。そのような姿の男性との結婚をヴェリカの従姉妹達は邪魔するどころか、浅ましいぐらいに囃し立てて喜ぶだろうに違いないのである。
「ふふ。私こそ実はそういう男性が好きだって知らないでね」
ヴェリカはニヤリと口角をあげる。
外見や家柄だけしか見ない、何かあれば全て人のせいにしての泣き言だらけの騒々しい極楽鳥みたいな貴族の男には、ヴェリカこそうんざりしているのだ。
まさに領地経営の才の無い叔父そのもの。
外見だけの男は駄目。
彼女は叔父によって自分の持論が強化されるばかりと情けなく思う。
「辺境の領地を守り抜く。それはかなりの経営手腕があってこそよ。そう。私は絶対に、今夜、素晴らしき男性を手に入れるのよ!!」
凱旋パレードでは街路に出られなかったが、ヴェリカは屋敷の窓から様子を覗き見る事が出来た。
白と金で飾られた王都の近衛騎士の司令塔のようにして、黒馬に乗る黒づくめの騎士が先頭を進む。そのドラゴネシア本人の堂々とした姿に、ヴェリカは憧れだって抱いていた。
あの人こそが自分を救ってくれる騎士なのだわ、と。
彼女は新たな気概を込めて右手に拳を握る。
さて、今のヴェリカの視線の先にあるのは、派手な服装の優男でしかない侯爵家三男ではなく、その婚約者のレティシア・ドラゴネシアの姿である。
背が高く蜂蜜色の髪に綺麗なエメラルド色の瞳をした美女の姿に、小柄なヴェリカには羨ましい姿だと溜息を吐いた。
「レティシア、君は強い。私は私が守らねば生きていけない人を守りたいんだ」
「その細腕で守れる人なんているの?」
ヴェリカは怒りを込めて呟いた。
強い女と見做されているらしい美女こそは、口を噤んで顔を伏せている。
彼女を助けねばと一歩を踏み出したが、ヴェリカはそれ以上動けなくなった。
ひょいっとピンク色の小さな影が飛び出して、侯爵家三男坊アランの腕に縋ったのだ。
「ああ!!アラン様。あなたは私の騎士様だわ」
「ああ。君の為ならどんな苦難にも立ち向かおう」
「苦難?確かにレティシア嬢を失った未来は暗澹たるものね」
ヴェリカこそイライラしながら言葉を吐いたが、彼女のイライラは言われ放題にさせている顔を伏せたままの女性に対してだった。
「ほら、あなたが言われ放題だから、図に乗った馬鹿がいい気味なんて笑顔を作ったわよ?」
ヴェリカが哀れな女性にこそ腹立たしく感じてしまうのが、伯爵家での自分の境遇と同じだと感じるからだろうと思った。貴婦人として育てられたら、どんな目に遭っても表情を崩さず醜態をさらしてはいけないと考えてしまう。それでヴェリカこそ色々と奪われるに任せてしまったのだ、と。
「立ち向かうべきだったのよ。私は。あの十二歳の頃に」
ヴェリカの視界に映るレティシアの姿は、叔父夫妻に全てを奪われた彼女自身の姿に重なった。すると、アランにしがみ付くピンクドレスの女性は、行儀を知らないまま成長した従姉妹達の姿に置き換えられた。
ヴェリカが気に入らないと感じれば叔父夫妻に嘘ばかりを言いつけて、ヴェリカへの当たりをさらに悪化させた猿共に。
ヴェリカの視線の先のピンクドレスの女性は、レティシアへの嘲りの表情を消すや、わざとらしい泣き顔に変えた。
「ぐす。ごめんなさいね。レティシア様。私は彼がいないと生きていけないの」
「ああ。ララは何て可愛いんだ」
「うわあ、完全に騙されている。やっぱり外見だけの男は駄目ね。アランが懸想するララ・フローラは、綿菓子みたいな外見でも、中身は松脂みたいにネチネチしているっぽいじゃないの。絶対にレティシア様よりララの方が強いわよ」
ヴェリカは反吐を吐き捨てながら、アランの左腕にしがみ付く女性を観察する。
ララが着ているドレスは最新のもので、レティシアとお揃いにも見える色とデザインである。そのために背が高くそのドレスデザインが似合っていないレティシアこそ野暮ったく見える。
この状況こそおかしい、そうヴェリカは思った。
会場の裏で参加者のドレス直しの為に控えている針子達によれば、ララはこの会に出席できる身分ではない。古くからある家どころか大金持ちの一族の娘のドレスと同じものを、子爵家由来の家柄程度の家の娘が手に入れられるはずはないのだ。
「可愛い、だなんてアラン様。このドレスを見立ててくれたアラン様のお陰です」
「いいや。君が何でも着こなせるってことかな」
ヴェリカは針子達からララが彼女を信奉する男性達から贈り物をせしめている噂を聞いており、その通りだったのかとララの煌びやかなドレスの理由に納得した。
「婚約者でも無い男からドレスまで買って貰っていたとは、愛人?アランもアランだわ。婚約者がいながら別の女性にドレスを贈っていたなんて」
ヴェリカはララに蔑む視線を向けたが、恥ずべきアランは蔑む視線を何の過失も無い自分の婚約者に向けていた。ヴェリカはさらに苛立たしいと思った。アランは視線でレティシアを見下したのだ。
彼の視線ははっきりと物語っている、君はみっともないな、と。
小柄なララにはボリュームのあるドレスは似合う、だが、そんなドレスが背が高い女性に似合わない事は当たり前なのだ。似合わないドレスを着てしまっただけの哀れな女性は、アランの目線に耐えられないという風に胸の前で両手を握った。
「自分を知らず、流行を着ればいいと思う女性は、散財家となる。似合わないのに宝石やドレスを無駄に買う女性を私は軽蔑するね。その金は領地の大切な領民の血税であっただろうに、よく無駄にできると」
「そんな。王が主催する会に着るドレスは新品でないといけないだけで、私はそんな散財など。それよりも、あなたがドレスをその方に買って差し上げていた行為こそ領民への無駄使いではありませんの」
初めてレティシアが言い返した。
ヴェリカはそこでレティシアを見直し、孤立無援で旗色が悪すぎる彼女への庇護心も掻き立てられた。
大泣きさえすれば誰もが被害者と考える外見のララが相手では、知的美人で体格のしっかりしているレティシアが不利過ぎるのは一目瞭然だ。
今だってレティシアの言い返しにわざとらしく驚いたふりをして、アランの腕をさらにぎゅっと抱きしめたのだ。
ララのあざとい行為に単純に喜んだアランは、ぶふっと勇ましい鼻息を吐き、強敵に打ち向かうようにして胸を張った。
「似合わないドレスを買う君こそだろう。ララは困っていた。困っている淑女を助けるのは紳士の役割だ」
「アラン様ったら。似合っていないなんて、そんな正直に。わるい人」
「性格悪」
ヴェリカは呆れ声をあげていた。
普通に性格の悪い外見だけの女であるのに、どうしてアランにはそこが見えないのかと、不思議ばかりである。
確かにララは美しい。
薄暗い廊下でもキラキラ輝く明るい金髪の巻き毛の持ち主で、可愛さばかりが先に立つ幼さが残る顔立ちをしている。明るい髪色がその可愛い顔立ちと相まって、彼女を見た誰もが天使のような無邪気な人だと勘違いするのだろうか。
ヴェリカはうんざりするとともに、世界に対して苛立ちも感じていた。
「男が小柄な女を無条件で無力と見做すのはこんな女の演技のせいかしら。それで私みたいなちびが迷惑被っているの?頭にくるわ。それに、女の媚びた顔に簡単に騙されるなんてどういうこと?アランさん、ララさんが男の人に媚びる表情が出来るのは、そもそも恥を知らない人だからって証拠なのよ。検証用に私の従姉妹達を紹介しましょうか?」
ララの表情に魂を抜かれた間抜け面となったアランに対し、ヴェリカは反論を止めてしまった伯爵令嬢の代わりに毒づいた。
そしてすぐに溜息を吐く。
「背が高くて綺麗な女性って、どうして言われっぱなしが多いのかしら。私みたいなちんくしゃに色々言われ過ぎたのかしら?」
ヴェリカはララと同じぐらいの小柄な女性であるのだ。そしてヴェリカも実は金髪であり、自分がとても気が強く策略家である事を知っている。
でなければ、幽閉されている状況から王宮のパーティなどには出られない。
従姉妹のドレス製作の為に伯爵家を訪れた針子、それもいつまでも店主には見習いの扱いでドレスデザインを盗まれ続ける子をヴェリカは取り込んだ。ヴェリカは今夜の出席のために会場に潜り込む手段として、針子の中に紛れ込ませて貰えるように頼んだのだ。
ヴェリカが辺境伯との婚姻が成立した暁には、針子に店を持たせる約束をしている。
そしてヴェリカが策略家だからこそ、将を射んとまず馬と、動いた。ドラゴネシア辺境伯の従妹を助けることでドラゴネシア侯爵との結婚への道を地固めしようと、ヴェリカは考えてここにいるのだ。
「レティシア。私が我慢ならないのは君のその愚鈍さだ」
「え?それはあなたこそでしょう」
やっぱり言い返していたのは覗き見しているヴェリカだった。
レティシアは酷い侮辱に言葉を失い、顔から血の気も失っている。
「愚鈍に徹したい気持ちはわかるよ、レティシア。私との結婚が流れれば君には次が無いからね。だが、だからこそ考えて欲しい。私を愛しているならば、私の今後を。私だって君がもう少し美しければ君の陰鬱な性格に耐えられただろう」
「あいつの目は頭と同じぐらい腐っているわね」
「同感だ」
ヴェリカは突然の男性の声にビクッと驚き、瞬間的に悲鳴を上げかけた。
悲鳴が口から飛び出さなかったのは、ヴェリカの真横にかなりの大柄の男が立っていた恐怖が大きかったからではない。大柄な人なのにいつのまにか後ろに立つ猫みたいに現れたと、ぞっとしてしまったからでもない。
その男の大きな手で口を塞がれただけである。
「あっと。静かにしてくれれば何もしないから安心してくれ」
背が高く筋肉質の体をした男は、その体型に見合うように髪は戦士の如く短めに刈られている。そしてその飴色の髪が短いのに寝ぐせみたいに収まりが悪いくせ毛だからか、成人しきった男性である彼を少々若く幼く見せていた。
またヴェリカの水色の瞳を覗き込む瞳は、透明なセージグリーンで、ヴェリカはとても綺麗だと見惚れてしまった。
だからか、男は悪辣な笑みを口元に浮かべた。
誘惑されたら大変!!
ヴェリカは急いで了解の意味を込めて頭を上下に振った。
その瞬間彼女の口から大きな手の平が消えたが、男は手を外した後にわざわざ人差し指ででヴェリカの上唇をつんと突く。
やっぱり誘惑してきた!!
もちろん瞬間的にヴェリカは破廉恥な男の脛を蹴っていた。
「っで!!」
「はふっ」
ヴェリカはそのままその場から逃げ出そうとしたのだが、男の両腕に捕まる方が早かった。
「逃げ出したそこで悲鳴を上げる選択はあったよね。悲鳴をあげなかったのは、君こそ俺に囚われたかった、のかな?」
「あなたといるところが人目について自分の選択肢を狭めたくないだけよ。ごらんなさいな。人生の選択肢が消え去った哀れな男があそこにいるじゃないの。私はあんな男みたいな未来が無い人になりたくないの」
男は、ふん、と鼻で笑うと、ヴェリカが暗喩した男へと視線を動かした。
「――まだあいつは自分の人生が儚いって気が付いてもいないようだぞ。それにあいつはまだまだ好きにやれる。あいつはあの令嬢を捨てても、あの美貌と家名で新たな婚約も叶うはずだ。初対面の君に、人生が潰える選択肢の一つに入れられた俺こそ哀れだと思わないか?」
ヴェリカは、何を言い出したのか、と大男を見上げる。
男は余裕そうな笑みは崩してはいないが、ヴェリカの目には数十秒前よりも意気消沈しているように見えた。
なぜだろうと彼女は目を細めて彼を見つめ返し、彼女に見つめ返された事で彼がセージグリーンの瞳を煌かせたことから、傷ついていそうなのは気の迷いと思い直した。
「アランは終わり。侯爵家でも三男よ。長男が侯爵を継いでいるならば、既に侯爵家の遺産相続は済んでいる。今までは素晴らしき婚約者との成婚のために兄である侯爵様の援助があったでしょうが、その婚約を台無しにした弟に侯爵様は恩情を手向けてくださるかしら?」
「さあ。その侯爵様も婚約者がブスだから悪いと、弟の肩を持つかもしれないぞ。あんなブスと我が弟を結婚させたいならば、もっと金貨を積み上げろ、とかね」
ヴェリカは男の台詞に再び哀れな伯爵令嬢に振り返り、再び男へと顔を向けた。
少々蔑んだ目つきで。
「ブス?酷い言いざま。この国の男達の趣味が悪いって、思い知らせてくれてありがとう。初対面のあなた」
「い、いいや。俺は彼女が綺麗だと思うよ」
「軽い男。女性の言葉にすぐ追従するなんて」
「君こそレティシア嬢が不細工だと思っていたんだ?」
「まさか。確かにぱっと見はあまりよくないけれど、それは、ええと、アラン達の言葉みたいでいやだけど、自分に似合っていないドレスを着ているからよ。彼女は背が高くて美人なの。流行だろうと可愛いドレスは止めるべき。飾りなど無い、ラインがとにかく素敵なドレスを着るべきなのよ。あと、ピンクは止めて。……そうね、あなたの目の色に近いセージグリーンはどうかしら。きっと彼女の美しさが誰の目にも明らかになるぐらいに見違えるはずよ」
男はヴェリカに向けていた顔を再びレティシアへと向け、すぐに感心したような吐息をほうっと吐いた。
「凄いな。確かに。そうだな。あのドレスが全部悪いんだ。だがどうしてあんなドレスを選んだのだろう」
「右へならえの文化の弊害でしょう。影響力のある人がイイネと言ったら、だれも悪いとは言えなくなる。よくあることですわ」
「ああ、本当に嘆かわしい文化だよ。可哀想なレティシア」
「御同意いただけて何よりですわ。では私を離してくださる?」
男は腕を開く。
ヴェリカは男から離れ、そして哀れな伯爵令嬢のもとへと向かおうとしたが、男は彼女から腕を外した代わりに彼女を逃がさないように壁に手を突いた。
「邪魔なんですけど?」
「君に聞きたい。俺との密会が君の人生を狭める理由について。多分、今までの令嬢達と同じ理由だと思うが、俺は君にハッキリ言って貰いたい」
「軽薄な男と結婚してごらんなさい。女の地獄よ」
初対面なのに妙に馴れ馴れしい男だからいいだろうと、ヴェリカは男にハッキリ言って見せたが、男はやっぱりヴェリカの想定外の仕草をした。
笑い出しそうな口元に拳を当て、彼女から目を逸らして照れてしまったのだ。
「俺は軽薄?初めて言われたよ」
妙に機嫌の良い小声を男は出す。
ヴェリカはこんなわけのわからない男の相手は出来ないと、再びアラン達へと視線を戻す。頃合いを見てレティシアに助けを求め、二人してどうしようもない男達から逃げられるように算段しよう、と。
すると、男こそこれが仕事だったという風に、ヴェリカの横から顔を出してレティシア達を見守り始めた。
ヴェリカは、近い、と思いながら男の顔に手の平を当てる。
「可愛い女の子に頬に優しく触れてもらえるなんて夢のようだよ」
「押しのけようとしているだけなのですけど?」
「失礼した。俺に脅えない君が嬉しくて」
「あら?物凄く脅えてますわよ。見ず知らずの男の人に壁に潰されそうなんですもの。もう少し離れて下さる?」
「嘘吐き。俺にそんな言い方ができる女の子なんかいないぞ。世の中は俺の顔を見ると卒倒してしまう女の子達ばかりだ」
ヴェリカは再び男を見返し、最初の第一印象から何も変わっていないと考えた。
筋肉質の大きな体は見苦しいどころか、これが美だと芸術家が作り上げた男性の裸像に近い。また、そんな体に乗っている頭は、やはりこれが美だと神を模して創造した胸像の顔の様な見事な顔を付けている。
真っ直ぐな鼻筋に秀でた額は、王者の貫禄だってありそうだ、と。
額から斜めに左眉を横切る大きな傷跡はあるけれど、見苦しいどころかその傷があるからこそ煽情小説のヒロインを誘惑する登場人物みたいだと、ヴェリカは感じるだけなのである。
「それはあなたの行動が常軌を逸しているからじゃない?あとね、自分がおモテになるからって、どの女もあなたに惚れると考えるのは自惚れすぎよ。私への振る舞いが少しどころか馴れ馴れし過ぎです」
パシン。
大きな打ち付ける音は、男が自分の顔を自分で叩いた音である。
大きな図体をした男が自分の大きな手で自分の顔を叩いて、その後は両手で自分の顔を覆っているのだ。
男はなぜか耳まで真っ赤になってしまっている。ヴェリカは男の「常軌を逸したその姿」に、目を丸くして見つめるしかない。
「……どうなさったの?」
「軽薄。モテる。自惚れが過ぎる。……素晴らしい褒め言葉を噛みしめている」
「褒め言葉って皮肉?でも女の失礼な物言いに怒るどころか、そうやって誤魔化して許してくださるのは尊敬に値しますわね。私こそずけずけと失礼な物言いを重ねてしまいました。謝罪します」
「いや。もっと言ってくれて構わない!!」
「ひゃっ」
男は自分の顔を覆っていた両手をぱっと外し、ヴェリカの両手をぎゅうと掴む。
ヴェリカは自分の手こそこんな簡単に握られる位置にあったかしらと、大きな手で包まれた両手を見下ろす。
「そこに誰かいるのか!!」
アランの大声にヴェリカはハッとした。
男性に手を握られている、こんな場面を誰かに見られたら大変だ。
「離してください」
「ああ、すまなかった」
自分の手が解放された瞬間、ヴェリカは男から身を翻した。
見ず知らずの男性と逢引きしていたと見咎められたら大変だ。
アランこそ自分の醜態を見せないようにと、こんなパーティ会場から離れた廊下にレティシアを引っ張ってきたのだ。アランとレティシア、いや、アランとララの醜聞消しにヴェリカこそ引き合いに出されたら困った事態になる。
どうしましょう?
とにかくレティシアの友人のふりをして、彼女と一緒に逃げればいいのでは。
がし。
ヴェリカはまたもや一歩も先に進めなくなった。
今度は男性の大きな手によって、彼女の右の二の腕が掴まれている。
自分の二の腕を掴むその手を見た途端に、ヴェリカは亡くした父と母が仲良くピアノを連弾していたその姿を思い出した。なぜだろうとその手をしみじみ眺めれば、彼の手は関節がごつごつしているが指が長くて形の良いものであったのだ。
彼女の亡父の手のように、もとは優美なくせに不格好になった手だった。
「ヴェリカ。お父様は騎士に間違えられる事があるんだ。なぜだと思う?」
「騎士様達のように素敵だから?」
「違うよ。お母様からピアノの特訓を受けているから。僕のね、関節が騎士みたいにごつくなっちゃったの。それが騎士様みたいだって」
「お父さまったら。お母様と私には、お父様は最初から騎士様ですわよ」
ヴェリカの視界が急にぼやけた。
父親の笑顔を思い出せたのは数年ぶりなのだ。
「君?」
ヴェリカは自分から父の思い出が引っ張り出された事で、例えようもなく喪失感に襲われていた。そこで、そんな記憶を引きだした手ではなく、その手の持ち主を怒りを込めて睨んでしまった。
彼は睨みを受けた瞬間、びくっと震えた。
だが、彼女の腕から手は外さなかった。
「どうして離してくださらないの?」
「俺が君に自己紹介もしていない事を思い出したからだ」
「必要ありません。私には婚約者がおりますから、他の殿方の名前など知る必要などありません」
ヴェリカは男から逃げ出そうと身を捩るが、男の手が彼女の腕から離れない。
それどころか、さらにぐいっと彼女を引っ張り、アラン達に見咎められない廊下の暗がりへと向かうのだ。
「本気で大声を出しますよ」
「出すなら既に出しているだろう。未だ悲鳴をあげないということは、評判を大事にしている君は悲鳴が出せないと見た」
「卑怯者!!」
「戦場で勝つには綺麗ごとだけでは済ませられない。で、そいつは誰だ?」
「え?」
「君の婚約者は誰だと聞いている」
「あなたには関係ありません」
「俺の名前は――」
「聞きたくありません。何度も申しますが私は婚約者がいる身です。良いから離してください。誰かに醜聞を立てられたら私はお終いです。私はあの方と結婚できなくなります」
「この程度で女を見限る男など、君が生涯をかける価値は無いだろう」
「ありますわ。まだお会いした事が無ければ、互いの評判こそが互いを知るための大事な情報です。そして、私を信じて下さっても私の落ちた評判のせいでお相手の名前を汚すことになるならば、私自身が許せません」
「その割には、こんな人気のない所をヒョコヒョコ一人で歩いていたようだが?」
「まあああ。私は身内になる方のためにここにいるのですわ。こんな人気の無い所に呼び出された令嬢の評判は、同じ女にしか守れません。彼女は一人ではありませんでした、私という女と二人でずっと行動していました。そうでしょう?」
「身内?」
ヴェリカは「失言した!」と口を閉じる。
これでは彼女の婚約者が、ドラゴネシア辺境伯だと言っているも同じだ。
「間抜け三男坊が婚約者。レティシア・ドラゴネシア嬢には兄はいるが二人とも妻帯者だ。他に彼女の近しい親族、それも未婚の結婚適齢期の男性はいない。婚期を逃したドラゴネシア本家のダーレン・ドラゴネシアに婚約者がいるとは今も昔も聞いた事が無い。令嬢が化け物は嫌だと逃げるからな」
「そこですわ」
「どこ?」
「私はそのダーレン・ドラゴネシア様と結婚を考えています。ですが彼が王都にいらっしゃるのは一週間。その期間ももう残す所はあと三日。そして、一般人の私と出会えるのは今夜限り。私はこんな場所で醜聞に塗れるわけにはいかないのです。彼の婚約者になるために!!」
「生贄の処女の気か。女に逃げられてばかりの男じゃ、どんな女だっても手にできるという、そんな考えか?」
ヴェリカは急に空気が寒くなったと身を震わせる。
そして気が付いた。
空気が凍ったのではなく、目の前の男が静かに怒っているのだという事に。
彼女は今までのやり取りを思い出し、彼がレティシアをちゃんと評価するように、ドラゴネシア辺境伯が不当な評価を受けている事に怒りを持っている公平な人だったと気が付いた。
あるいは、辺境伯と近しい人だったのでは?という疑問も湧いた。
ならば、彼女は辺境伯を手にするために、彼女の真実を伝えるだけである。
そうする事に賭けた。
「私はいわゆる優男って嫌いですの。あのアランなんか、猫に生まれなくて残念ね、ですわ。猫だったら美しいって愛でていられるし、発情期には檻に入れてお終いですもの」
怒っていたはずの男は吹き出し、顔を背けて肩を揺らす。
それでも数秒後にヴェリカに向けて戻した顔は、十数秒前と同じぐらい静かに怒っているものだった。
「君が辺境伯を不細工な男だと思っているのは変わらない、よな。いや。彼を怖がらない女性であるというだけで良いのかな」
「これだから貴族の男は!!外見にばかり拘るなんてお人形さんなの?」
「君が外見に拘らないことは理解した。それで君は今まで一度も辺境伯と会った事が無いはずだ。王都に入った時のパレードにはいたが、彼は兜で顔をしっかり隠していた。君はパレードの先頭にいたジュリアーノ・ギランをドラゴネシアと取り違えているのではないかな?」
「もう!!私は最初からお顔も存じあげないと申してます。間違ってません。私が良いなと思ったのは、いぶし銀みたいな黒い甲冑に包まれた、あの素晴らしい体格の方ですわ。もしかしたら甲冑が素晴らしい造形なだけで、実は贅肉だらけで背が高いだけの方かもしれませんけれど」
「贅肉は無い!!」
「まあ、そうですの。あとはお顔ですが、人好きのするお顔立ちでいらっしゃったら文句は言いません。私だって美女ではないですから」
「――君は美人だよ」
「ありがとうございます。では自信をもってドラゴネシア様にご挨拶してきます。では、ドラゴネシア様への手土産に、まずはレティシア様を救出して参りますので離してくださいな」
「手土産?」
「ええ。レティシア様を救った女性となれば私への好感度は増すと思いますの」
ぶっ。
彼はヴェリカの腕から手を離さなかったが、もう片方の空いた手で自分の口元を押さえた。
大きな体を屈めて揺らぎ始め、ヴェリカは笑う男を微笑ましく思うどころか憎たらしいと脛を狙って足を持ち上げた。が彼女の足は標的を失った。
「もう!!素直に足を蹴られて、いい加減に私から腕を離しなさい」
「いやあ。離せないな。君は会った事も話した事も無い男と結婚する気なんだろう?だったら、俺でいいじゃないかって俺は思うんだ」
「あなたは遊び人ですわね」
「俺の言葉は本気には受け取りたくはないと?」
「一つ、私がドラゴネシア様と結婚を望むのは、彼が嫁の持参金を不要だと公言なさっていらっしゃるから。私には財産はありません。二つ、私の保護者である叔父夫妻とその娘達は私の幸せを望みません。形だけでも残念な結婚に見えねば、私は嫁ぐどころか修道院へと追いやられてしまうでしょう」
男は奥歯を噛みしめた。
ヴェリカは彼の怒りがヴェリカではなく、たった今知ったヴェリカの身の上にだと思え、胸の奥が温かくなった。
女の持参金は結婚する条件として重要だ。
爵位がある家の子供だろうが、お金はどこの家もあればあるほど良いのだ。
なぜならば、領地も財産も無い貴族の男性は、騎士になって立身出世する以外に財産を生むことができないのだ。
では、労働者階級に落ちてはいけない貴族の男が財を成すにはどうするのかと言えば、投資や賭けで所持金を増やすか、前述したように妻の持参金を手にすることである。
ヴェリカは男が悔しそうな表情をする事で、彼が持参金の無いヴェリカを嫁に出来ないと受け入れたのだと考えた。
彼女は男が自分を諦めてくれたことに対して安堵したが、なぜか彼女が押し殺していた「孤独」という悲しみが蘇りかけていることにぞっとした。
ヴェリカは目の前の男と話しているこの時間、亡くなった両親との暮らしが戻って来たような楽しさを感じてもいたと気が付いたのだ。
「あなたがドラゴネシア様をご存じならば――」
ヴェリカはその先を続けられなかった。
あなたと同じぐらい会話が楽しい方なの?そんな事を尋ねてどうするのだと彼女は気が付いたからである。
けれど急に大事な事のように思った。
彼女の両親は貴族の範疇外と罵られそうなぐらいに和気藹々と、仲がとても良い夫婦だったのである。
「君は」
「え?」
「――俺も君のドラゴネシアと同じ条件だ。恐らく俺が君のドラゴネシアと同じ条件で君を娶ると言っても君は断るのだろうな。君は俺が第一印象で好ましくない男だと断じているらしいからな」
ヴェリカはゆっくりと首を横に振った。
目の前の男性は好ましすぎる、と悲しく思いながら。
だからこそ彼女は彼こそ駄目だと思う真実を告げようと思った。
彼が自分が不細工だと思い込んでいるならば、それは違うと伝えたかったのだ。
「あなたは素敵すぎるのよ。ひと目で誰もが恋しそうなぐらいに美男子だわ。そんな人との結婚、叔父夫妻が許すわけないでしょう?あなたが挨拶に来たその日、従姉妹達があなたの膝に乗ってあなたとの結婚を勝ち取るわ」
男の瞳は天啓を受けたかのように見開かれた。それからヴェリカに優しく微笑むと、まるで夫婦の会話のような気さくさで語りかけて来た。
「君はそんな女達に膝に乗られた俺を助けない、と?」
「だって、私は部屋から外に出して貰えない。亡くなった両親の友人や母の親族が私に会いに来ても、私は誰とも会わせてもらえなかった。だから私はドラゴネシア様を望むの。彼ならばどんな障害も打ち破って私を助け出してくださるから」
「――素晴らしいな、ドラゴネシア様は。そして君は大ウソつきだ。どうして幽閉されている君がここにいるんだ?不遇なはずなのに君のドレスはどう見ても最新のデザインだ」
「私は今夜に賭けましたの。失敗すれば明日からは修道院暮らしでしょう。親友となった人を裏切ることにもなるわね。成功した暁に彼女には店を持たせると約束してドレスを作って貰った上に、この会場に紛れ込む手引きまでしてもらったのよ。私の母の形見の真珠のネックレスだけでは足りないわね」
「そうか。だけど俺は君が屋敷を抜け出した方法こそ知りたいな。それが出来るならば俺のもとへと逃げ出して来れるのではないのか?」
ヴェリカはにっこりと微笑んだ。
形あるものは殆ど全て叔父夫妻に奪われたが、形の無い使用人の心は奪われてはいなかったのである。
「本日屋敷を辞める使用人の荷物の一つに潜ませてもらったの。長く勤めていた彼だから、引き上げる荷物が沢山でも誤魔化せる。でも、私の為に父から譲られていた父のコートや本を諦めることになったのは申し訳ないわ。彼は何も無い私に父の形見を残せると笑って許して下さいましたけど」
「――君の名前を教えてくれ。たぶん、あのアランのことがあるからドラゴネシアは会場にはいないはずだ。だが、俺が彼に伝える。彼が君を救いに現れるはずだ。ただ、約束してくれ。兜を脱いだ奴がどんな奴でも君は受け入れると」
ヴェリカは男に向けて腰を屈めた。
王族に向けるぐらいに正式なるカーテシーを捧げ、彼女は自分の名前を告げた。
ヴェリカ・イスタージュ。
イスタージュ伯爵家の娘です、と。
「屋敷に戻る手はずは俺に任せてくれ。君にも算段があるやもしれんが、全ては俺に任せてくれた方が確実だ。協力者には大丈夫だと伝えて、この先にある控室で待っていて欲しい。レティシアを土産にしていれば、ドラゴネシア専用控室を好きに使っても大丈夫だ」
ヴェリカは男に向けて再び膝を折った。
「ありがとうございます。名も知らぬ親切な方」
「俺はいつでも名乗りたいがな」
「結婚前の娘には婚約者以外の男性の名前は不要です」
ヴェリカは言い切った。
一生心に残してしまわないように、絶対に名前を知ってはいけないのよ、と、彼に向かって心の中で呟きながら。
祝賀会の翌日、日が昇ったばかりの早朝、イスタージュ伯爵家のタウンハウスは、暴徒としか思えない騎士達に包囲された。
その暴徒を引き連れてきたのは、黒き甲冑を纏った地獄の騎士、ダーレン・ドラゴネシアその人である。
彼は無作法にも兜も脱がずにドアを蹴破る勢いで屋敷にあがり込み、イスタージュ伯爵令嬢を貰い受けに来たと大声をあげた。
ベッドから叩きだされた伯爵、現当主のベイリー・イスタージュは、わけも分からない顔をするしかない。急いで身支度をして応接間に向かったはいいが、彼を待ち受けるのは亡霊のような甲冑男だ。伯爵家は有能な執事に暇を出したばかりの翌日でもあり、ベイリーは寄る辺が無いと震えながら恐ろしい甲冑男に一人で対峙するしかなくなった。
「王命だ。褒美は何が欲しいと言われたからな、領地の騎士への褒賞に加え、俺への嫁取りにさせてもらった。俺はこの屋敷に住まう伯爵令嬢を妻として受け取りに来た。さあ、王が自ら記した契約書に署名をしろ」
ドラゴネシアがベイリーに突きつけたのは、羊皮紙による書状であった。
王の署名入りのそれは、イスタージュ家の娘と辺境伯の結婚を命ずるものであり、娘には王が定めた持参金を付けねば許さないとの命令付きの契約書である。
「はいはい。辺境伯のお身内になれるならば喜んで。ええ、ええ。持参金も陛下が指示したとおりにつけさせていただきます」
実は契約書を読んだそこで、ベイリーはほくそ笑む余裕が生まれていた。
兄の死から爵位と遺産を彼は相続したが、兄の娘に残された遺産に手を付けられないままであったのだ。ベイリーが相続した時には豊かな領地であったが、ベイリーの人任せの運営と贅沢によって領地経営が回らない状態となっている。
税を国に納められなければ、領地取り上げも起こりうる事態なのだ。
その起死回生には兄の娘の遺産が必要だが、その娘の遺産は財産管理人によってしっかりと管理され、娘が成人するまで動かせないものとなっている。
その遺産にイスタージュ家のものだけでなく娘の母方の一族の遺産も含まれているのであれば、当主権限でかすめ取ることもベイリーには不可能だった。
ベイリー達が前伯爵の娘を幽閉し、精神的虐待を重ねてきたのは、その事実によって過去にしっぺ返しを受けてもいたからである。
伯爵家の家宝だと思い込んで娘から奪った宝石が、実は悉く母方の物であったがために、母方の財産管財人から遺産目録の見直しの訴えが起こされた。
その結果押収人が伯爵家に押し寄せたのだ。
不幸にも伯爵夫人として初めて呼ばれた茶会の最中だったベイリーの妻は、着けている宝石を人前で取り上げられるという事態に陥った。
それは開催者の顔に泥を塗るも同じである。
ベイリーはその事件のせいで社交クラブから追い出され、妻も娘達も上流貴族からのパーティの招待状が届かない身の上となっている。
昨夜の祝賀会に家族全員が参加できたのは、単に上位貴族に認められた伯爵以上が一律に招待されただけだからである。
現伯爵夫妻が積極的に前伯爵の娘に惨めな思いをさせる嫌がらせを行っているのは、その逆恨みによる復讐心からなのだ。
ヴェリカをベイリーが殺さなかったのは、彼女が死ねば母方の親族へと財産が戻されるからであり、兄の遺産は「国に寄付」されてしまう。
この仕打ちは兄が弟のベイリーを全く信用していなかった証拠であるとベイリーは兄を憎み、さらにヴェリカを苦しめてやりたいと願った。
それが、と、ベイリーは自分の勝利を感じて目を輝かす。
王が辺境伯への手向けとしてつけろと記載されているのは、ベイリーが指を咥えて眺めるしか無かった財産なのだ。
王命ならば仕方が無いと、どちらかの娘にこれらの財産を持たせて辺境伯へと送り出し、頃合いを見て財産と共に里帰りさせたらどうであろうか。
辺境伯と婚族になれば、ベイリー夫妻は社交界に返り咲ける。
ベイリーはにやけてくる口元を引き締めながら己が署名を書類に書き込み、自分の未来が確かになったという風に、伯爵家の印章を紙に押しつけた。
「契約は為された。では、娘を呼びます」
「不要だ。我が妻が望む輿入れは、我による略奪だ」
「え?」
ドラゴネシアはベイリーから羊皮紙を奪い取ると、彼の領地を攻めて来た敵兵を脅えさせた雄叫びを大きく上げた。
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
すると、屋敷の内外からドラゴネシアに呼応する騎士の咆哮があがる。
うおおおおおおおおおおおおお。
わおおおおおおおおおおおおお。
ベイリーはここでようやく、自分が取り返しのつかない署名をしてしまったのではないのか、と脅えた。
ドオオオオオン。
ベイリーは大音によってもの思いから覚めた。
瞬間的に、もの思いから覚めたのではなく、彼は気絶したのだと考えた。
扉があったはずの応接間の戸口に、空虚な大穴が空いている。
「扉はどこに消えた?」
ドオオオオン!!
「俺の嫁を見つけるまでドアを壊しまくれ!!」
ドオオオオン!!
ドオオオオオオン!!
「止めてください!!」
黒騎士は応接間の廊下にはいなかった。
彼は二階へとあがる階段をあがっていた。
ミシ、ミシ、と鎧兜の重量で階段は軋む。
ドオオオオン!!
「こちらはおりません!!」
「きゃあああ!!お父様!!」
「令嬢の部屋にいたのはあばずれだけです!!」
ドオオオオオオン!!
「こちらにもおりません!!」
「な、なにをなさっているの!!こちらは伯爵夫人の部屋でしょう!!ああ!!ベッドの下なんているはず無いでしょう!!ベッドをこわさないでえええ!!」
ベイリーは屋敷のそこかしこで怒る娘や妻の悲鳴と破壊音に脅え、この惨状を作り出している男に向かって駆け寄った。
「止めてくださいいいいいい!!」
「ハハハ。嫁を探しているだけだ。邪魔をするなああ!!」
辺境伯はベイリーを簡単に振り払うと、再び屋敷中に向かって大声を響かせた。
「壁も壊してしまえ!!大事な嫁が隠されていたら大変だ!!」
わあああああああああああ。
どおおおおん。
どごおおおおおおおん。
笑いを含んだ多くの大声が黒騎士に呼応しさらに破壊せんとする破壊音まで重なる。イスタージュ伯爵家のタウンハウスは、グラグラと大笑いしているかのように揺れる。
「やめて、ああ、止めてくれ!!お願いだから許してくれええ!!」
ヴェリカは屋敷中で引き起こされている破壊音と悲鳴に、脅えるどころかわくわくと高揚するばかりである。
何かが壊れる音と共に、幽閉されて来た彼女の悲しみも砕かれていく。
彼女は自分が閉じ込められている扉の前に立つ。
彼女はドラゴネシア辺境伯に捧げるために白いドレスを着ている。
そのドレスも昨夜のドレスを作成した針子の手によるものだ。
「お母様の真珠で彼女は足りたかしら。お父様達を見送った葬送用のネックレスだから最後まで奪われずに済んだのは皮肉ね。それで私が逃げ出せる事が出来たのならば、亡くなったお父様達こそ喜んでくださるわよね」
ヴェリカの両目から涙が零れた。
重量がある確かな足音が彼女に向かってくる。
さあ、その足音は今や彼女の部屋の目の前だ。
「扉を破壊します。人がいるなら下がって下さい」
聞いたことの無い低い声に、ヴェリカは歯を食いしばった。
彼女は昨夜からずっと考えていたのだ。
昨夜出会ったあの男性を想ってしまう自分を、これからどうやって辺境伯から隠して生きて行こうか、と。
彼女の脳裏に、一瞬だけ傷ついたように見えた彼の表情が思い出される。
彼女はぎゅっと両目を閉じた。
どおおおおおおおおん。
彼女を閉じ込める扉は砕かれた。
鎧姿の金髪碧眼の美しい男性がヴェリカに向かって頭を下げる。
彼女は拳をぎゅっと握った。
違う、彼は近衛騎士のジュリアーノ・ギラン。
そう、先程の声は彼のもので、私の騎士じゃ無いはずよ。
ぎし。
重い足音が彼女の牢獄へと一歩入り、床を軋ませた。
黒騎士はヴェリカに右手を差し出す。
ヴェリカはその手を握ろうと手を伸ばしたが、彼の手に触れる前にそのまま引いた。
彼女は顔を隠したままの兜を見つめ、申し訳ありませんと呟いた。
なぜならば。
どうして自分が騎士の声に拘ったのかわかったのだ。
「できません。私はあなたを愚弄できません。昨夜お会いした名も知らぬ方に心を奪われてしまいました。別の誰かを想ったままあなたに嫁ぐことはできません」
黒騎士は彼女に差し出していた右手を引き、そのままその手を上へ持ち上げる。
カシャン。
黒騎士が兜のバイザーを上げた金属音が響く。
バイザーが消えたそこには、ヴェリカがもう一度見つめたかった人の顔があった。
恐ろしい鎧姿には似つかわしくない程の照れた表情をして、彼は昨夜のようにセージグリーンの瞳を嬉しそうに煌かす。
「君に名前を無理矢理語らなくて良かった。語っていたら、今みたいな告白は君から一生聞けそうも無いからな」
ヴェリカは憎たらしい男の胸を両手で突き、そのまま彼に抱きしめられた。
爪先立って目を瞑れば、唇に柔らかい彼の唇も感じた。
「君を奪いに来た。我が妻よ。嫌でも辺境に連れて行く。ただし、歩いてくれ。甲冑だと君を持ち上げられない」
「ええ。歩きます。あなたのお陰で世界への扉が開いたのだもの。私は自分の足で自分の行きたいところに参ります。どこまでも、あなたと一緒に歩かせていただきますわ」
とある日の早朝、王都にて騎士の暴動が起きた。
貴族のタウンハウスが並ぶ一角にて閉じ込められていた姫の奪還が行われ、同時刻には王都の金融街にて財宝の強奪が行われていたのである。
数人の財産管財人と名乗る身なりが良い男達と一緒に銀行の窓口に現れた老齢の紳士は、幸せこの上ない笑顔で隠し金庫にあった品を受け取った。
「旦那様と奥様にようやく素晴らしいご報告が出来ます。お嬢様が奥様と同じ宝石を纏って嫁がれる姿を目に出来るとは、老骨に鞭打って生きてきたかいがありました」
数か月後、王都に若き店主による衣装屋が開店し、彼女の店は半年もしないで上流階級の貴婦人達の注文が殺到する有名店へと成長した。
その店を特に懇意にしているのは、ドラゴネシア侯爵夫人と、国中の女性の憧れとなっているジュリアーノ・ギランと結婚予定の国一番の美人と評判のレティシア・ドラゴネシア伯爵令嬢である。
麗しのドラゴネシア侯爵夫人の実家は、当主であったベイリー・イスタージュが心身の消耗を理由に爵位を返上し、遠縁の若き騎士ジュリアーノ・ギランが爵位を受け継いだ。ベイリーによって惨憺たる状況の領地は、ギランの手腕とドラゴネシア侯爵の融資で数年しないで再生し、イスタージュの系譜にギランの名がどうしても見つからないと騒ぐ貴族も口を完全に閉じている。
また、ギランの妻の婚約者だった青年は、婚約破棄の後すぐに債務者牢獄に収監された。
裕福な婚約者との結婚を見越して商店は彼に高額な買い物を許していたのであり、その信用が消えれば借金の取り立てなどは一斉に起こるものなのである。
数か月後に兄によって彼は債務者牢獄から出て来ることはできたが、彼の兄である侯爵の怒りは収まらず、移住船に乗せられて新天地へと追い払われた。
「ヴェリカ、社交欄ばかりそんなに読んで。君は王都に戻りたいのかな?」
ヴェリカは自分の大きく膨らんだ腹に手を当てて、急に何を言い出したのかと愛する夫を見上げた。
動けると思いますか?このお腹が見えませんか?
そう尋ねるべきだろうか、と。
しかし、ヴェリカが爆発しそうだと毎日ビクビク脅えて大きな体を日々小さくしている夫をこれ以上虐めるべきでは無いと思い直し、自分が見ていた新聞の記事を夫に見えるように広げた。
「生まれて来た子の体重と大きさのぬいぐるみを作ってくれるお店ですって。素敵ねって思ったの」
恐ろしい男と脅えられ、彼が笑うと乙女が気絶するとまで言われた男は、砦を揺らすほどの大声で笑い出した。
笑い声が少々乾いているなとヴェリカが見つめていると、彼は、ごめん、と謝った。
「何がごめんですの?」
「俺は大きかった。すごく大きかった。母も凄く大きな女性だったから耐えられたが、君は凄く凄く小さい。なのに、俺は凄く大きな子供だったんだ」
ヴェリカは腕を広げた。
ダーレンはすぐさま彼女の横に座り、彼女の腕に素直に抱かれる。
「あなたが今も凄く大きな子供だって分かっているから大丈夫。私のお父様は大きな人だった。私はお父様の方のおばあ様似だから大丈夫。小さな鼠こそ多産だから大丈夫よ」