第6話 闇の底、夏の思い出、小さな角のカブト
闇の底に沈む意識を覚醒させたのは、うだるような蒸し暑さだった。
……ジージージー。
油で食べ物を揚げるような鳴き声という由来のアブラゼミが、やかましく求愛している。
同じセミでもヒグラシと比べたら、風情もへったくれもない。
夏の暑さで狂った男が殺人を犯す話を耳にしたことがあり、初めてそれを知った時は、そんな理由で人を殺すのかと驚愕した。
しかしクーラーの利いていない屋外で立っている今なら、その男の気持ちがわかる気がする。
このまま、ここにいたら気がおかしくなる。
瞼に垂れる汗を拭って視界に映ったのは、太陽の光さえ届かない曇天に覆われた、近代的な田舎町。
元の世界に帰ってきた?
青年は一瞬そう思った。
しかし、これもヴォートゥミラで見る夢という気もする。
はたして、どちらが現実なのだろう。
それとも全てが幻なのか。
頭が混乱しそうだ。
小難しいことは後にして周囲に目をやると、見覚えのある集合団地が現れ、石動は息を吞む。
「ここって、昔住んでた……」
引っ越す前に四人家族で暮らしていた、ツツジ団地。
ボロくて、階段を登るとあちこち蜘蛛の巣が張っている、廃墟のような不気味さを醸し出す、黒ずんだコンクリート製の集合団地だ。
そこの4-1号が、僕たち家族の思い出の場所だった。
いい思い出も苦い経験も、ツツジ団地に全て詰まっていた。
春は団地の裏手の草むらで、ショウリョウバッタを追いかけた。
夏はカブトムシとセミ探しで、木に食らいついた。
秋は生け垣に止まるノシメトンボの前で指を回し、首を傾げるトンボの仕草に頬を綻ばせた。
思えば春、夏、秋と巡る季節の殆どを、僕は昆虫たちと過ごしていた。
呆然と立ち尽くしていると、そこから一人の茶髪の少年と、若い母親が白のTシャツ一枚に短パンという軽装で飛び出してくる。
石動は我が目を疑った。
間違いない。
―――子供の頃の自分と、若く溌剌とした母親の姿があったからだ。
「祐、虫取り楽しみだね。いっぱい取れるといいね」
「うん。でも1番大きい奴以外は自然に還してあげるんだ〜」
「祐は優しいね」
親子の何の気なしの会話。
こんな世間話も、遠い過去の出来事のように思えた。
高校を中退して以来、この程度の世間話をするのもどこか壁があったから。
(……母さん、今はどうしてるんだろう。僕がいなくなって、せいせいしたかな。世間に顔向けできない息子だもんな)
「……死ぬ前に見させられるのが、これか」
ヴォートゥミラでは日々の暮らしに忙殺され、現実のことなど考える暇すらなかった。
幸か不幸か、母の姿を見ることになろうとは。
ふと呟いた瞬間、少年と目と目が合う。
(まずい、不審者だと勘違いされちゃうか?)
肝を冷やした青年は、体を硬直させる。
この場から離れるのが最善と理解はしていても、蛇に睨まれた蛙のように、動くに動けなかった。
…顔や体中から大粒の汗が噴き出す。
どう取り繕えば、この状況を切り抜けられる?
「あれっ、おかしいな〜。誰かに見られてる感じがしたんだけど」
「そうなの? 変な人についていったらダメよ」
「はーい」
(……見えてないのか?)
とりあえず通報されずに済んだと、現実的な心配をした後、青年はほっと胸を撫で下ろす。
昔の僕の反応を見るに、意識だけが残っていて、肉体はヴォートゥミラにあると考えるのが自然だろう。
ここは死後に見る、泡沫の夢のようなもの。
神の存在など信じてはいない青年も、慈悲くらいはあったのかと、その時ばかりは天に感謝した。
最後のひとときで、自らの死を受け入れることが叶うかもしれないと。
「……せっかくだし、二人の様子でも眺めてみるか」
特にやることもない青年は、既に二人の後を追う。
親子が向かう場所はわかっていた。
当時通学していた小学校のグラウンドの端っこには、クヌギの木が1本植えられていて、夏場は昆虫採集の穴場スポットなのだ。
石動の読み通り、母子は閉じた校門を乗り越えて、学校へと侵入していく。
「母さーん、こっちこっち!」
「待ってよ、祐」
子供の虫に対する熱意は、目を見張るものがある。
母親を置き去りにするほどの速さで、少年はクヌギに辿り着くと、木に蹴りを入れ続けた。
一見野蛮だが、こうすると効率よく昆虫が落ちるのだ。
木をねめつける視線はさながら、獲物に狙いをさだめる猛禽類のようだ。
地面に何かが堕ちる度に、木の周辺の雑草に目を配る。
「祐、何かいた?」
「ゲェッ、カブトのメスだ。いらなーい」
「残念だったね。獲れるといいね」
そういうと少年は雑草に、昆虫を放り投げていく。
子供というのは、残酷なことをするものだ。
ただ踏み潰したりしないだけ、まだ良心的なのかもしれない。
(こんなことしてたなぁ、懐かしい)
「あっ、これは……ちょっと来て、祐」
思い出に浸っていると、母親が突拍子もない大声で少年を呼ぶ。
当然、青年の目も母に釘付けになる。
「ほら、祐の好きなカブトムシだよ」
近寄った少年に、母は角が半分ほどしかないカブトムシを得意げに見せびらかす。
カブトの角は敵を投げ飛ばすのに用いるのだが、ミニサイズの音叉のような角は、明らかに戦うのに適していない。
「やだやだ、もっと角が大きくて強そうな奴がいい!」
少し角の小さいカブトムシに納得がいかない少年は、駄々をこねた。
母親は眉間に皺を寄せ、幼い祐を叱りつける。
怒鳴られた少年は子供らしく頬を膨らませて、『自分は怒っているぞ』と、わざとらしくアピールしている。
「わがまま言わないの。角の大きな子も小さな子も自然を生き抜いた、立派なカブトムシなのよ。みんなカッコイイじゃない」
「え〜、せっかく苦手な早起きしてきたんだから。ね、お願い。あと少し虫取りいいでしょ」
根負けした母はうつむいて溜息をつく。
何とかして言うことを聞いてもらわないと。
そんな母の心の声が漏れ出るかのような、溜息だった。
「もう一匹捕まえたら満足する? 家に着いたらそうめんね」
渋々といった様子で、条件を提示する。
大人は忙しく、いつまでも虫取りに時間を割くわけにはいかない。
子供の意思をある程度尊重した、苦肉の策だ。
「毎日そうめん飽きたぁ〜。たまには違うのが食べた〜い」
「いい加減にしてよ、もう」
口を開けば愚痴ばかりで、欲望に忠実な、よくいえば子供らしい子供だった。
今の自分はどうだろう。
大人らしい大人になれているだろうか。
自分が大きくなったら立派になると、未来を信じていた少年に恥じない男に。
(僕は落ちこぼれだし、いまさら普通の人間にはなれない。でも人の道から外れてないつもりだ。それだけは胸を張って誇れるよ)
無職は大量殺人を犯すから、その前に国や親が殺してしまえ。
人種差別する低学歴の連中と比較して、高学歴の人間はLGBTや環境問題に関心があり、差別などしない文化的で素晴らしい人格者だ。
恋愛できない人間は、人格に問題があるに違いないから性淘汰されろ。
同調圧力や偏見、罵倒を挙げればキリがない。
だが世の中を見渡せば、世間様から後ろ指を差されない、ろくでもない人間など腐るほどいる。
根拠のない世間と社会の常識に流されて、ビクビクしながら、普通の人になるよう努めるのが大人とは思いたくない。
けれど馬鹿で慢性的に無気力な僕には、くだらない世間を黙らせる知識もなければ、押しつけがましい常識を跳ね除けるだけの力もなかった。
ただ1つだけ言えるのは社会の爪弾きにされた人々が、世間と常識に従っても、一切の得がないということだけだ。
(立派な大人、か。たぶん正解なんてものはないんだろうけど)
答えのない人生という名の道も、万人が平坦ではない。
富める者が富む。
つまり金持ちがさらに金持ちになるのが、資本主義の現実だ。
生まれながらに勝利を約束された人間もいれば、もがいても何者になることもできない人間だって数多くいるだろう。
僕は後者の人間。
そういう人間が世の中に文句を言ったところで甘え、自己責任と切り捨てられるのがオチだ。
自嘲する青年は
「祐、祐! こっち向いて! じゃ〜ん、すごいの捕まえちゃった!」
少年に向けて放つ母親の言葉を耳にして、思わず声の方に視線を向けた。
(この子に言ったはずなのに……)
年不相応な無邪気さではしゃぐ母の、屈託のない笑顔など久々に見た。
その表情に、青年の胸は締めつけられた。
自分は母さんにとって重荷だと、突きつけられた気がして。
「おお〜っ、すっげぇ!」
母の手にした昆虫に少年は目を光らせる。
母親にばかり気を取られてしまっていた。
目をやると、甲冑を全身に身に纏ったかのような姿に、石動も目を奪われた。
赤茶色の光沢。
牡牛の力強い二本角を彷彿させるフォルムが特徴的な大きく湾曲したハサミ。
カブトムシと同じ子供たちの憧れ、ノコギリクワガタだ。
過去は悪魔と称された昆虫たちだが、僕には神の造形美にしか映らない。
悪魔と蔑まれた異教の神々や霊も、かつては天使だった。
単純な善悪二元論よりも、天使も悪魔も紙一重の存在だと、僕にはしっくり来る。
「うわ、すっげぇかっこいいなぁ。こいつとは大違いだよ」
「祐、もうそろそろ帰ろうね」
捕まえたクワガタを虫籠に入れ
「ちぇっ。今度はもっと大きいの捕まえるから」
少年は中にいたカブトムシに吐き捨てる。
不満げだったが角が小さかろうが、カブトムシはカブトムシ。
カブトムシはカッコイイのだ。
母親の言葉を頭の中で反芻させ、少年は何とか自分を誤魔化しつつ、声を張り上げる。
「よーし、カブβ、クワα。帰ったらお前らも、ご飯の時間だぞ」
「もう名前つけたの?」
「知らないの? カブβ、クワαは夕食王の主人公、佐藤夕食の切り札モンスターなんだよ」
「夕食王のアニメやるの火曜日だから、ちゃんとビデオに録画しないとね」
虫かごに入れたカブトムシにつけた名を呼ぶと、勇み足で我が家へと向かった。
当時大流行していたカードゲームの、カードの名前から取った安直すぎる名前に、石動は吹き出す。
今は遊んでいないが、コンビニやゲームショップに赴けばカードが売買されており、繁盛しているらしい。
「日曜日、楽しみだね」
「うん。遊園地なんていつ以来だろ。日記に書くこと、たくさんしようっと」
「……あんまり親らしいこと、できないでごめんね」
「?」
週末の予定を語らう少年と母親の背中を眺めて、石動は思いを馳せた。
少年は母を見上げるも、口をぽかんと開けていて、何が何だか理解できない様子だ。
決して裕福とはいえないが、人並みに遊ばせてやりたい。
貧しさを理由に、この子に苦労をさせたくない。
そんな母親なりの苦悩が漏れ出るような一言が、歳を取ってわかった。
けれど苦しいと言いたくとも、それを悟らせまいとする大人のプライドだ。
物憂げに見下ろす眼差しを閉じ、口角を吊り上げると、表情を明るく切り替えた。
痛々しい笑顔につられ、少年もニコリと微笑み返す。
幼い僕に母の苦悩など知る由もなく、母を救おうという気持ちは、さらさらなかったはずだ。
けれど少年の純朴さが、幾分か母の励みになっていたのではないか。
「ホントに子供だな、昔の僕は。もう少し利口だったら、まともに生きれたかもしれないのにね」
人知れず誰かの役に立っていて、社会というものは回っている。
小さな少年だったかつての僕も、社会の一員だったのだ。
今の僕はどうだ。
卑屈で自分の殻に閉じこもり、実社会でもネットでも、不快な他人との関わりを断ってきた。
自分のような人間に当たりのきつい社会への、せめてもの抵抗だ。
(人生なんてなるようにしかならない。けど悪魔に殺されるなんて想像もしてなかったな。罰が当たったんだ)
死を願ったのは、一度や二度ではない。
僕以外にも、誰しも想像した経験はあるはずだ。
けれど、ヴォートゥミラに招かれて僕は気づいたことがある。
盗賊に襲われた時。
ハリーと斧を向けられて、交渉をした一幕。
そして娼婦の女から刺され、悪魔に襲われた後、高所から落下させられた一部始終。
ヴォートゥミラで死ぬことは、あまりにも簡単だった。
むしろ数多くの障害を乗り越え、生きる方が大変だったはずだ。
死にたいはずなのに生にしがみつき、死の直前を迎えても、なお活路を見出そうとする。
―――僕は生きることに貪欲だったのだ。
生物界で例えるなら、僕はさっきのカブトムシ。
いかに戦わずにして、命を次代へつなぐ。
人は馬鹿にするだろうが、しかし小さな角のカブトムシには、彼なりの生き様がある。
なりふり構わず生きようとすることが罪ではないはず。
どんなに蔑まれようとも、生きることが生物としての本分。
それでも自死を選ぶ人間は後を絶たない。
生と死の狭間で悩む唯一無二の存在である人間は、他の生物から見れば愚かな存在だ。
しかし、そんな矛盾が人を人たらしめているのかもしれない。
(うおっ、なんだ!)
突如、稲光が落ちたかのような閃光が走り、石動は瞬間的に瞼を閉じた。
すると
「……ユウ、死なないで」
「祐、随分こっちに来るのが早かったね。でもおじいちゃんやおばあちゃんと一緒なら、寂しくないだろう?」
どこからともなく直美の湿っぽい声と、老爺と老婆に名を呼ばれた。
待つのが生か死か定かではないが、どちらにせよ、ここにいられるのは最後のようだ。
僕が光差す方へと歩み始めると、次第におじいちゃんやおばあちゃんの掠れた声は遠のいていく。
一抹の寂しさを覚えた青年が振り返るも、そこには誰もいない。
かと思いきや、角の小さいカブトムシが彼を見送るみたいに、足元をうろついていた。
(カブβだ。改めて思えば、初めて生き物の死を知ったのは君のお陰だな)
「ついてきてくれたんだ。ありがとう、もう大丈夫だよ。僕もいずれここに来るから、しばらくゆっくりしててね」
そういうと青年の言葉を理解したのか、闇に向かって飛んでいく。
今は亡きカブトムシに黙祷を捧げて、祐は闇の中で誓った。
(僕の命がまだ続くなら、ただ1つだけ願わせてくれ。立派でなくてもいい、嗤われてもいい。ただ……ただ僕が……僕に……)
ここにいるのも長くはない。
青年が暗黒の世界に祈ると、体がふわりと宙を舞い、周りが騒がしくなっていったのだった。