第6発 親友の消滅
あれから気まずくなってなぎさとはすぐに解散した。そんな彼らの気分をあざ笑うかのように、すぐに雨はやみ、翌日には雨の気配などみじんも感じない空になっていた。携帯の天気予報アプリによると、降水確率は20%でまず降ることはないらしい。
その日の放課後、新城は例によって理科室である人物を待っていた。もちろん要件はなぎさの靴にセロハンテープを貼り付けた件である。
正直、新城は誰がやったのかの見当はついていたが、なぜこんなことをやるのか、その動機についてはよく分からないままであった。はっきり言えることは、柳を消滅させただけではなぎさを安心させることはできないということだった。彼は足元に置いてある鞄に視線を一瞬落としたあと、また扉の方を見つめた。
そうしているうちに理科室の扉が開き、その人物がやってきた。扉からその人物に視線を移す。入ってきた人物は辺りをキョロキョロと見回し、手をモジモジさせながら彼へと近づいてきた。
「よう」
新城は右手を軽く上げて適当に挨拶した。すると、彼女もそれに反応して軽く会釈し、彼の目の前に立った。
「あ、うん。あの……その……話って?」
彼女――勝本明は視線を下に向けて新城にそう問いかけた。話をさっさと進めるため、彼はその質問に極めてシンプルに答えることにした。
「どうしてなぎさの靴にセロハンテープを貼り付けたりしたんだ?」
「……え?」
それを聞いた勝本は新城の方に視線を移し、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべた。紅潮していた彼女の頬が次第に青ざめていく。その反応は、誰がどう見ても彼女が犯人であると確信させるものであった。新城はさらに続ける。
「実は今日勝本さんが貼り付けるところを見てたんだよ。気づかなかったでしょ?」
ニヤリと笑う。しかし、実際のところ彼はその場面を目撃していなかった。昇降口を見張ろうとは考えていたのだが、その日に限って先生から雑用を頼まれるなどの急用が入ってしまったのだ。そのせいで監視ができず、新城が急いで靴を確認したところ、すでにその嫌がらせが完了していた。
要するにハッタリである。確認できなかったのなら次の日に回す手もあったが、勝本も所属しているテニス部の今週の休みは今日しかない。放課後に誰の目にも触れることなく話ができるのはこのタイミングしかなかったのだ。ただそういった理屈よりも、新城としては一刻も早くこの件を解決したいという思いの方が強かったのだが。
対して勝本は先ほどから一言も発しないまま顔を下に背けていた。新城からはその顔が見えづらかったが、入ってきたときに見せていた顔とは正反対のものだった。その様子を見てハッタリが上手くいったのだと新城は確信し、更なる追撃をかけた。
「どうしてこんなことしたんだ?なぎさの親友だったんだろ?なんで――」
「親友?」
冷たくて暗い、しかしはっきりとした声。今までの勝本からは考えられない声が、新城の背筋を凍らせた。下を向けていた目がいつの間にかまっすぐと彼を見つめている。その目は眼鏡でも隠し切れないほどに闇に包まれていた。
「私とあいつが?冗談じゃない!あんなやつ話したことすらない!」
勝本は語気を荒らげながら手の痛みを気にすることなく机を力強く叩いた。その重みのある音は、彼女の怒りを正確に表現していた。
新城は彼女の変貌とその言葉に驚きを隠せなかった。勝本と二人で話したことはほとんどなかったが、なぎさと仲が良さそうに話しているところを何回も見たことがあった。内心では親友と思っていなかったにせよ、話したことがないというのはありえない。
そこまで考えて新城はある可能性を思いついた。それは、柳裕二の消滅に伴う過去の改変である。柳が最初からいなかったことになったために、本来あったなぎさと勝本の接点が消えてしまい、このような現在が生まれたのだ。認識がズレていたのはこのせいだった。
「じゃあ、なおさらどうして嫌がらせなんかしたんだよ?」
当然の疑問であった。嫌がらせをするということはその者に悪感情を持っているということであり、その者に悪感情を持つためにはそれなりに関わりを持っていなければおかしい。勝本がなぎさに対して陰湿な行いをする動機がないのだ。しかし、そんな新城の思考をあざ笑うかのように、彼女は冷たく言い放った。
「へぇ、そういうふうに考えてるんだ。やっぱり持ってる人って考え方が根本的に違うんだなぁ」
先ほど見せていた怒りが無かったかのように、勝本はうっすらと笑みを浮かべていた。新城は不気味さを覚えながら、その言葉の意味を問いただす。
「は?どういう意味だよ」
「聞いたことない?優れている人は性格がいいって。他人よりも優れていることが分かっているから、絶対的な自信が付いて他人を思いやれる余裕が持てるんだって」
「あるけど、それが?」
彼も一度は耳にしたことのある言葉ではあった。だが、彼女の言わんとすることがなんなのか分からなかった。
「私もこの言葉は正しいと思う。でも反吐が出るほど嫌い。だって裏を返せば、劣っている人は劣っている上にひねくれた性格をしてるってことじゃない。これ以上に救いのない話はないわ。そもそも優劣を決めるのはただの運なのにね」
新城はしばらく黙っていることにした。彼女の言葉が正しいかそうでないかは問題ではない。重要なのは話し合いで解決できる余地があるかどうかなのだ。
「持ってる人って運で全て決まるってことをどうしてか認めたがらないのよね。そういうやつに限って努力すれば夢はかなうだとか寝言ほざいてくれる。本当にくだらないわ」
勝本は吐き捨てるように誰かが言った言葉を否定した。そして、暗い顔をしながら話を続ける。
「じゃあ聞くけど、不細工がモデルやアイドルになれるの?そりゃ化粧とかすれば多少は誤魔化せるかもしれないけど、元がいい女には絶対勝てない。あの女がいい例。中学のときから化粧なんてしてなかったのにずっとずば抜けてたし、常に男が傍にいたわ」
否定はできなかった。新城も、いや誰もが分かっていることだからだ。顔の造形や身長など、当人の努力だけではどうにもならない領域があることは間違いではないのだ。
「一方の私は地味で、暗くて、気持ち悪くて、日陰でうずくまってるしかないダンゴ虫同然の存在だった。正直、羨ましかったわ。あの女は見た目だけじゃなくて頭もよくて運動もできたし、性格だって良くて皆から愛されてたから」
彼女の顔はどこか痛々しかった。苦虫を嚙み潰したように、自分のことを、なぎさのことを語っていた。
「私もああなりたかった。見た目はどうにもならなかったから、それ以外でなんとかしようって、勉強も運動も、性格だって良くなろうと必死に頑張った。でも、私には全てを手に入れられるほどのポテンシャルはなかった。それでも腐らずに、せめて勉強だけでも、それだけでもあの女に勝ろうと努力した」
勝本の目に涙が溜まっていく。あやうく溢れそうになったところで、彼女はそれを乱暴に拭った。
「結果は惨敗。他の全てを捨ててまで挑んでも勝てなかった。一方のあの女は部活を楽しみ、友達とカラオケで熱唱し、彼氏とイチャイチャして青春を全力で満喫してた。もうここまで来ると笑っちゃうわよねぇ。凡人が死ぬほど努力しても、天才にちょっと努力されるだけで太刀打ちできなくなるんだもの」
そう言葉を紡ぐ勝本は本当に笑っていた。その笑顔はどこまでも虚ろで実体のないものだった。
「天は二物を与えずなんて大嘘よ。天は特定の個人に何でも与えることもあれば、何一つ与えないこともある。どこまでも不公平で不平等、これが現実。だから、私はそれを正したいの。持ってない人が報われないのなら、持ってる人が少しだけ痛い目を見てもいいじゃない。どうせ十年も経てば笑い話になるのよ?現に去年同じことやったのに、一年経ったらすぐに忘れて下駄箱に靴を置くようになったじゃない」
(去年も同じことを?)
新城にはその記憶が無い。過去がどう変化したのかが分からないからだ。
しかし、そんなことは重要ではなかった。重要なのは彼女がなぎさに嫌がらせをした理由が判明したことだった。それは、どこにでもある感情が暴走した、どこにでもある話だったのだ。
だが、彼は勝本の気持ちを理解しながらも、到底許容できなかった。固く閉じていた口を彼はようやく開き、毅然とした態度で反論した。
「でも、俺たちは今を生きてるんだ。たとえいつか思い出になるとしても、理不尽な悪意で今を台無しにされちゃたまらないじゃないか」
「理不尽っていうならこの世界そのものがそもそも理不尽じゃん。みんな気づいてるくせに、持ってる人は持ってない人に配慮してくれない。理不尽を正してくれない!そのくせに持ってない人が振るう理不尽だけは許してくれない!理不尽を許容してるくせに、どうして私の理不尽を許容しないのよ!?都合のいい理不尽ばっかり許容してんじゃねえよ!」
まさにそれは魂の叫びだった。勝本はもはや涙がこぼれることなど一切考えずに、ただただ不平不満を、そのありったけを新城にぶつけているようだった。
気持ちは分からないでもなかった。新城も、自分よりも恵まれた者に嫉妬することくらいあった。だからこそ、その考えを正したいと彼は思った。話し合いで解決することができれば、それに越したことはないのだ。
「じゃあ、勝本さんは理不尽に悪意をぶつけられても許すのか?」
「はぁ?」
突然投げつけられた言葉に勝本はイマイチ反応できなかったのか、涙の勢いが少し衰えていた。
「勝本さんはなぎさばかり見てて分からないかもしれないけど、君よりも持ってない人ってたくさんいるんだよ?そんな人からすれば勝本さんは憎たらしくて仕方ないと思う。この世は理不尽だって叫ぶだろうね。だから、君に理不尽をぶつけてもいいじゃないかって考える。君はそれを許してくれるんだろ?」
「それは……」
そこまで言いかけて、彼女は口を閉ざした。問い詰めたときと同じように、顔を下に向けて新城の顔を見ようとしない。
「それに理不尽を正そうとしないって言うけど、それなら君はどうなの?君よりも恵まれない人たちが大勢いることくらい知ってるはずだ。でも、君は彼らに何かしてあげたのか?子どもだからって言い訳は通用しない。なぎさに嫌がらせするのは筋が通らないからね」
「う……あ……」
もはや勝本のそれは言葉ではなく鳴き声だった。両手で頭を抱え込み、母音ばかりを出し続け、ついに彼女を包んでいたベールが崩壊した。
「だったら……だったらなんだって言うの!悪いのは全部あの女よ!私の欲しいもの全部奪い去って、楽しそうに笑いやがってぇぇぇ!!」
絶叫が理科室を響かせた。ここまでくると、校内にいる人に騒ぎが聞こえてしまうかもしれない。新城は静かにさせるべく、急いで次の言葉を放った。
「落ち着いて勝本さん。他の人が来たらまずいよ」
「ふぅぅぅ……はぁぁぁ……」
自分の無様な姿を見られたくないと思ったのか、勝本は彼の言葉に従って深呼吸を繰り返して元通りとはいえ、落ち着きを少し取り戻した。それを見た新城は説得を再開した。
「もうやめよう。なぎさに理不尽をぶつけても誰も幸せにならない。人を恨むよりもいい時間の使い方があるはずだ」
「……やめる?それこそ理不尽じゃない。持ってない人は理不尽に耐え続けろっていうの!?ふざけんじゃないわよ!!」
落ち着いたかに見えた勝本は再び激昂し、叫びをあげた。もう彼女が掲げた正義はそこにはなく、ただただ子どもじみた言い訳を喚き散らしているだけだった。
「ちょっとくらい痛い目見てもいいじゃない!あの女だって一年で忘れるのよ!高校時代のちょっとした辛さだってすぐに忘れる!!どうして――」
新城の耳には彼女の言葉が届いていなかった。いや、校舎の外に漏れそうな声量が聞こえないはずはない。ただ彼の脳が判断したのだ。もはや対話をする意味はないと。
彼女は自分よりも優れた人物がいるのが耐えられないのだ。だから、セロハンテープのように地味な嫌がらせをする。しかし地味とはいえ、それはなぎさを怯えさせ、楽しい学校生活を台無しにさせる罪深いものなのだ。話をしても解決しないのなら、根本から取り除くしかない。
新城は鞄から消滅銃を取り出し、勝本へと向けた。一連の動作には一切の淀みがなかった。
「……え?何……?」
それまで彼女の口から出ていた大声がピタリと止まり、状況に困惑したような様子を読み取ることができた。だが、新城は彼女がどう思おうが気にすることはなかった。
「……こだわらなければもっといい人生を送れたのにな」
小さく呟き、引き金を引く。直後、世界は真っ白に染まった。
意識的か、あるいは無意識的か。そのとき、彼の口角は僅かに上がっていた。