第2発 消滅の意味
途中で早退した新城は一直線に家に帰り、自室へと向かった。ドアを開けると、机の上にジュラルミンケースが今朝と変わらない様子で置かれていた。ケースを開け、中身も動かされていないことを確認する。彼は胸をなでおろした。
親が自分の部屋に入ってくるはずがないとは分かっていたが、それでも彼は気が気でなかった。消滅銃が本物だと分かった今、この存在を誰にも知られるわけにはいかないのだ。
新城はジュラルミンケースの中にある【消滅銃と消滅弾の取扱説明書】を取り出し、その内容をもう一度確認した。
この消滅銃に消滅弾を入れて人に撃って当てると、撃たれた人物は消滅する。
消滅とはその人物が最初からいなかったことになるということである。
※ここから、消滅した人物を『消滅者』と呼び、消滅させた人物を『抹消者』と呼ぶ。
消滅弾は消滅銃に込めなければ効力を発揮しない。
消滅銃の上部のボタンを押すと、消滅弾を装填できるシリンダーが出現する。
消滅銃を人以外に撃っても効力を発揮しない。
服や装飾品に当てても、人が身に着けているのならその人物は消滅する。
人に当たらなかった場合、発射された消滅弾は消滅する。
消滅者に関するあらゆる記録、記憶はこの世界から消えてなくなる。
ただし抹消者のみ、消滅者に関する記憶を保持する。
消滅によって過去や現在も変動する。
抹消者は過去や現在がどう変動したのかを記憶しない。
消滅銃を撃っても発砲音は出ない。
消滅銃に消滅弾が1発でも装填されていれば、不発にならない。
安全装置は搭載されていない。
消滅銃と消滅銃はいかなる手段を用いても破壊できない。
この取扱説明書通りならば、やはりあの痴漢は電車からだけでなくこの世界そのものからも消え去ったということになる。それだけではない。彼が生まれたことすらも無かったことになったのだ。彼が生きていた証は全て失われ、もうこの世のどこにもひとかけらも存在しない。それは、死よりもはるかに恐ろしいことだった。
(俺が……やった……)
それを改めて認識し、全身から汗が出る。運動した後に出てくるようなどこか清々しい汗ではない。それは拭っても拭っても身体から噴き出し、止まることがない。それにつられ、心拍数も上昇して呼吸も荒くなっていく。彼はここで初めて、自分が何をしてしまったのかを自覚した。
鞄に入っていた消滅銃を取り出し、取扱説明書とともにジュラルミンケースに詰め込む。忘れ去りたい過去ごと、その全てをベッドの下へと押し込んだ。
翌日。部活にも入っていない新城にとって土曜日はだらだらできる素晴らしい日だが、今日に限ってはそうのんびりした気分にもなれていなかった。一夜明けたあとでもまだ後味の悪い感覚が抜け切れていない。
(はあ……)
しかし、どうしようもないことだった。罪を償うことはできない。できることは一刻も早く忘却し、現実から目を背けることくらいだ。彼は長い長い溜息をつき、逃げ込むようにテレビをつけた。適当にチャンネルを切り替えると、昔はよく見ていたアニメ番組が写る。なんとなくそれを見続けた。
そうやってボケっとしていると、ポケットに入れていた携帯が振動した。取り出して画面を見てみると、『14時、なぎさと駅前で待ち合わせ』と書いてある。新城はようやく今日は予定がある日だということを思い出した。
今週の月曜、なぎさから土曜日に映画に行かないかと誘われ、忘れそうだからとリマインダーに予定を書き込んでおいたのだ。色々あったとはいえ、案の定忘れていた。
時計を見ると11時半で、駅前に行くまでに15分ほどしか時間がかからないのでまだまだ余裕があった。彼は月曜の自分の判断を称え、少しずつ出かける準備を始めることにした。正直いって全く乗り気ではないものの、彼女と一緒にいれば少しは気分が晴れるかもしれない。そう思い、新城は着る服を選ぶべくクローゼットを開いた。
13時50分に駅前に到着すると、まだなぎさは居なかった。彼女は遅刻するタイプではないけれど早めに来るわけでもないのでさして驚きはない新城だったが、少々気になることがあった。なぎさはデートをする前には遅刻しないように必ず新城に連絡してくるのだが、今回それが無かったのだ。こちらから連絡を取ると返事が来たものの、それでも違和感を覚えずにはいられなかった。
「……お待たせ」
それから待つこと10分。予想通り時間ぴったりになぎさは待ち合わせ場所に到着した。もう冬に近い秋だからか夏よりかは服を着こんでいたが、それでも足をしっかりと出す白系のスカートを履いていた。それに対して新城は黒系のパーカーを着込み、肌を出さない長ズボンを履いている。そんな重装備の新城からすれば彼女の軽装はとても考えられるものではなかった。世の女性は大変な思いをしているのだなと秋冬の彼女を見るたびに感じているのだった。
そんな寒そうな彼女に対して、新城は軽い挨拶をした。
「5分前に来てくれてもいいんだぞ?」
「そうだね」
嫌味っぽい彼の言葉に対し、素っ気ない返事を返すなぎさに彼はやや物足りなさを感じていた。いつもなら「うるさい」と言って口をとがらせながら肩を叩いてくるというのに、いったいどうしたというのか。疑問に思った新城はそのことについて言及しようとした。
「ごめん……今日家に行っていいかな?」
言及しようとしたが、その前に彼女から思いもよらない提案を受けた。映画に行こうと誘ってきたのは彼女の方だった。それにもかかわらず、家に行きたいというのは考えるまでもなく奇妙なことだ。何かがあったに違いない。新城は何も言わず、それを承諾した。
新城の家には平日はおろか休日も親がいることはあまりない。小学生のときは家に独りぼっちでいることに強烈な寂寥感を覚えていたが、高校生となった今ではそれが逆にありがたいと感じるようになっていた。この年になると親が家にいることは邪魔でしかなぎさに振られた
自分の部屋になぎさを招き入れ、ベッドに座らせる。その隣に腰掛け、手に持ったコップに麦茶を注いで目の前にある机の上に置いた。
「……ありがとう」
そう小さく礼を言って麦茶を一息に飲み干し、空になったコップを机に置く。それっきり彼女は特に口を開くでもなく何かをするわけでもない、ただただ虚ろな表情を浮かべているだけだった。麦茶を少しずつ飲みながら彼女が話すのを待とうと考えていた新城も、さすがに耐え切れずに質問を開始することとなった。
「それで、何かあった?なんか元気なさげだけど」
「……実は、ちょっと相談したいことがあって」
尋ねると割とすぐに口を開いてくれた。どうやら問いただしてほしかったらしい。最初からそうしておけばよかったと少し後悔した。
「昨日、真が早退したじゃない?あのあとにまた柳くんが告白してきたの。当然断ったんだけど……怖くなっちゃって」
真というのは新城の下の名前のことだが、それはどうでもいいことだ。問題は一カ月前になぎさに振られた男が再び告白してきた事実である。フラれれば次の恋を見つけるのがセオリーであり、百歩譲って交際相手がいないのなら諦めないのは分かるが、彼女にはすでに相手が存在する。柳のやっていることははっきり言って異常な行動である。
「二回目だったから嫌になって結構きついこと言っちゃったんだけど、そしたら腕を掴まれてさ。すごい顔して『何が駄目なんだ!』って言われて。ホント怖くて、すぐに振り払って逃げて……。追いかけては来なかったけど、ホントにすごく怖かったんだよ……」
新城にとってもさすがにそれは看過できない事態であった。明らかに度が過ぎた行いであり、到底許せるものではない。そのような非道な行いをした柳にマグマのような怒りがグツグツと噴き出してくる。
「よく言ってくれたな。もう大丈夫だ。俺があいつにビシッと言って、なぎさには二度と近づけさせないようにするよ」
おそらく彼女が一番欲しいであろう言葉を新城ははっきりと口にし、なぎさの頭を撫でた。艶々としていて心地よい手触りを持つ黒い髪を台無しにしないよう、慎重に触る。慰めるつもりでやっていることなのに、その髪に触れているだけで癒される気持ちになっていた。
「……うん。ありがとう」
彼女は礼を述べ、新城の肩に頭を乗せて身体を寄せた。なぎさの髪からいい香りが漂ってくる。それはきつい香水の匂いなんかとは比べものにならない、人を安心させてくれるものだった。彼はそれを感じ取りながら頭を撫で続けた。
「麦茶取ってくる」
「コーラの方がいいかも」
「今度買ってきてやるよ」
そうしているうちに時間が経ち、のどが渇き始めた新城はコップを二つ持って一階へと向かった。暗い雰囲気を醸し出していたなぎさもすっかりいつも通りの調子に戻った。こうなると、新城自身も心の平穏を取り戻すことができるというものだ。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。二杯分を部屋に持って行こうとしたところで急に尿意が彼を襲った。リラックスしたことで気が緩み、力が抜けたのかもしれない。部屋に戻ってからトイレに行くこともできるが、それだと二度手間になってしまう。新城はコップをダイニングテーブルに置いてからトイレへと向かった。
「うーす、お待たせ~」
トイレを終えたあと、そう声をかけながら部屋の扉を開けようとしたが、その扉を開けることができなかった。しかし、新城は焦ることなくむしろにこやかに扉を手で叩いた。
「ちょっといいかな?奥さん。この辺りで殺人事件が起きてね、ちょっとお話を聞かせてもらえないもんかな?」
「え!?……あ、ああなるほど。ちょっとお待ちくださいな」
そう言って扉の前に置いてつっかえさせていたものを動かし、新城を部屋へと迎え入れてくれた。急で無茶なフリだったからか、若干戸惑いを見せつつもしっかりと対応してくれたなぎさに、彼は思わず笑みをこぼした。何よりもおかしな口調だったのがさらに笑いを誘う。彼女は不機嫌でさえなければこういったことにも反応してくれるし、からかい半分にいたずらをすることもよくあることだった。
「ほらよ。茶を持ってきてやったぜ。さて、どうしてこんな……」
悪徳刑事を彷彿とさせるセリフを吐こうとしたそのとき、新城の視界に入ったものがそれを遮った。物理的に遮ったのではない。ただそれを見た瞬間に自身がいない間に何が起きたのかを悟らせ、ふざけた言動を取らせなくしたのだ。
ベッドの下に隠しておいたはずのジュラルミンケースが開いた状態でベッドの上に置かれ、中身も同じようにベッドの上に散乱していたのである。
今まで感じていた幸せな気分は一気に吹き飛び、笑みを浮かべていた顔は一瞬で青ざめた。完全に油断していた。絶対に警戒していなければならないことだったし、ベッドの下に何かないか確認するような人物であることも分かっていたはずだった。部屋に彼女一人にしなければ。いくらでも方法があったはずなのに。いや、そもそも彼女を家に呼ぶべきではなかった。カフェで話をすればよかったのだ。
新城は今更どうしようもないということは理解していたが、それでも後悔せずにはいられなかった。理屈では理解できても、心がそれを拒否していた。
「ん……どうかした?」
青ざめた顔を覗き込んできたので、彼は反射的に後ろに飛びのいた。それを見て眉をひそめるなぎさの様子を見て、また失敗をしてしまったことを自覚した。動揺していることを悟られるとさらなる疑心を生みかねないのだ。新城は気を取り直して精一杯取り繕うことにした。
「い、いやなんでもないよ」
したのだが、どもってしまっては「自分は動揺してます」と白状しているようなものだった。現に、なぎさはこちらの顔を何も言わずにじっと見つめることを辞めようとしない。新城は言葉が一切流れずにただ顔だけを見てくる時間に大変な居心地の悪さを覚えていた。実際は数秒にも満たないものだったが、彼には数分にも感じていた。しかし、そのたった数秒は新城の頭をかつてないほどまでに働かせることになった。
なぎさは消滅銃のことを知ってしまった。その事実を変えることはできない。いったい自分に対して何をしてくる。自分にも使わせるように頼み込んでくるのか、それともまさか脅迫してくるのか。……いや、いくらなんでもそれはない。彼女がどういった人間なのかはこの4年でよく知っている。そんな卑劣な真似をするはずはない……。
いくら頭を働かせても、この状況を打開する画期的なアイデアは浮かんでこなかった。そうこうしているうちに沈黙の数秒は終わり、なぎさの口が開こうとする。新城にはその瞬間的な動作がスローモーションのように思えた。
「……ぷっ。くっはっはっはっは!何それ?どういう顔なの?あははははは!!」
彼女の口から出たのはいつもとなんら変わりがない笑い声だった。物騒なことを考えていた新城は拍子抜けし、強張らせていた顔を緩めた。
「――は~。いや、笑った笑った。ごめんね?黒歴史確定のことしちゃってさ」
「え、黒歴史?」
思いもよらない言葉にオウム返しをしてしまう。それを聞いたなぎさは再び笑い出した。
「まさか黒歴史とすら思わないってこと?そ、それは重症だわ――ぷくははははは!!」
新城は腹を抱えながら遠慮なく笑う彼女を見て、今まで深刻に考えていた自分がどれだけ的外れなことに思いを巡らせていたのかを察し、猛烈な恥ずかしさを覚えた。と、同時になぜか理不尽にも怒りを覚えた。
「それにしてももう少しどうにかならなかったの?このピストルとかはしょうがないとしても、この取扱説明書はどうかと思うよ?ホッチキスとかだいぶチープだし。もっとこう、神秘的な感じにしないと!」
「うるさいな……」
消滅銃を手に取りながら作り込みの甘さを指摘してくるなぎさ。若干うざいと思いつつも、それよりも安堵の気持ちの方が強かった。彼女は消滅銃を本物だとはこれっぽちも考えていない様子だったからだ。まあそもそも消滅銃はそこらへんで売ってそうなおもちゃの銃にしか見えないし、考えてみれば当たり前なのだが、本物であると分かっていた新城にとっては見つかったときは冷や汗ものであった。
「頼むから誰にも言わないでくれよ?恥ずかしくて死ぬ」
あとは口止めをするだけである。もちろんなぎさが誰かに話してもそいつが消滅銃の効果を鵜吞みにするとは考えにくい。しかし、「高校生にもなって中二病とかウケる」とか言われかねない。それは本当に黒歴史になってしまう。それに万が一、本気にする人が現れたら何が起こるか分からない。
新城はふざけた感じをできるだけ出しつつ、極めて真剣に誰にも言わないように頼み込んだ。それを聞いた彼女はまるでしばらく遊べる玩具を見つけたかのようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「え~、どうしよっかな~。こんな面白いネタなかなかないしな~」
「お、おい?本当、マジで辞めろよ?」
「それなら誠意ってやつを見せてほしいなぁ~」
親指と人差し指を顔の横ですりすりさせて何かを期待するなぎさ。新城は何を求めているのかを理解し、がっくりと肩を落とした。
「くっ、分かった。今度スイーツを奢ってやるから……」
「イェーイ!司法取引成立だね!大好きだよ真~」
そう言って彼の腕を抱き寄せるなぎさに、「俺はちょっと嫌いになったかも」と言いたくなる気持ちをグッと抑えて努めて笑顔を浮かべようとした。ピーマンを生で食べたときよりも苦い笑いが顔に浮かぶ。悪徳刑事になろうとしたのに、いつの間にか容疑者になっていた。