黄昏時。ビルの街のシンデレラ。
ちょっと昔のお話ね。ビルがニョキニョキ生えてる街に、真面目に働く娘がおりました。
母親がピンク色、小花柄のパジャマを着、熊のぬいぐるみを抱きしめ、ベッドに潜る我が子に寝る前のお伽噺をしている。
「娘には結婚を約束したろくでもない、クソッタレ王子様がいました」
「おうじさま、どうしてクソッタレなの?」
「娘の他に好きな女の子が出来て、娘との結婚のお約束を破ったのよ。これを婚約破棄と言うのです」
「こ?わかんない。ふーん。それからどうなったの?おやくそくやぶったから、はりせんぼん?まじょは、こなかっなの?」
「残念ながら、はりせんぼんにはならなかったの。そして、魔法使いのお婆さんも、毒りんご煮込むのに忙しかったから来なかった……。娘はクソッタレ王子様と別れた後は毎日毎日、忘れる為に、一生懸命働きました。そんなある日のことです」
母親は、ワクワクしている娘の為に物語を紡ぐ。
――、ぐっと力を入れたから。だって浮腫んでいたのかパンプス、脱げなかったんだもん。働き者の娘は、ブツブツぼやいています。
スポッ!と脱げると、娘の手からすっぽ抜け、ポーンと、勢いよく飛んで行った、汚れたオフホワイトの片っぽのパンプス。
「ええ!」
コン!ザ!シュシュシュ……。タイル敷きの歩道の上に落ちると回って進んだソレ。行き交う人が怪訝な視線を落として通り過ぎるのを娘は呆然と見るだけ。
「………」
言葉にならない娘。片足を犠牲にし、あそこ迄歩いて行くか。ため息をひとつ。立ち上がろうとした時、なんとそこに!『SHOES☆HOUSE、サンドリヨン』と染め抜かれたエプロン姿か凛々しい、靴屋の店員王子様が現れたのです!
お洒落なこじんまりとした店舗から出てきた、イケメン店員王子様が、娘の靴を拾ってくれました。声を出すのが恥ずかしく、キョロつく彼に小さく手を上げ合図を送る哀れな娘。
視線は直ぐに逢う。
靴はこっちです!
娘がホッとしたのも束の間、意外な出来事に襲われます。
「ええ?」
片方靴なしの彼女と、手の中の拾い物を繰り返し見た店員王子様はひとつ頷くと、くるりと背を向けパンプスを持ったまま、出たばかりの店へと戻って行ってしまったのです。啞然と背を見送るしかない娘。
靴!返せ!
☆
「ふぅん?それ、……から」
うとうとしながら続きを促す子供に、また明日。と答えた母親。その言葉が終わらぬ内に、スウスウ寝息を立てていた子供。布団を着せかけると、添い寝をしつつ愛おしそうに、頭をそろりと撫でた。
「んふふ。それからね」
母親は懐かしそうに微笑むと、睫毛が長く伏せられた、夫によく似ている寝顔を見ながら、少しばかり昔の自分を苦く甘く思い出す。
――、桜並木の公園、駅に向かい抜けて歩く。昨夜の雨風は綿飴の様に甘く咲くよな桜の枝を、鬱屈を晴らすように、びゅわびゅわ!派手に揉んで揺さぶったらしい。散った無数の花弁が歩道の際に流され集まっている。
五弁で一輪。花びらは一枚、一枚ならば白く感じるのに、集まればお気に入りのランジェリーの様な、極淡い薄紅色して重なり合っている。
それはあの夜に身に着けていた物と同じ色。
まだ桜が花開かぬ季節、春一番が吹いた頃。
思い出す。ムシャクシャして、踏みつける。
馬鹿みたい。新しいのを身に着けちゃってさ。
馬鹿みたい。何時の間にか一方通行していた。
馬鹿みたい。独りで二人の未来を考えてた。
最近仕事が忙しくてとボヤいていた彼氏に、会いたいな、ウチく来ない?と、メッセージを入れた日、街に春一番が吹き荒れていた。
しばらくしてから、素っ気ない返信。
『行けない、風強い』
台風の時や、大雪の時の方が嬉しそうに、パンパンに膨らんだ、コンビニの袋を下げて来るのに……と、怪訝に思い電話を入れると。
「ゴメン」
モゴモゴと仕事が……と、歯切れの悪い声。
「残業?」
「あー、うん……そう。残業」
ピン!と来た!ぐっと耳に入るよう携帯を寄せる。
何か聞こえない?誰かの気配。女を感じない?
「そう。大変ね。そうだ!差し入れ持ってこうか」
探りを入れた。
「いや!いい!来ないで!」
慌てて断る彼。潜める女の気配が、四角い向こう側から、ありあり。
それから電話の向こうとこちらで繰り広げられた、チンケな恋愛ドラマみたいなやり取り。それは大嵐となり私を襲い、心を踏みつけ罵り馬鹿にして、ぐちゃぐちゃに掻き回した。
男にフラれた。
奴に棄てられた。
床に落としたソフトクリームの上部分みたい、 な。
すくいようもない惨めな私。
仕事は急に休めない哀れな私。
それから奴を忘れる為に生きる私。
無残に破れた気分は幾ら経っても消えてくれない。なのでその日は、しまい込んでいたオフホワイトのパンプスを引張り出し、履きつぶす目的で足を入れた。
夕方になると、何時もより少しだけ踵が高いせいか、靴の中で膨らんだ様に、じんわりと痛い。
イタタ……。休憩場所があった公園から出ていた私。駅に続く歩道で立ち止まってしまう。
馬鹿みたい。このパンプス、デート用だったな。
馬鹿みたい。白い靴や服は、奴が好きだったんだよ。
馬鹿みたい。棄てたら良かったのに何やってるんだ。
モヤモヤ心がジンジン痛い。足先をムズムズ動かす。膨れっ面になる。
「白いワンピースに白い靴って好きなんだ」
馬鹿みたい。奴の好みに合わそうと必死こいてさ。
恋人同士だった男は、今ではすっか親の仇に成り果てている。
何処かに座ろう。キョロキョロとするとバスの停留所が直ぐそこに立っている。有り難い事にベンチがあった。
「ふう、イタタ……、靴擦れしてる?久しぶりに履いたから、靴のサイズ変わったのかな……」
両方痛いけど、右の痛みが酷い。脱ごうとソレに手を掛けた。そしてソレはポーン!と私の手から逃げてしまう。
神様の意地悪。
☆☆
「靴……」
呟く私はこの先どうしたらいいのか。片足を持て余しながら、あれから毎夜、アイツが新しい女と幸せになるのが悔しいから毒を吐きつつ、お菓子を貪り酒を煽っていたのがいけなかったのか。
だって悔しかったんだもん。クリスマスを過ごした時、結婚式は教会にしようか、なんて甘く囁いて来たんだよ?その気になるよね。指輪も貰ってた。銀のリングをね。
今は無いけど。
フラれた夜に抜いて、気持ちのままに動いた。
ティッシュに包んでゴミ箱へ投げ入れたソレ。もう処理場で熔けて形なんか無くなってると思う。
何時から?ズレてきたのは。仲良く初詣をしたお正月休み。それから?仕事が忙しくてと言い出したのは。
振り返れば、ほんの少しの間に私達は随分変わった。
「あー!ヤダヤダ!未練たらしく考えてるんじゃねえよ!」
声を出して振り切る気持ち。出てくるな!バチでも当たったの?神様って意地悪。嬉しそうな顔をしたあの店員、靴持って逃げるって変態?
取り返しに行こ!と立ち上がろうとした時。
「すみません。これ、履いて下さい」
靴を持ったまま消えたお店から、サンダルを手にした、靴屋の店員らしいピカピカに磨かれた、お洒落な革靴を履いている彼が、左は汚れたオフホワイト。右は裸足の宙ぶらりん。惨めな私の側にやって来た。
「ええ?靴、返して下さい」
「足、痛めてるんでしょう?多分、サイズが合ってないんですよ」
ニコニコとしながらなんと!人目を気にせず、私の前でひざまずく『SHOES☆HOUSE サンドリヨン』のロゴが入ったエプロン姿の店員。
そしてなんと!スーツのズボンが汚れるのも厭わず、歩道にひざまずく彼。宙ぶらりんな右足裏に手を当て支えると、サンダルを履くよう勧めて来たのだ。勿論、通り過ぎる人はジロジロ眺めてくる。
「くるぶし、靴擦れしてますね。ここじゃアレなので、お店にどうぞ」
ペトペトと気持ち悪くストッキングが擦れてヒリリと痛い右足首。確かに薄っすらと血が滲んでいるみたい。
ううん、そんな事よりも、今の状況が。例えるならシンデレラみたいで、息が詰まるほどドギマギしている。
王子様はお城で待ってるだけだったかもしれないけれど、従者より王子様ってのがピッタリなイケメンが、私を見上げているの!
「あ、はい……。すみません」
駅までまだある事だし、彼の申し出をありがたく受けることにした。小さく返事を返したら。
ああ!イケメンがサンダルをお姫様みたいに丁重に、履かせてくれて。当たり前だけど、慣れた手付きで左をそろりと脱がせる目の前の彼。
私の目はその洗練された動きのひとつひとつに、胸の中はドキドキ。頭の中教会のウェディングベルが鳴り響き、目はハートになっているのは、言うまでもない。
「やっぱり合ってませんね、痛かったでしょう」
「ええ、前は大丈夫だったけど。久しぶりに履いたから……」
愛想よく話す彼に、思いっきり上ずった声が出てしまう。そして……。ヤダな。て少しだけ思う。なんていうか、尻軽女みたいでさ。
さっきまで、元カレが燻っていたんだよ?
さっきまで、始終、奴を呪っていたのにさ、
すっかり心の中は。
闇色黒色鼠色から、
薔薇色、桃色、桜色。
ト・キ・メ・キ 色に染め替えられた。
ドキドキしてる。
くすぐったい。
とろとろしてる。
久しぶりの甘い淡い恋心。
「鞄、持ちますね」
私が立ち上がると、さり気なく鞄を持ってくれる紳士ぶり!これは点数が天井知らずに上がっていく。
仕事柄そうなのだろうけど、今しょぼくれてる私は、少しばかり乙女になってしまう。
春一番が吹いたのは……、桜の枝にまだ花の気配もない時。男にフラれた夜。
それからカレンダーをめくり季節が移って……、暖かくなったというのに、でも私の中は、動いてなくて。未だ薄ら寒い時のままで。
恋の痛手を癒やす特効薬は、新しい恋する事。って誰の名言だったかな?
☆☆☆
「ママ。きのうの つづきは?」
ピンク色、小花柄のパジャマを着、ベッドに潜る子供が続きを促している。
「あー、ハイハイ。何処まで話したっけ?」
「くつやさんのおうじさまに、くつ とられたとこ」
「えっとね……」
母親は子供に物語を紡ごうとした。
「むすめはおうじさまと、めでたしめでたしになったの?」
先が早く知りたい子供は、あどけなく母親に問う。
「うん。なったのよ」
「ほんとうに?」
本当よ。いいモノ見せてあげようか。母親は持っている携帯電話を取り出すと、フォトを開きスクロール。
「ほら、結婚式」
ウェディングドレス姿の母親と、タキシードを着込んでいる父親が花に囲まれ笑っている。
「ええ?パパとママだよ?でもママきれい おひめさまみたい パパ かっこいい おうじさまみたい」
「うふふ。さっ、明日、保育園でしょ、もう寝ましょうね、ママもお仕事だしさ、お弁当何にする?」
「パパが かえってくるまで、おきてる!おべんとう、はんばぁぐ!」
唇を尖らせる子供だったが、あれこれ話しをしているうちに、スウスウ寝息を立てる。
……、ガチャン。玄関で鍵が開く音。うとうとしていた彼女は、ハッと目を覚ます。慌てて髪に手を当て撫で付けると、少し擦り切れた、冬物のスリッパの音立て玄関に向かう。
「おかえりなさい」
靴を抜ぎ、何時ものように、さっと汚れを拭いていた夫を出迎えた。
「ただいま、頼まれていた亜里沙の運動靴と、君にお土産」
「ありがとう!お名前書かなくちゃ。子供ってあっという間にサイズ変わるのねぇ、びっくりしちゃう」
話しながら差し出された、靴屋の紙袋を受け取る妻。向かい合わせに立っている二人。ガサガサとソレに手を入れ妻へのお土産を取り出す夫。
「可愛いいリネンの室内履きが入ってきてね、買ってきた」
なんの抵抗もなくソレを手に取り、妻の足元にしゃがみ込む夫。
「ほら、足上げて」
「自分で履けるわよ」
苦笑しながら、妻は右足のスリッパを軽く持ち上げる。
彼は擦り切れたソレを、そろりと脱がすと……。
新しいソレを、慣れた手付きで履かせる。
そんな夫の姿を、見下ろす妻は少しばかりくすぐったくて、あの日に戻る。
彼女の心は今。甘く薄紅色が広がり染まるお姫様。
終わり。