結婚と就職
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「こっ……婚約っ……!?」
友人の報告に、柴垣弥生は喫驚の声を上げた。
「ええ、そうなの。子どもの頃から親に何度か引き合わされていた方で、いずれは、という話だったのだけれど」
「そ、そうなんだ。突然すぎて驚いたけど、おめでとう雅奈恵」
友人の米倉雅奈恵は、弥生と違って裕福な家庭の出身。まだ高校生だというのに婚約なんて現実味のない話だが、上流階級では珍しいことでもないのだろう。庶民には雲の上の話だが。
彼女の説明によれば、相手は穏やかで誠実な人柄らしい。親が勧めた縁談のようなものであっても、互いに想い合っているなら何よりだ。
しっかりしすぎて何かときつい印象を持たれる彼女が、涼やかな目尻をほんのり赤く染めていた。
「本当におめでとう。雅奈恵が幸せそうで、私もすごく嬉しいよ」
「ありがとう、弥生」
授業の合間にも机にかじりついている弥生は変わり者扱いで、話しかけられることも少ない。
貴重な友人と呼べる雅奈恵のはにかんだ顔に、弥生も自然と笑みがこぼれる。
「雅奈恵のよさを分かってくれるなんて、お目の高い人だよね」
「あなたのよさを分かってくれる人が、早く見つかるといいわね」
「ちょっと雅奈恵さん。それ、暗に滅茶苦茶レアって言ってます?」
必死で勉強しているだけなのに変わり者扱いされて、弥生としては大いに不満だ。それが原因で十七年間一度も好意を持たれたことがないなんて、絶対に信じない。
「昨今は自立した女性が増えてるんだよ。生涯独身だって憐れまれる選択じゃない」
雅奈恵の憐憫に近い眼差しを、弥生は敢然とはね除けた。
「必要なのは手に職と安定した収入! 私には恋なんて二の次三の次でいいんだ!」
「そんなことを声高に叫ぶから、変わり者扱いされるのよ……」
水を差すような呟きに恨みがましげな視線を向けるも、彼女から冗談混じりの笑顔は消えていた。
「明日、先方と改めて顔合わせをすることが決まったの。ーーだから、ごめんなさい」
行けなくて。
彼女が紡がなかった続きが、聞こえた気がした。
「……大丈夫。その気持ちだけで十分だよ」
友人がひどく辛そうに目を伏せるから、弥生は努めて笑った。
◇ ◆ ◇
父親というものを知らずに育った弥生だが、母との記憶も決して多くない。
……だから、未だに実感が湧かないのだろうか。
母・柴垣辰子の四十九日が、今日しめやかに執り行われた。
友人は側にいられないことを何度も謝罪していたが、葬式では色々心を砕いてくれた。
足腰の弱った祖母と二人では、きりきりまいになっていただろうから、彼女の助けは支えになった。それだけで十分感謝している。
むしろ、こんな姿を見られなくてよかった。
四十九日を終えても、涙すら流せない自分など。
「ーー弥生、大丈夫かい?」
気遣う祖母に声をかけられ、弥生は我に返った。
「ごめん、ありがとうお祖母ちゃん」
優しい祖母に礼を言うと、弥生は出席してくれた者達を見送るために腰を上げる。
長時間立っていることのできない祖母に代わって先導しなければならない。
勉強でも何でも、忙しくしていれば無駄なことを考えずに済む。
励ましを口にしながら帰っていく人に粛々と頭を下げ続けていると、最後の一人が立ち止まった。
「弥生ちゃん。この度は何と言ったらいいか……」
隣家の夫人だ。
隣といっても、ごく一般的な敷地しかない柴垣家とは段違いの屋敷で、彼女の夫は代々続くこの辺り一帯の大地主。
四十九日のため落ち着いた装いをしているが、普段ならば金銀の刺繍が入った着物をまとい、髪や指にも豪華な飾りを付けているのが特徴だった。
「ありがとうございます、大森さん」
「いいのよ。私と弥生ちゃんは、もう家族のようなものじゃない」
大森夫人が神妙な顔から一転、笑みを浮かべる。
彼女は昔から、ことのほか弥生を可愛がってくれていた。それ自体はありがたいことだし、親が留守がちな弥生は何度も助けられてきたのだけれど。
大森夫人の行いで、どうしても困っていることが一つだけあった。
「弥生ちゃんもお祖母さんと二人きり、これからきっと大変でしょう? 将来のこととかしっかり考えているのかしら?」
「はい。大学進学は無理そうなので、資格取得に努めてキャリアを目指してみようかと……」
「あら、駄目よ勿体ない! せっかく可愛いのに、キャリアウーマンなんて婚期が遠ざかるわよ!」
「ああ、はぁ……」
キャリアへの偏見がひどすぎるが、無難に相槌を打っておく。夫人は顔面の圧がすごいのだ。
「やっぱり女の幸せは結婚よ。素敵な夫と子どもに囲まれる幸せ。これ以上の贅沢はないと思うの」
「いえ、でも……」
「大丈夫! おばさん何度もあなたに紹介しているでしょう? 昔から何度か屋敷に遊びに来ている、兄夫婦の三男の仁三郎! あの子なら年回りもちょうどいいし……」
「お、大森さん! 今日のところは……」
弥生が制止すると、今日の集まりが何であったのか思い出したらしい。夫人は慌てて口許を隠した。
ーーこれさえなければ、いい人なんだけど……。
大森夫人は、なぜか会うたび熱心に見合いを勧めてくるのだ。
けれど彼女が頑なに推すその相手は、弥生にとって問題だらけだった。
大森の屋敷に何度か遊びに来ていた仁三郎は、弥生にとっても顔見知りだ。
けれど彼に対して、いい印象はほとんどない。
偉そうで、裕福であることをひけらかして。
共に遊んでいた弥生の友人達にも、何度意地悪をしたことか。
ーー無理! あんなのと結婚は、絶対に無理!
確かに彼ならば柴垣家の事情を知っているから、足腰が不自由になってきた祖母共々引き取ってくれるかもしれない。
だが弥生と無理やり結婚させられたとあっては、烈火のごとく怒り狂うのではないだろうか。その先には不遇の日々が待っているに違いない。
「大森さん、お気遣いくださり本当にありがとうございます。ですが私には、勿体ないお話です」
「別に気遣いで申し出ているわけじゃ……」
「私は日々勉学に精進していく所存ですので、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
隣人として、と言外に主張すると、夫人は反論しかけた口を噤んだ。母の四十九日なので、ここは引き下がってくれるようだ。
何度か振り返りつつも、大森夫人はようやく去っていった。
どっと疲れを感じた弥生は、庭先の松の木に力なくもたれ掛かる。
「いやもう、よく考えなくてもさあ……お父さんもお母さんもいないし、お祖母ちゃんは耳が遠い上に最近めっきり忘れっぽいし……私、詰んでる?」
夫人に突き付けられた、弥生を取り巻く現状。もはや出口はないのではと軽く絶望しかける。
ーーいやいや! この先の人生を考えるなら、やっぱり私に必要なのは手に職よ!
祖母と二人末永く生きていくために必要なのは、縁談相手じゃない。手堅い職だ。
身の振り方を改めて心に誓いながら、弥生はこぶしを握った。
悩んでいるより、少しでも多くのことを学んで身に付けよう。習うことは何一つ無駄にならない。
空の朱色には藍が混じりはじめ、そろそろ日が暮れようとしていた。
黄昏時。誰そ彼時。
薄暗くなり、目の前にいるのが誰なのかすら判別がつかなくなってしまう時。物事の輪郭が曖昧にぼやける時。
どことなく不安になって、弥生はそのまま庭先へと足を進めた。縁側の方へ回れば、すぐに祖母の姿があるはずだ。
けれど思惑は外れ、祖母は居間にいなかった。
もしかしたら台所で夕食の支度をしているのかもしれない。
それほど広くない庭の隅には大きな石が幾つか、山のように折り重なっている。それを背後に従えるように、足元には小さな祠があった。
子どもの頃から当たり前にあったものだから、怖いと感じたことはなかった。
それでも、母の四十九日を終えた直後だからだろうか。どうにも心細くて慣れ親しんだ祠すら不気味なものに見えてしまう。
早く家の中に戻って、祖母の側にいよう。
そう思って引き返そうとした時、弥生は祠から立ち上るもやに気付いた。
僅かに発光しているようにも見えるもやは、たちまちくっきりしてくる。
呆然としている内に、それはあっという間に弥生よりも大きくなっていた。
「な……」
もやが次第に晴れていく。
そこに、長身の青年が立っていた。
赤銅色に輝く長い髪、酷薄そうな鋭い瞳は宝石のように鮮やかな緑。
精悍な肌色。すらりと均整の取れた体。
上衣は裾を引きずるほど長く、変わった意匠なのに驚くほど似合っている。
長い爪、頭の上でねじれながら伸びる二本の角。そして狂暴な色香が漂う厚めの唇から覗くのは、鋭く長い犬歯ーーというより、紛うことなき牙。
鬼。
そう称さざるを得ない異形が、弥生を傲然と見下ろしていた。