始
「おや、また騒がしゅう御座いますね」
朝霧は、小ぶりで形の良い鼻をひくつかせ、うろうろと視線を彷徨わせる。
打ち掛けを引きずる音が、静かな空気を揺らしていった。
はて、あのズボラな兄様は何処だろうか。
まるで迷路のように入り組んだ、見慣れぬ見慣れた我が家を進み、やがて彼女が辿り着いたのは、薄暗い書庫の入り口であった。
色違いの打ち掛けが、既にその扉の前で佇んでいれば、どうやら今回はきちんと仕事をするつもりらしい。
「……珍しゅう御座いますね。兄様の方が私より先に御出でになるなんて」
「たまたま通りかかっちまったんだよ。捨て置くわけにも行かねェだろうが」
気怠げな彼の瞳は、鈴の音で変わる。
凜──と響く、高く涼やかな音がひとつ。
迷う魂を喚ぶように、導くように鈴は鳴る。
凪いだ海のような、夜の森のような。
慈悲と、慈愛と、温もりに溢れ、それでいて冷徹な兄の瞳が瞬いた。
「──諸々禍事罪穢は…………」
朗々と響く、神に捧げる祈りの言葉。
神など居はしないのに。
願いを叶える神など、居はしないのに。
光があるのはそうあるべきだからだし、国が生まれたのはそうあるべきだったからなのだ。
決して、神が「光あれ」と言ったからできたわけでもないし、神が産んだからできたのでもない。
そうあるべきだったから、そうあるのだ。
世界の意思など、結局のところ意志でしかなく。それ以上でも、以下でもない。
言い換えるならば──運命、だろうか。
朝霧達は、その "運命" の向かう先を、僅かばかり変更できる。
"特異点" という、弾かれてしまった魂を、世界という枠組みに再び嵌め込むために。彼らはその "変更" を許されていた。
──運命そのものに、赦されていた。
朝霧達は結局、神ならざる神であり、傍観者にして観察者なのである。
物語の最適解を導くために必要な、あるいはそれ以上の手を入れる事も、できなくはない。
──ないから、やるのだ。
世界の行く先は決まっている。
まるで、物語のあらすじをなぞるように。
おはなしが始まり、終わりに導かれるように、世界はやがて終焉を迎える。
その結末は、幸福も、不幸も、きっと孕んでいるのだけれど。
やがて、書庫の扉を突き破って、二人の男が倒れ込んできた。
傷だらけで、息も絶え絶えに。
怨み、悲しみ、苦しんで。
たった一人、誰かの幸せを願いながら。
「私は──やはり、幸福の方が好みに御座いまする」
「……? 随分とマァ……人間みてェなことを言うようになったなァ我が妹よ、エェ?」
「……ふふ。御冗談を。ヒトにヒトは救えませぬ。故に神に頼るのです。……私達は人に非ず。ヒトデナシに御座いますれば」
地に堕ちた、鴉が呻く。
罪人の、咎を背負って啼いている。
「彼らもまた、ひとでなしに御座いましょう」




