叶
かちり、かちりとフィルムが切り替わるように、頭の中をシーンが、映像が断片的に流れてゆく。
暗闇の中、その最期を悲しむような夜空と、見下ろす月を映した後ぷつりと途切れた映像に、朝霧は小さく頷いた。
「成る程、成る程。──あい、良くわかりまして御座います」
井戸の側、どす黒い靄は、収縮と膨張を繰り返しながら、次第に人の形を取り始める。
「噫、随分混じっておいでで……離せば壊れてしまいそう」
「何だ、魂一個じゃねぇのかィ」
「……願いは一つに御座いますれば、離れる必要も無いので御座いましょう」
金の瞳と萌黄の瞳。
夜が昼に変わる間のようにグラデーションした髪。
額からは一対の美しい角が、天を仰ぐように生えていた。
だらりと下がった腕からぶら下がる太刀は、血に濡れ叫びを上げている。
「あの子を……緋を…………妾は……!」
振り絞った声は、掠れて息も絶え絶えに。
──隠鬼が、其処に立っていた。
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「さて、錦様。お前さまは、その強い執念にて "特異点" にお成りになられた。然らば……我らが成すは、お前さまを正しき場所へと組み直すことに御座いまする」
「何を言うておるかさっぱりぞ。鬼と変じた妾に、戻る場所などあるものかッ!」
ダンッ、と打ち付けられた拳が、脇息を叩く。
怒りに燃える双眸は、怨みと哀しみに濡れていた。
井戸から場所を移し、客間に呼び込めば、些か落ち着きを取り戻したものの、依然その怒りは強いらしい。
当たり前といえば、当たり前の話なのだけれど。
「何も元の場所に戻れと申しているわけでは御座いませぬ。……我らが考えるは "物語の行き着く先"。倫から外れてしまったお前さまを、何処ぞに嵌めて戻すが役目」
「緋の……妾の愛し子の居らぬ世界になぞ……戻ったとて仕方ないワ」
「お前さまの願いは存じておりますれば、対価次第で叶えて差し上げまする」
朝霧はカツンと煙管を叩く、灰が落ちて、皿の上で燻った。
吐き出された紫煙を、色の違う二つの目が追う。
混じった魂を示すように、黒かったはずの瞳は庵と和のそれだった。
「何を……叶えるというのかぇ」
「再びお側へ。──緋様の命は、再び輪廻へと戻られました。また別の場所で、お生まれになります。それをお守りする武器に……」
「緋の輪廻転生はまだわかる。あの子は早く死にすぎた。来世こそは、と……それも当然であろ」
しかし、とその形の良い眉は顰められる。
「妾が、武器に? ……はて、とんと要領を得ぬ。武器になぞ、なれるのかぇ?」
「あい」
ここに現れた時、彼女の持っていた太刀を朝霧は掲げる。
煤けて穢れて、とても使えそうにない、ひと振りの太刀。
「これを器に、魂はここへ」
「……フン、まるで神の所業よな」
「似たようなものに御座います。所詮、神などこの程度」
常に観測者、常に傍観者。
救いはなく、差し伸べる手は持ち得ない。
だがしかし、盤上の駒を配置する神々の一手が、救いになることもある。
自分たちはそう、何時だって部外者で、関係者だ。
にこりと微笑んで見せれば、目の前の鬼は、胡乱げな視線を寄越してきた。
▼
「緋様は、名も、見た目もお変わりになりまするが、魂は同じモノとして存在します。少し、特殊な魂に御座いますよ」
「そうか」
かぷかぷと、煙が幾度も吐き出され、円になり消える。
大人びた視線の、少し幼い顔立ちの少女。
釣り合いの取れない、不均衡な有り様は、なんだか少し不安を煽る。
「ここまで消えずに流浪する、あやふやな魂も珍しゅう御座いますれば。……ここまで、因果な魂も」
「お前にとって、都合の良くないものなのかぇ」
「とんでも御座いませぬ。……こう言うとお怒りになられるかも知れませぬが……都合の良い魂なので御座いまする。──何者でもあって……何者でもない」
また、ふわりと紫煙が漂う。
不思議な香の薫りがした。
「何者にもなれるならば、いつか希望にもなりましょう」
「……そうか」
この、揺れる不定形な煙のように、いつか緋は希望になるのだろうか。
否、もうとっくの昔に希望であった。
唯一絶対の、錦の光。
錦を照らす一筋の光明が、たった一人我が子であった。
「……何時、妾は使われるのじゃ」
「その時が来ればおわかりになりまする」
「この、側に居たいという願いの対価は何ぞ?」
「その打ち掛けを頂ければ、結構に御座います」
肩に羽織る、重い布。
ぎゅ、っと握りしめる錦の感触。己の名と同じ布の、様々糸が織り込まれた、少しざらつく感触。
夢を見た。
愚かな夢を見た、その残滓。
愛されていた。
知らず、愛されて。
多分きっと、自分も愛していた。どうしようもないくらいに。
この先、己が武器として刀を振るうその先で、彼の魂を見つけたら──その、欠片でも見つけたなら。きっと言おう。
ただ一言「お慕いしておりました」と。
きっとそれで、十分なのだ。
「…………頼む。妾は、妾の想いはこの錦に託そう」
「承りました。──暫くお休みになられれば宜しゅう御座います。役目が来れば、自然、お目を覚まされましょう」
瞳にかかる、少女の柔く冷たい手。
幕を下ろすように、視界は狭まり、やがて闇に閉ざされた。
嗚呼、世は知らぬ事ばかりだ。
人の情も、結局の所わかったふりをしていただけで。
緋──あけ。私の可愛い、たった一つの魂。
──どこか遠くで、かかさま、と声がした。
▼
右も左もわからない、真っ暗な闇の中。
揺蕩うように、微睡むように。
まじまじと見たこともない、愛しい男の顔を、錦はゆっくりと思い出していた。
月明かりの中。嗚呼、あの静かな瞳は熱を持っていた。
握った手の感触を、触れた肌の熱さを、酷く切ない響きを持った、静かな声を。
錦は覚えている。
あの子の瞳は、あの子の父にそっくりであった。
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「思いつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせばさめざらましを
──『古今和歌集』小野小町
▼
「終わったのかィ」
「あい。万事相済みまして御座います」
床に置かれたひと振りの太刀。
穢れきっていた鈍ら刀は、神器へと変貌していた。
「母は強し……ってヤツかねェ」
「女は鬼にも蛇にもなりまする。変じるが女の性。……しかし、変じようとも女は女。業が深く、愛おしゅう御座いましょう」
「趣味が悪ィんだよオメェ」
仕事をせなんだ兄様よりマシに御座いますれば、と返して、人ならざる少女は呵呵と嗤ってみせる。
「私達は観察者。特異点……外れた魂を修正し、置くべき所に置くが役目。傍観者ではありまするが、手を出せない訳ではありませぬ」
「だからって、世界の結末を己の好きに作り変えるってナ、不敬なことだぜ? 俺ァ知らねぇよ」
ずしりと重い刀を手に取り、対価に貰った錦で包む。
打ち掛けを引きずる音を引き連れながら、朝霧は部屋へと向かう。
「…………でも、このままではあまりに悲惨。私は、悲しみで滅ぶを良しとしませぬ故。使える手は全て使いましょう。見世物は、いつもこうでなければ」
これが最適解だ。
私にとっての最適解。
私の好きな結末はいつだって────。
▼
亜麻色の長い髪が、少女を覆い隠している。
小さな寝息が、空気を揺らす。
作り変えられたらしい己は、はるか遠い昔の記憶と、少女が己にとって何よりも大事であることと、少女が主であることを識っていた。
天を写し取った瞳は、不安に揺れていて。
ならばと膝枕をしてやれば、懐かしい感触と体温が全身を駆け巡るようだった。
──愛し子よ、今はただ眠れば良い。
己との記憶は思い出さずとも良い。
ただ健やかであれば良い。
その為に、己は鬼に成ったのだ。
閉じた少女の瞼から、とめどなく雫が落ちる。
その涙が、愛し子の心を少しでも軽くすれば良い。
懐かしい子守唄を紡ぐ。
その魂に織り込まれた、我が子の耳に届くように。
「今はただ、ただ眠りやれ。母はここに居るでなァ」
泣き濡れた少女の姿を隠すように、月はそっと顔を背け、雲の向こうに消えた。




