表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奇譚──境界と白昼夢  作者: 参星
─鬼─
3/5

 

「おに」とは「(おぬ)」が転じたものであり、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する。──らしい。

 大陸(ちゅうごく)でも「()」という語は幽霊や亡霊、魂など、やはり本来見えないものを指し示すのだという。


 そして大抵「(おに)」の称号は、社会の爪弾き者に下される。


 目に見えぬ、故に「(かくれる)


 ──或いは「隠したい」から「隠」なのか。





「妾には、帝の御心が良うわからぬ」


 (ひな)びた片田舎。寂れた荒屋(あばらや)(にしき)は嘆息した。

 脇息(きょうそく)に身を(もた)れさせ、何をするでもなく荒れ果てた庭を眺める。整える人のいない庭は、あっという間に草木が占領してしまった。


 豊かな黒髪が、まるで腹を空かせた(くちなわ)のように、彼女の背後でとぐろを巻いている。

 (ゆる)りと顔を上げれば、黒い蛇が鎌首を(もた)げたようだった。


 早いうちに父母を亡くし、後ろ盾を失った彼女はあっさりと没落して、今はもう見る影もない生家で細々と暮らしている。

 入内(じゅだい)の話もあったが呆気なく立ち消え、それ以降彼女は一人の女房と、その娘だという女の童(めのわらわ)の二人を抱え、世話し、世話され生きてきた。

 叔父だか叔母だか、いくつか離れた親戚が送ってくれる諸々や、近くの農村の村民たちが分け与えてくれる食料で、三人は何とか生きていたのだ。


 生きるのに精一杯、その日暮しの生活に身を整える余裕がある筈もなく。かと言って、貴族として生まれた女一人──否、女三人に何ができるわけもない。荒れ果てたままの生家で、精々歌でも詠むが限界だ。


 悲しいとはあまり思わない。己のこの境遇を、さして憐れだとも思っていない。

 栄華の記憶は儚く短く、夢のようなそれであれば懐かしく思う事すらできなかった。

 夢は夢。それがどんなに良いものであっても、夢ならば取り戻そうとするだけ無駄だ。もうすでに、その(かすみ)をつかもうとする余力も残っていないのだから。


「愛されておいでなのですわ、姫様」

「さよか、そうであれば良いがな……一体いつ飽きが来るかわかったものではないわ。……秋より飽きのほうが早かろ」

「そう悲観なさらずとも、このような片田舎に度々足をお運びになられるだけで、その御心の深さも知れようというもの」


 その(あけ)(うちぎ)も、(もた)れてらっしゃる脇息(きょうそく)も、御君から(たまわ)ったものでございましょうと(いおり)は微笑む。

 錦と五つ程しか変わらぬその美しい女房は錦の乳母(めのと)であり、母をなくして以来、母だった。


「この(うちぎ)も姫様の御髪(おぐし)に映えてお似合いでございますれば、自信をお持ちになれば良いのに」

「自信を持つ持たぬの話ではないわ。御君の心など、(わらわ)如きが自信を持ったところでどうこうなるわけではなかろうに。……のう、庵よ。力なき浮草は強い水に流されるが常」


 しがみつこうなどとした(ところ)で、流し尽くされればそれまでよ。


 それはもう、何度も何度も流され翻弄(ほんろう)された人間の、疲弊(ひへい)した、小さな諦めの言葉だった。



 入内(じゅだい)の話は立ち消えたはずなのに、一体どこから嗅ぎつけたのか、荒屋(あばらや)に住む若い女の──没落したとはいえ良い血統の、しかも美しい女だという──噂を、帝は耳にしたらしい。

 以来、度々。彼は高貴な身分であるというのにこの片田舎に足を運び、睦み合っては帰ってゆく。その繰り返しを、もうかれこれ二年は続けていた。


 ただの貴族の男が通うのとは訳が違う。

 ここに来ると彼がそう言う度に、一体どれほど宮中が騒がしくなることか。知らぬことではあれど、いささか心苦しくも思う。


 しかし、所詮は雲上人の、怖いもの見たさのお遊びだ。

 頼って頼って、お願いしても、切られてしまえばそれまでの話。


 ならば最初から突っぱねれば良いと思うていたのに──(ほだ)された。


 今更入内など考えてはいない。帝の御子が欲しいと思ったこともない。

 ただ、流された。


 ──(ああ)、そうだ。流されたのだ。

 あの人が、優しい目をするから。



「お(ひい)さま、お寂しそうな御顔」

(なごみ)……。どうなのだろうナ……お前は妾を寂しいとお思いかぇ?」


 (なごみ)と呼ばれた少女は、まだあどけなさの残る美しい顔を小さく歪めた。

 柔らかい萌黄色の両目が、此方(こちら)を心配そうに見つめている。


(なごみ)にはわかりかねますわ。でも、男の方に……それも(たっと)き御方に求められるというのは、幸福な事なのではなくて?」

「……そうやもしれぬ。そうやもしれぬ、が──」


 錦は何かを言いかけて、言葉を飲み込むように(うつむ)いた。

 この胸に巣食う、空虚。この腹を蝕む()のような何か。

 それに名前を付けることがどうにも難しくて、錦はまた、いつ来るとも知れない男のことをひっそりと想ってみたりした。





 その荒れ果てた屋敷には二匹の鬼女が棲む。


 彼女たちが守るのは、一人の美しい姫なのだという。





 (なごみ)の豊かに生え揃った髪の右半分は、黒々と射干玉(ぬばたま)に輝き、しかし左半分は灰のように白く色が抜けている。

 その不思議な色合いが、まるで彼女を真ん中から二つに分けたようであれば、錦はその髪が面白くて好きだった。

 撫でるように櫛梳(くしけず)り、(しろ)(くろ)のその淡い境界線を愛おし気に眺めていると、(なごみ)(くすぐ)ったそうに笑う。


(なごみ)がお(ひい)さまに髪を整えていただけるなんて、贅沢に過ぎますわ」

「良い香油を頂いたは良いが、(わらわ)一人で使(つこ)うてしまうはもったいなかろ?」

「そうでしょうか? お一人でお使いになれば良いのです。お(ひい)さまが頂いたのですから」


 目の細い櫛は、艶々(つやつや)と光る髪の海を進んでゆく。

 ふわり、と椿の薫りが鼻を掠めた。


「そうは云うても、一人では味気のうて堪らぬ」

「左様でございますか。然らばこの(なごみ)、一味添えるのにご助力いたします」


 うふふ、と二人は顔を見合わせて笑う。

 朦朧(ぼんやり)とした燈台(とうだい)(あかり)が、二人を柔らかく照らしては、その影を小さく揺らしていた。


(なごみ)のこの髪を(いと)わずにいてくださるのは、(はは)とお(ひい)さまだけですわ」

「さよか。昼と夜の(あわい)のようで、(わらわ)は好きぞ」


 この美しさを知るは(わらわ)だけで良いわ、と錦は冗談めかして言ってみた。

 ゆっくりと混じる白と黒は、陰陽の交わりのようで神秘的で、屹度(きっと)御仏(みほとけ)の思し召しよなと言えば、困ったように萌黄色が揺れる。


 毛先を弄ぶ錦の指に、そっと(なごみ)の手が重なって「ずっと傍に居てくださいましね」と、酷く寂し気な言葉が落とされた。





 月が視ている──と、そう思った。


 輪郭も朧に、掠れた静かな息遣いと(うごめ)く影。

 曖昧な輪郭から、この闇に溶けだしてしまいそうな錦は、今この瞬間、個を失っていた。


 溶けて、一つになるように。

 求められるままに身を預けて、そういえばきちんとご尊顔を拝謁したことなどなかったな、と今更のように思う。


 肌を撫でる少し冷たい風は、秋の匂いがする。

 月明かりの中、一層闇を深めるような金色が、煌めく男の双眸だけを切り取って見せるものだから。

 (ああ)、綺麗だな、と小さな溜息が(おとがい)を揺らして消えていった。





 体調が優れぬ、はて、悪いモノでも拾うたかと思っていれば、(いおり)が静かに懐妊を告げた。

 ()っと見つめる金色(こんじき)の双眸は、嬉しそうに、しかしどこか苦し気に揺れている。


「妾は、孕んだのかぇ」

「はい。御子を」

「ならば、もうお会いする事は叶いませぬと、そう告げやれ」

「……良いので?」


 良いも悪いも、そうせざるを得ないのだ。

 むしろこうなったら大人しく消えよう、とは最初から──初めて身体を重ねたその時から、覚悟し、決めていたことだ。


「孕まぬでおれば遊びで済んだ。御子ができたと知れれば、そうはいくまいて」

「──そうかも、しれませぬが……しかし、それでは姫様があまりにも憐れ」

「憐れなものか。(えにし)無くば授かりすらせなんだ子ぞ」


 未だ膨らまぬ、しかし血を分けた魂が宿ったらしい己の腹を、錦は愛おし気に撫で(さす)った。

 胸に去来する寂しさも、腹に巣食った靄々(もやもや)した何かも、今この時は全て忘れた。


「血筋こそ公家とはいえ、今は白拍子(しらびょうし)も同然よ。畜生のような女に、万が一男子(おのこ)でも産ませてみやれ。国がひっくり返るわ」


 己が子のせいで、てんやわんやとなる宮中を思って小さく笑う。そうなっても御方(あのひと)は、錦を愛で、抱くだろうか。()い人よと囁くだろうか。


「あの御方はそこまで戯けではないワ。……引き時も、遊びの範疇(はんちゅう)も、よう御存知の聡い御人よ」

「されば別れは己から……?」

「負け惜しみと笑いやれ。そうとわかっていながら、絆され孕んだは(わらわ)ぞ」


 まだ愛おしいと、言葉にしてしまいそうな己が(いや)だ。

 ともすれば縋ってしまいそうな己が(いや)だ。


 あの月光の中、ひたと見据えた双眸に映る己のように。

 無垢で無知な清い己のまま、彼の心に在りたかった。


 一切合切、全てを呑み込んで、そっと静かに眼を閉じる。


 (くちなわ)だ。己は。


 八重葎(やえむぐら)をがさりと揺らす、地を這う者の気配がした。






 「この世にては、今はいかにも叶ふまじきぞ」


 ──『今物語』 女人焚死






 妊娠がわかり別れを告げて後、錦たちは山奥の、誰も住まわぬ荒寺(あれでら)に身を置いていた。

 地元の民も良く知らぬ、とうに忘れ去られた神の(やしろ)は、酷く自分に似合いの場所だと錦は自嘲する。


 もとより荒屋(あばらや)暮らしの身であれば、日々の生活にさしたる違いはなかった。


 しかし、十月十日を過ぎてより、なかなか子は生まれない。

 腹は膨らむが生まれぬ子の、しかしその鼓動だけは感じている。


 もはや起き上がる事すらままならぬ、その重い腹を撫でながら、今はもう聞こえない、来訪(おとない)を告げる声を懐かしく思ったりもした。


「お加減は、姫様」

「良い、そう心配せずともいつかは生まれよう」

「そうは言っても、お(ひい)さま。もう三年(みとせ)もそのまま」


 萌黄と金の、心配そうな瞳が(またたく)く。

 それがあんまりにもこそばゆくて、これが(わらわ)背負(せお)うた(ごう)よ、と錦は朗らかに笑ってみせた。





 その夜、まるで月明かりを集めたような女子が生まれた。


 虫の声も聴こえぬ、静かな夜だった。


 歯も髪も生え揃っていれば、鬼子と呼ぶに相応しいありさまの、しかし玉のような美しさ。

 鬼というよりはかぐや姫もかくやという、幼いながらも完成された美しさは、大いに彼女たちを驚かせ、喜ばせた。


「姫様、女子にございまする」

「お(ひい)さまに似た、美しい御子にございますわ」

「──(ああ)……さよか、わらわは、(わらわ)は母になったか」


 これからは「お方様(かたさま)」とお呼びしなければなりませぬね、と冗談めかして笑う二人の、鈴の音のような声が耳に心地良い。


 眠るように微睡む錦の指を、柔く小さな手がそっと握った。





 山の中、誰も訪れない荒寺(あれでら)の、その箱庭の中で少女は美しく育った。

 美しい顔に開いた二つの瞳は、まるで夜空を住まわせているような、不思議な色をしていた。


「かかさま、雀が」

「逃しよったか? 良い良い、捕まえては可哀想ぞ」


 その整った顔を少し上気させて、少女は庭を駆ける。

 綺羅綺羅(きらきら)と輝くその瞳は、いつだって世界を美しく見ているらしかった。


 (あけ)と名付けられた少女は、世間を知らぬが故に純真で、いっそ美しい獣のような奔放(ほんぽう)さを以って育った。

 貴族社会の隅っこで、細々と生き抜いていた血は、今、野に還り、消え失せようとしている。


 そんな(あけ)の微笑む様を見て、錦は、ああ間違ってはいなかったのだ、と己の呑み込んだ幾ばくかの感情をそっと取り出しては、愛おしく懐かしく眺めていた。

 もう、想いは美しい思い出に変わりつつあったのだ。


 こうして時間は流れるように、しかし酷くゆっくりと過ぎていった。






 その荒れ果てた寺には三匹の鬼女が棲む。


 彼女たちが守るのは、一人の美しい姫なのだという。





「かかさま、眠れませぬ」

「……(あけ)。怖い夢でも見やったか?」


 かつて(たまわ)ったあの打ち掛けの、名の由来となった緋色(あけいろ)を引きずりながら、少女は母の寝所へと潜り込んだ。


 起き上がって招き寄せ、そっと頭を撫でてやれば嬉しそうな顔で膝に頬を当てる。柔らかい肉の感触と、下から見上げる愛らしい両目が、何にも代えがたい宝であると知った。


「どれ、かかさまが唄ってやろ」

「わたし、かかさまのお声、好きよ」


 愛し子の頭を膝に乗せ、その小さなぬくもりを感じながら、どうか心安く眠りやれ、と懐かしい唄を口ずさむ。

 それは、かつて母が──そして(いおり)が、眠れぬと愚図つく錦に聞かせた子守唄。


 母や(いおり)もこんな気持ちで唄っていたのか、と胸の片隅が炭櫃(すびつ)でも使ったかのように温まる。


 ひたりと手のひらに吸い付くような、小さな頭が愛おしい。


「ずうと母の傍に……妾達の傍に居てくりゃれ」


 ふと見上げた御簾越しに、大きく輝く丸い月は、あの日と同じ色をしていた。






 「大空を かよふまぼろし 夢にだに

  見えこぬ魂の 行く方にたづねよ」


 ──『源氏物語』 幻






「──なにゆえ」


 突然寺を襲い来た、無頼の男共の手によって、錦はあっさりとその意識を飛ばしていた。

 (かすみ)の中を行き来する感覚の中、丸石が冷たく頬に触れる。


 朦朧とする意識の外、(いおり)(なごみ)の悲鳴のような叫びが鼓膜を揺すぶった。


「離せ……!離しやッ……! 愚か者!!」

(なごみ)たちの大切な姫様を──!!」


 高い柱に支えられ、張られた(わたり)のその上で、一人の女が憎々しげに此方を──地に這いつくばる女共を見下ろしていた。


「あの山寺には鬼が()まうとか……噂は本当であったな」

「私たちが鬼であるものか……!」

「その珍妙な目、髪……古来女は鬼へと転ずるもの。なにも可笑(おか)しゅうない」


 今此処(ここ)に、この場において誰よりも鬼らしい女は呵呵(かか)と嗤う。

 妾の帝に手を出し、あまつさえ篭絡(ろうらく)した罰じゃ、と、それは弑逆(しいぎゃく)に酔った強者の笑いだ。


 縛られ、芋虫のように転がされた錦たちは、見上げるように女の歪んだ瞳を見つめるしかなかった。


「私の姫様達を──大切な御方たちを害そうなど、後悔するがいい、女狐──!!」


 ぎり、と猿轡を嚙まされた(いおり)の口元から、真っ赤な血が滲む。

 錦の眼前に無造作に転がされた二人の、篝火(かがりび)に照らされて爛々(らんらん)と輝く瞳は、傷ついた獣の如く、燃えるような敵愾心(てきがいしん)が渦を巻いていた。


「なんじゃ、威勢の良い鬼めが。……見苦しゅうて敵わぬ、はよう殺せ」

「──死の穢れは怖いぞ、呪うてやるわ、お前の血ごと呪うてやる……!」

「はっ、死の穢れも何もあったものか、地面(そこ)(わらわ)の生涯踏まぬ場ぞ。されば()()()も関係あるまい」


 扇で口元を隠す女の艶めく髪が、ずるりと蟒蛇(うわばみ)のように(うごめ)く。


「…………言うたな、女。なれば(なごみ)たちはこれより鬼となろうぞ」

「……鬼の宝を盗み、あまつさえ鬼殺しを成そうというその不遜(ふそん)傲慢(ごうまん)──」

「貴様に還るぞ…………きっと還す。──(ああ)、お(ひい)さま」


 ひしと二人が指差した先、女の顔は僅か強張る。

 引っ立てられ、髪を掴まれ、鬢の張り付く白い顔は、しかし心を折ってはいなかったのだ。


 ──しかし、下した号令は非情に。

 一瞬の間、風を斬る小さな音は、その美しい(こうべ)()ねた。


「────あ」


 びくびくと数度痙攣(けいれん)した、主を()くした身体は、幾度も幾度も槍で突かれ元の美しさをもすっかり失った。

 赤黒い飛沫(しぶき)が、燃え盛る(ほむら)に照らされて(ぎょく)のように美しいのが、やけに明瞭(はっきり)と網膜に焼き付いた。


 辺りに漂う濃い血の匂いは、異質な空気を作り出している。


「──な……なにをしやる」

「先に説明せなんだか。()退()()じゃ」


 何故、どうしてと言葉だけが頭の中で渦を巻く。

 誰にも知られず、来訪(おとない)もなく。私たちは静かに終焉を待っていた筈ではなかったのか。


「妾達はただ静かに暮らしていただけ……! それをどうして……何故この様な(むご)い真似をしやるか……!」

「帝がまだ──あの御方がまだ、どこの馬の骨とも知れぬ、畜生如きを探しておられるからじゃッ!!」


 投げ捨てられた女の扇が、錦の額を強かに打った。

 その扇面(せんめん)に墨の跡も黒々と書かれていたのは、錦が帝へ最後の別れに送った一首だった。


 来世でお会いしますから、どうか今生では忘れてくれ、と酷く身勝手な別れの歌。


「帝は、帝は犬畜生如きの触れて良い御方ではないわ!! 身の程を知れ!」


 泣き出しそうに、狂ったように叫ぶ女の様相は、かつて錦が胸の内に飼っていた(もや)に似ていた。

 あれは、きっといつかの己だと、あの時呑み込んだ己なのだと、錦は知った。


 (くちなわ)だ。

 蟒蛇(うわばみ)だ。


 女は時に鬼と変じ、蛇と変ず。


 ──己が鬼であるならば、毒々しく顔を歪めるあの女は蛇だ。

 嫉妬という、闇に呑まれた(じゃ)の悲しき姿。

 それを憐れだと、今はそう思えてしまう。


 錦の黒々と凪いだ()に、燃え盛る炎が揺れていた。



「……お書きした通り、(わらわ)は今生お会いするつもりは無い」

「お会いするつもりなくとも、探されてしまっては妾の気が済まぬのじゃ!」

「望みとあらば、須磨なり、播磨なり」


 だからどうか子だけは、と錦は地を這って懇願した。

 未だ姿の見えぬ我が子は、屹度(きっと)女の手元にいるのだろうから。


「──娘のぅ……恥知らずにも帝の御子か」

「親は(わらわ)とあの二人。父はおらぬと、そう申しつけておるワ」

「……そうか、健気よの」


 じゃがな、と女は嬉しそうに──それはもう何よりも嬉しそうに。口角を三日月に歪めてみせた。


「……妾はその忌々しい子が息をしているだけで耐えられぬのじゃ」


 女の後ろに付き従った男が、()()と無造作に小さな塊を──(あけ)(うちぎ)を抱えた少女を──放り投げた。


 土埃を立てながら、小さな四肢は地に投げ出され、呻く。


 四肢を封じ、転がされ、何も出来ぬ錦は目を見開いて、子の名前を──何にも代えがたい宝の名を叫んだ。


 その声に応じるように、小さくわらった少女は「かかさま」と、呟いた。

 まだ幼く、稚い娘は這いつくばって母のもとへと手を伸ばす。


 その、次の瞬間。

 後ろから()()()と髪を引っ掴まれて、仰け反った背と、顕になった白い喉が、錦の目に眩しく焼き付いた。


 あの二人の、家族の命を刈り取った煌めきが、また一つ大事なものを消し去ろうとしている。


「──厭、いや、厭だ……! 止めよ……! 妾の子ぞ……! 止めやれ!!!あけ──!」


 両腕を戒めていた拘束が緩んだその瞬間、錦は(ようや)く自由になったその(かいな)(あけ)へと伸ばした。


 おい! と慌てたような男の声と、ぐいと髪を引かれる感触。

 それでも、近くに立っていた男の腰に取りすがり、()いていた太刀をすらりと抜くが早いか、錦は掴まれた己の髪をばさりと斬ってみせた。


 途端軽くなった頭を押し出すように、(とら)われた(あけ)へと錦は駆ける。


 しかし、時間は無情にもその動きを止め、慌てたような銀の軌道がゆっくりと弧を描いた。

 湧き水のように噴き出した(あか)が、錦の頬を汚す。


 ひゅう、と息が抜ける音がして、小さな身体はぐったりと動かなくなってしまった。


「あ……ああ…………そんな」

()()は全て井戸に捨て置くのじゃ。……ああ、その女も含めてじゃぞ」


 世界の彩度が、一瞬で失われたようだった。

 あれだけ満たされていた胸も腹も今は空っぽで、ただただむなしい空虚が居座っている。


 胸にかき抱いた娘の──かつて娘だった抜け殻は、なんだかとても軽かった。


 遠ざかる女の満足げな笑い声だけが、急速に消えゆく世界の中でやけに明瞭(はっきり)と鼓膜にこびりつく。


 座り込んだまま動かぬ錦は、ずるずると玉砂利の上を引きずられながら(ぼう)と空を見た。


 背後(うしろ)()()()()と音がする。


「今かかさまも行くでな……(あけ)


 (いおり)(なごみ)も一緒ぞ、と言えば、まるで返事をするようにもう一度、水の跳ねる音がした。






 「頼め置かむたださばかりを契りにて

  憂き世の中の夢になしてよ」


 ──『新古今集』 藤原定家母






 冥い、冥い闇の中で、丸く切り取られた夜空が見えた。

 あの月の夜に見た双眸と、愛し子の瞳が重なる。


(わらわ)はあの子を護りたかった」


 ──それはもう、叶わぬこと


 もはや指先の感覚一つ無い。

 此度(きっと)己は死ぬのであろう。


 てっきり諦め、忘れているだろうと思ったあの人の、どうやら執着は己だけでは無かったらしいと小さく笑う。



 之は死への誘いか。

 凜と聞こえる鈴の音と、朗々と響く祝詞のような、唄うような声が響いて──


 再び世界は光に消えた。





────おに

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ