隠
「おに」とは「隠」が転じたものであり、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する。──らしい。
大陸でも「鬼」という語は幽霊や亡霊、魂など、やはり本来見えないものを指し示すのだという。
そして大抵「鬼」の称号は、社会の爪弾き者に下される。
目に見えぬ、故に「隠」
──或いは「隠したい」から「隠」なのか。
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「妾には、帝の御心が良うわからぬ」
鄙びた片田舎。寂れた荒屋で錦は嘆息した。
脇息に身を凭れさせ、何をするでもなく荒れ果てた庭を眺める。整える人のいない庭は、あっという間に草木が占領してしまった。
豊かな黒髪が、まるで腹を空かせた蛇のように、彼女の背後でとぐろを巻いている。
緩りと顔を上げれば、黒い蛇が鎌首を擡げたようだった。
早いうちに父母を亡くし、後ろ盾を失った彼女はあっさりと没落して、今はもう見る影もない生家で細々と暮らしている。
入内の話もあったが呆気なく立ち消え、それ以降彼女は一人の女房と、その娘だという女の童の二人を抱え、世話し、世話され生きてきた。
叔父だか叔母だか、いくつか離れた親戚が送ってくれる諸々や、近くの農村の村民たちが分け与えてくれる食料で、三人は何とか生きていたのだ。
生きるのに精一杯、その日暮しの生活に身を整える余裕がある筈もなく。かと言って、貴族として生まれた女一人──否、女三人に何ができるわけもない。荒れ果てたままの生家で、精々歌でも詠むが限界だ。
悲しいとはあまり思わない。己のこの境遇を、さして憐れだとも思っていない。
栄華の記憶は儚く短く、夢のようなそれであれば懐かしく思う事すらできなかった。
夢は夢。それがどんなに良いものであっても、夢ならば取り戻そうとするだけ無駄だ。もうすでに、その霞をつかもうとする余力も残っていないのだから。
「愛されておいでなのですわ、姫様」
「さよか、そうであれば良いがな……一体いつ飽きが来るかわかったものではないわ。……秋より飽きのほうが早かろ」
「そう悲観なさらずとも、このような片田舎に度々足をお運びになられるだけで、その御心の深さも知れようというもの」
その緋の袿も、凭れてらっしゃる脇息も、御君から賜ったものでございましょうと庵は微笑む。
錦と五つ程しか変わらぬその美しい女房は錦の乳母であり、母をなくして以来、母だった。
「この袿も姫様の御髪に映えてお似合いでございますれば、自信をお持ちになれば良いのに」
「自信を持つ持たぬの話ではないわ。御君の心など、妾如きが自信を持ったところでどうこうなるわけではなかろうに。……のう、庵よ。力なき浮草は強い水に流されるが常」
しがみつこうなどとした処で、流し尽くされればそれまでよ。
それはもう、何度も何度も流され翻弄された人間の、疲弊した、小さな諦めの言葉だった。
入内の話は立ち消えたはずなのに、一体どこから嗅ぎつけたのか、荒屋に住む若い女の──没落したとはいえ良い血統の、しかも美しい女だという──噂を、帝は耳にしたらしい。
以来、度々。彼は高貴な身分であるというのにこの片田舎に足を運び、睦み合っては帰ってゆく。その繰り返しを、もうかれこれ二年は続けていた。
ただの貴族の男が通うのとは訳が違う。
ここに来ると彼がそう言う度に、一体どれほど宮中が騒がしくなることか。知らぬことではあれど、いささか心苦しくも思う。
しかし、所詮は雲上人の、怖いもの見たさのお遊びだ。
頼って頼って、お願いしても、切られてしまえばそれまでの話。
ならば最初から突っぱねれば良いと思うていたのに──絆された。
今更入内など考えてはいない。帝の御子が欲しいと思ったこともない。
ただ、流された。
──噫、そうだ。流されたのだ。
あの人が、優しい目をするから。
「お姫さま、お寂しそうな御顔」
「和……。どうなのだろうナ……お前は妾を寂しいとお思いかぇ?」
和と呼ばれた少女は、まだあどけなさの残る美しい顔を小さく歪めた。
柔らかい萌黄色の両目が、此方を心配そうに見つめている。
「和にはわかりかねますわ。でも、男の方に……それも尊き御方に求められるというのは、幸福な事なのではなくて?」
「……そうやもしれぬ。そうやもしれぬ、が──」
錦は何かを言いかけて、言葉を飲み込むように俯いた。
この胸に巣食う、空虚。この腹を蝕む鬆のような何か。
それに名前を付けることがどうにも難しくて、錦はまた、いつ来るとも知れない男のことをひっそりと想ってみたりした。
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その荒れ果てた屋敷には二匹の鬼女が棲む。
彼女たちが守るのは、一人の美しい姫なのだという。
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和の豊かに生え揃った髪の右半分は、黒々と射干玉に輝き、しかし左半分は灰のように白く色が抜けている。
その不思議な色合いが、まるで彼女を真ん中から二つに分けたようであれば、錦はその髪が面白くて好きだった。
撫でるように櫛梳り、左と右のその淡い境界線を愛おし気に眺めていると、和は擽ったそうに笑う。
「和がお姫さまに髪を整えていただけるなんて、贅沢に過ぎますわ」
「良い香油を頂いたは良いが、妾一人で使うてしまうはもったいなかろ?」
「そうでしょうか? お一人でお使いになれば良いのです。お姫さまが頂いたのですから」
目の細い櫛は、艶々と光る髪の海を進んでゆく。
ふわり、と椿の薫りが鼻を掠めた。
「そうは云うても、一人では味気のうて堪らぬ」
「左様でございますか。然らばこの和、一味添えるのにご助力いたします」
うふふ、と二人は顔を見合わせて笑う。
朦朧とした燈台の焔が、二人を柔らかく照らしては、その影を小さく揺らしていた。
「和のこの髪を厭わずにいてくださるのは、庵とお姫さまだけですわ」
「さよか。昼と夜の間のようで、妾は好きぞ」
この美しさを知るは妾だけで良いわ、と錦は冗談めかして言ってみた。
ゆっくりと混じる白と黒は、陰陽の交わりのようで神秘的で、屹度御仏の思し召しよなと言えば、困ったように萌黄色が揺れる。
毛先を弄ぶ錦の指に、そっと和の手が重なって「ずっと傍に居てくださいましね」と、酷く寂し気な言葉が落とされた。
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月が視ている──と、そう思った。
輪郭も朧に、掠れた静かな息遣いと蠢く影。
曖昧な輪郭から、この闇に溶けだしてしまいそうな錦は、今この瞬間、個を失っていた。
溶けて、一つになるように。
求められるままに身を預けて、そういえばきちんとご尊顔を拝謁したことなどなかったな、と今更のように思う。
肌を撫でる少し冷たい風は、秋の匂いがする。
月明かりの中、一層闇を深めるような金色が、煌めく男の双眸だけを切り取って見せるものだから。
噫、綺麗だな、と小さな溜息が頤を揺らして消えていった。
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体調が優れぬ、はて、悪いモノでも拾うたかと思っていれば、庵が静かに懐妊を告げた。
凝っと見つめる金色の双眸は、嬉しそうに、しかしどこか苦し気に揺れている。
「妾は、孕んだのかぇ」
「はい。御子を」
「ならば、もうお会いする事は叶いませぬと、そう告げやれ」
「……良いので?」
良いも悪いも、そうせざるを得ないのだ。
むしろこうなったら大人しく消えよう、とは最初から──初めて身体を重ねたその時から、覚悟し、決めていたことだ。
「孕まぬでおれば遊びで済んだ。御子ができたと知れれば、そうはいくまいて」
「──そうかも、しれませぬが……しかし、それでは姫様があまりにも憐れ」
「憐れなものか。縁無くば授かりすらせなんだ子ぞ」
未だ膨らまぬ、しかし血を分けた魂が宿ったらしい己の腹を、錦は愛おし気に撫で擦った。
胸に去来する寂しさも、腹に巣食った靄々した何かも、今この時は全て忘れた。
「血筋こそ公家とはいえ、今は白拍子も同然よ。畜生のような女に、万が一男子でも産ませてみやれ。国がひっくり返るわ」
己が子のせいで、てんやわんやとなる宮中を思って小さく笑う。そうなっても御方は、錦を愛で、抱くだろうか。愛い人よと囁くだろうか。
「あの御方はそこまで戯けではないワ。……引き時も、遊びの範疇も、よう御存知の聡い御人よ」
「されば別れは己から……?」
「負け惜しみと笑いやれ。そうとわかっていながら、絆され孕んだは妾ぞ」
まだ愛おしいと、言葉にしてしまいそうな己が厭だ。
ともすれば縋ってしまいそうな己が厭だ。
あの月光の中、ひたと見据えた双眸に映る己のように。
無垢で無知な清い己のまま、彼の心に在りたかった。
一切合切、全てを呑み込んで、そっと静かに眼を閉じる。
蛇だ。己は。
八重葎をがさりと揺らす、地を這う者の気配がした。
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「この世にては、今はいかにも叶ふまじきぞ」
──『今物語』 女人焚死
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妊娠がわかり別れを告げて後、錦たちは山奥の、誰も住まわぬ荒寺に身を置いていた。
地元の民も良く知らぬ、とうに忘れ去られた神の社は、酷く自分に似合いの場所だと錦は自嘲する。
もとより荒屋暮らしの身であれば、日々の生活にさしたる違いはなかった。
しかし、十月十日を過ぎてより、なかなか子は生まれない。
腹は膨らむが生まれぬ子の、しかしその鼓動だけは感じている。
もはや起き上がる事すらままならぬ、その重い腹を撫でながら、今はもう聞こえない、来訪を告げる声を懐かしく思ったりもした。
「お加減は、姫様」
「良い、そう心配せずともいつかは生まれよう」
「そうは言っても、お姫さま。もう三年もそのまま」
萌黄と金の、心配そうな瞳が瞬く。
それがあんまりにもこそばゆくて、これが妾の背負うた業よ、と錦は朗らかに笑ってみせた。
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その夜、まるで月明かりを集めたような女子が生まれた。
虫の声も聴こえぬ、静かな夜だった。
歯も髪も生え揃っていれば、鬼子と呼ぶに相応しいありさまの、しかし玉のような美しさ。
鬼というよりはかぐや姫もかくやという、幼いながらも完成された美しさは、大いに彼女たちを驚かせ、喜ばせた。
「姫様、女子にございまする」
「お姫さまに似た、美しい御子にございますわ」
「──噫……さよか、わらわは、妾は母になったか」
これからは「お方様」とお呼びしなければなりませぬね、と冗談めかして笑う二人の、鈴の音のような声が耳に心地良い。
眠るように微睡む錦の指を、柔く小さな手がそっと握った。
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山の中、誰も訪れない荒寺の、その箱庭の中で少女は美しく育った。
美しい顔に開いた二つの瞳は、まるで夜空を住まわせているような、不思議な色をしていた。
「かかさま、雀が」
「逃しよったか? 良い良い、捕まえては可哀想ぞ」
その整った顔を少し上気させて、少女は庭を駆ける。
綺羅綺羅と輝くその瞳は、いつだって世界を美しく見ているらしかった。
緋と名付けられた少女は、世間を知らぬが故に純真で、いっそ美しい獣のような奔放さを以って育った。
貴族社会の隅っこで、細々と生き抜いていた血は、今、野に還り、消え失せようとしている。
そんな緋の微笑む様を見て、錦は、ああ間違ってはいなかったのだ、と己の呑み込んだ幾ばくかの感情をそっと取り出しては、愛おしく懐かしく眺めていた。
もう、想いは美しい思い出に変わりつつあったのだ。
こうして時間は流れるように、しかし酷くゆっくりと過ぎていった。
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その荒れ果てた寺には三匹の鬼女が棲む。
彼女たちが守るのは、一人の美しい姫なのだという。
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「かかさま、眠れませぬ」
「……緋。怖い夢でも見やったか?」
かつて賜ったあの打ち掛けの、名の由来となった緋色を引きずりながら、少女は母の寝所へと潜り込んだ。
起き上がって招き寄せ、そっと頭を撫でてやれば嬉しそうな顔で膝に頬を当てる。柔らかい肉の感触と、下から見上げる愛らしい両目が、何にも代えがたい宝であると知った。
「どれ、かかさまが唄ってやろ」
「わたし、かかさまのお声、好きよ」
愛し子の頭を膝に乗せ、その小さなぬくもりを感じながら、どうか心安く眠りやれ、と懐かしい唄を口ずさむ。
それは、かつて母が──そして庵が、眠れぬと愚図つく錦に聞かせた子守唄。
母や庵もこんな気持ちで唄っていたのか、と胸の片隅が炭櫃でも使ったかのように温まる。
ひたりと手のひらに吸い付くような、小さな頭が愛おしい。
「ずうと母の傍に……妾達の傍に居てくりゃれ」
ふと見上げた御簾越しに、大きく輝く丸い月は、あの日と同じ色をしていた。
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「大空を かよふまぼろし 夢にだに
見えこぬ魂の 行く方にたづねよ」
──『源氏物語』 幻
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「──なにゆえ」
突然寺を襲い来た、無頼の男共の手によって、錦はあっさりとその意識を飛ばしていた。
霞の中を行き来する感覚の中、丸石が冷たく頬に触れる。
朦朧とする意識の外、庵と和の悲鳴のような叫びが鼓膜を揺すぶった。
「離せ……!離しやッ……! 愚か者!!」
「和たちの大切な姫様を──!!」
高い柱に支えられ、張られた渡のその上で、一人の女が憎々しげに此方を──地に這いつくばる女共を見下ろしていた。
「あの山寺には鬼が棲まうとか……噂は本当であったな」
「私たちが鬼であるものか……!」
「その珍妙な目、髪……古来女は鬼へと転ずるもの。なにも可笑しゅうない」
今此処に、この場において誰よりも鬼らしい女は呵呵と嗤う。
妾の帝に手を出し、あまつさえ篭絡した罰じゃ、と、それは弑逆に酔った強者の笑いだ。
縛られ、芋虫のように転がされた錦たちは、見上げるように女の歪んだ瞳を見つめるしかなかった。
「私の姫様達を──大切な御方たちを害そうなど、後悔するがいい、女狐──!!」
ぎり、と猿轡を嚙まされた庵の口元から、真っ赤な血が滲む。
錦の眼前に無造作に転がされた二人の、篝火に照らされて爛々と輝く瞳は、傷ついた獣の如く、燃えるような敵愾心が渦を巻いていた。
「なんじゃ、威勢の良い鬼めが。……見苦しゅうて敵わぬ、はよう殺せ」
「──死の穢れは怖いぞ、呪うてやるわ、お前の血ごと呪うてやる……!」
「はっ、死の穢れも何もあったものか、地面は妾の生涯踏まぬ場ぞ。さればハレもケも関係あるまい」
扇で口元を隠す女の艶めく髪が、ずるりと蟒蛇のように蠢く。
「…………言うたな、女。なれば和たちはこれより鬼となろうぞ」
「……鬼の宝を盗み、あまつさえ鬼殺しを成そうというその不遜、傲慢──」
「貴様に還るぞ…………きっと還す。──噫、お姫さま」
ひしと二人が指差した先、女の顔は僅か強張る。
引っ立てられ、髪を掴まれ、鬢の張り付く白い顔は、しかし心を折ってはいなかったのだ。
──しかし、下した号令は非情に。
一瞬の間、風を斬る小さな音は、その美しい首を刎ねた。
「────あ」
びくびくと数度痙攣した、主を喪くした身体は、幾度も幾度も槍で突かれ元の美しさをもすっかり失った。
赤黒い飛沫が、燃え盛る焔に照らされて玉のように美しいのが、やけに明瞭と網膜に焼き付いた。
辺りに漂う濃い血の匂いは、異質な空気を作り出している。
「──な……なにをしやる」
「先に説明せなんだか。鬼退治じゃ」
何故、どうしてと言葉だけが頭の中で渦を巻く。
誰にも知られず、来訪もなく。私たちは静かに終焉を待っていた筈ではなかったのか。
「妾達はただ静かに暮らしていただけ……! それをどうして……何故この様な酷い真似をしやるか……!」
「帝がまだ──あの御方がまだ、どこの馬の骨とも知れぬ、畜生如きを探しておられるからじゃッ!!」
投げ捨てられた女の扇が、錦の額を強かに打った。
その扇面に墨の跡も黒々と書かれていたのは、錦が帝へ最後の別れに送った一首だった。
来世でお会いしますから、どうか今生では忘れてくれ、と酷く身勝手な別れの歌。
「帝は、帝は犬畜生如きの触れて良い御方ではないわ!! 身の程を知れ!」
泣き出しそうに、狂ったように叫ぶ女の様相は、かつて錦が胸の内に飼っていた靄に似ていた。
あれは、きっといつかの己だと、あの時呑み込んだ己なのだと、錦は知った。
蛇だ。
蟒蛇だ。
女は時に鬼と変じ、蛇と変ず。
──己が鬼であるならば、毒々しく顔を歪めるあの女は蛇だ。
嫉妬という、闇に呑まれた蛇の悲しき姿。
それを憐れだと、今はそう思えてしまう。
錦の黒々と凪いだ瞳に、燃え盛る炎が揺れていた。
「……お書きした通り、妾は今生お会いするつもりは無い」
「お会いするつもりなくとも、探されてしまっては妾の気が済まぬのじゃ!」
「望みとあらば、須磨なり、播磨なり」
だからどうか子だけは、と錦は地を這って懇願した。
未だ姿の見えぬ我が子は、屹度女の手元にいるのだろうから。
「──娘のぅ……恥知らずにも帝の御子か」
「親は妾とあの二人。父はおらぬと、そう申しつけておるワ」
「……そうか、健気よの」
じゃがな、と女は嬉しそうに──それはもう何よりも嬉しそうに。口角を三日月に歪めてみせた。
「……妾はその忌々しい子が息をしているだけで耐えられぬのじゃ」
女の後ろに付き従った男が、ぽいと無造作に小さな塊を──緋の袿を抱えた少女を──放り投げた。
土埃を立てながら、小さな四肢は地に投げ出され、呻く。
四肢を封じ、転がされ、何も出来ぬ錦は目を見開いて、子の名前を──何にも代えがたい宝の名を叫んだ。
その声に応じるように、小さくわらった少女は「かかさま」と、呟いた。
まだ幼く、稚い娘は這いつくばって母のもとへと手を伸ばす。
その、次の瞬間。
後ろからむんずと髪を引っ掴まれて、仰け反った背と、顕になった白い喉が、錦の目に眩しく焼き付いた。
あの二人の、家族の命を刈り取った煌めきが、また一つ大事なものを消し去ろうとしている。
「──厭、いや、厭だ……! 止めよ……! 妾の子ぞ……! 止めやれ!!!あけ──!」
両腕を戒めていた拘束が緩んだその瞬間、錦は漸く自由になったその腕を緋へと伸ばした。
おい! と慌てたような男の声と、ぐいと髪を引かれる感触。
それでも、近くに立っていた男の腰に取りすがり、佩いていた太刀をすらりと抜くが早いか、錦は掴まれた己の髪をばさりと斬ってみせた。
途端軽くなった頭を押し出すように、捕われた宝へと錦は駆ける。
しかし、時間は無情にもその動きを止め、慌てたような銀の軌道がゆっくりと弧を描いた。
湧き水のように噴き出した紅が、錦の頬を汚す。
ひゅう、と息が抜ける音がして、小さな身体はぐったりと動かなくなってしまった。
「あ……ああ…………そんな」
「穢れは全て井戸に捨て置くのじゃ。……ああ、その女も含めてじゃぞ」
世界の彩度が、一瞬で失われたようだった。
あれだけ満たされていた胸も腹も今は空っぽで、ただただむなしい空虚が居座っている。
胸にかき抱いた娘の──かつて娘だった抜け殻は、なんだかとても軽かった。
遠ざかる女の満足げな笑い声だけが、急速に消えゆく世界の中でやけに明瞭と鼓膜にこびりつく。
座り込んだまま動かぬ錦は、ずるずると玉砂利の上を引きずられながら呆と空を見た。
背後でぼちゃんと音がする。
「今かかさまも行くでな……緋」
庵と和も一緒ぞ、と言えば、まるで返事をするようにもう一度、水の跳ねる音がした。
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「頼め置かむたださばかりを契りにて
憂き世の中の夢になしてよ」
──『新古今集』 藤原定家母
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冥い、冥い闇の中で、丸く切り取られた夜空が見えた。
あの月の夜に見た双眸と、愛し子の瞳が重なる。
「妾はあの子を護りたかった」
──それはもう、叶わぬこと
もはや指先の感覚一つ無い。
此度己は死ぬのであろう。
てっきり諦め、忘れているだろうと思ったあの人の、どうやら執着は己だけでは無かったらしいと小さく笑う。
之は死への誘いか。
凜と聞こえる鈴の音と、朗々と響く祝詞のような、唄うような声が響いて──
再び世界は光に消えた。
────おに