虚
彼岸と此岸のその間。
「境界」と謂うものはこの世に溢れかえっている。
この場所は、そんな「世界の境界」に揺蕩う曖昧な何かでできている。
それはさながら泡沫のような、淡く儚い夢の残滓を集めたようなものであって、何であるかを定義するのは些か難しい。
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「兄様、またこんなところで寝ていらっしゃる。風邪をひきまするぞ!」
煙管をくゆらせ睥睨した先、自分とそっくりな男がのんべんだらりと惰眠を貪っているのを見て、朝霧は嘆息した。
肩口で元気に外ハネした茶色の髪に、まろい眉。いささか幼くも思えるような大きな猫目には赤い瞳孔が、翠の虹彩の中で怪しく輝いている。
時折煙管に口をつけ、淡く色付いた唇から吐き出された紫煙は、気だるげに彼女の周囲を取り巻いて消えた。
「兄様っ!」
「…………うるせぇ!もうちッと静かに起せねェのかこの戯け!」
「戯けは兄様に御座いまするッ!昼間ッからだらだらだらだらと……!」
朝霧の怒号に鈍々と起き上がった青年は、彼女よりも短く刈り込まれた癖毛を鬱陶しそうに掻き混ぜた。
「兄様が居らなんだら座標が定まりませぬ故、困りまする」
「今日ぐれェ休んだっていいだろうが」
「そう言ってもう一週間は休んで居られますれば、いい加減になさいませよ」
朝霧よりも切れ長な、獣じみた瞳がひたと此方を見つめて、つと逸らされた。
どうやら根負け──否、気迫負けしたらしい。兄妹の間で、今ここに雌雄は決した。
「──井戸が何やら蠢いておりまする。参りまするぞ」
「……ッハァ……あいよ」
また面倒事が、と呻く兄は相変わらず、派手な女物の浴衣をだらしなく着崩している。
後ろ髪を引かれるとばかりに未練たらたら、黒地の派手な打ち掛けを引き摺り、亀の歩みを決め込む兄に、朝霧は「早うなさいませ」と檄を飛ばした。
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広くも狭くもない日本家屋は、日毎にその姿を変える。
昨日居間のあった場所には厨が、己の部屋は東から西へ、書庫は執務室と入れ替わる──といったことは日常茶飯事。
故に、ここに暮らす二人の兄妹の毎日は、先ず己の位置確認と空間把握から始まる。
組み木のように組み替えられる空間は、しかし彼らにとってさして障害にもならなかった。こればかりは慣れだ。
なにせ、生まれたときからこうなのだから当然といえば当然の話。
まことしやかに囁かれる、異界の噂、虚言、デタラメ、曖昧な言葉の言霊と現実逃避の嘘。
──そうしたものが凝り固まって、やがて狭間に命を産んだ。
所謂"模倣子"。──彼らはそういう存在である。
彼らは生まれながらにこの姿で、生まれながらにして全てを諒解していた。
この家屋のある一帯を、彼らは「狭間」と呼んでいる。
時偶ここへ迷い込む特異点を迎え入れ、導き、修正する。
つまるところ、この不思議な世界、不思議な空間で、世界の特異点を管理するのが彼らの仕事なのだ。
ただの言霊であった彼らを定義付け、形作り、そうあれかしとしたのは他ならぬ世界の意志。
だからこそ、彼らは思う儘、望む儘に特異点を修正してゆく。神の気まぐれにも似たその意志は、正しく神の意志であった。
運命とも言うべきその偉大な力は、己に時折現れる特異点の処理を、己の外部に任せたのである。
つまり此処は世界の下請け。だから彼らは特異点を客と呼び、この家屋を店と呼ぶ。
特異点が現れるときは、決まって狭間が揺らぐ。
兄の夕霧は、その揺らぎから特異点のいる場所へと道を繋ぐことができた。
放っておいても来る特異点は来るのだが、来られず力尽きる特異点もいる。──特異点は、大抵そうやって心身共に襤褸ゝになってやってくるのだ。
要するに、回収率をできるだけ高く。単純に、それだけの話。
一方、妹の朝霧は、特異点たちへ最適解を与えることができた。
何をすれば最も正しい筋書きになるか、彼女は本能的に知っているのだ。
兄が開き、妹が閉じる。
彼らは二人で一つ。そうやって生きている。
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さて、場所は屡々出現する中庭の、そのど真ん中。
周囲を霧が包み込む、この狭間の世界の中で。古ぼけた井戸が、ぱかりと口を開けて二人を待ち構えていた。
石造りの、縁の欠けた穢らしいそこからは、飲める水など到底汲めそうもない。
穢れた空気が靄々と、その周囲の空気を黒く染めているようにすら思えれば、あまり近寄りたくはないなと朝霧は顔を顰める。
ゆらりとうねった風は生暖かく、微かに血の臭いがした。
カラコロと下駄を鳴らし縁側から降り立った二人は、そっと井戸を覗き込む。
案の定、寂れた井戸に水の気配はなく、すっかり枯れた大穴は、とうの昔にその役目を終えていた。
「さあ兄様、久方振りのお役目なれば、励まれませい」
「ハァ……説教臭くて厭ンなるねィ」
彼の耳についた、鈴の飾りがひとつ、高く鳴る。
空気を貫くその音に、自然と背筋が伸びた。
「──諸々禍事罪穢は
朝風夕風の吹き掃ふ此処に至れり。
隙間に寄る迷い船。
舳解き放ち。
艪解き放ちて。
大海原に押し放つ事の如く
遺る罪は在らじと。
天つ神、地つ神
我等が世界の神等共に
呼び給ひ繋ぎ給ふと申す事の由を
朝の御霧
夕の御霧が
聞食せと畏み畏みも白す──」
静寂の中で朗々と響いたその声が、神の使いの厳かさを持って放たれれば、やがてそれは空気と交じる。
漂う気配は願いを聞いて、やがて一点──井戸の中へと集まり、人の影を作った。
「流石に御座いまする兄様」
「オウ。……後ァお前ェの役割よ、気張ンな」
「あい、あい」
それはさながら怪談の如く、ずず、と井戸から這い出る女の憐れな姿へと、影は凝固ってゆく。
隣合って重なる打ち掛けには、揃いの鬼が嗤っていた。
この回だけあとがきを失礼します。
作中に出てくる祝詞ですが
大祓詞と天津祝詞の二つを重ね、改変した創作祝詞になります。
正直に申しますと朝霧夕霧が使いたいが故のチョイスです。
故に宗教的理由等はございませんし、貶めるために使用したものでもございませんことをここに明記させていただきます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。