プロローグ
「信じてないけど、よく聞きなさいよね。私、許さないから。死んだって、私を創ったとかいう神様のこと絶対許さないから!」
早口でぶちまけて、言い終わるより前に、少女は重りを抱いたまま湖に飛び込んだ。
村の人々のざわめきが、だんだんと遠くなる。
少女は神様へ感謝を伝えるお祈りの言葉なんて、初めから言うつもりなどなかった。
おばばの大好きだった湖で、私やっと生きることを終わりにできるよ―――心の中で呟いて、目を閉じた。
苦しんで戻ってくるといけないからと飲まされた眠り薬が効いてきたらしく、少女は深い眠りに落ちながら湖に沈んでいった。
時を少し遡り、人間界の見物にやってきた神がいた。
「アルテミス様は酷いお方です…。何年も申請し続けた有給休暇がやっと頂けたと思っていたのに、愚かな人間の儀式とやらを見に行くのなら可なんて…。これは出張というのですよ…。」
分厚い手帳を片手に、大きなため息を吐きながらプロムがこぼした。
「まぁ、そう言うな。人間界に来れるのも名誉なことだ。」
アルトは初めて自分の目で見る人間界に目を奪われていた。
仕事柄、人間は身近な存在だが、アルトが生まれるよりもずっと前から、名のしれた神々しか行けない遠い場所だった。
その昔、寿命の違う人間との恋に溺れて心を病む神が増えたため、とある女神が自由に行けないように入り口に鍵をかけた。
鍵を持つのは十二神のみで、滅多なことがない限り行けない場所が人間界なのだ。
「名誉なことと素直に喜んでいいのでしょうか。私はいささか不安ですよ、アルト様。アルテミス様が一体何をお考えになって、こんなことをしているのか…全く見当がつきません。」
プロムの心配性は今に始まったことではなかったが、眼鏡を何度もかけ直し、手帳を何度もめくっている様から伺うに、今日は特に落ち着かないようだ。
「それは俺にもよくわからんが、アルテミス様の気まぐれはいつものことだからな。心配はプロムに任せて、俺はせっかくの休暇を楽しむことにする。」
そう言うとアルトは、飛ぶスピードをぐんと上げて愚かな儀式とやらが行われる湖を目指した。
「アルト様ー、お待ちくださーい。」
プロムが慌ててアルトを追いかける。
雄大な地上は、たくさんの島から成る天界とは全く違う。
ポセイドンの使用人から話を聞いたときは、天空に比べれば海はちっぽけだと思っていた。
が、実際に見てみると、穏やかな海の静けさや、光る水面の美しさは、話に聞いていた以上のものだった。
木や花は天界にもあるが、地上に生きるそれらも同じように美しくアルトの目には写った。
「人間界も良いところなのだな。」
「感心している場合ですか、アルト様。良いところに暮らしていようが、愚かな儀式なるものを行うような人間には、決して近付いてはなりませんよ。アルト様が人間などとどうにかなってしまったら、このプロムは奥様に…」
「呪いをかけられるかもわからんな。」
心配が頂点を超えたようで、プロムは飛んでいるというよりもフラフラと空を漂ってしまっている。
そんなプロムを横目に、アルトは声を殺して笑っている。
「心配せずとも、なるようになるものだ。それよりも、湖など見えんが大丈夫だろうか。月もだいぶ高くなってしまったように思うが、先を急ぐべきかな、プロム。」
プロムは手帳から古びた地図を取り出して広げ、辺りを見渡し
「あの山を越えるとすぐに湖のようですから、時間もちょうどよいかと思いますよ」
と、目の前にそびえる山を指差した。
アルトはいつだったか母の書庫で読んだ本に載っていた『魔女』のことを思い出した。
黒く、長い、先の尖った、目の前の山のような形の帽子を被り、しわくちゃの顔に不敵な笑みを浮かべていた挿し絵が、鮮明に思い出された。
「神様のこと絶対許さないから!」
突然、空まで響く大きな声が聞こえたかと思うと、一人の少女がドボンと水飛沫を上げながら湖に飛び込むのが僅かに見えた。
その光景を、少し離れたところで大勢の人が見ている。
何やらざわめき立っており、ただならぬ事態のようにアルトには見てとれた。
それに、自分たちについて何も知らないはずの人間が、許すも許さないもないだろうと思ったし、少女がこちらに腹を立てる理由もさっぱりわからない。
「申し訳ありません、アルト様。少々、遅かったようですね。あれが神に生贄を捧げるとかいう愚かな儀式かと。」
プロムは淡々と、見下ろす地上で起きていることの説明を始めた。
「何かのせいにしたがる人間がですね、作物ができぬのは神のせい、雨が降らぬのは神のせいと…」
「そんなことはよい。少女はどうなるのだ?」
地上の光景が理解できていないアルトは、プロムの言葉を遮り、少女の行く末を尋ねた。
「ええっと…それはですね、なんと言いましょうか…」
すると、急にプロムはまた落ち着かない素振りを見せ、言葉に詰まった。
眼鏡をかけ直し、言葉を選ぶプロムを見てアルトはしびれを切らし
「もうよい」
と短く言うと、湖へ向かって急降下した。
湖の中は冷たく、暗くて何も見えない。
少女はどの辺りに飛び込んだだろうと、アルトは目を凝らしてみるが、やはり何も見えない。
闇雲に手を伸ばして、必死に見えない少女を探した。
「ゴポッ…」
空気を吐き出す音が、微かにアルトの耳に届いた。
まだ生きていると確信を得て、音がした方へ必死に向かった。
水の中を移動するのは初めてで、空を飛ぶのと同じようにしても思ったように進まない。
早く、早く!と伸ばした手に、何かが触れた。
温かいそれを掴まえて、近くに引き寄せよく見ると確かにそれは少女だった。
アルトは少女を抱いたまま空を目指した。
少女は動かない。
よろめきながら浮いているアルトの側に、プロムが慌てて近付いた。
「たっ大変なことですよ、アルト様!こんなことをしては…」
ずり落ちた眼鏡を直すことも忘れたプロムに、アルトは腕の中でぐったりとしている少女を近付けた。
「生かして連れて帰る。助けてやって欲しい。人間のことは、俺にはよくわからん…頼む、プロム」
力なく項垂れたかと思うと、覚悟を決めたようにプロムは顔を上げた。
アルトが生まれたときから、もう何百年かも忘れてしまうくらい長い間側にいて、言い出したら聞かないとよくわかっていた。
頼られることも久しぶりで、主の頼みを嬉しくも感じていた。
「わかりました。お任せください。まず、下が騒ぎになっているでしょうから雲の上まで…人の目につかぬところまで急ぎましょう。」
プロムに言われて、ちらりとアルトが下に目をやると、何人もの人間がこちらを指さして何か言っている。
「さ、早く」
プロムに急かされて、アルトは雲の上まで急いだ。
「人間は水の中では息ができずに死んでしまうのです。溺れると言うんでしたかね…人間界では心肺蘇生法というのを行うと読んだように記憶しているんですが。あと濡れていると、身体が冷えてしまうので温かくする必要があったはずです。とりあえず、まだ生きているようなので、アポロン様に頂いた治癒の水を胸の辺りにかけましょう。それでも駄目でしたら、アポロン様のところへ連れて行くほうがいいでしょう。あぁ、でも途中で死んでしまえば生き返らせることになって、もっととんでもないことになってしまうでしょうし…ハデス様に先に許しを乞うべきか…」
初めてのことに整理がつかないのか、ベラベラと喋りながら、手だけは的確に動かしている。
治癒の水をかけると、少女の口から飲み込んでいたであろう水が出てきた。
アルトが少ない知識を頼りに少女の胸に耳を当てると、ドクンドクンと確かに音がしていた。
「助かったようだ。帰って、風呂にするぞ。」
アルトはしっかりと少女を抱え直し、天空の入り口へ向かう。
いくら風を切って飛ぼうが、少女はピクリとも動かない。
湖の中では確かに温かく感じた体温も、今はとても冷たい。
結局、住処に着いても少女は目を閉じたままだった。