平賀譲は譲らない 幕間話 EX プロパガンダVSアンチプロパガンダ
架空戦記創作大会参加作品です。
※ この作品は拙作『平賀譲は譲らない』を世界観のベースにしておりますので以下の部分についてご理解いただきますようお願いします。
西暦と年号のズレがあります、1923年に大正天皇の生前譲位によって大正が終わり昭和元年となっていますので昭和17年はこの作品では1940年になります。
沿海州の大部分がユダヤ人国家イスラエルとなっている設定です。これはロシア革命の時ニコライ2世一家を救出する代わりにイギリスと日本が沿海州一帯をロシアから買収し、それをユダヤ人に転売して建国となったと言う設定です、沿海州の売却代金でロマノフ家は亡命して後にイスラエルを除く極東とシベリアの一部を勢力圏にしたロシア共和国を建国しています。
(ウラル以西を押さえているソ連と対立関係になっています)
またドイツではナチスが台頭しましたが強力な指導者に恵まれず(アドルフ・ヒトラーは陰謀により日本に画家・建築デザイナー兼教師としてオーストリアから派遣されています)
現在の指導者はルドルフ・ヘスが勤めていますが絶対的な権力は無くドイツ共和国首相として在任中です。実権はゲーリング・ヒムラー・ゲッペルスらの実力者が政治を軍事は軍部(ユンカー出身者が多くを占める)が大きな発言力を持っています。又親衛隊はラインハルト・ハイドリヒが大きな力を持っておりドイツ国内でユダヤ人排斥を行っております。
以上の背景があると言う事でお願いいたします。
ナチス・ドイツ(国名はドイツ共和国のままなのだが区別の為にこう呼ぶことにする)の悪行として有名なのはユダヤ人排斥から始まり最終的には収容所(別名絶滅収容所)におけるユダヤ人の計画的な殺害によるドイツからの排除(民族浄化を謳っていた)であろう。
その為に使われたのがゲッベルス率いる国民啓蒙・宣伝省であった。彼らはニュース映画などで巧みにユダヤ人の悪辣さや{善良な}ドイツ国民が受け取るべき富を独占していると宣伝し国民の反感の目を彼らに向けさせようとした、其の企みは半ば成功したと言っても良かったであろう、世論は日増しにユダヤ系の住民に対しての反感を持つようになり国外へ出て行くユダヤ系の住人が出始めたのもこの頃であった。彼らは周辺国のオランダ・スイス・フランスに流出して行ったが、ポーランド系ユダヤ人はポーランド本国政府が彼らの帰還を認めなかったため行く当てを失っていた。
これに手を差し伸べたのがイスラエルである。建国当時はアメリカや旧ロシアからの移民が多かった当国であったが同じ民族と言う事で彼らを迎え入れたのであった。
もっとも当時は未知の土地である極東に行くのには抵抗があり行く当ての無い彼らのような者たちだけが向かうのみであった。
この頃ナチスのユダヤ人排斥キャンペーンに対抗する形でイスラエルが行ったのがアンチプロパガンダと言うべき一連の宣伝活動であった。内容はナチスの宣伝している事がいかに根拠の無いものであるかと言う事をニュース映画などを各国に配給して啓蒙すると言う活動であった。
当初はこのような形で行われていたプロパガンダ活動であったがある事件を境に激化することになる。
それはナチス・ドイツで1939年に起こった{水晶の夜}と呼ばれる反ユダヤ主義暴動である。是により一気にドイツ国内ではユダヤ人に対する迫害が酷くなり、強制収容所に収監されるユダヤ人が増大した、そしてそれらに対してホロコースト(大量虐殺)を行い、国内のユダヤ人を根絶やしにすることを企んだのである。
だが対外的にも国民たちにも其の事実は伏せられており『隔離政策により問題は収束しつつある』と宣伝していた。
是に対してイスラエルは情報機関モサッドが集めた収容所の実態を暴露してホロコーストの存在を知らしめることに成功する。是により周辺国もナチス・ドイツに警戒心を持ちドイツ国民の中にナチスへの疑念を抱かせる事に繋がっていった。
それに対抗してナチス側はイスラエルがドイツを宣伝で攻撃するのはドイツの生存権を脅かす陰謀の絵図を引きイギリスやフランスを扇動して攻撃させようとしているとしていると非難する宣伝を盛んに行った。
その後オーストリア併合要求(要求は退けられる)ラインラント進駐事件などを経て徐々にナチス・ドイツは拡大政策を露にし始めるとアンチプロパガンダはいっそう激しくなり、周辺国に逃れたユダヤ人たちにイスラエルへの移民を薦めると共に、ナチスに対してドイツ国民がNeinと言える空気を作ろうという呼びかけを行っていた。これはナチスとドイツは別物であると定義する事によってドイツ国内のナチス支持を落とそうと言う企みで、是は成功してナチスの弱体化に寄与していた。
だが其の反動でドイツ軍部をナチスが押さえ込めなくなりそれに引きずられるように戦争への道を進んでいく事になるのは皮肉な事であった。
そして遂にソビエトとドイツが同時にポーランドへ宣戦を布告して第二次世界大戦が始まった。ナチスは東方へ生存権を広げるという方針からポーランド侵攻を企画したが、軍部はポーランドはソビエトのみに攻めさせポーランド支援にイギリスと日本が戦力を割いた隙に西方のベネルクス三国とフランスに侵攻しイギリスを大陸から叩き出そうとした。
結局軍部の意向を無視できなくなったナチスは軍部の作戦に同意する、それは国内で行っていたユダヤ人の強制収容所送りをそれらの占領地でも行うと言う条件を親衛隊が軍部に認めさせる形となった。
其の情報もイスラエルには筒抜けで彼らは直ちにドイツの侵攻予定国にそれを伝え、ユダヤ難民の受け入れを表明した。
だがその数は膨大な数であり中々進まない内にオランダはドイツ軍の侵攻を受け難民は追い詰められて行った。
イギリス・日本に加えイスラエルも海軍を派遣して収容に当たったが小規模な船団では中々進まず、Uボートの襲撃で犠牲を多く出していた。
この時もイスラエルは輸送船団に報道カメラマンを載せるなどして民間人を輸送する船団を襲撃するドイツ軍の蛮行を宣伝する。
そして大規模な部隊による救出作戦{カナン}が発動しそれが成功を収めるとそれを取材したニュース映画を大々的に放映して世界へ難民となったユダヤ人に対する同情と民間人に見境も無く攻撃するナチスに対しての非難を勝ち得たのであった。
是に対してナチスは民間船への攻撃はでっち上げであり我が国を貶めるユダヤの汚い謀略であると宣伝するがドイツ国民へのナチスへの不信を増大させるだけに終わった。
この時期のイスラエル側のアンチプロパガンダで有名な物としてはドイツから追われオランダに逃れたユダヤ人家族の一人の娘が書いたオランダから{カナン}作戦で脱出してイスラエルにたどり着くまでの日記を公開した物であろう。
これは当初各国の言語に訳されて新聞などに掲載されたがその内容に反響が続出し、後にドイツ在住時代の幸せだった日々やオランダへの出国、イスラエルに着いてからの生活などを補完した『自由への旅~アンネ・フランクの日記』として出版された。
この頃には完全にナチスのプロパガンダは破綻しドイツ国民のナチス離れが深刻化することによりドイツと連合国との戦いに終止符を打つ出来事が起こるのだがこれは別の機会に述べる事とする。
プロパガンダ同士の戦いに関してはドイツ、いやナチスは完全に敗北する事となった。
なおモサッドに協力した組織が日本に存在すると当時から言われておりゲシュタポのヴァルター・シュレンベルグの証言などもあるが当事国の機密指定解除が未だ行われずに21世紀になった今も明らかにならないまま日本政府も其の存在を認めていない。
※『プロパガンダから見た第二次世界大戦』より欧州編から抜粋
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あくまで娯楽的なものでありますので政治論とかはご返事できないかも…
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