七
鏡の中の私は、立ったまま寝てしまいそうなほど、眠たそうな目をしていた。
「あくびをする時は、口を手で隠しなさい。はしたないでしょう」
我慢できず大あくびをすると、、それを見たお母さんが呆れたように言う。鏡越しに顔を見ると、私の髪を整えるその表情は、とても穏やかだった。
「大事な日の前に夜更かしをするなんて……誰に似たのかしらね」
「お父さんは時間に厳しいから、似たとすればお母さんだよ」
「……そうね。思えば、私も昔はお父さんとの待ち合わせに遅れてばっかりだったわ」
すっかり傷んでしまっていた髪が、お母さんの手で少しずつ手入れされていく。聖域のように綺麗なままのチャペルに相応しい、綺麗な花嫁になるために。
「髪は、お父さんに似たわね。ちょっと固めの黒い髪」
「うん。できたら、お母さんの髪が欲しかったな」
「そんな事言ったら、お父さんが悲しむわよ。ただでさえ『あまり俺に似なかったな』なんて言ってたんだから、髪くらいは継いであげなさい」
優しく諭すお母さんの黒い癖っ毛は、少し白髪が混ざり始めている。
「それに、私はこのはの髪が羨ましいわ。雨が降ってくしゃくしゃになるような事、無いでしょう?」
「お母さんの髪は、くしゃくしゃになるの?」
「ええ。濡れると癖が強くなってね。あなたも、昔、一緒にお風呂入った時に『お母さんの髪ぐねぐねしてる』なんて言ってたのだけれど、覚えてないかしら」
無い物ねだり、隣の芝は青い。なんにせよ、人のものは羨ましく見えてしまう。私は、どうも比較対象としての自分の位置が随分と低いらしい。
「つばめちゃんも、このはの髪はよく褒めてたわよ」
「それは知ってる。こないだも言われた」
「髪以外にも色々褒めてくれていたし、このはの面倒を小さい頃から見てくれていたし……本当に結婚したら、きっと良い旦那さんになってくれたでしょうね」
「……そうだね」
今更婚姻届を受け付けてくれる役所なんて、何処にもない。書類やら記録やらで残るものではない、これは、本当に好き合う二人がひとつになるための結婚だ。
そして、私とつばめの決して消えない繋がりを残すための、最後の契約だ。
しばらくいじっておきながら、お母さんは「このはの髪は手を入れないほうが良いわね」と言って、結いもせずに垂らしてしまった。鏡の中の私はちょっとだけ眠そうにしているけれど、黒い真っ直ぐな髪だけは、傷みが誤魔化されてきれいになっている。
「お父さんも言っていたけれど……そうね、娘の花嫁姿を見られるのは、親にとって一つの夢なのかもしれないわ」
準備はおしまい、と言うように、お母さんが数歩下がり、鏡の中に私だけを残す。
あの日、「ブライダルクローゼット」での予感の通り、真っ白いウェディングドレスは、私によく似合っていた。
引きずる裾も無く、動きをほとんど阻害しない、言うなれば飾りっ気のないドレス。しかし、私にはこれくらいが合っている。過ぎたるは及ばざるが如し。華やかさだって、身の丈に合うように控えめにするべきだ。
「そっちは、大丈夫?」
振り返り、仕切りの向こうに声をかける。
「平気平気。あっ、でもネクタイ結べないから、手伝ってもらえたら嬉しいです……」
返ってきた軽い口調に、私とお母さんは同じような笑いをこぼした。
今日ここで式を挙げる二人の準備を、お母さんは一人で手伝ってくれている。いざ始まってしまえば、一番乗り気になっているのはお母さんであるようにも思えた。「ドレスだけじゃなくて、本当は合わせた下着とかも用意するのよ」と言いながらも、驚くほど手際よく、私を花嫁姿に仕立て上げていく。
そして、つばめが「ブライダルクローゼット」から持ち出した紙袋に入っていたのは、どうやら新郎用の貸衣装だったらしい。店内での試着時に新婦に合わせて新郎が着るものであり、そこまで質は良くないらしいが、つばめは「まあわたしにはこれくらいでいいでしょ」と笑っていた。
正装慣れしていない二人のためにお母さんがいちいち部屋を移動するのは手間なので、二人とも同じ部屋で支度をしているのだが、間に置いた仕切りのおかげでつばめと私はお互いの姿を確かめられない。
「……よし、じゃあ、わたしは先行って待ってるから」
身支度を終えたらしいつばめが、控え室を出て行く。「すいませんお待たせしました」とは、恐らく外で待っていたお父さんに言ったのだろう。新郎も新婦も女の子なので、必然的にお父さんは一人だけ外で待つ羽目になってしまった。
「お母さんも、結婚の準備は大変だったの?」
つばめを送り出して戻ってきたお母さんに、私の衣装の最終確認をしてもらいながら、尋ねる。
「私は、式は挙げてないのよ」
「そうなの?」
「ええ。お父さんが忙しかったから」
確かに、言われてみればお母さんとお父さんの式の写真は見たことがない。籍を入れるだけで、式を挙げない夫婦というのはそこまで珍しくもないそうだが、自分の両親がそうであったという事までは知らなかった。
「親の夢を子に託すのは、あまり良いことじゃないかもしれないけれど」
鏡越しに、ドレス姿の私と、あまり似合っていないスーツ姿のお母さんの視線がぶつかる。淋しげな、自分の悪事を懺悔するような、今まであまり見たことのない表情。
「そうね、せめて、自分の娘には誇らしい式を挙げてほしいと思ってしまうわ」
私は、人に何かを継いでもらったことなど無い。だから、自分の夢を人に託すなどという経験も無い。お母さんの言葉も、共感するには遠すぎるものだった。
でも、だからこそ、託された側として答えるべきだと思った。
「誇らしいかどうかは分からないけど……少なくとも私にとっては、人生で一番幸せな時間になるよ。それに手を貸してくれるお父さんとお母さんも……もちろん、つばめも、私には誇らしいけど……そういう事じゃあ、無い?」
これは国語の授業ではない。模範解答も無ければ点数も返ってこない。だけど、お母さんの優しい微笑みが、私の解答は正しかったのだと証明してくれた。
「……ありがとう、お母さん」
急に様々な感情がこみ上げてきて、気付けば私はお礼を言っていた。
本人である私にもどうしてお礼を口にしたのか分からなかったのに、お母さんはまるで全部お見通しとでも言うように頷いた。きっと、私はこれからもお母さんやお父さんの子どもでしかないのだろう。
行きましょうか、と差し出された手を取って、ドレス姿の私はぎこちなく歩き出す。控え室を出ると、もう、つばめの姿はなかった。
お母さんも私も何も言わないまま、静かに、連れ添って歩く。慣れないヒールの足音だけが、薄く埃の積もった白い廊下にやけに大きく響いた。
ここは、昔からこんなに静かだったのか。それとも、今だから静かなのか。
通路を抜けた先の小さなチャペルは、薄暗かった。
申し訳程度に設えられたステンドグラスは、本当はもっと綺麗な輝きを湛えていたのだろうけど、残念ながら今はただひたすらに赤い光ばかりに満ちている。沢山の人に祝福されて通るはずのヴァージンロードにも、静寂しか残されていない。途中、お母さんが手を離した。行き先は分かっている。ただ、うっかり転んでしまわないかどうかだけが不安だった。
マナーの教本には何やら複雑な段取りが書かれていたが、今日はほぼ全てを飛ばして、祭壇の前で待つ新郎のもとへ。
「似合ってるよ。凄い綺麗」
祭壇の前で向き合うなり、タキシード姿のつばめはちょっと照れくさそうに褒めてくれた。照明が無いから化粧や服の粗が隠れているからかもしれない。煌々と照明が輝いていても、つばめならば褒めてくれたとは思うけれど。
「ありがとう。つばめは、あんまり似合ってないね」
「そりゃあ、サイズも違うしね」
袖も裾も余ってしまっている上に、ウェストも強引にベルトで締めているらしい、いっそ滑稽ですらある男装。しかし、見栄えは良くなくても、格好だけでも合わせてくれた事が嬉しかった。
ここから、どうしたら良いのだろう。式の流れも分からない私がちらと視線を向けると、「さて」と、神父役のお父さんが咳払いをした。
「……すまないが、私も詳細な口上などは暗記していない。結婚式への招待を受けたことは一度や二度ではないのだが……」
どこか勿体つけた言い回しに、くすりと笑ってしまう。だが、次に口を開いたのは、曖昧なりに進行しようとしたお父さんではなく、つばめだった。
「常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも……」
私でも知っている、とても有名な誓いの言葉。いつの間に覚えたのか、つばめはそれをすらすらと暗誦してみせた。もしかしたらどこか間違っているかもしれないが、少なくとも私には分からない。それほどまでに、流れるように言葉は紡がれていく。
それでも。
「……死が二人を分かつまで、わたしは、このはを愛し、待ち続けると誓います」
つばめの誓いは、僅かだが彼女らしい色が添えられていた。
恋人が、私を信じてくれている。
死が二人を分かつまで。いや、死すら分かつ事の出来ない絆を、信じてくれている。
だから、私もそれに応える。
「……私も、つばめを愛し続けると、誓います」
きっと、この上なく稚拙な結婚式だった。
でも、そこには私とつばめ以外には、何も無かった。私にとっては、これ以上に意味がある式など存在しない。
つばめと共に、頷き合う。
そして、私たちは誓いの口づけを交わした。
昨夜繰り返した幾度ものキスよりも遥かに甘美な、たった一度の行為。
幼く、ぼんやりとした夢の向こう。私が本当に望んでいたものは、そこにあった。