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最後の鐘  作者: みなと
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 つばめを呼んでくる、私が言うなり、お父さんは車のキーを取り出した。だが、ガソリンの残量と道の状態を考えると、車を出すのは最後、式場に向かうときだけにしたい。

 今日も、まだ、夜明けとともに外は明るくなってくれた。今までにも学校まで行ったりはしたのだから、つばめを連れて帰ってくるくらいならば大丈夫。

 そう伝えると、お父さんはしぶしぶながら一人で出歩くことを許可してくれた。ただし、小さな催涙スプレーを携帯し、危険を感じたら自分の身を最優先しろ、という条件付きで。

 そろそろ汚れが気になってきた制服ではなく、動きやすいジャージに着替えて、運動靴を履いて家を出る。

 お父さんに言った言葉は、半分は本当で、半分は嘘だった。

 一人でつばめの所に行きたかったのは、昨日のつばめが、どこかおかしいように感じられたのを忘れられなかったから。

 具体的な理由は挙げられないが、私が気付かなかった何かを目に留めてはモップを構えて警戒する姿は、少なくとも平常時のつばめとはどこか違っていた。

 何より、私が「風靡荘」へ行った時の、すっかりやつれてしまっていたつばめの姿が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。

 虫の知らせ、胸騒ぎ、嫌な予感。いや、そんなものよりももっと確かな「推測」が、私を走らせた。

 慣れない長距離走のせいで、「風靡荘」へ着いた頃には、私は昨日以上に息を切らせて足も震わせてしまっていた。日頃の運動不足は、こうした自分の足を頼らざるをえない状況下で恨めしいものとなる。

 かん、かん、と、足音を鳴らしながら、錆びた手すりで体を支えて階段を上がる。つばめは、今日はどの部屋にいるのだろうか。少し迷い、缶詰があった方の部屋をノックする。

 つばめ、つばめ、と何度か呼びかけると、中で何かが動く音が聞こえた。それから、しばらく空いて、鍵が開く音。

「……ああ、ごめん、今日、行くんだったっけ……?」

 顔を出したつばめは、私を見るなり、ぎこちなく笑った。

 一晩。たった一晩しか空いていないというのに、つばめの顔は、昨日の朝よりも酷い有様だった。

 顔だけではない。肩越しに見れば、部屋の窓は割れ、フローリングの床にも幾つもの傷がある。

「つばめ……?」

 心配しているはずなのに、何を言ったらいいのかも分からず、私はただ、名を呼んだ。

「ごめん、ちょっと寝れなくって。ああ、上がって。外は、危ないから……」

 つばめの身に何かが起きている。曖昧な予感でしかなかったものは、部屋の中へ入ると同時に、確信に変わった。

 カフェで手にしてからずっと持っていたモップは、真っ二つに折れて床に転がっていた。壁にはそのモップで何度も叩いたような後があり、隣の部屋が見えてしまっていた。でも、かつて水城家が住んでいた部屋側の壁だけは、無傷だった。

「服は、制服のままでいいよね。道はどうだろ、途中でなんかトラブったら嫌だけど、わたしもあっちの方は行ってないんだよね。缶詰とか何個か持ってった方がいいかな」

 押し入れを開けるだけでも、つばめの動作が緩慢になっているのは見て取れた。取っ手を掴み損ね、薄汚れた指先で何度も壁を掻いている。着たままの制服から伸びた足は、包帯を巻いた箇所以外にいくつもの傷が増えていた。

「……つばめ」

「うん?あ、大丈夫。わたし、寝ないでも結構動けるタイプだし。期末テスト前とかは、一夜漬けとかばりばりやってたから」

「違うよ、そんなことじゃなくて……」

 私の声に振り向いたつばめは、やはり笑っていた。私が見たことのない笑顔だった。

「このはは、心配しすぎだって」

 薄いガラス越しのような違和感。その源がつばめ以外のものだったら、私はきっと、こんな事はしなかっただろう。

「つばめ、私に隠し事してるよね」

 腕を掴み、強引にこちらを向かせて、語気を強める。

 遠慮なんてしていたら、間違いなくつばめはこのままだ。

「お母さんがいなくなったから、だけじゃないよね。何か……何かが、つばめをおかしくしているんだよね?」

 推測と言うよりも、確認。

 それが何かまでは分からない。でも、つばめがカフェや帰り道で見たと言う影は、少なくとも本人には「気のせい」ではないはずだ。

 私の前では、まだ正気を演じてくれていた。そう考えれば、辻褄が合う。

 一人になった途端、きっと、つばめは。

「わたしは、自分の身は守れるから。お母さんとは違って、さ」

 表情は笑ったまま、つばめは呟く。黒い目に私を映しながら――いや、私だけを映しながら。

「それに、このはが、いてくれるから。わたしはまだ、一人ぼっちにはなってないから……だから、まだ、だいじょうぶ」

 とても気弱で、頼りなくて、それでもひたすらに優しい母親を、つばめは誇っていた。私は、それを知っている。

「つばめ……」

 かける言葉が見つからなかった。

 世界が赤く染まってから、私は何も喪失していない。学校での生活は無くなった。小説の新刊も、毎朝見ていたニュース番組も消えた。でも、それだけだ。もっと身近な、私を構成するのに必要不可欠な存在を失ったことはない。

 つばめは違う。

 隣室から漏れ出していた腐敗臭の正体は、もはや疑うべくもない。三日会わなかっただけで、ではなかった。三日、つばめは心を歪めるような状況と向き合わされていた。

「あっ、ごめん、このはの好きな桃缶、もう無いんだった。どうしよ、おやつっぽいのよりも、お腹膨れそうなやつの方がいいかな」

 私に押さえつけられても、まだ、つばめはそんな事を言っていた。

「つばめ、いいよ。帰ろう」

「帰る?」

「うん。ほら、今日からは、私の家で一緒に暮らそう?」

「あはは、このははまた、そういう事を……」

 少しも面白くなさそうに笑うつばめを、私はほとんど睨みつけるようにして見つめる。それで、察してくれたらしい。ようやく、つばめの顔から曖昧な笑顔が消えた。

「……分かるでしょ。このはに迷惑かけるのは、目に見えてる」

 演じていた平常の更に奥にある、素のままのつばめが、苦しげに呟く。

「わたしも、自分がどういう状態かは分かってる」

 私に掴まれた腕は、震えていた。

「でも、どうしようもないんだよね。偽物だって分かってるはずなのに、本物にしか見えないの」

「幻覚……?」

「そ。何かね……一昨日、くらいからかな。見えるようになっちゃった。お母さんと同じように、わたしも誰かに襲われるんじゃないかって、ずっとビクビクしてたせいかな」

 せめて口調だけでも軽いものにしようと努めているのか、自らの内外をどうにか分離させようとしているのか。

「昼間は、まだなんとかなるんだけど……夜になると……あんな感じに、ね」

 つばめの視線を追う。折れたモップと割れたガラス。僅かに散った赤は、空の色だけではないのだろう。

 だからこそ、放っておくわけにはいかなかった。

「つばめは、私が私以外の何かに見えてる?」

「……どういうこと?」

 露骨に訝しげな声を上げたつばめに、少しだけひるむ。だが、屈せず続ける。

「そのままの意味だよ。私は、つばめの知ってる土屋このはに見えてるよね?」

「そりゃあ……もちろん」

 怪訝そうに、若干首を傾げながら答えるつばめに、私はどうにか笑いかけてみせる。

「じゃあ、大丈夫。何かあっても、つばめは私を傷付けたりしないから」

「……なにそれ」

「そのままの意味。つばめは私だけは何があっても傷付けないって、私は知ってる」

 つばめは、やはりまだ混乱しているようだった。

「もし、もしもだよ。つばめが何か嫌なものを見たら、その時は、私を見て」

 うぬぼれだったら、とても恥ずかしい。だけど、今はそれを信じるしかない。

「嫌なものを見ちゃうなら、私がつばめの目をふさぐ。嫌なものを聞いちゃうなら、私がつばめの耳をふさぐ。そうすれば、つばめは大丈夫でしょう?」

「……変なの。このはって、時々そうだよね」

 くすくすと、つばめは笑った。久しぶりに見た、安堵を含んだ笑顔だった。

「変って、ひどい言い草。つばめの事を考えて言ってるのに」

「いや、それにしたって他にもっとあるでしょ。なに、『私を見て』って。ドラマでも今時そんなチープなセリフ使わないよ」

「じゃあ、つばめだったらどんな言い方するの?」

「えっ、いや……それは……」

 上手い返しを考えているのか、視線があちらこちらに泳ぐ。困っているのがまるわかりの仕草だが、私は助け舟を出してあげずに待つことにした。本気で心配してあげたのだから、これくらいはいいだろう。

 えっと、とか、うーん、とか散々唸った末、「私を見ろ、とか?」とつばめは言った。

「それじゃあ、私と同じだよ」

「いやいや、同じじゃないって。私の場合は、命令形。このはが言ったのは提案。私のほうが強い」

 強い、とはどういうことなのか。どうしようもなくくだらないやり取りに、しかし、私はようやく安堵できた。

 確かに、つばめはまだ大丈夫だ。いつまで続くかも分からないけれど、私が支え続けてあげれば、きっと、まだまだ大丈夫だ。

 追求が終わったことで、つばめもやんわりと私に掴まれていた腕を外して、「まったく」と口の端を吊り上げて笑った。

「仕方ないな、このはがそこまで言うなら、お世話になってあげようかな。このはは寂しがりやで困るね」

「今頃気付いたの?」

 今日に限った話ではなく、私はいつだってつばめの背中を追いかけてきた。人見知りもましにはなってきたが、それでも、何かあればつばめの姿を探す。頼りになる親友を想う。そんな親友が私から離れようとしているのなら、何がなんでもその手を引っ張るにきまっている。

「じゃあ、引っ越しの準備しないとだね。缶詰入れるの手伝ってくれる?」

 私にビニール袋を手渡すつばめの表情は、少しだけ晴れやかになっていた。

 完全に気分を切り替えられたわけではないだろう。それは、きっとこれからも不可能だ。この笑顔の奥には、十数年間で作り上げてきたつばめの心を容易く歪めてしまった記憶が残っているのだから。

 それでも、今は。

「服は、ちょっと諦めるしかないかなあ。制服着っぱなしでもいいんだけど、ヤバそうだったらこのはの服貸してくれる?」

「いいけど、サイズ合う?」

「身長そんなに変わんないし平気でしょ」

 二人がかりで、がらんがらんとやかましく缶詰を袋に詰め込む。「着替えを取りに隣の部屋に行く」と言い出さないかと不安だったが、杞憂で済んだ。

 はたして、つばめはどこを歩き回っていたのか。押し入れに入っていた缶詰は、コンビニのビニール袋四つ分の量があった。二人で両手に袋をぶら下げ、ボロボロのアパートから一刻も早く逃げ出そうと、靴を履く。

 だが、外階段を降りる足音が続かないことに立ち止まると、つばめは、階上で首だけを振り向かせ、じっと何かを見つめていた。

 何か、見えているのかもしれない。きっとまた、私には見えないものが。

「つばめ、行こう」

 今回は、声をかけることを躊躇わなかった。

「……ん、ごめんごめん」

 ちゃんと前を向いて階段を降りてきたつばめと、隣り合って歩く。

 もう、ここには戻ってこない。戻らせない。小さく、胸中で覚悟を決めて、私とつばめは「風靡荘」から逃げるように離れた。


 お母さんは、私よりもずっと察しが良かった。そして、気遣いが上手だった。

 僅かに語られた思い出と湿気った線香で弔いを済ませ、それ以上は話題には出さなかった。ただ、「つばめちゃんもまだ子どもなんだから、危ないことはしないように」と、やんわりとたしなめただけだった。

「このはのお母さんって、このはにそっくりだよね」

 保存食ばかりの夕ご飯を終え、私の名前が書いてある高校指定のジャージに身を包んだつばめは、窓の外に視線を投げながら呟いた。何かを見ているのではなく、ただ、夜を迎えて赤銅色に包まれていく景色を眺めている。

「どのあたりを見て、そっくりだと思ったの?」

 私は押し入れを漁る手を止めて、床に座り直して尋ねた。学習机の上に置いた照明代わりの蝋燭が、窓際に立つつばめを照らしている。私とは対称の位置にいるが、そこまで広くもない部屋である。会話のためにわざわざ声を張る必要はない。

「色々。あ、見た目はそこまで似てないかも」

「どこが似てるか、って聞いたのに。似てないところだけ具体的に言われても」

「だから、色々似てるなって」

 要領を得ないけれど、たぶん、つばめは褒めてくれているのだろう。

 私も、お母さんのことは尊敬している。反面教師にしている箇所もいくつかあるが、似ていると言われて悪い気はしない。

 だが、つばめが次に言った言葉は、私の些細な疑問など容易く吹き飛ばすものだった。

「実は、私、このはのお母さんに『大きくなったら結婚してください』って言ったことあるんだよね」

「は?」

 前触れのないカミングアウトに、私の口から素っ頓狂な声が飛び出した。

 ここまでの話を聞いていて、どこがどうなってその回想に繋がったのか。いや、それ以前に、「結婚してください」とはどういうことか。

「ごめん、全然話が見えないんだけど……つまり、どういうこと?」

「いやだから、結婚してくださいって……」

「最初から。そこに至った経緯からお願いします」

 混乱のあまり敬語も飛び出す。

「経緯って言ってもなあ。別に、そんな真面目な話じゃなかったし……」

「いやいや、プロポーズしたって過去だけを言われても、気になって仕方ないの」

 つばめは「仕方ないな」とでも言うように、頭を掻いて「どんな感じだったっけ」と記憶を手繰りはじめた。どうにもじれったく、早く思い出してくれと急かしたいが、残念ながらつばめの記憶を引っ張り出すのは私にはできない。

「すっごいちっちゃい頃だったし、私もはっきりとは覚えてないんだけど」

「それでもいいから」

「分かったって。落ち着け、コームダウンプリーズ」

 犬に「待て」をさせるようなジェスチャーで私の感情を逆なでして、つばめはようやく「幼稚園の頃だったと思うんだけど」と語り始めた。

「このはのお母さんが、このはを迎えに来たんだよ。でも、トイレでも行ってたんだったかな、とにかくこのはがどっか行ってて戻ってくるまでの間、『いつもこのはと遊んでくれてありがとうね』とか『つばめちゃんはいい子ね』とか褒めてくれたんだよね」

 語順がばらばらで若干分かりづらかったが、四歳か五歳くらいの記憶にしては、随分はっきりしているように聞こえる。あるいは、つばめにとっては、それくらい印象深い出来事だったのかもしれない。

「で、まあ、それくらいの歳だと結婚って最高の親愛を示す手段みたいな捉え方してるじゃん?」

 同意を求められても、私は小さい頃には「結婚イコール好き合う男女の終着点」と捉えていた覚えがある。だが、話の続きを促すためには頷くしかない。

「だから、あれだよ、めっちゃ嬉しかったんだと思うよ、たぶん。このはのお母さんに褒められたのが」

「つまり、舞い上がって『結婚してください』なんて言ったの?」

「おかしいよねえ、今思うと。ちっちゃい子どもって何考えてるのか分かんないね」

 他人事のように言っているが、その「何考えてるのか分かんない」子どもは幼少期のつばめである。

 そして、自分で説明を求めておきながらも、いざ聞かされると、なんとも反応に困るものだった。若干の嫉妬は覚えたが――。

 嫉妬。

 浮かび上がったその感情に、私は首を傾げた。

 何に対する、だろうか。

 つばめがお母さんに褒めてもらったこと?お母さんがつばめから本気ではないとは言え求婚されていたこと?どちらもしっくり来る理由ではない。

「まあ、そんな感じの昔話だよ。あの頃から、このはのお母さんは優しい人だったなって思い出しただけ」

 思い出話を語り終えてつばめはすっきりしたようだが、対照的に私の中にはもやもやとしたものが残されてしまった。自分の内に発生した感情の正体が掴めないというのは、気持ち悪い。

「でも、このはも似たようなこと言ってたの、覚えてない?」

 しかも、追い打ちをかけるようにつばめは言った。

「その顔は、覚えてない顔だ。幼稚園の頃、このはも先生に同じようなこと言ってたんだけど」

「……全然覚えてない」

 幼稚園、先生、結婚。複数のキーワードを提示されても、私はつばめの言っている記憶を引き出すことができなかった。

 そもそも、私はどちらかといえば人の顔を覚えないタイプだ。幼稚園どころか、数年前まで通っていたはずの小学校の担任の先生ですら、顔と名前があやふやになっている。

「私も名前は忘れたけどさ、男の先生……保育士、って言うの?が一人だけいたんだけど、その先生が当時のこのはちゃんはいたくお気に入りで?」

 口調が変わり、明らかに私をからかうためのものになる。恥辱に耐えつつ、思い出すために必要なだけの情報が出てくるのを待つ。

「まあ幼稚園入ったばかりの頃から、このはは本が好きで、絵本読んでることが多かったんだよね。私は男の子と遊び回ってたり積み木やったりいろいろだったけど、このはは本当に絵本ばっかり。そんなこのはお嬢さんを、『もしかして友達づくりが上手く行っていないのかな』と心配した保育士さんは、自分が他の子どもとの架け橋になろうと決めたのです」

 ついには語り口調にまでなってしまった。つばめが楽しそうなのは良いのだけれども、私で楽しまれるのはどうにも快くは思い難い。しかも、幼少期にそこまで他者の思考を汲み取っているはずはないので、ほとんど創作に近い話になっている。

「で、このはちゃんが読んでいた絵本は、いわゆるシンデレラストーリー。王子様に見つけてもらうお姫様の物語だったのです。それを見て、保育士さんは言いました。『このはちゃんは、お姫様になりたいの?』と。このはちゃんは、きらきらした目で答えました。『せんせい、おうじさまになって』と」

 さあどうだ、と言わんばかりに、つばめがいたずらっぽい笑みを浮かべる。客観的とはいえ、多少の脚色が入っているであろう語り。確証とまでは行かないが。

「思い出し……た、かもしれない」

 確かに、言われてみれば似たようなことは言ったような気がした。いや、言ったかどうかは置いておいても、シンデレラの絵本が好きでよく読んでいたのは確かだった。つばめに引っ張られて外で遊ぶようになるまでは、絵本ばかり読んでいたのも確かだ。

 そうなると、なるほど、幼い私が王子様役を探した可能性は否定できない。

「いや、でも、それはあくまでも絵本を見てお遊戯として……」

「いいや、私には分かる。あれは本気だった。本気で恋する少女の目だった」

「断言するほど、覚えてないでしょ」

 否定に願望を込めて、私はため息とともに天井を見上げた。

 昔話に花を咲かせようと思えばいくらでも話が出てくる程度には、私とつばめは時間を共有してきた。しかし、時折こうしてどちらかの記憶にしか無いものが出てくると、しかもそれが恥ずかしいものだと非常に困ってしまう。なにせ、否定しようがないのだ。覚えていないのだから、「そんな事は無かった」とも言えない。できるのは、肯定しないという些細な抵抗だけである。

「つばめは、色々覚えてるよね」

 話題を逸らす意図も含め、感心を正直に言葉にする。

 思い出に関する話だけではなく、本当につばめは物事をよく観察して、覚えている。

「別に、何でもかんでも覚えてるわけじゃないよ。忘れてる事だって山ほどある……と思う。春にやった古典のテストとか酷かったし」

 でも、とつばめは続ける。

「覚えておきたいって思うことは、忘れないんだよね、たぶん。で、一番覚えておきたいのが、このはといる時間だから、色々覚えてるだけ」

「……あー」

 なんと言えばいいのだろうか。ニッと笑うつばめの表情を見る限り、してやったと思っているのかもしれないが、若干顔を赤らめているようにも見える。単に外が赤いからなのか、それとも本当に多少なりとも恥ずかしがっているのか。

「そういう、ちょっと恥ずかしいことを言うのは……」やめて、と言い切る前に、ドアがノックされた。

 こちらの返事を待たずにドアを開けて部屋に入ってきたお母さんは、「お届け物」と言いながら私に温かい濡れタオルを二枚渡すと、つばめに軽く微笑みかけてから出ていった。

「なに?タオル?」

 蝋燭以外の光源を失い、すっかり暗くなってしまった部屋の中、確かめるようにつばめは私の抱えたボディタオルへと視線を投げる。

「うん。もう、お風呂は沸かせないけど、体拭くくらいはしておきなさいって」

 小さい携帯コンロでも、タオルを浸せる程度のお湯は沸かせる。ガスボンベもいつまでも使えるものではないし、水も消耗品だが、体を清潔に保っていられると、気分もなんとなく楽になる。状況が状況である。心の状態は、できるだけ良いままに保ちたい。

 一枚をつばめに渡すと、ちゃんと絞ってなかったのか、べちゃと音を立てて、お湯が床に滴った。

「私は別に……」

 一度は遠慮しかけたものの、「お世話になるんだから汚いままじゃあ駄目か」と、つばめは両手で持った濡れタオルに顔を埋めた。

「あぁー……すっごい、生き返る……」

 籠った呟きに、苦笑が漏れる。話に聞く「おしぼりで顔を拭くおじさん」というのはついぞ見ないままだったが、きっと、こんな声を上げる生き物だったのだろう。

「あ、思い出した」

 かと思えば、ぱっと顔を上げてつばめは私を見た。

「今度は何?」

「小学生だった頃に、お泊り会やったじゃん」

「……ああ、うん、それは覚えてる」

 まだ、土屋家と水城家に多少の交流があった頃。子どもの遊びの延長で、つばめが私の家に泊まりに来た事があった。夏休みの間のほんの一日、家も近くだったが、友達が夜になっても家にいるという特別感は、とても楽しかった。

「つばめがご飯いっぱい食べるから、お母さんがびっくりしてたよね」

「美味しいものはいっぱい食べて当然でしょ。まあ、それは置いといて、お風呂だよ、お風呂」

 お風呂がいったいどうしたのだろうか。私が覚えているのは、手で水を飛ばす方法を教えてもらった事くらいだ。そんなにお風呂お風呂連呼するようなことは無いはず。

「お風呂がどうしたの?」

「このはがくすぐったがりなものだから、私に背中流させてくれなかったじゃん?」

「そうだっけ?」

「そうだよ。私はこのはを信じて背中を流させてあげたのに。しかも、意地になってどたばたしてたら私が洗い場で足滑らせてお尻打って泣いて、このはのお母さんに叱られた」

「そんな理由だったのかはともかく、転んでたのは覚えてる」

 まさに泣きっ面に蜂だった。そして、付け加えておくと、私まで叱られた。お風呂で遊んだら危ないでしょうと結構きつく言われたのだが、二人でベッドに入る頃にはすっかり忘れてしまっていた。

「というわけで、あの時の借りを返すために」

「いや、背中拭いてもらうつもりはないからね?」

「あら残念」

 先手を打つと、思いの外あっさりとつばめは引き下がった。発端こそ冗談めいていても、放っておくとずるずると実現しかねない。言い出した事を最終的には実現させてしまう妙な行動力が、つばめにはあった。

「まあいいや。じゃあ、素直に自分の体を拭かせてもらいましょう。昨日お風呂入ってないし、ちょうどいいや」

 そう言いながら、つばめは私の貸したジャージを目の前で脱ぎ始めた。恐らく本人は気にしないだろうが、私には女子の着替えであってもまじまじと見るものではないという意識があるので、背を向けて、同じように服を脱ぐ。

「うわっ、このは、肌めっちゃ白い。さすがインドアガール」

「引きこもりなだけだよ……と言うか、あんまり見ないでね。恥ずかしいから」

 答えながら、自分の体を見下ろす。筋肉の少ない、白く細い体。「綺麗な」ではなく、「不健康そうな」と形容される体つきのせいで、昔から人前で着替えるのは苦手だった。

 また、私たちくらいの歳になれば、体つきの差もはっきりしてくる。そして、私は言うなれば発育の悪い側だった。つまりは、色々な要素が重なって、私は肌を見せるのが嫌いだった。私服も殆どは長袖や長ズボンだし、学校制服を夏服に衣替えしなければならない時期が来ると憂鬱になった。

 もっと言えば、それに拍車をかけたのが、つばめの存在だ。

 手足がすらりと長くて、女の子らしい膨らみもちゃんとあって、顔も良い。背が高ければ非の打ち所がない。そんな所ですら、つばめは私の憧れだった。幼い頃からそんな親友と何かと比べては、なるほどこれが月とスッポンということかと自嘲してきた。

 でも。

「わたしも、このはくらい肌綺麗だったらなあ」

 つばめは、私を見てはそんな事を言う。私を羨む理由なんて、私にはまったく分からない。つばめは、つばめのままでいいのに。私の要素なんて一つでも取り入れてしまったら、綺麗なつばめが汚れてしまう。

 そんな事を思うのだが、私はしかし「つばめだって肌綺麗だよ」と曖昧に笑うだけ。

「髪も綺麗だしさあ。あー、なんか、急にこのはのウェディングドレス姿が楽しみになってきた。試着ってした?してない?」

「してないよ。ぶっつけ本番で行こうと思ってる」

「それで、いざ本番になったらぐちゃぐちゃのドレスで登場とかはやめてよ?役、とは言えわたしが新郎なんだからさ、新婦さんには綺麗なカッコで来てもらわないと」

 まくしたてられ、思わず苦笑い。

 つばめの言うことはもっともだ。いくら私があのドレスに運命的なものを感じたとしても、実際に着てみるまでどうなるかなど分からない。結局は、直感でしか無いのだから。その直感も、日が経つほど「なんであんな事を思ったのだろう」と首を傾げてしまうようなものだ。それこそ、もしかしたら明日には「やっぱりこのドレスは私には似合わないんじゃないだろうか」と思ってしまっている可能性だってある。

「……あらためて、このはのお父さんとお母さんにはお礼言わなきゃいけないよね」

「お礼?」

「お礼。普通、もっと怒るでしょ。自分のところの娘を勝手に連れ回されたら。それがちょっと叱るだけで許してくれるとか、凄いありがたいことだよ。心が広い」

 ありがたい、と言うのなら、私もつばめにお礼を言わなければいけない。

 声をかけようと振り向いたが、つばめはまだ着替えの途中だった。下着だけを着けた後ろ姿は、やっぱり、見惚れてしまうくらい綺麗だった。

 私の視線に気付いたのか、つばめも振り向いて、「どしたの?」と笑った。その笑顔も綺麗なはずなのに、憔悴した姿が重なってしまって、どうしても今のつばめだけを見ることはできなかった。

「……私も、つばめにお礼言わなきゃ」

「わたしに?なんで?」

 目を丸めて、おどけたような声で訊き返してから、つばめは床に落としていたジャージを器用に足で拾った。ズボンからじゃなくて上着から着るんだ、などとどうでもいい感想を抱きつつ、私は答える。

「……いや、まだかな。うん、その時が来たら、あらためて言うよ」

「えぇっ、それはズルくない?変に引っ張られると気になってもやもやするんだけど」

「じゃあ、後のお楽しみって言い換えようかな」

「言葉変えても内容は一緒じゃん」

 不満そうに食い下がるつばめがおかしくて、私も自然と笑みがこぼしてしまう。

 でも、少しだけ、ほんの少しだけでも、こうして何かを先延ばしにしていたかった。

 それは、不確定な未来に投げる、頼りない導線。つばめと別れないための、小さな約束。

「そういや、わたしってどこで寝ればいい?」

 相変わらず、つばめはあっさりと話題を切り替える。

 空の色からは、しかし、確かに寝る場所は考えてなかった。まさか、床で寝てもらうわけにも行かない。

「予備の布団はないし……どうしよ、ベッド、二人入れるかな」

 当然の提案だと思ったのだけれども、つばめのリアクションは、私の予想以上のものだった。「えっ」と驚く声は、すっかり裏返ってしまっている。

「一緒に、ベッドで寝るの?」

 完全に意識の外にあったとでも言いたげな驚きように、私も少しだけ驚く。そして、もしかして、と思い当たる。

「……さすがに、一緒に寝るのは嫌だった?」

「イヤじゃない!」

 勢い良く、食い気味に否定をされ、ますます首をかしげてしまう。

「でも、ほら、小さい頃ならともかく、今はわたしもこのはもそれなりに成長したじゃん?しかも、わたし寝相悪いから?このはを押し出したり、壁で潰したりするかもしれないし?」

 何故か語尾を上げて疑問形にしながら、つばめは言い訳にも聞こえる言葉を並べ立てる。

「そこまで寝相悪かったっけ?この間、うちでDVD見てる途中に寝ちゃった時なんか、びっくりするくらいおとなしかったけど」

「いや、まあ、とにかく……」

 つばめはしばらく、何か意見を頭の中でこね回していたようだが、結局言葉にはできなかったのか「寝返りで叩いたりしても怒んないでね」とだけ言って、額を叩いた。

 その後も、どちらが壁側に行くか枕はどうするかなど色々と揉めた。でも、とりあえず、二人でベッドに入ってもはみ出すことはなかった。

「やっぱ、ちょっと狭くない?」と、背中合わせのつばめが呟いた。

 互いに背を向けたまま、場所を譲り合うようにして縮こまる。狭く感じるのは、二人してそんな事をしているからだろう。

「昔は、二人で入ってじゃれ合うくらいはできたのにね」

 私の記憶が正しければ、小さかったつばめは、ベッドに入るなり私をくすぐってきた。 加減を知らなかったつばめにより、私は笑いながら泣きつつ咽るというめちゃくちゃな状態にされ、今でもつばめが手を伸ばしてくると若干警戒してしまうのは、そのせいである。

「今でもやろうと思えばできるでしょ」

 つばめがそう言いながら、ごそごそと体勢を変える音が聞こえる。確かに不可能ではないのかもしれないが、膝やら肘が背中にぶつかってきていて既にちょっと痛い。つばめも私ももう大人に片足踏み入りかけているし平気だろうけど、「くすぐらないでね?」と一応釘は刺しておく。

 しかし、つばめは「ふっふっふ」と何やら芝居がかった笑いと共に言った。

「残念だけど、無防備な背中を見て欲望を抑えられるほどわたしは真面目じゃないのだよ」

「えっ、こっち向いてるの?と言うか、向けたの?」

「わたしの体の柔らかさを舐めてもらっては困るよ」

 シャツの上から背中を何かが這う感触に、反射的に身を捩る。つばめの指が何か書いているのだと分かったのは、「は」という字を背中に書かれてからだった。

 本人の自称はともかく、友達をくすぐって泣かしてしまうほど、つばめももう子どもではない。そして、はしゃいでいる内に疲れて眠るほど、幼くもない。

「つばめ、今日はちゃんと眠れそう?」

 悪ふざけは適当に流し、尋ねる。

「うん?」

「ここしばらく、寝てないよね?」

 確かめるための私の言葉に、つばめは少し躊躇うような沈黙を挟んでから、「うん」と肯定した。本当は、確かめるまでもなく分かっていたが、本人に肯定してもらう事が重要だった。言霊、ではないけれど。

「でも」

 と、つばめは一転して明るい声色で言った。

「ほら。今日はこのはって優秀な抱きまくらがあるから。快眠間違いなし」

「私、抱きまくらにされるの?」

「さあ?でも、もしかしたら寝ぼけて、って事はあるかもよ?」

 つばめの腕が、ベッドと私の体の間から強引に差し込まれる。何事かと思っている内に、私は後ろからつばめに抱きすくめられるような形になった。意図せずして、距離の近さを意識させられてしまう。そして、気がついた。

 つばめは、震えていた。

「……つばめ?」

「ごめん。でもほら、このは、言ってくれたじゃん。わたしの目を塞いでくれるって」

 目一杯首を回して、視線を暗い部屋に巡らせる。僅かに、ほんの僅かに、赤い月明かりが部屋の中にあるものを照らしている。少なくとも私の目には、それらはすべて私の見覚えのあるものだった。

 でも、つばめには違うのだろう。

 私の体に回された腕はそのままに、少し強引に身を捩って、つばめの方へと向く。俯いてぎゅっと目を閉じて、つばめは何かに耐えているようだった。

 それが、助けになるのかは分からない。でも、他にどうしたら良いかも分からず、私はつばめの頭を抱き寄せた。私の背中に回された手にも、力が込められる。強く、互いを確かめるように抱き合う。

「このは」

「なに?」

「声を、聞かせて。なんでも良いから、話して」

 小さく、しかしはっきりと、つばめは懇願する。

 どうして、とは訊けなかった。私の胸の中で震える親友は、ひどく無力な子どもに見えた。

 私は、自分が強い人間だとは思わない。でも、そんな私でも守らなければいけない存在だと思えた。

「いいよ、何の話が良い?」

「なんでもいい。本当に、なんでも。最近読んだ本とか、好きな食べ物とか、そういうのでいいから……」

「そっか。じゃあ……」

 長く物を語れるほど、舌が回る性質ではない。でも、つばめが求めているのは意味のある言葉の連鎖ではない。

 私がこれまで読んできた様々な物語の一場面を、モザイク状に並べ繋ぐ。支離滅裂で無意味な言葉の連なり。

 願うのは、つばめに聞こえているものが私の声だけであればいい、という事だけだった。

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