四
大きなカーテンを引き下ろして、店内と外を切り離す。
窓という窓を隠した所で、相談用のテーブルらしき場所にパンフレットが置いてあることに気がついた。
最高の瞬間は、最高の衣装で。
ウェディングドレスのレンタルを行っている「ブライダルクローゼット」の謳い文句が、パンフレットの表紙を大きく飾っていた。
「なんか、緊張する」
つばめの声に、私は頷く。
まだまだ来る時期では無かったはずの場所に踏み入るのは、なんだか少しだけ悪いような事をしている気分がして、でもやっぱり楽しかった。
窓際にディスプレイされていたドレスは、今でこそ若干の赤みを帯びているが、本来ならばきっと綺麗な純白だったはずである。ひと目見ただけで「これを着られたら」と思ったが、近くで見てみると、そのサイズは明らかに私には合っていなかった。
「それで、お客様はどのようなドレスをお望みでしょうか」
くるりと短いスカートを翻して回ったつばめが、芝居がかった尋ね方をする。お辞儀を一つ挟んで案内してくれたのは、ドレスが陳列されている、倉庫状の部屋。ショップに入るなりその部屋のドアをこじ開けたのは、嗅覚が良いというか、なんと言うか。
「そうですね……落ち着いた感じの、派手すぎないものを探しているのですが」
壊れたドアに少しだけ罪悪感を抱きつつ、ずらりと保管されていたドレスに視線を滑らせる。白い花畑のような、色彩の淡い美しさ。しかし、マネキンに着せられたドレスを見ても、どうにも自分に重ねられず、思わず腕組みをして唸ってしまう。
「カタログとか、無いのかな。モデルさんが試着してるような」
「あった気がする。ちょっと待ってて」
あれだけ憧れていたはずなのに、いざ目の前にすると、自分がウェディングドレスを着ている姿が想像できない。ドレスと自分の間には、薄い透明の膜でもあるような錯覚がある。それはまるで「まだ早い」と誰かに言われるようで、少しだけ悔しかった。だが、半ば意地になってドレスを睨んでも、それで何が変わるわけでもない。
そこまで大きなショップではない。貸出中なのか、いくつか服を着ていないマネキンも立っている。あるいは、本当はもっと大きな倉庫があって、ここにあるのはほんの一握りだけなのかもしれない。
どちらにせよ、選択肢はここにあるドレスだけ。もし私のイメージと合うものが無くても、その時は妥協しなければいけないだろう。
こうやって、何事も妥協して進めることになるのだろうか。そう思うと、やはりこんな時にやる事じゃなかったなと自嘲が漏れた。
「このは、あったよ」
呼ばれて振り向けば、つばめはA4サイズの写真を掲げていた。
私を拒んだドレスたちに背を向けて、テーブルの上に放り出された写真たちに向き合う。
しかし、メイクやヘアスタイルをばっちり決めたモデルさんたちは、今の私にはむしろマネキン以上に遠い存在だった。当然、彼女たちが身に纏うドレスも一層現実離れした美しさで私の目に映る。
「こういうの見ると、わたしまでなんか憧れるなあ。こういう、ちょっと派手そうなのとか着こなせたらかっこよくない?」
「……そうだね」
つばめの言葉に空返事をしながら、試着用に置かれている姿見に視線を向ける。
その中では、随所が汚れた制服を着た女子高生が、機嫌悪そうに顔をしかめながらこちらを見ている。一度も染めたことのない真っ黒なセミロングヘアはぼさぼさで、化粧っ気のない顔とあいまって、純朴というよりもただ単にみずぼらしい。
「化粧、してあげようか?」
心を見透かされたかのような言葉に、驚いてつばめへと視線を戻す。
「どうして……」
「分かるって。顔に出やすいって、さっきも言ったじゃん。それに、実は、このはの家で話した帰りに学校の図書室によってスタイリストとかの本借りといたんだよね。ドレスだけじゃ足りないんじゃないかと思って」
本当に、意外な所で察しが良い。いや、物事をよく考えている。私よりもずっと。
「でも、本読んだだけでメイクとかできるの?」
「そりゃあ本職の人たちみたいには行かないだろうけどさ、わたしだって何度か自分の顔に化粧したことあるし、この髪だって、自分でヘアカラー買ってきて染めてるんだから。このはが自分でやるよりは、ずっと上手くできるんじゃない?」
確かに、そう言われてしまえば納得せざるを得ない。生まれてこの方、私は一度も化粧なんてしたことがない。幼稚園くらいの頃にお母さんの口紅で遊んだのが最初で最後だろうか。
「じゃあ……そうだね、本番前になったら、お願いしようかな」
「了解。それじゃさっさとドレスも決めちゃおう。メイクはドレスに合わせないといけないからね」
「なんか、プロの人みたいな言い方になってるよ」
「やる以上は、気持ちだけでもプロで行かなきゃいけないでしょ」
やけにやる気をみなぎらせている親友が面白くて、私の気分は少しだけ軽くなった。あれだけ遠くに見えていたドレスを着たモデルさんたちも、心なしか近づいた気がする。
「おっ、これとかどう?このはに似合いそう」
つばめに提示された写真には、丈が短めのドレスを着たモデルさんが映っている。パンフレットの説明によれば、ミニドレスと呼ばれる類のものらしい。ドレスのせいなのか、モデルの外人さんが童顔なせいかは分からないけれど、地味な日本人の私には似合わない、華やかな可愛さがありすぎるように思えた。
「ちょっと可愛すぎない?」
「そう?着やすそうでいいと思うんだけど」
言われて、着るのが難しいとまた困ってしまうことに気がついた。ネクタイの締め方すらあやしい私に、豪華なドレスを問題なく身に纏うのはどれほど難しいことだろうか。
「まあ、このはが着るものだからこのはが選ぶのが一番か」
私の意を汲んでくれたつばめに「ありがと」と礼を呟き、数十枚の写真一つ一つに目を通していく。合わせてパンフレットに目を通して、どういうデザインが、どういう人に向いているかも参考にする。残念ながら、何の特徴もないただの女子高生向けなんて親切な案内は書いてなかった。
「ちょっと席外すから。決まったら呼んで」
「うん」
一人で選ぶ時間をくれたのか、つばめは受付カウンターの奥の事務所へと入っていった。
しんと静かになった店内で、テーブルについて一人でドレスを選ぶ。きっと、普通に結婚をする人ならば経験できないことだろう。隣には婚約者が居て、正面にはプランナーやスタイリストさんがいるはずなのだから。
元々、私は人に相談するのが苦手だった。だいたいのことは自分だけで決めてしまう。それで成功したこともあるけれど、失敗して後悔したこともある。でも、今度ばかりは、私が決めなければいけない。私の夢が見えているのは、私以外に居ない。最高の瞬間を彩る最高の衣装を用意できるのは、今は、私だけなのだから。
裾がとてつもなく長いロングトレーン。歩く時に気になって結婚式どころじゃない。ウェストあたりまでばっちりラインが出るマーメイドドレス。私はそんなに自分のスタイルに自信を持っていない。王道のプリンセスドレス。とても綺麗で、お母さんの友達もこのタイプを着ていた。でも、私にはちょっと華やかすぎる。
これも違う。あれも違う。
わがままなお客さんと、それに困らされるプランナー。両方を自分で演じながら、ひたすらに写真を捲る。
「……あ」
そして、ついに。
ぴたり、と。一枚の写真が、私の手を止めさせた。
大きく広がったスカートも派手なベールもない、シンプルな細いラインのエンパイアドレス。言ってしまえば地味だけれど、それが私の興味を惹いた。
モデルが日本人だから、という理由もあるかもしれない。でも、なんとなく、このドレスだけは私が着ている姿をイメージできた。自画自賛みたいになるけれども、本当に花嫁さんらしい私が結婚式場に立っている姿を、違和感なく想像できた。
「つばめ、決まったよ」
呼びかけると、「はいはい」と何か紙袋を持ったつばめがオフィスから戻ってきた。
「これにする」
テーブルの足元に紙袋を置いて、つばめは私が指差した写真を覗き込む。
「お、いいんじゃない?うん、このはって感じがする」
地味だと言われるかと思っていたけど、すんなりと肯定してくれた。それが私の気持ちを後押しして、椅子を蹴るように立ち上がらせた。
「さっそく探そう。Cの3番。倉庫にあるかな」
やる気を出した私に、つばめが笑ったのが分かった。いつもならば「笑わなくても」と言うところだけど、今の私はこのドレスを見たい気持ちでいっぱいだった。
Cの3、Cの3と呪文のように繰り返しながら、マネキンに付いた番号を確かめる。ドレスのデザイン自体が違うのだからドレスを見ればいいだけなのに、私はどうも番号で物を探す癖があるらしい。図書室で本を探すのも、ここでドレスを探すのも、同じ感覚だった。
「あっ……た……」
Cの3という番号は、見つかった。でも、そのマネキンは何も着ていなかった。
貸出中という事なのだと気付いて、私はその場に膝を付きそうになった。
「待って、このは、もしかしたら」
私とは逆方向から探していたつばめが、何かに気付いたように事務所に戻っていく。そして、少ししてから「このは!」と大声で私を呼んだ。
「ほら!これだよたぶん!」
つばめは大手柄を誇るように、事務所から引っ張り出した移動式クローゼットを開ける。
その中には、たしかに私が探していたドレスが収まっていた。
「貸してたのが返ってきて、そのままだったとかかな。良かった、借りたまま返ってきてないとかじゃなくて」
つばめの言葉に反応もせず、私はドレスを見つめていた。
それは、本当に少ししか飾りがないドレスだった。申し訳程度の刺繍が所々にあしらわれているだけで、後は白く薄い生地の美しさだけで作られている。
過去の記憶からの憧れではない、私が本当に望んでいたものが、形としてそこにある。
それが嬉しくて、気付けば、私は笑っていた。唐突に笑いだした私につばめがぎょっとしていたが、それでも笑いは止まらなかった。
「こ、このは?とりあえずほら、試着してみたら?」
「ううん、必要ないよ」
笑いながらも、私は首を横に振った。
きっと、これは私が着るためのドレスだ。こんな時に「結婚式を挙げたい」なんて馬鹿みたいな事を言いだしたのも、きっとこのドレスのためだ。試着なんて必要ない。絶対に、これは私にぴったりと合う。
「……まあ、このはがそう言うなら、わたしも無理強いはしないけど」
納得がいかないとでも言いたげなつばめの気持ちも分かる。私だって、この自信を理論的に説明しろと言われたらできる気がしない。
強いて言うならば、運命だ。
言葉によって説明できるものではない、見えない糸でつながっていたような運命的出会いだ。抽象的でも、それが一番しっくりくる。
「さてさて、どうしよっか。流石にこのまま持っていくことはできないし、畳んで持ちやすくしないといけないけど」
切り替えの早いつばめは、早々に次の行動を考えていた。さっき持ってきていた紙袋はてっきりドレスを入れるためのものだと思っていたけれど、違うらしい。
「ちょうど良さそうな箱とか、事務所にないかな」と、私はいくらか冷静さを取り戻して尋ねる。つばめは少し首をかしげて、記憶を辿っているようだった。
「あった……かも」
結局、今回もつばめがほとんどの物を探してくれている。事務所から持ってきてくれたケースは、持ち手の付いた透明なプラスチックケースで、私のドレスくらいならば上手くたためば収まりそうに見える。
「上手く畳まないと、どっかビリッとやりそうで怖くない?」
「紙製じゃないんだから、平気だよ……たぶん」
とは言え、クローゼットからドレスを取るだけでも、それなりに苦戦してしまった。
安物じゃないんだから、と言い聞かせても、うっかりどこかに引っ掛けてほつれさせるんじゃないかと手は恐るおそる動いてしまう。畳むためには床に置かなければならず、汚れた床を拭くためにつばめにタオルを取ってきてもらい、いざ畳み始めると、やはり中々に苦戦した。所々が硬い素材でできており、あれだけ自信満々に試着は必要ないと言っておきながら、やはり着方を確認しておくべきだったかもしれないという不安にさいなまれる。
結局、プラスチックケースにドレスが収まった頃には、ああでもないこうでもないと言い合っていた私とつばめはすっかり疲れ切ってしまっていた。
「まあ、これで今日の目的はオッケーって事だし……」
「うん……帰ろうか……」
つばめは紙袋を、私はプラスチックケースを手に、深々とため息をつく。
つばめがどう思っているのかは知らないが、私は、カーテンで見えないようにしていた外の景色にもう一度対面しなければいけないというのが憂鬱でしかたなかった。
ここでドレスを選んでいる時間は、本当に楽しかった。いっそ、ここにいる間に世界が終わってしまえばよかったのに、なんてことすら思ってしまうくらいには。
「……今、何時くらいかな」
ドレスレンタルショップを出て、相変わらずどこもかしこも赤い景色を見ながら、ポケットに手を突っ込む。
しかし、取り出したスマートフォンは、ついにバッテリー切れによってその役目を終えてしまっていた。電池切れ時にはバイブレーションするはずだったが、ドレス選びに夢中になっていて気づかなかったのだろうか。
「三時くらいじゃない?」
適当に、しかしどこか自信を感じさせるつばめの台詞に、「どこで分かったの?」と返事をするが、決して視線を巡らせて時計を探したりはしない。駅前広場という立地から、時計のたぐいがあってもおかしくはない。だが、それを探すということは、見たくないものをたくさん視界に納めてしまうことになる。
「いや、そろそろ小腹が空いてきたからそれくらいかなって」
「ああ、腹時計」
根拠としては頼りないが、ドレス探しで完全に時間を見失ってしまった私は、とりあえずそれを現在時間として設定せざるを得なかった。
空が赤くなってから、日暮れはどんどん早くなっている。ここ最近は真冬ほどの日照時間になりつつあり、五時頃にはほぼ真っ暗になって外を出歩くのは難しくなる。
「荷物持ってても、暗くなる前には家に着くかな。私はちょっとあやしいけど……」
どちらにせよお父さんとお母さんへの言い訳は必要だけれども、遅くなれば遅くなるほど次の外出に対して良い顔はしなくなるだろう。門限が夏は六時、冬は五時と決まっていた中学生時代を思い出す。
私が家に帰った後の事を考えていると、ふと、つばめが何かを言いたそうにもじもじとしていることに気がついた。どうしたの、と尋ねるかわりに視線を向けると、つばめは恥ずかしそうに目をそらして、言った。
「ごめん、トイレ行ってきていい?さっきからずっと我慢してて……」
そらした視線の先は、カフェに向いている。結局、つばめはあの後も三杯ほどコーヒーをおかわりしていた。カフェインの過剰摂取で今日は寝れないんじゃないか、と笑っていたけれど、その前に利尿作用が出てきてしまったのだろう。
比較的綺麗なはずということで喫茶店のトイレに入ったつばめが出てくるまで、私も喫茶店の中で待つことにした。
ドレスをテーブルに置いて、窓際の席に座る。下ろしたままのブラインドの向こうに、開発途中で頻繁に工事をしていたかつての駅前広場を見る。
ふと、北日向駅近くの映画館を訪れたことを思い出す。つばめが「テレビで紹介されててめっちゃ面白そうだった」と興奮気味に話していた、公開されたばかりのアクション映画。それを見るために、当時中学生だった私たちは、不慣れな電車旅でここまで来た。旅、と言っても精々数十分の乗車だったが、私が途中で痴漢に遭ったということもあり、とても長い旅路に感じられたものだ。
映画は、たぶん、面白かったのだろう。正直に話してしまうと、私はあまり覚えていない。でも、つばめが「面白かったね」と言っていたのは覚えている。もしかしたら、私を元気づけるために明るい話題を考えていたのかもしれない。いや、つばめの性格からすると、そちらの方が可能性としてはありえる。
軽薄な言動をする時ですら、誰かを傷付けないような言葉、話題を選ぶ。だから、つばめは多くの人に慕われるのだろう。
そういえば、アルバイト先のおもちゃ屋さんでも店員さんにお菓子をもらうことがあると言っていた。見た目こそ不良に踏み込みかけているが、しばらく接すれば、とても純な少女であるのは誰でも分かるに違いない。
「おまたせ、いや、すごいねここ。トイレまでオシャレで……」
戻ってきたつばめは意気揚々とトイレの感想を述べていたが、唐突に言葉を切って、首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや……今、何かが外を通った気がして……」
ぞっとした。
私がつばめの方を向いた瞬間に、背後を何かが通っていったというのか。
懐かしい思い出に緩んでいた私の顔がひきつるほどに、つばめの表情は険しくなる。そして、つばめは無言で店内の隅にあった掃除用具入れから、柄の長いモップを取り出した。
「まさか、それで……」
「何も持たないよりは良いでしょ」
まだ何も分かっていないのに、もしもの時はそれを振るって打ち据えるつもりらしい。頼もしくもあるが、同時に不安でもある。思い出すのは、駅に転がっていた薬莢。まさか無いだろうとは思うが、もし、万が一、あんなものを持っている人がまだ残っていたら。
「このはは、ちょっと離れてて。ヤバそうだったら、裏口から出よう」
でも、こんな状況ではつばめの言葉に従う以上のことは私にはできなかった。
何か、もっと良い提案ができたはずなのに、ドレスを持って窓際から離れ、裏口と表口どちらにでも走れる中途半端な位置で待つことしかできない。
ブラインドに指で隙間を作って窓の外を確かめたつばめを、私はじっと見つめる。無理はしないで、という心配すら言えなかった。
ドレスレンタルショップから持ち出した紙袋を私に預けて、つばめは一度、二度、深呼吸を繰り返す。持ち直したモップは、元剣道部らしく正眼に構えた。
静かに、足音を殺してドアに近づき、モップの先でドアレバーを下ろす。こんな時だというのに、器用なものだとのんきに感心してしまった。
そして、モップの先でドアを押すのかと思いきや、つばめは左足を軸に、レトロ調の洒落たドアを右足で思いっきり蹴飛ばした。ばあん、とけたたましい音が響き、私も咄嗟に身をすくめてドレスを入れたケースを盾代わりに構える。
「……ごめん、気のせいだったっぽい。誰もいなかった」
振り返ったつばめの表情は、ドアを蹴り飛ばしたとは思えないほどに穏やかだった。元から外れかけていたのか、上下に二つ付いていた蝶番の一つが外れて、ドアは斜めになってしまっている。
「ほら、行こう。暗くなる前に帰るんでしょ」
私の手から紙袋を取って、つばめは笑う。やはり、この親友は、何かを欠落させてしまっているような気がした。
家まで送っていくよ、というつばめの申し出を断り、私は一人でつばめのアパートから自宅への帰路を辿る事にした。
北日向駅から風靡荘までの道のりにおいて、数度、つばめは何かを警戒するように視線を景色に巡らせていた。その度に、私は「何かあった?」と尋ね、つばめは「気のせいだった」と答えた。
本当に気のせいならば良いのだけれども。
不安が私を急かす。早く家に帰れと叱る大人のように、疲れた体を鞭打つ。疑心暗鬼という言葉で自らを安心させようと試みるが、正体の掴めない恐怖に対して、ほんの数文字の言葉は何の薬にもならなかった。
自宅に着いた頃には、私の手は疲労以外のもので震えてしまっていた。鍵を探してスカートのポケットを探り、一刻も早く安全な日常の内側へと飛び込もうと鍵穴を回す。
勢い良くドアを開け、体が家の中に入ると同時に、私は玄関先に膝をついた。ドレスを入れたケースががたんと床に落ちて、その音に驚いたお母さんがリビングから顔を出す。
このは、と私の名を呼ぶその表情は、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。あるいは、両方だったのかもしれない。
ダイニングテーブルに着いた私は、カセットコンロで沸かしたホットミルクをすすり、事のいきさつを全てお母さんとお父さんに話した。
お母さんは、馬鹿なことを考えた娘に呆れているようだった。お父さんは、私が話をしている間ずっと仏頂面だった。
だが、お母さんから「何か言ってやってください」と話を振られるなり、「式は、どこで挙げるんだ」と呟いた。
「父さんに手伝えることは、あるか」
その言葉には、私以上にお母さんが驚いていた。
「お父さん、本気ですか?」
お母さんの言葉に、お父さんはゆっくりと頷いて、重く響く低音で語る。
「放っておいて今日のように子どもだけでふらふらされるくらいならば、協力的態度を取るほうがいいだろう」
それに、と一度間を置いてから、私へと視線を向けて続ける。
「娘の花嫁姿を見たいと思うくらいには、私も父親らしい気持ちを持っている」
それは、仕事にかまけて家を空けることが多かったお父さんなりの、懺悔の言葉だったのかもしれない。
私の予測を裏付けるように、お父さんは続ける。
「私は、父親として誇れる記憶を持っていない。経済的には不自由させていないとは思っているが、それだけだ。休暇を使って子どもとキャンプに行った、遊園地に遊びに行ったという話を職場で聞く度に、家で本を読んでいるこのはの姿が脳裏に浮かんだ。無論、読書に耽ることが悪であるなどと言うつもりはない。しかし……家族との思い出があるべき箇所にできた隙間を埋めるために、このはが本を読んでいるのではないかと思ったことは、一度や二度ではない」
寡黙な父親が、ここまで饒舌に何かを語る姿は珍しかった。それは、お母さんも同じらしい。言葉を挟めず、どこか悲しげに眉を顔を伏せている。
「こんな……手遅れになりかねない状況に陥って、ようやく妻子と向かい合って話をするような、ろくでもない父親だという自覚はある」
お父さんはそんな人じゃないよ、と、私とお母さんはほぼ同時に言っていた。それは本心だった。お父さんをろくでもないなどと思ったことは、一度もない。
しかし、お父さんは依然としてどこか苦しげに、言葉を紡ぐ。
「このは。父さんはな、お前がいずれ誰かと結婚するなどと、想像すらした事がない。いつまでも子どものままだと思っていた、と言い換えてもいい。それくらい……俺は、お前の成長に対して無関心だった」
そこまではっきりと言われて、私はようやく、お父さんの言いたかったことを理解した。
懺悔、なんてものではなかった。私が生まれてから今まで、十八年分、お父さんは自分の父親としてのあり方を悔いていた。
だが、次の瞬間には、お父さんの表情は一転して晴れやかなものへと変わっていた。自責の念を吐き出しきって、気持ちが落ち着いたのかもしれない。
「娘に、父親らしい事をしてやりたい。そうだな、俺が言いたいのは、それだけだ」
ぎし、と椅子の背もたれをきしませて、お父さんは言い切った。
しばらくの間、お母さんは何を言ったものかと悩んでいたようだけれども、やがて「車のガソリンは、あまり残っていませんよ」とだけ、諦めたように言った。
私はと言うと、両親から許可を貰え、協力までしてもらえるという事への安心感を噛み締めていた。地図で見た限りでは、式場は随分と遠かった。つばめも、きっと喜ぶだろう。
「……あれ」
いろいろな悩みが一度に解消し、私の中に一つ、新たな疑問が浮かび上がった。
「お父さん、自分のこと『俺』なんて言ってた?」
途中から一人称が変わっていたことを指摘すると、お父さんは「ああ……」と少し恥ずかしそうに腕組みをした。
「社会に出て、新人と呼ばれる時期が終わると、今度は威厳が求められるようになってくる。それも、年々求められる度合いが大きくなる厄介なものだ。仕事の内容は前提として、日常の言動にも気を払わなければならない」
遠回しな言い方だけど、つまり、会社では「私」と言っているということなのだろう。
私が納得して頷いていると、唐突に、お母さんがくすくすと笑った。何かを懐かしむように、今ではないどこかを見ながら、からかうように言う。
「お父さん、もっと若かった頃は『僕』って言ってたのよ」
「えっ、そうなの?」
「ええ。結婚する前……まだ、お付き合いをしていた頃にね。外見も今よりもずっと細くて、頼り無さそうな人だって思ったのをよく覚えてるわ」
初耳だ、と食いついた私に、ここぞとばかりにお母さんは「他にもね」と昔話を始める。
お父さんはとても居心地悪そうにしていたが、話をやめさせようとはしなかった。ただ、所々で「それは違う」「記憶違いだ」と訂正を加えるだけで、ずっと腕組みをしていた。
思えば、こうして家族で何かを話すことなんて、今までまったくと言っていいほど無かった。お父さんが自分の父親らしさについて悩むのも当然のことだろう。
だが、私はお母さんの話を聞きながら、頭のどこかではずっとつばめの事を案じていた。つばめの言葉を信じるのならば、つばめのお母さんは、今は別の場所にいる。
日が落ちていくほどに、世界は赤黒く変わっていく。私は、こうしてお父さんとお母さんと一緒にいられるから、まだ怖さに対して抵抗できている。何もかもに絶望せず、笑っていられる。
でも、つばめは?
今も、あのボロボロのアパートで一人過ごしているのだとしたら、その孤独感はとてつもないはずだ。
椅子を蹴って、親友を想う気持ちのままに駆け出したかった。それができなかったのは、結局、私は一人では何かを起こす勇気のない臆病者だったから、なのだろう。