表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後の鐘  作者: みなと
3/8


 翌日、つばめは私の家に来なかった。

 私は学校にも行かず、一日中家の中で待っていたが、数度お父さんが出入りしただけで、それ以外にはドアは開かなかった。

 その次の日も、同じだった。

 二日間つばめを待っている間に、式場の候補は見つかった。しかし、場所が見つかっても、今度は相手が居なくなっては意味がない。

 だから、三日目には、つばめの家に私から向かうことにした。

 空は赤くなっても、昼夜の概念はある。夜が明ければ、どこにあるのかも分からない太陽が申し訳程度に照らしてくれる。リュックサックに荷物を詰めて家を出る前に一度時計を見ると、私の体内時計よりも三時間ほど遅れていた。

 充電ができなくなって、バッテリー残量も僅かになったスマートフォンの液晶を、一瞬だけつける。十月二十二日、午前八時。

 この日、私はお母さんとお父さんには何も言わず、こっそりと家を出た。止められるのは目に見えていた。でも、私はつばめが心配だからと言う理由で、自分の内にある危機意識を押さえつけた。


 町は、私が学校に行っていた頃よりも荒んでいた。

 まだ家に残っていたはずのご近所さんは車で何処かへ去り、親御さんたちが帰ってこなくなった家の子どもを引き受けていた幼稚園は、すっかり静まり返っていた。道路に放棄された車の数は、随分と増えたように見える。それを足場にして、塀のある家に盗みでも入ったのか、ボンネットやフロントガラスには足跡が残されていた。

 時間にすれば、たった三日だけ。

 しかし、重要なライフラインが途絶えたと言うのは、それほど大きな不安をもたらしたのだろう。歩けば歩くほど、私のいる世界は荒れていく一方なのだと実感する。

 それでも、私は、この世界の行く末を悲観しなかった。もっと近い、つばめという一人の少女の方が、よほど心配だった。

 もちろん、私のようなひ弱な女子高生が一人でこんな所を歩くことにも、不安はあった。何か起こった時に、助けてくれる人はいない。

 近道をしようと路地裏を通れば、じゃり、と自分がガラス片を踏んだ音にすら怯えた。少しでも見通しのいい道を歩こうと大通りに出れば、世界に一人ぼっちになったような錯覚に、背筋が寒くなった。

 交差点に出ると、車にぶつかられた信号機が倒れ、道を塞いでいた。もう、ここを車が通ることは出来ないだろう。学校帰りにも見た、対角線上の荒らされたコンビニエンスストアは、時が止まったかのように変わっていなかった。あるいは、完全に壊れたものは、本当に時が止まってしまうのではないか。ありえない、オカルトじみた考えに知らず知らずのうちに片足を踏み入れてしまう。

 静けさと、非日常感。実体のない恐怖はここまで人の思考をかき乱すものなのだと、唇を噛む。

 それでも私が足を止めずにいられたのは、つばめを心配する気持ちだけは揺るがなかったから。そして、せっかく計画を立てたのに、台無しにしてたまるかという意地があったから。

 女同士での式なんて、とは言ったものの、今ではすっかりその気になってしまっていた。恋愛感情の有無は問題ではない。最期を迎える前に、大事な親友との友情を確かめる一つの形としての式を挙げるのもいいではないか。

 どうせ、もう、何もかもが普通ではなくなってしまったのだから。

 そこに考えがたどり着くと同時に、私は不思議と落ち着いた。

 つばめに返すポータブルDVDプレイヤーと、万が一のために持ってきた救急セット、それに地図とスナック菓子が入ったリュックを背負い直し、人気のない通り突っ切り、放棄された民家の敷地に侵入する。

 そうだ。もう、普通じゃないんだ。

 庭にあった自転車には、鍵がかかっていなかった。カゴの付いた、電動アシスト付きの高そうな自転車だった。ここに住んでいた人がスーパーへの買い物にでも使っていたものだろうか。

 無くなったら買い物が大変になるだろうから、いつか返しに来ます。なので、少しだけ貸してください。

 吹っ切れた、と言うには言い訳がましい謝罪を頭の中で繰り返して、自転車のカゴにリュックサックを入れる。

 少しペダルを漕いでみても、そこまで電動アシストの恩恵を感じられないのは、きっと、緩やかな下り坂だからに違いない。

 それよりも、久しぶりに乗った自転車は、また、私に昔のことを思い出させた。

 小学四年生の夏、だったか。

 当時、まだつばめは私の家の近くの一軒家に住んでいて、買ってもらったばかりの自転車をわざわざ自慢しに来たのだが、私が自転車を乗れないと知ると、当初の目的を放って「じゃあ練習しよう」と言ってくれた。

 幸い、私の家に面している道路は、車通りが少なかった。だから、運動神経の悪い小学生がふらふらと自転車に乗っていても、事故に遭うようなことはなかった。つばめは物を教えるのが上手だと知ったのは、確か、その時だった。転びそうになった所を支えてもらいながら、「つばめは、将来は幼稚園の先生とかになりそう」と言ったのを覚えている。本人は否定していたが。

 その頃を思えば、私も人並みには運動ができるようになった。自転車の立ち漕ぎをしても転ばないし、多少の段差ならば強引に乗り越える事だってできる。

 しかし、道を塞いでいた自動車を自転車に乗ったまま乗り越えるのは、さすがに無理だった。

 高校の校舎も見えてきたというのに、何が起こったのか、横転したトラックが道路に横たわっている。

 自転車に乗ったまま迂回するのと、徒歩に切り替えるの、どちらが早いかを考え、後者を選んだ。

 自転車を降りると、電動アシストはやっぱり役に立っていなかったのか、思った以上に足がふらついた。通学である程度歩いているとは言っても、自転車に乗った時に使う足の筋肉は、また別のものらしい。

 少しだけ深呼吸をして、額に滲んだ汗を制服の袖で拭う。そう言えば、ほとんど無意識に制服を着てきてしまったが、もっと楽な格好をしてくるべきだったのではないかと、随分遅れて気がついた。

 しかし、今更言っても仕方がない。リュックサックをトラックの向こうに放り投げてから、荷台と塀の僅かな隙間に自分の身をねじ込んで、通り抜ける。

 一瞬、嫌な想像をしてしまったが、制服がどこかに引っかかることはなく、抜けた先はまた道が塞がっていた、という事もなかった。ただ、地面に落ちていたリュックを見て、「そう言えば機械も入っていたけれど、壊してしまったのではないか」と後悔がやってきた。まだ使うかどうかは別として、人のものを壊すのは、気分が悪い。正当な貨幣取引では無かったとしても、つばめはこれを手に入れるためにそれなりの苦労をしただろう。

 だが、道端で確認している暇もない。自転車での疲労は、走るのを妨げるものではなかった。無意識にローファーでなく運動靴を選んだ私は中々冴えていたと、ささやかな自画自賛をする。

 住宅街の中をしばらく走ると、学校正面に伸びる並木道へと出る。

 ここまで来れば、あと少し。ちょっとだけ足を休ませようと、葉を茂らせる桜に手をついて、乱れた呼吸を整える。が、すぐさま何か異臭を嗅ぎ取り、慌てて鼻と口を袖で塞いだ。目的地に向かうというよりも、逃げ出すために駆け出す。錆びた臭いと腐った臭いが混ざった、私の知らない臭いだった。

 臭気によって、忘れかけていた恐怖が頭をもたげる。走れども走れども、それは振り払えない。

 私は、とても不安定な場所にいるのだと自覚させられてしまう。目をそらして、比較的安全な場所で少し歪んだ日常に浸ることも不可能ではない。しかし、それを内包しているのは、もっと大きくて逃れようのない絶望的状況である。外に出てしまえば、いつまでも目をそらせることではないと、嫌でも実感させられる。

 だから、と、走る足に力を込める。

 時間はある、と思えるほど、私は楽観的にはなれない。世界が終わる前に、もっと別の理由で私やつばめという個人が終わってしまうかもしれない。想像はしたくない。でも、私の頭の中は私が手綱を握れるものではない。

 つまるところ、私はつばめが心配で仕方がないんだ。大事な親友が、「また明日」と言ってくれたのに、何日も会いに来てくれないことが、不安で仕方ないんだ。

 葉桜に覆われた並木の中を抜けて、校門の前で、一度膝に手をついて息を整える。敷地内、もっと言えば校舎の中をまっすぐ突っ切ってしまうのが、一番早い。普段ならば躊躇うだろうが、今日の私は、土足を脱ぐことすらせず、校舎の床に足跡を残して通り過ぎた。

 裏門へ向かう途中、いくらか低い位置に作られたグラウンドへ目を向けると、いくつものテントが張られていた。家に住めなくなった人たちが、避難所として立てたのだろうか。市からの支給品らしいテントには、大きく市役所の名前が書かれていた。だが、中には破かれ、壊されたものもあって、無事なテントの中に人がいるのかは、分からなかった。

 顔も名前も知らない誰かへの心配は、すぐにつばめへのもので上書きされた。

 水城家の住んでいるアパートは、高校の裏門を出てすぐの場所にある。築十何年、もしかすると何十年かもしれない、錆びと朽ちの目立つ、言ってしまえばボロアパート。建設当時はともかく、現在は「風靡荘」という立派な名前には似つかわしくない外観になってしまっていた。

 一階部分に並ぶドアは、いずれも閉ざされている。赤錆の付いた外階段を、踏み抜いてしまうのではないかという不安に苛まれながら上る。確か、つばめの部屋は二階だと言っていた。表札をひとつひとつ見ていくと、二階の一番奥に、「水城」という札がかかっていた。

 呼び鈴はない。ドアを軽く叩いて待つが、反応は返ってこない。

「……つばめ?いないの?」

 再び、今度は少しだけ強めに叩いて呼びかけるが、やはり反応はない。意識しないようにしていた最悪のケースが、頭の中で膨れ上がっていく。

 意を決してドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。

 ドアを開けて、そこにつばめがいれば良し。だが、もしも――。

 ドアノブを握ったまま止まっていると、隣の部屋の鍵が回る音がした。やましいことはないが、警戒心のままに、ゆっくりと開くドアに対して大きく距離を取る。

「……このは?」

 名前を呼ばれなければ、私は顔を出したのがつばめだとはわからなかったかもしれない。

 赤く充血した目に、煤けた顔、ボサボサの髪。声も掠れている。着ているスウェットも薄汚れているためか、数日の内に、何十歳も老け込んでしまったようにも見えた。

「つばめ……?どうしたの、その……」

「んー……ちょっと、うん、色々あって。あ、とりあえず入って?外はちょっと危ないから」

 招かれるままに、表札のかかっていない、つばめのいた部屋へと足を踏み入れる。

 六畳ほどのワンルーム。キッチンとお風呂があるだけマシとは言え、親子二人暮らしには窮屈そうな部屋。

「ごめんね。心配して来てくれたんだよね」

 私が言わなくとも、つばめは察してくれた。空き部屋だったのか家具等は置いていないがらんどうの部屋に座り、自分の暮らしていた部屋側の壁へと視線を向ける。

「お母さんとちょっと揉めちゃってさ。中々このはのとこに行けなかったんだよね。こういう時、電話使えないって不便だって分かるわ」

 口ぶりからすると、笑っているつもりらしい。しかし、つばめの表情は引きつっているようにしか見えなかった。

 また一つ、何か、つばめの中の大事なものが壊れてしまった。そんな気がした。

「それで、お母さんは……?」

 訊くのが怖かった。だが、聞かずにつばめを連れ回すこともできなかった。

「あー、大丈夫、知ってる人の所に避難してる。うちのお母さんって暗い所苦手だから、電気点かなくなって、ちょっとパニックになっちゃったの。ロウソクとか無かったから、部屋、真っ暗だったんだよね」

 そうなんだ、と笑うことは、私にはできなかった。

「……つばめも、一緒に行かなかったの?」

「そりゃあ、行くはずないよ」

 変なことを、とでも言うように、つばめは声を裏返した。

「わたしは、このはと結婚式あげるって約束したんだから」

「でも、お母さんは……」

「いいの」

 つばめは首を横に振って、曖昧な笑みを浮かべていた。誰が見ても明らかな、作り笑いだった。

「ああ、ごめん。そう言えばしばらく体拭いてなかったから、ちょっと臭いかも。水浴びしてきていい?」

「あっ、うん」

「ありがと。ついでに着替えもしてくるから、この部屋で待ってて。外出ちゃ駄目だよ」

 絶対だよ、ともう一度念を押して、つばめは部屋を出ていった。直後、隣の部屋のドアが開く音が聞こえ、何か重い物をひっくり返す音まで聞こえてきた。相当薄い壁らしい。

 水浴び、と言うくらいなのだから、浴槽に水を溜めておいたのかもしれない。うちも同じようなことはしておいたが、いつまで持つかは分からない。ミネラルウォーターも、そこまでの量はなかったはずだ。どこか、水道に頼らずとも水を補給できる場所を見つけないと、その内。あるいは、その前に、という事もありえるだろうが。

 ぼんやりと、見えもしない先のことを考えていると、どすん、という音が隣の部屋から聞こえた。重い物を床に落としたような音だった。

 きっと、着替えの入った衣装ケースでも倒してしまったのだろう。

 またしばらくすると、ばしゃばしゃと水を跳ねる音がした。執拗に、何かを洗い落とす音だった。

 随分と時間が経ってから、こちらの部屋に戻ってきたつばめは、少なくとも見た目は小奇麗になっていた。高校の制服という見慣れた格好だからというのもあるかもしれない。

「おまたせ。いやあ、やっぱり体洗わないと駄目だわ。凄いすっきりした」

 掠れた声はそのままだが、ぎこちなかった笑顔もいつも通りのものに随分と近づいた。だから、私もそれ以上はつばめのことを心配しないことにした。

 調子の軽い、くだらない話で笑ってくれる親友に、いつも通りの態度で接する。

「髪、まだ湿ってるよ。ちゃんと乾かさないと、風邪引いちゃうよ?」

「自然乾燥で。ドライヤー使えないし」

 どすん、と音を立てて座り込んだつばめは、スカート姿だと言うのに堂々とあぐらをかいている。その上、ぐうとお腹を鳴らしているのだから、しとやかという言葉とは正反対の振る舞いである。

「ポテチならあるけど、食べる?」

「食べる食べる。コンソメ?」

「うすしお」

 リュックから取り出したポテトチップスを二人とも取りやすい、いわゆるパーティ開けにすると、がらんどうのカビ臭いアパートにいかにもジャンクな塩と油の匂いが広がる。相当お腹が空いていたのか、つばめはいただきますと言い終えぬ内にチップスを一枚つまみ、パリパリと咀嚼した。

「あと、これ返すね。うちに置きっぱなしだったから」

 ついでに、と、リュックサックからDVDプレイヤーを取り出して、ポテチの隣に置く。

 しかし、つばめはこちらには手を伸ばさなかった。

「このはの家に置いといてもいいのに。どうせ、わたし一人じゃあ見ないだろうし」

「そういうのは、もっと早く言ってほしかったな」

 電源ボタンを押してみると、少しだけ間を置いて、入れっぱなしになっていたアニメのチャプター選択画面が表示された。持ってこなくていいと言ってくれていれば、壊したのではないかと恐る恐る起動する必要もなかったのに。

 責任転嫁にも似た文句は、ポテトチップスと共に飲み込んだ。走り疲れて渇いた喉に、ジャンクフードの油っぽさは優しくない。遠慮せず水も一本くらい持ってくるべきだったと、変に真面目だった自分を恨む。

「それで、どうするの?」

 唐突に、何に繋がった「それで」なのかも分からない疑問を発して、つばめはポテトチップスを五枚ほどまとめてつかみ、口に押し込んだ。

 ばりばりと音を立てて噛み砕く姿は、もはやはしたないと言っても差し支えない。だが、それもまたある種の虚勢に近いものに見えてしまい、言及はできなかった。

「それで、って何が?」

「何が、じゃないでしょ。結婚式、まさか中止とか言わないよね?」

「ああ、うん、中止にはしないよ」

 リュックサックから、今度は地図を取り出す。

 三日前にはまっさらだった地図には、既に赤いペンで無数のマークが付いている。つばめを待っている間に、私が付けたものだ。

「まず、式場になりそうな所は、ここ」

 二重丸で囲われた「チャペル・サンライト」という文字を指差す。現在私たちがいる「日向高校」からは随分と離れているが、地図の範囲には、ここ以外それらしき施設は無かった。

「遠いね。道の状態によっては、半日くらいかかりそう」

 つばめの言葉に頷いて、私は次に、チャペルとは高校を挟んで反対側に位置する、「ブライダルクローゼット」という文字へと指を移動させる。

「たぶん、ここがつばめの言ってたドレスレンタルしてるお店だよね」

「そうそう、こんな名前だった気がする」

 距離にして、二駅分。大都会ほど駅同士は近くないが、それでも歩いていける距離である。

「今日中に行って帰って来られそうじゃない?行っちゃう?」

「うん。行けるなら行っちゃいたい」

 つばめが大丈夫なようならば、という思いを込めて、正面でポテチを食べ続けるつばめを盗み見る。

 それだけで、気付いたらしい。

「先に缶詰食べてからでいい?」

「いいよ。腹が減っては戦はできないし」

「そうそう。昔の人は良いこと言ったよね」

 武士は食わねど高楊枝、とまったく意味の違う言葉を続けながら、つばめは立ち上がり、私が背にしていた押し入れを開ける。振り向いて肩越しに見ると、そこには種々様々な缶詰が収められていた。ここに持ってくるまでに、何事かがあったのか、へこんでいたり削れているものもある。

 私とは違い、つばめはこの状況に順応して、良く言えばたくましく生きている。あるいは、そうせざるを得ない状況にあるのかもしれない。

「このはも食べる?桃缶あるよ、桃缶」

「いいの?じゃあ、貰おうかな」

 わざわざ好物を提示してくれるあたり、つばめは本当に優しい。

「ほい」という声とともに足元に転がってきた桃缶を、続けて投げられた十徳ナイフの缶切りで開ける。ぱしゅ、と空気が漏れ、果汁が僅かに顔に飛んだ。少し古い缶詰なのかもしれない。

「フォークは無いから、それのナイフとかで食べてくれる?」

 衛生面での不安はあったが、今更言っても仕方のないことだろう。缶切りの刃をしまって、ナイフを出して熟れた桃を刺す。噛むというよりも、口の中で押しつぶすと言った食感の、柔らかい桃だった。甘さの中に僅かな酸味。何よりも、溢れ出す果汁が乾いた喉を潤してくれるのが嬉しい。

 つばめはと言うと、焼鳥の缶詰を三つほど並べて、いかにも上機嫌ですと言った笑みで順番に開けていた。

「自衛隊の人たちって、ご飯の缶詰とかも持ってるらしいね。いいよねえ、どっかに無いかな、ご飯の缶詰」

「非常時には一般に流すこともあるって聞いたけど、今はどうなんだろう。駐屯地まで行けば、もしかしたら貰えるんじゃない?」

「ほんとに?じゃあ、結婚式やめて、今から自衛隊めぐりしない?」

「それもありだね。最寄りの駐屯地まで一ヶ月くらい歩くと思うけど」

「ああ、じゃあ駄目だ。それなら焼鳥だけで我慢する」

 そう言って、つばめはわざわざ用意していたのか、爪楊枝で焼き鳥を刺してもちゃもちゃと音を立てて食べ始めた。いかにも味の濃そうな茶色いタレに浸っている肉塊を見ると、ご飯が欲しくなるのも分からなくはない。

「そういや、食べ物持っていくって言ったのに持ってってないじゃん。野菜とかは駄目になっちゃったから、今度缶詰持ってくね」

 つばめの言葉に、少しだけ時間をかけて記憶を手繰る。すっかり忘れていたが、私の家でご飯を食べた帰りにそんな事も言っていた。

「だから気にしなくていいって。料理できないつばめこそ、缶詰とか必要でしょ?」

「失礼なことを。わたしにも、強火で炒めるくらいならできるんだけど?」

 それくらいならば誰にでもできるでしょう、と笑って、実の無くなった桃缶の果汁を呷る。缶の縁で切らないように口を離しておいたせいか、上手く飲めなかった果汁が口の端からこぼれて、色あせたフローリングを汚した。

 その瞬間、「汚い」よりも先に、「もったいない」と言ってしまい、また少し、自分の中で価値観が変わりつつあるのを実感した。

「桃缶だけで足りた?焼き鳥食べる?」

 差し出された缶を、首を横に振って押し戻す。

「大丈夫。そこまでお腹空いてなかったから」

 少し悩み、顎まで伝った果汁を袖で拭う。洗濯も満足に出来ない状況だから、あまり服は汚したくない。だが、家にあるお気に入りの私服ならばともかく、学生服のブレザーくらいならばいいだろう。愛着はあっても、死に装束にするつもりはない。

「北日向まで、普通なら歩きでも二十分かからないけど……道、塞がってるんだよね」

 言いながら、つばめは焼き鳥の缶三つ分のタレを、一つの缶に集める。とろみの付いたこげ茶色のタレは、雑に溶かした絵の具のようにも見えた。

 それに対して、私は「やっぱり」と前置きして、続けた。

「電気止まると、みんなパニックになるんだね。私がここに来るまでにも、事故起こした車が何台もあったよ」

「人も車も少なくなったのに、事故は起こるんだよね」

 不思議だよね、と言って、つばめは小さな缶に波々とたまったタレを一息に飲み干して、「しょっぱい」と顔をしかめた。

「体に悪い味がする」

「そりゃあそうだよ。今ので寿命が二十年は縮んだんじゃない」

「タレで二十年かあ。カップ麺のスープまで飲むと何年くらい?」

「半年くらい」

「じゃあ今までのを合計すると、百年分くらいは寿命縮んでるわ」

 とてつもない長寿であるかのような言動とともに、空っぽになった缶を重ねて、部屋の隅に押しやる。くだらないやり取りごと缶を片付けたつばめは、「さてと」と立ち上がり、軽いストレッチを始めた。背を反らしてから、ぐいと立位前屈をすると、指先が床に届くどころか手のひらまで付いてしまいそうだった。

 羨ましくなるほどの柔らかい体を見上げながら、私はふと思った不安を口にする。

「ドレス、まだ残ってるかな」

「食べ物じゃないし、わたしたちみたいにこんな時にドレス欲しいって言うような人は滅多にいないでしょ」

「それならいいんだけど……」

 つばめのスカートは学校規定よりもだいぶ短めに巻いてあるため、動くたびにひらひらと太ももがあらわになる。

 そして、偶然、引き締まった足に傷があるのが見えてしまった。切り傷が、太ももから膝のあたりにかけて細長く残っている。

「つばめ、足、怪我してるの?」

 尋ねると、つばめは「うん?」と、言われてようやく気付いたとでも言うように傷に触れた。

「あれ、ほんとだ。どっかで切ったのかな」

「ほら、見せて。一応、救急セット持ってきたから」

 包帯と絆創膏とガーゼ、それと僅かな消毒液くらいしか入っていないが、切り傷の処置には十分だろう。

 スカートの裾をぎりぎりまで上げたつばめの足に、スプレータイプの消毒液を吹きかけると、「うひぃっ」という素っ頓狂な悲鳴が降ってきた。

「めっちゃしみる!なに今の!」

「消毒。こんな時に化膿したら洒落にならないからね」

 滲んだ血を小さくちぎったガーゼで拭う。よく見れば、細長い切り傷の周囲にはいくつも擦り傷があった。深い傷ではないが、万が一を考えれば、処置しておくに越したことはない。絆創膏をべたべたと貼って見栄えが悪くなったのは、上から包帯を巻いて誤魔化す。

「他に怪我は無い?」

「無いと思う。焼き鳥のせいで口の中がべたべたしてるくらい」

「消毒液でも飲む?スッキリするよ、たぶん」

「飲まない」

 冗談を言っていられるくらいなのだから、大丈夫だろう。

 DVDプレイヤーとポテトチップスが無くなった分軽くなったリュックサックを背負い、私も立ち上がる。少し悩んだが、地図はリュックに入れておくことにした。

 ポケットから出したスマートフォンの液晶を見れば、時刻は午前十時を少し過ぎたところだった。順調に行けば、午前中にはここに戻ってこられる。

 出かける前に、もう少しだけ話をしてもいいだろう。

「ね、つばめさえ良かったらさ、今日からはうちで暮らさない?」

「えっ、何、急にどうしたの。プロポーズ?」

「違うって。いや、そこまで違いもしないけど……」

 そこまで深い意味はなかったのだが、プロポーズなどと言葉を変えられると、少し恥ずかしかった。だが、慌てて訂正するにも、上手い言葉は見つからない。

「何と言うか……一人にしておくと、不安だから。お母さんも心配してたし、今日だって、もしかしたら大怪我でもしたんじゃないかって思ったんだよ」

「あー……それは、うん、心配かけてごめん。でも、やっぱりわたしがこのはの家にお世話になるのは、駄目だと思う」

「どうして?」

「上手く説明できないんだけど……」

 今度は、つばめが言葉に悩む番だった。腕組みをして、への字に曲げた口から唸り声のようなものをこぼす。

「……家族団らんの場に、わたしは入っちゃいけない気がする」

「入っちゃいけないなんて事は無いよ。実際、私もお母さんも……」

「許してくれるから、とかじゃないの。大雑把に言うと、わたしの気持ちの問題。どっちかと言うと、邪魔しちゃいけない、じゃなくて、『邪魔したくない』だと思う。ごめん、上手く言えなくて」

 確かに、つばめの説明は理論的ではなかった。でも、理解できないものでもなかった。

 感情の問題は、簡単じゃない。外側からの説得で動かすことは出来ても、当人の中にしこりが残るだろう。それは、私も嫌だった。

「……そっか。うん、分かった」

 引き下がるのは本意じゃない。でも、つばめの気持ちの整理が付くまでは、引きずっていった所で、帰ってしまうだろう。

「ごめん。せっかく心配してくれたのに」

「気にしなくていいよ。でも、寂しくなったらいつでもうちに来ていいからね」

「うん……ありがと」

 つばめの笑顔には、二種類ある。本当に楽しんだり喜んだりしている時の笑顔と、角が立たないように誤魔化そうとしている時の作り笑い。今の笑顔は、前者に見えた。

 それだけでも、私は少しだけ安心できた。きっと、本当にどうしようもなくなったら、つばめはちゃんと私の所に来てくれると思えた。

「よっしゃ!じゃあ、さっさとドレスかっぱらいに行こう!」

 気合を入れるためか、悪そうな言葉を選んだつばめに、笑いながら答える。

「かっぱらいにって……ちょっとレンタルするだけだよ」

「無料レンタル?」

「そう。一本無料とか、一ヶ月無料とかと同じ」

「屁理屈だ」

 もちろん、私も自分の言葉が屁理屈だと分かっている。返すつもりがないのならば、それは借りるではなく、盗む、だ。

 言葉だけでも選ぼうとするのは、儚い抵抗に過ぎない。

「ほら行こう、このは」

「うん」

 部屋を出て、外階段を降りる前に、嫌な臭いが鼻を突いたのが分かった。ここに来るまでにも感じた、錆びと腐敗の臭い。振り向けば、水城家の住んでいた部屋のドアは、少しだけ開いていた。

「このは?どしたの?」

 既に階段を降りたつばめは、私を見上げながら首を傾げている。つばめが気付いていないだけなのか、私の気のせいなのか。

「……ううん、なんでもない」

 きっと、私の気のせいだ。そうであって欲しいという願いも込めて、私は意図的に、開けっ放しの部屋のことを意識から追い出した。

 今は、ドレスを取りに行くことだけを考えよう。サイズやデザインが私に合っているかどうか、という問題もある。最悪のケース以外にも、無駄足になる可能性はいくらでも思い浮かぶ。そうなってしまうのは、付き合ってくれているつばめにも悪い。

 しかし、つばめは気にする様子もなく、どんどん進んでいく。

「あっちは確か事故った車があったから、遠回りになるけどこっちに行こう」

 家と学校の往復しかしていなかった私とは違い、このあたり一帯を歩き回っていたらしいつばめが先導してくれる道は、比較的損壊が少なかった。私一人では、きっと迂回を繰り返した末、迷子になっていただろう。

「つばめは、地理に強いよね」

「そう?自分じゃそんな感じは全然しないんだけど」

 会話をしながらも、蓋が開けっ放しになっているマンホールを避けて、つばめの三歩後ろを追従する。

「私は頭の中で地図作れないタイプだから、こんな風にどこに何があったとか覚えてられないよ」

「それは、このはが地理に弱いだけじゃないの?」

「……そうかな、そうかも」

 思い返せば、初めて通る道ではだいたい迷子になっていた気がする。それどころか、高校の教室の位置を思い出そうとしても、あやふやだ。理科実験室は、どの辺りだったか。放送室はA棟だったろうか、B棟だったか。

 学校。その言葉から、忘れていた疑問がぶり返す。

「そうだ。学校のグラウンドにあったテントって、誰か住んでるの?」

 土埃のかぶり始めた線路沿いを歩きながら、つばめに尋ねる。近くに暮らしているのだから、何か知っているかもしれない。それくらいの軽い気持ちで聞いたのだが、つばめの返事は酷く歯切れの悪いものだった。

「住んでた……けど、今はどうだろ。一人くらいは住んでるんじゃない?」

「……何かあったの?」

 訊いて良いものか少しだけ迷ったが、今回は好奇心が勝った。

「何かというか色々というか。まあ、あそこって、今回の事でホームレスになっちゃった人たちのために、市が用意したテントだったんだよね。だから、ピリピリしてる人もいればちょっと心に来ちゃってるような人もいて……」

「ああ……」

 つばめが全てを語り終える前に、察してしまった。余裕があるのならばともかく、今は緊急時だ。張り詰めた糸を束ねるなど、簡単なことではない。一つ、二つと順番に切れていったのか、まとめてぶつりと切れてしまったのか。テントが壊れていたのも、つまりはそういうことなのだろう。

「あと、それが関係してるのかどうかは分からないけど、学校にももう人来てないっぽいね」

「そうなの?」

「そうなの。なんて言ったっけ、あの、最後にホームルームやってくれた先生は学校で寝泊まりしてるみたいだけど、生徒は全滅」

 あらためて言われると、寂しいものがある。母校愛などというものとは縁遠い私でも、やはり、学校は一つの居場所だった。

 それが、完全に空っぽの建物に成り下がってしまった。数は多くないとは言え、多少の思い出がある場所は、もう、似て非なる場所になったのだ。

「……あれ?つばめ、学校行ったの?」

 ふと気付いた。誰もいないというのを知っているのならば、生徒の来ていた時間に学校へ行ったということになる。

「いや、うん……ちょっと、用事があって」

 今度は、それ以上の追求をすべきではないと判断した。曖昧な愛想笑いは、つばめが自分を守るために作る紙の盾だ。そして、それを突き破って傷つけてしまうことを、私は望まない。

 しかし、途切れてしまった会話を再開させる話題もまた、私には見つからなかった。

 何も言わないまま、つばめはやおら柵を乗り越えると、電車が通る心配もなくなった線路を歩きはじめる。私もそれに倣う。

 そこを走る電車が無くなったとしても、目的地まで障害物を排除して貫いているのだから、残された線路は道としては優秀だ。廃線ならばいくらでも歩けるだろうが、精々ひと月前までは稼働していた線路を歩くなど、こんな時でもなければできない経験だろう。

 そういえば、線路を歩くシーンが印象的な映画があったが、結局見ないままだった。いや、プレイヤーはあるのだから、今からでもDVDを借りてくれば見られないこともない。そこまでして見たいか、と問われれば首を縦には振らないが。

「……あっ」

 つばめの声に、ぼんやりとしていた意識が引き戻される。

「どうしたの?」

 尋ねれば、つばめはゆっくりと手を上げて、何かを指差した。

 その先に視線を向けると、オレンジ色の電車が線路で立ち往生していた。

「こんな所で止まってたんだ」

 駆け寄って、開けっ放しになっている前部の非常口から中へと入ってみるが、やはり、乗客は一人も残っていない。

 都会の満員電車ほどではないが、それなりに乗客は多かった。無人の車内を見るのも、線路を歩くのと同様に新鮮で、こんな状況でさえ無ければ、もう少しはしゃいでいたかもしれない。

 だが、つばめは何やら黙り込んだまま、深刻そうな顔をしていた。

「……つばめ?どうしたの、さっきから黙ってるけど」

 少しだけ心配になって、尋ねる。

 すると、つばめは学校のテントの事以上に言いづらそうに、「その……」と切り出した。

「このは、電車嫌ってたから……」

「……ああ」

 非日常感に追い出されていた記憶が、不快感を伴って蘇る。

 それが表情にも出てしまったのか、つばめは苦々しげに詫びた。

「ごめん、思い出させたら辛いよね。黙ってるべきだった」

「いや、大丈夫。昔のことだから」

 そうだ。昔の、些細な事だ。

 まだ中学生だった頃。私はつばめと遊びに出かけた際に、電車で痴漢にあった。珍しく満員だった電車の中、男の人の手が私のお尻を撫で回し、抵抗しないと見るやスカートを捲り上げてきた。

 声を上げるべきだったのだけれども、私は怖くて何も言えなかった。でも、「目が怖がってた」という理由だけで、つばめは私が痴漢にあっていたことに気付いてくれた。

 そのおかげで、次の駅で痴漢は警察に連れて行かれ、目的地に行くまでの間、私たちのそばには、心配してくれた女の人が付いていてくれた。

 結局、事件自体は大事になりはしなかった。私がそれを嫌がったというのもある。痴漢被害を受けた人は、それを大げさにしたくない傾向があるとテレビで言っていたが、その通りだった。事を大きくするほどに、私の中でその記憶まで大きくなってしまうという恐怖があった。単純に言えば、忘れたかった。

 だから、私はそれ以来電車を避けるようになった。

 それに気付かないつばめではない。電車を見つけた時に立ち止まった直後、「しまった」といった顔をしたのも、そういう事だろう。

「ほら、行こう。平気だよ、どうせもうただの通路と同じなんだから」

 思い出す必要のない記憶であったことは間違いない。でも、私の足を止めさせる理由にはなりえない。

 それでも、つばめはまだ眉間に皺を寄せたまま、謝罪の言葉を口にした。

「ごめん」

「気にしてないよ。それに、万が一何かあっても、またつばめが守ってくれるでしょ?」

 信頼と冗談を半分ずつこめた言葉で、ようやくつばめは笑ってくれた。

「そりゃあもちろん。今度は警察に任せるどころか、わたしの手で成敗してやる」

「それはやり過ぎ」


 北日向駅は、白糸高校の周辺以上に荒れていた。

 小さな駅舎に自動改札が並んでいるだけの駅だが、利用者は多かった。ここから電車に乗って何処かに逃げようとした人たちも、相当な数いたのだろう。

 駅はあちらこちらが焼け焦げ、地面にはガラスが散らばり、色あせた周辺地図には無数の穴が開いている。駅員室のドアは破壊され、そこにいたはずの駅員さんの帽子だけが残っていた。

 強盗や事故どころではない。暴動でも起きたような有様だった。

「このは、行こう」

 急かすつばめに従って、逃げるように駅を駆け抜ける。途中、ぴちゃ、と水っぽい足音が混ざったが、自分が何を踏んだのか確かめる勇気はなかった。

「よかった、少なくともディスプレイは無事だ」

 駅舎を飛び出したつばめが、広場の向こうにある「ブライダルクローゼット」を指差す。

 だが、私はそれよりも駅前広場の惨状に驚いていた。

 元から、そこまで綺麗な場所ではなかった。煩雑で、植え込みもそこまで手入れされていない。行政からの対応が来るまでは、ホームレスもたむろしているような広場だった。

 しかし、私は見てしまった。

 せめて人目につきにくいように配慮したつもりなのか、広場の隅、駅舎の壁に寄せて黒い袋がいくつも並べられている。いや、積み重ねられている。

 ドラマや映画で見たことがある、人一人を入れられるくらいの袋。

 見えてしまったものの理解を理性が拒む。広場のあちらこちらにこびりついた赤黒い染みと、木々に残った幾筋もの跡。

 思わず一歩後ずさりすると、何か金属音を立てるものを踏んだ。反射的に、それへと目を向ける。

 赤っぽく染まった私の運動靴のかかとが踏んでいたのは、銃の弾だった。薬莢というのだろうか、引き金を引いた後に残る、敵意の残滓。

「このは」

 つばめの差し出してくれた手を、縋るように握った。

 どこも見たくなくて目を閉じたまま、よたよたとつばめに導かれるまま歩いて行く。数度、何かに躓いた。それでも目を開けられない。閉じたままの目が、赤い色を見る。空の色とも、私の瞼の色とも違う。

 混乱が頭の中を占め始めた頃、足音が変わった。

「……ほら、もう大丈夫」

 言われて、恐る恐る目を開ける。

 そこには、赤い空も黒い袋も無かった。

 木目調の床に四つほど置かれたテーブルと、それを囲むように並んだ椅子。床よりも薄い茶色に塗られた壁。小洒落たカウンターには、ブラックボードが立ててある。書いてあるのは、「今日のランチメニュー」という一文。

「……ここ」

「カフェ。来たいって言ってたじゃん」

 こんな形ではあっても、密かに憧れていた場所に初めて入ったという事実には、心が踊った。あるいは、嫌悪感のこみ上げた光景を忘れるために、強引に感情がポジティブな思考を引きずり出しただけかもしれないが。

 床に叩き付けられたレジスターや開けっ放しにされた冷蔵庫は残念だが、それ以外は、だいたい私が想像していたとおりの綺麗なお店だった。

 倒れた椅子を起こして、窓に近い席に座る。閉じてあるブラインドを開ければ、きっと、駅前の往来を見ながらお茶を楽しめたのだろう。

「おー、いいねえ。そこで本でも読んでたら、いかにも文学少女の昼下がりって感じになりそう」

「それなら、カウンターの中にいるつばめはカフェのマスターだね」

 注文を捌くためでなく、物漁りのためにカウンターの中に入っていったつばめを見てから、再びブラウンドに隠れた窓へと目を向ける。

「どうせここに来るなら、本持ってくればよかった」

「じゃあ、次来る時には持ってくれば?」

「私だけ本読んでたら、つばめが退屈するでしょ?」

「本読んでるこのはを見てるから」

「それで退屈しないの?」

「面白いよ?このは、結構顔に出るから」

 初めて知らされた情報に思わず口を開けて驚いてしまってから、「これが顔に出てるということか」と咳払いで誤魔化す。

「それは、もっと早く言ってほしかった」

「いや、だって言ったら意識するでしょ。ちょっと笑ってたら面白いシーンなんだなとか、顔赤らめてたらキスとかのラブシーンなんだなとか、見てるだけで分かるくらいだったし」

「そんなに?」

「そんなに」

 それこそもっと早く言ってほしかった。

 活字媒体は、基本的に映像とくらべて年齢制限がゆるい。それが主でなければ問題は無いとでも言うのだろうか。子どもでも買える本に、濃厚なラブシーンが書かれていることだってある。事実、私が図書室で借りて学校で読んだ本の中にも、何冊かそういった描写を含む作品があった。

 そして、それを読んでいる時に私が若干の羞恥心を抱いていたのは間違いない。自分では隠していたつもりだったが、顔色に出ていたとすれば、本を読んでいた時以上の恥ずかしさすら感じてしまう。

「もう公共の場で本読むのやめようかな……」

「いやいや、そこまで気にするほどじゃないって。わたしだから気付いただけで、このはの事よく知らない人なら凄い仏頂面で本読んでるなって思うだろうし」

 両極端だった。結局、私は顔に出るタイプなのかそうじゃないのか。あるいは、本当につばめが私をよく見ているだけなのか。それはそれで、恥ずかしいのだけれども。

「うわっ、このは!やばい!コーヒーがある!」

 私の苦悩など露知らず、つばめはパッケージングされたコーヒー豆を棚から取り出し、カウンターに並べていた。

「電気ケトルある!バッテリー生きてる!水入ってる!このは!コーヒー淹れて!」

「私、淹れ方は知らないよ?」

「それでも私よりは上手いって!ほら、挽くやつもあったから!」

「じゃあ、やるだけやってみるけど……」

 疑問が一つ。

「つばめ、コーヒー飲めるの?」

「このはが淹れてくれたら飲む!」

 そこまで言われてしまったら、やらないわけにもいかないだろう。

 席を立って、今度は私がカフェのマスター側に回る。

 まずは、お湯を沸かす。温度管理なんかも大事なのだろうけども、私には分からないしメモのたぐいもないので、とりあえず沸騰させる。

 次に、つばめの言う「挽くやつ」ことコーヒーミルに豆を入れる……のだけれども、ブレンド以前にどの品種がどんな味なのかもわからないので、手近にあったものを適当に入れた。

 パッケージに「キリマンジャロ」と書いてあったその豆を、ごりごりと音を立てて挽いていく。ハンドルを手動で回すだけなのだが、果たしてこの早さで良いのだろうかという疑問は解決しないまま、ミル下部の受け皿はコーヒーの粉でいっぱいになってしまった。

 そうしたら、確か、フィルターに粉を移してお湯を注げば良かったはず。

 随分前に小説で読んだうろ覚えの知識を頼りに、普通のコーヒーカップより一回り大きいカップに紙のフィルターをかけて、粉を入れる。そこに、ちょうど良いタイミングで湧いたお湯を、ケトルから直接注ぐ。

 立ち上った湯気に濃厚なコーヒーの香りが混ざり、たちまち、カフェはそれらしい雰囲気を取り戻した。

「おお、いい香りがする」

 湯気を手で扇ぎながら、つばめは感心したように言った。

 その言葉に頬を緩めつつ、お湯を注ぎ終わった所で、大きなカップから小さなカップにコーヒーを移す。

「お待たせしました」

 最後に、ソーサーにカップを乗せて、それらしい口上を交えてカウンター席に座るつばめの前へ。

 あまり乗り気でなかったが、やってみれば中々楽しい作業だった。コーヒーが趣味という人の気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。

「やった。これ、なんてコーヒー?ブルーマウンテン?」

「いや、キリマンジャロって書いてあったよ」

「どういうコーヒー?」

「それは飲んでみてのお楽しみ」

 私には分かりませんでしたという言葉をユーモアで歪めながら、自分の分もカップに注ぐ。詳しくないなりに、中々良い香りに仕上がったのではないかと思う。

 しかし、一口飲んでみると、驚くほどに酸味が強く、思わず顔をしかめてしまった。

「……お客さんの感想は?」

 かちゃ、とカップを置いて尋ねると、つばめは「うーん」とやはり微妙な表情をしていた。

「コーヒーって苦いと思ってたんだけど、これはなんか酸っぱい。腐ってる?」

「腐ってはいないと思うけど……」

 初心者が淹れたのだからこんなものだろう、と割り切ってしまうのもなんだか悔しくて、何か間違ってなかったかと自分の淹れ方を一つ一つ追っていく。しかし、そもそも正解が分かっていないのだから、下手をしたら全部が間違っていた可能性もある。豆によって、どの程度の細かさに挽くかなども変わってくると、昔読んだ本には書いてあったはずだ。

「ん、ミルクと砂糖入れたらちょっといい感じになったかも」

 カウンター側、私からは見えない位置にあった小さなバスケットを、つばめは私の目の前に置いた。中には、スティックシュガーやコーヒーフレッシュが入っている。

 見れば、黒い液体が満たしていたはずのつばめのカップは、随分と薄い茶色に変わっていた。

「うん、わたしはこれくらいが良いかも。甘い」

 スティックシュガーを三本に、コーヒーフレッシュを二つ。そこまで入れたらもはや元の味は関係ないんじゃないかとは、言わないでおいた。元の味が悪いのだから仕方がない。

 悔しさを誤魔化すように、私もコーヒーに砂糖とミルクを入れて、マドラーで軽く混ぜてから一口。確かに、これなら飲みやすい。

「こういう時、馬鹿舌って幸せだなって実感するんだよね」

 スティックシュガーのゴミを弄びながら、つばめは感慨深そうに言った。

「プロが淹れたコーヒーじゃなくても美味しく飲めるって、高いものしか美味しく感じない人より幸せだよ、絶対」

「それもそうかもね」

 遠回しに私の淹れたコーヒーが微妙だと言われている気がしたが、事実ではあるので否定はしなかった。

「このはは、本読む時にコーヒーとか飲むの?」

「飲まないかな。こぼしたら嫌だし」

「あー。そういうのめちゃくちゃ気にしそうだもんね。ページにちょっと染みが付いただけで落ち込んでそう」

「そこまでじゃあ……」

 無い、とは言えなかった。本屋で買った好きな作家さんの新刊に、よく見なければ気づかない程度の汚れが表紙にあったときは、それなりに落ち込んだ。おかげで、今でも平積みの本の一番上は取れない。

「ドレス、汚れてなければいいね」というつばめの言葉は、私が否定しなかったために出てきたものだろう。

 当初の目的に回帰した話題に、私は目を細めた。閉じたブラインドによって、このカフェと外の世界は隔絶しているようなつもりになっていたが、どう考え方を変えた所で「嫌な景色」と私が安らげるカフェは地続きだった。

 それを思うと、カップを置く手が震えて、かちゃん、と、少しだけ大きな音を立ててしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ