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最後の鐘  作者: みなと
2/8

「このはの家にお邪魔するのって、いつ以来だっけ」

 座布団に正座したつばめは、私の部屋を物珍しそうに観察しながら言った。

「中学卒業と高校入学の間の微妙なタイミングで、『家出したから泊めて』って来たのが最後かな」

「ああ、そっか。あれが最後か」

 記憶を手繰って答えてから、懐かしむ。

 「一晩だけ泊めて」と言って家に来たつばめから事情を聞いた当時の私は、驚く事すらできなかった。平和な、何事もなく暮らせる家庭に居る私にとって、つばめの話してくれた内容は、フィクションのように感じられてしまったから。


 両親が離婚する。今まで住んでいた家は売って、お母さんとアパートに住む事になった。

 今日と同じように座布団に座っていた、今よりももう少しだけ小さなつばめは、声を震わせていた。

 水城家の家庭事情は、元々あまり良くなかった。

 さすがにまだ子どもであるつばめの前では隠そうとしていたようだが、父親の浪費癖は、時々ポストに投函される請求書の類でつばめの目にも入っていた。私も何度か会ったことがあるが、つばめのお父さんは表面上を取り繕い、ストレスを押し込むタイプに見えた。対して、お母さんは、優しく、気弱な人だった。だから、夫の悪癖を強く咎められなかったのだろう。

 それでも、つばめのお母さんが勇気を出して夫を説得しようとしていたのは、つばめも知っていた。深夜に父親の怒鳴り声で起きたつばめがリビングを覗くと、決まって、お母さんは泣いていたらしい。そして、父親は「まだ、返せる額だ」と声を荒らげていたそうだ。

 そんな状態で、いつまでも表面を取り繕うのも無理だったのだろう。「お姉ちゃん」が高校を出て東京の会社に就職してからは、つばめの目から見ても、両親の仲がひび割れていくのが分かっていたらしい。

 いつ砕けてもおかしくない家庭がつばめの中学卒業まで守られたのは、母親が耐え続けたからだとは、私にも想像できた。借金ごと夫を切り捨てたのも、きっとつばめを想ってのことだ。

 でも、人の感情はそんな簡単に割り切れない。良い人ではなかったと分かっていても、つばめにとって、お父さんはお父さんだった。自分と、両親、それにたまに帰ってくる姉。住み慣れた家で暮らす家族はもう戻らないとなれば、冷静でいられるはずがない。たとえ、それが不協和音を奏でていたものだとしても。


「なんか、部屋狭くなった?」

 よく笑う親友の明るくない過去を思い返していた私は、つばめの声に慌てて笑みを作った。

「私もつばめも大きくなったから、そう感じるだけじゃない?」

「そうかなあ。この本棚も昔はもっと大きかった気がするんだけど」

 渡した缶ジュースにも手を付けず、つばめの視線は慌ただしくあっちこっちを行き来している。

 まだ小学生だった頃の親友は、我が物顔でベッドに寝転がったり、本棚から勝手に漫画を取って読んだりしていた。今は、座布団という孤島から落ちたら死んでしまうとでもばかりに、縮こまっている。

 同じつばめであるはずなのに、容姿も行動もすっかり変わってしまっているんだと、自分の部屋という背景に重ねてようやく実感した。

 何かが壊れてしまったからそうなったのか、壊れそうなものの上に皮を被ったからこうなったのかまでは、私には分からない。

「そうそう、結婚式について、結構色々書いてあったんだけどさ」

 つばめはあくまでも座布団の範囲から出ないようにしつつ、かたわらに置いていた鞄から百科事典を取り出した。

 床に置かないと開いていられないような大判の辞典には、図書館司書の先生が作った栞が、これでもかとばかりに挟まっていた。

 しかし、「ここじゃなかった」「これでもない」と栞の挟んだページを右往左往している様子を見ると、あまり意味を成していないようにも思える。

 しばらくページをジャンプし続けて、ようやく、つばめは一つの見開きを私に向けた。

「日本だと、神社でやる神前式っていうのと、教会でやる教会式のどっちかが主流らしいよ。このは的には、どっちがいいの?」

 向けられたページを見ると、白無垢を着た女性と、ウェディングドレスを着た女性が、雑な合成で並んでいた。

 他にも細々と色んな国の結婚衣装を着た人の写真がある。見出しには、「世界の結婚衣装」なんてそのままの言葉。

「やっぱり、ウェディングドレスかな。私が見たのも、教会での結婚だったから」

「ドレスね。でも、このははこっちの……白無垢っていうのも似合いそうじゃない?髪黒いし」

「黒髪がみんな白無垢にするなら、日本の花嫁さんの大半は白無垢になっちゃうよ」

「確かに。まあ、わたしもドレスの方がいいなあ。裾踏みそうだけど」

「裾と言えば……」

 つばめの不安を受けて、私も昨日読んだ本を取って、ページを捲る。

 ぱらぱらと流していき、使わなくなった学校のプリントを栞代わりに挟んであったページで手を止めた。

「普通なら、介添えさんが裾を持つんだって」

「それ、テレビで見たことあるかも。ちっちゃい子が持つやつだよね」

「子どもが持つ場合は、ベールボーイとかベールガールって呼ぶらしいよ。と言うか、持つ物とか持つ人次第でいろんな呼び方があるみたい」

「じゃあ、普通は裾を踏む心配は無いわけだ」

 正座をしていた足を崩しながら、「でも」とつばめは続けた。

「その、ベルボーイ?をやってくれる知り合いなんていないよね」

「ベルボーイだとホテルのボーイさんだよ。まあ、裾は引きずってもいいかな」

「綺麗な式がやりたいのに?」

「状況が状況だもん。人手が必要な所は妥協しないと」

「このはのお父さんとお母さんに言ったら、手伝ってもらえない?」

「……どうだろ。後で訊いてみる」

 訊いてみる、とは言ったものの、お父さんとお母さんは協力してくれないだろうとなんとなく予想はできた。

 学校に行く事すら、「何を考えているの」と止められ続けていた。分かっている。正しいのは、お父さんとお母さんの方。

 こんな時に「結婚式挙げたいから手伝って」なんて言って、「じゃあ手伝ってあげよう」とは返ってこないだろう。

 この、どうしようもなく場当たり的で勢い任せの計画は、結局のところ私とつばめだけで実行まで行くことになるはずだ。

「あ、そうだ。ドレスのレンタルは、あの駅前の所でいい?」

 それでも、ぐいぐいと引っ張ってくれるつばめを見ていると、なんとなく上手く行くのではないかと思ってしまう。

「あのって、どこ?」

「あー、ほら、あそこ。北日向駅の前」

 北日向駅、という名前を頼りに、記憶を探る。

 高校の最寄り駅、「白糸高校前」から、更に二駅ほど先に行ったところ。でも、どれほど首を傾げてみても、駅前にあるらしいレンタルショップは思い出せなかった。

「ごめん、分からない」

「まあ、あそこ行くたびにこのはは本屋ばっか見てたしね」

「うん。狭い本屋と、なんかおしゃれなカフェがあったのは覚えてる」

「ちっちゃいカフェね。あそこも、一回くらいは行きたかったなあ」

 きっと、本を読む人の大半は憧れるであろう、おしゃれなカフェでの読書。

 私の中にイメージされるその「カフェ」は、そこまで開発の進んでいない駅前にあった、一つのカフェが元となっている。

 とは言っても、入ったことはないので内装は私の想像でしかないのだが。

「で、問題は式場だよね」

 妄想に浸りそうになっていた私の前で、つばめは小さくため息をついた。

 式場。一番重要で、一番難しい問題。

 と言うのも、私もつばめも、この周辺で結婚式場など見たことがなかった。コマーシャルを見たのも、もう何年も前。今もあるかどうかすら分からない物を探すのは、気持ち的にも楽ではない。

「一応、地図はあるんだけど……」

 本棚に畳んで突っ込んであった周辺地図を床に広げる。

 右上に市のシンボルと名前が書いてある、そこまで範囲の広くない紙の地図。

 しかし、すっかりデジタルに慣れきっている身には、アナログな場所探しほど面倒なものはない。

 それは、露骨に顔をしかめたつばめからも分かる事である。

「ここから探すの?マジで?」

「マジで」

「結婚関係の雑誌とか、そういうので候補探すとかできない?」

「そういうのとかは本屋さんに行かないと無いよ。つまりできない」

「うっわ。でもやるしかないかあ。なに、教会探せばいいの?」

「教会か、ウェディングなんとかって名前の場所かな」

 本来の教会以外にも、結婚式のために作られた擬似的な教会もあると本には書いてあった。

 どうせならば本物の教会で式を挙げてみたいとは思うけれど、私は残念ながら特定の信仰を持っているわけではない。そして、特定の信仰を持っていないがために、ちゃんと信仰をしている人たちのための場所に踏み入るのは気が引けた。実際に教会に行って説明をすれば、きっと場所を貸してくれるだろうとは思う。もちろん、まだそこに神父さんたちが残っていれば、だけど。


 できたら、作り物の「ウェディングチャペル」の方が気楽だ。でも、まずはなんでも良いから候補を見つけないと。

 無言のまま、二人がかりで地図上に目を走らせる。

「……ねえ、このは」

「なに?」

 地図に記された単語一つ一つを指で確かめていると、つばめは不意に言った。

「ありがとう」

「どうしたの、いきなり」

 何の前触れもないお礼の言葉に、地図に落としていた視線をつばめに向ける。

「わたし、このはにはいくらお礼を言っても言い足りない」

「お礼を言われるようなことなんて……」

「したんだよ」

 しんと澄み切った声でつばめは断言して、顔を上げた。

 二人とも前のめりになっていたせいで、予想以上につばめの目が近くて少しだけどきりとする。

「ここにいたら、色々思い出してきたんだ。前に来た時の事」

 あるいは、その黒い目がいつになく真剣で、いつも以上に綺麗に見えたためかもしれない。

「わたし、どうしたら良いか分からなかったんだよね。お父さんとお母さんが離婚するって聞いた時」

「……それは」

 当然だよ、と言っていいものか、分からなかった。私ならばどうするかと考えようにも、同じ立場に置かれることすら想像ができなかった。


 これが物語であるならば、私はきっと感情移入できただろう。かすがいにはなれなかった子ども。その心情を想像しては、胸を締め付けられるような痛みを覚えただろう。

 でも、幼少期から日々を共にしてきた親友は、自分を重ねるにはあまりにも近すぎた。つばめは私とは違う。それを知っているから、つばめの視点に私を置き換えることなどできない。


「お金のこととか、家のこととか、お姉ちゃんは知ってるのかとか、わたしなりに考えてる内に頭の中がぐちゃぐちゃになってさ。そしたら、なんか急に『ここは自分の家じゃない』なんて思っちゃって、逃げ出して……このはの所に行こうって、思ったんだよね」

 一瞬、私の中に喜びの感情が生まれた。かっこよくて尊敬していた親友が最初に頼ったのが私だという事に、自尊心が満たされた。

 しかし、すぐさまそれを恥じた。親友の不幸を喜んだにも等しいように思えたためだった。

「それで、このはの顔を見たら、急に安心して……うん、あれはなんと言うか、ごめん。ちょっとみっともなかった」

 覚えている。

 部屋で本を読んでいた私は、心配そうな顔をしたお母さんに「つばめちゃんが来たけど」と呼ばれて、玄関まで行った。

 本当に着の身着のまま飛び出してきたらしく、中学のジャージを着ていたつばめは、私を見るなり、泣きながら抱きついてきた。

 驚いたけど、混乱はしなかった。興奮している人を見ると冷静になるというのは、その時も同じだった。お母さんに何か温かい飲み物をとお願いしてから、声を上げて泣くつばめをとりあえず私の部屋まで連れていき、泣き止むまでずっと抱きしめ続けた。

 声が枯れるまで、つばめは泣いていた。

 そんな姿を見て、みっともないと思えるはずがない。

「でもね、本当に、あの時にこのはがわたしを慰めてくれて、大丈夫って言ってくれたから、わたしは今まで生きていられた。だから、ありがとう」

 それは、とても重い感謝の言葉だった。大げさだよ、とは言えないほどに。

 十八年間、私は平凡な人生を送ってきたと自負している。きっと、あったはずの未来も平凡なものだったはずだ。それだけに、「あなたのおかげで生きていられる」なんて言葉が自分に向けられるなんて、思っていなかった。

 特別な色のついていない、ありふれた一本の線。それが私。でも、そこに交差したつばめという線は色鮮やかだったから、私にも少しだけ色が移った。

 ぼんやりと、そんなイメージが浮かんだ。


 そして、お礼を言うべきなのは、きっと私の方だった。

「……私も」

 つばめの黒い瞳を見ながら、伝えるべき言葉を探す。

「つばめには、たくさん助けられてきたよ。だから、私からもありがとう」

「助けたことなんて……」

「あるよ」

 手繰り寄せた記憶を、頭の中で語るべきものへ変える。

「幼稚園では、私が男の子にいじめられてた時に、助けに入ってくれた」

「そんな事あったっけ?」

「あった。で、男の子に掴みかかって、最終的には私そっちのけで大喧嘩して、先生に叱られてた」

「あー……ちょっと、覚えてるかも」

 私の覚えている限りでは、それが、つばめと私の最初の記憶だった。

 話をしたこともない私のことを、つばめは庇ってくれた。幼心にも、その姿は格好良かった。だから、私はつばめに憧れるようになった。

 それだけじゃない。

 小学校に上がっても、今よりずっと引っ込み思案だった私を引っ張ってくれた。数少ない友達は、みんなつばめ経由でできた。そして、どれだけ格好良くなっても、人気者になっても、日陰者の私の友達であり続けてくれた。

 中学校に上がっても、高校生になっても、それは変わらない。

「私はつばめのことを親友だと思ってるけど、同時に、目標でもあったんだよ。いっつも私を引っ張ってくれる姿に、ずっと憧れてた」

 言葉を紡いでから思考が追いつくような違和感。これが本心を打ち明けるという事なのかもしれない、と、どこか冷静な自分が頷いている。

「だから、ありがとう、かな。やっぱり。私の手を引いてくれて、ありがとう」

 文学に身を浸して生きてきたのに、こんな時に限ってどうしようもないほどにつたない台詞しか出てこない。

 思えば、思い付きから「私も短編を一つ書いてみよう」とノートに向かった時にも、自分の頭の中にあるものを文章化する難しさに悩んでいた。

 そして、そんなつたない台詞を聞いたつばめは、手で口元を隠しながら、頬を少しだけ赤らめて笑った。

「……なんか、あれ。真剣にそういう事言われると、照れる」

 茶化す、と言うよりも、空気を変えるためなのだろう。つばめの声は明るいが、震えていた。

 私も、真剣な雰囲気にあてられていた頭が平常心に戻るにつれて、照れくささがやってきた。

「言い出したのはそっちなのに」

「言うのと言われるのって全然違うじゃん。あー駄目だ。このはのせいで急にやる気がなくなってきた。真面目なこと考えられなくなった。このはのせいで」

「先に言いだしたのはつばめだから、つばめも半分くらいは悪いよ」

「じゃあ私が半分悪いってことにするから、なんかして遊ばない?久しぶりにこのはの部屋来たんだし、どうせならもうちょっと懐かしみたい」

 単に地図を睨む作業に飽きただけで、それを中断する理由はなんでも良かったに違いない。

 でも、「まだ式場見つかってないのに」と言いながら、私もすっかりその気になってしまっていた。

「遊ぶのはいいけど、何するの?」

 自分で言うのもなんだけれども、私の部屋は娯楽に乏しい。

 本棚には漫画小説雑誌と各ジャンル揃ってはいるが、ゲーム機はおろか、テレビも無い。思い返せば、携帯電話を買ってもらうまでの私は、家にいる間、ずっと本だけを読んでいた。

「どうせ何も無いだろうと思っていたので、持ってきました!」

 辞典が詰まっていた鞄の一体どこに押し込んでいたのか、つばめが取り出したのは、液晶付きのポータプルDVDプレイヤーだった。更に、私たちが小さかった頃に放送していた女児向けアニメのDVDまで出てくる。

 劇場版が収録されたディスクが四本に、そこそこ高そうなプレイヤー。どこから持ってきたのか、とは聞かないことにした。

「懐かしいな。幼稚園の頃、ごっこ遊びしてたやつだ」

「そうそう。じゃんけんでどっちが悪役か決めてたけど、今思うとこのはの悪役はびっくりするくらい似合ってなかったから、わたしがやった方が良かったね」

 そう言いながら、つばめはDVDのシュリンク包装を爪で切り、「お前も石にしてやる!」と、パッケージ裏に映っていた悪役の台詞を真似た。

 今でこそ笑って聞けるが、まだ幼稚園に通っていた頃の私は今以上に臆病で、オブラートに包んだ言い方をすれば夢見がちだったから、つばめが本当に悪い敵になってしまったのではないかと怖がったものだった。

「しかし、これ今でもシリーズ続いてるんだよね。十数年続くって、凄いよね」

「今の子たちからしたら、シリーズの一番最初を知ってる私たちは大先輩かもね」

「大先輩どころか、下手したらおばさんだよ、おばさん」

 ポータブルプレイヤーの表面に貼られていた保護シールを適当に剥がしてボタンを押すと、カチリ、と音がしてから、ゆっくりとモニターが起き上がった。

 続けて電源ボタンを押すと、一瞬間を置いてメーカー名が表示され、「ディスクを入れてください」という待機画面に切り替わった。バッテリー残量は満タンに近い。

「わたしのバイトしてたおもちゃ屋だと、クリスマス前になると馬鹿みたいな量のこのシリーズのなりきりおもちゃが来るの。しかも全部予約分で、棚に並びもしない」

「おもちゃ……ああ、確か、私も持ってたな」

 ふと思い出して、小学校に上がる時に買ってもらってから今まで使っている学習机の、一番下の引き出しをあさる。入れる場所に困ったものはとりあえず入れておこうという、乱雑な場所の一番奥に、それはあった。

「ほら。電池切れてるけど」

 ビビッドピンクの目に悪そうな色をした、ハートをあしらった硬いステッキ。ボタンを押すとぴかぴか光りやけに音質の悪い変身時の効果音が流れる、ただそれだけのおもちゃ。

 劇中で主人公たちが持っている物と比べれば随分と小さくて、武器に変わったりもしないけど、それでも当時の私にとっては間違いなく本物の変身アイテムだった。

「うわ、懐かしい。わたしは青い方持ってたな。どっか行っちゃったけど」

 ステッキをつばめに投げ渡すと、すかさずすっと立ち上がり、窮屈そうに両手で構えた。

「愛のエネルギーよ、集え!私のもとへ!変身!ハートの魔法少女、マジカルピンク!」

 懐かしい懐かしいと言っておきながら、変身の口上はしっかり覚えている。しかし、流石にポーズまでは覚えていなかったらしい。構えたまま、本来ならば効果音が流れるはずのスイッチをかちかちと押して、首を横に振った。

「駄目だ。魔法エネルギーが無いおばさんは魔法少女にはなれないって」

「あっ、おばさんまだ引きずるんだ」

 返されたステッキを受け取って、机のどこかに電池が入っていないか探すが、やはり私たちでは変身できないのか、魔法エネルギー代わりの電池はどこにもなかった。

 そうこうしている間に、つばめはプレイヤーにディスクを入れ、再生ボタンを押していた。

 慌ててつばめの隣に腰を下ろして、小さなモニターを覗く。十数年ぶりに見たキャラクターたちは、当時の姿のままだった。

「あー、流石に二人で見るにはちっちゃいね」

「じゃあ、リビングのテレビ貸してもらう?どうせテレビやってないし、お父さんとお母さんに言えば貸してくれると思うよ」

「いや、高校生にもなって『子ども向けアニメ見たいからテレビ貸してください』って言うのはさすがに……」

 アニメのキャラクターはそのままでも、私たちは随分と大きくなってしまった。楽しげな日常が流れる画面を見ていると、それを実感する。

「うわあ、この子たちって小学生だったんだ。どうする?小五って事は……七つ下だよ」

「具体的な数字を出されると、何かすごいね。でも、私たちが同い年だった頃って、もっと子供っぽかった気がする」

「分かる。少なくとも、目の前で人が石になってるのに『そこまでだ!』って登場するのは無理」

「それは子どもかどうかとは関係ない気もするけど……」

 少しだけ斜に構えた楽しみ方ではあるけれど、私たちよりもずっと年下をターゲットにしているはずの映画は、とても面白かった。変身シーンを真似るつばめを見ていると、本当に面白いものは年齢問わず人を惹きつけるのかもしれない、なんて感想が浮かぶほどに。

 実際、私とつばめは懐かしみながらも一本の映画を見終えた後に、見たことのない二作目以降のシリーズの映画までも見出してしまった。テレビ放送を見ていたらもっと楽しめるだろうか、とも思うが、映画だけでも十分に楽しめる。


 しかし、いくら一本九十分程度とは言え、何本も立て続けに見ていれば、疲れもたまる。

 そのせいか、気付いたらつばめは私に寄りかかったまま、寝息を立ててしまっていた。

「……つばめ?」

 軽く揺すってみるが、起きる気配は無い。どうやら、熟睡しているようだった。

 本当ならばベッドに寝かせてあげたかったが、非力な私に、つばめを起こさずベッドに引きずり上げるほどの力はない。ポータブルプレイヤーをどかして床に寝かせて、細い体に毛布をかける。

 私も、ずっと液晶を覗いていたせいで、首が痛くなってしまっていた。真っ赤になった外の景色からは分からなかったが、時計を見ればもう夕方だった。

 少し休憩がしたくなって、足音を立てないように、静かに部屋を出る。

 そして、階段の電気をつけようとして、何度スイッチを押しても反応しないことに気がついた。階段だけでなく、他の場所も電灯がつかない。

 もしや、と、音が聞こえたキッチンを覗く。

 そこでは、立てたロウソクを灯り代わりにして、お母さんが夕食の準備をしていた。

 私の足音に振り向き、なんてことないかのように、いつもどおりに優しく微笑む。

「あら、このは。つばめちゃんは?」

「寝ちゃった。それより、電気は……?」

「点かなくなっちゃったわね。冷蔵庫も切れちゃったから、腐らせる前に食べちゃわないと」

 大事なライフラインの一つが、ついに切れてしまった。これからの生活は、今まで以上に不便になるだろう。

 しかし、電力供給の途絶自体には、そこまで驚きはしなかった。むしろ、もっと早く切れてしまうと思っていたのに意外と長くもったなと、感心に近い感情を抱いた。

 お母さんもきっと同じなのだろう。冷静に、火持ちしない食材から処理を始めている。

「そういうわけだから、冷蔵庫はあんまり開けないでね。ちょっとでも冷やしておきたいから」

「すぐだめになっちゃいそうだけど……。あと、お父さんは?」

「倉庫にカセットコンロを探しに行ってるわよ。電池があったら集めておいてくれ、って言ってたわね。このは、持ってない?」

「ううん、持ってない」

 ちょうど探したばっかりだけど、と胸中で付け加え、水道をひねる。今朝まで出ていたはずの水は、もう出なかった。

「電気が止まると、水も出なくなるのよね。お父さんがミネラルウォーター買っておいてくれて助かったわ」

 本格的に非常事態になってきているのに、お母さんはどこまで落ち着いていた。

 あるいは、私の前では取り乱さないようにしてくれているのかもしれない。

「……つばめちゃん、大丈夫?」

 誕生日ケーキくらいでしか見ないロウソクが少し珍しくて眺めていると、不意に、お母さんが呟いた。

「大丈夫、って?」

「昔、泣きながらうちに来たでしょう?あれ以来、顔見ていなかったけれど……」

「……それなら、大丈夫だと思う」

 そんな短い返事で片付けられるほど、事は単純ではない。

 だが、一から十まで説明するほど、私はお母さんにつばめへの理解を求めていなかったし、つばめも望んではいないだろうと勝手に予想した。

「そう。それなら良いわ。そうだわ、せっかくだから、うちでご飯食べていってもらいましょう。思ったよりも、使っちゃわなきゃいけない食材が多いのよね」

 いっそ不思議なほどに優しい提案に、私も頷いた。

 ご飯できたら呼んで、と伝えて、暗い階段を上がって部屋に戻る。


 つばめは、まだ眠っていた。

 疲れているのだろうか。そう言えば、服も学校の制服のままだ。髪も少し傷んでいるようにみえる。状況が状況だから仕方ないのかもしれないけれど、弱っているつばめなど、私はあまり見たくはない。

 つばめには、いつも綺麗でかっこよくあってほしい。

 少しばかりこじらせてしまった願望だとは、自覚している。

「……おかあ、さん」

 つばめの髪に手を伸ばそうとしていた私は、その寝言にびくりと体を震わせて、手を止めた。

 穏やかとは程遠い、苦しげな寝顔。悪夢を見ているのかもしれない。

 それ以上何かを呟きはしなかったが、目を覚ます瞬間まで、つばめの表情はひどい悲しみを滲ませていた。

「ごめん、寝るつもりはなかったんだけど……」

 起き上がって大きく伸びをしながら、つばめは自分が呟いた寝言の事も知らずに笑った。

 尋ねたかった。何かを隠しているのではないかと。私に打ち明けてくれていない、辛い事情を抱えているのではないかと。

 だが、私には勇気がなかった。これ以上つばめという理想の後ろにあるものを見てしまうことを恐れた。

 だから、私も、つばめがそうしたように笑いながら首を傾げる。

「お母さんが、ご飯食べていかないかって。どうする?」

「えっ、いいの?ありがたいけど、その……」

「腐らせる前に食材使っちゃいたいんだって。私たちだけだと食べきれないから」

「そういう事なら……」

 やはり、なにかあるのかもしれない。

 遠慮がちに、何か悪いことをしているかのようにも見えるほどに、食卓についたつばめは静かだった。

 それでいて、もう遅いから泊まっていったらどうかしら、と言ったお母さんには「大丈夫です、帰れます」の一点張りで譲ろうとしない。

 私も「街灯ももう無いんだし」と引き止めたが、返ってきたのは「私も一回帰って、冷蔵庫の中確認しないと」という、本気なのかどうなのか分かりづらい、言い訳にも聞こえる言葉だった。


「……本当に平気?」

「平気だって。帰りは下りだから早いし、荷物もないし」

 食後の休憩すら取らずに、つばめは玄関先に止めてあった自転車のスタンドを蹴り外しながら言った。

「その、やっぱり悪いから。明日はうちにある食べ物、何か持ってくるよ。わたしは料理できないから、余らせそうだし」

「いいよ、気にしなくて」

 私と話している時の軽い調子は鳴りを潜めて、「受けた恩は返さないと」と主張する、妙に真面目なつばめがそこにはいた。

 おそらく、どれだけ首を横に振っても、つばめは明日本当に食べ物を持ってくるだろう。

「気をつけてね。もう街灯も点かないんだし、道路にも色々転がってるんだから」

「大丈夫大丈夫。このはに自転車の乗り方を教えた私の自転車乗り力を信じて」

「自転車乗りちからって何?」

「道が悪くても転ばない力」

 最後によく分からない力の存在を主張して、つばめは「じゃあまた明日ね」と、ひらひらと手を振りながら自転車を漕ぎ出した。

 ダイナモ式ライトが鳴らす独特の音と弱々しい光だけでは、暗い町に消えていくつばめの姿をいつまでも見ているには、足りなかった。

 一つ角を曲がっただけで、通りは真っ暗になり、つばめと私が切り離されてしまったかのような感覚すら覚えた。

「……また、明日」

 自然と口からこぼれた呟きは、確かめるというよりも願うような意味がこめられていた。

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