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最後の鐘  作者: みなと
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 それが嘘ではないと判明した時、人間は二種類に分かれた。

 変わらず日常を送る者と、日常から逸脱する者。

 私、「土屋このは」は、前者だった。

 理由はただ一つ。日常から離れる術など、知らないから。

 平日は学校に行き、休日には家で本でも読みながら過ごす。それ以外にどうやって生きていればいいのかを、知らないから。

 狭い世界に生きていると、自分でも思う。

 こんな時になっても、目覚まし時計の音で起きて、登校して、決められた時間には教室で席に付いているなんて事を繰り返している。

「ねえ、そろそろヤバくない?」

「B棟の方は、もう三人くらいしか残ってないらしいよ」

「やっぱ、逃げた方がいいのかな……」

「でも、どこに?シェルターは、もう受け入れしてないんでしょ?」

 随分と人の減ってしまった教室で、クラスメイトがひそひそと話をしているのが聞こえた。

 直後、がらがらと音を立てて、若い男の先生が教室へと入ってくる。

 三年の担当だった先生も全員いなくなってしまったので、代わりに俺がホームルームをやることになった。人数は少なくなってしまったけれど、頑張ろう。

 そんな事を言っている先生に、胸中で「何を頑張るんですか」と尋ねて、大きく開いた窓に視線を投げる。

 髪も染めていなければ化粧も知らない、公立高校に通う地味な女子高生の気だるそうな顔が反射している。ピントをズラせば、その向こうには赤く染まった景色。

 ヤバい。なるほど確かに、あの真っ赤な空は、そう形容するのが一番分かりやすい。


 世界が滅びる。

 誰が言い出したのか、誰が招いたのかも分からないが、どうやらそれは避けようのない決定事項らしい。

 私が最初に近しい噂を聞いたのは、テレビ番組だっただろうか。毎週水曜日のゴールデンタイムに流れている、オカルトの話題も取り扱う娯楽番組の一コーナーで、大真面目にコメンタリーたちが語っているのを、どうでも良いと思いながら聞いていた。

 似たような話題が次第にあちらこちらで聞こえるようになっても、同じだった。

 磁場がおかしいとか、海面上昇が著しいとか、今まで解読されなかった古代文書には予言が書かれていたとか。はじめのうちこそ各分野の研究者がこぞって根拠を出していたものの、それらは全て前例の通り――結局何も起こらずに過ぎ去った「大予言」と同じ末路を辿るだけだろうと鼻で笑っていた。私以外の人も、少なくとも表面上は同じようなリアクションだった。信じていたのは、オカルトに傾倒した人ばかりだった。

 でも、ある日を境に、鼻で笑っていたものを信じざるを得なくなった。

 ちょうど一ヶ月前にあたる、九月十八日。

 世界中の空と海は、真っ赤に染まった。

 私たち人類に終末の到来を実感させるには、それで事足りた。

 その頃には、放送局は各々が手にした情報を好き勝手に垂れ流していたので、既に正確性など無くなっていた。まだ視聴率なんてものにしがみついて悪戯に不安を煽るところもあれば、根拠のない希望的観測を繰り返し続けるところもあった。

 その中に一つだけ、誰もがすがりたくなる情報が混ざっていた。

 国の偉い人たち専用に作られた大規模災害用のシェルターが、民間人の受け入れを開始したという。

 人々の行動は早かった。第一報の流れた数日後には、「これ以上は受け入れられないとシェルターは閉鎖された」という報道がなされた。何百人、あるいは何千人がシェルターに逃げ込めたのかは分からないが、その極一部の選ばれた人たち以外は外に取り残されたと言っていいだろう。

 そして、取り残された大多数の人々――私のような人たちは、こうして様々なものが壊れた中で、それぞれの暮らしを送っている。

 どこかの国では、大規模な内戦が起きているらしい。また、どこかの国同士では戦争が起きて、大変なことになっているらしい。この国でも、色々なものがおかしくなってしまっているらしい。

 一市民でしかない私の所まで届く情報は、もはや全てが曖昧な伝聞でしかなかった。

 不思議なことに、出版関係は各社揃っていち早く仕事を放棄した。新聞や雑誌といった全ての出版物は、もう新しいものが発行されることはない。あらゆる印刷物は、もう過去を残す記録にしかなっていない。錯綜した情報すら届かなくなるのも、時間の問題だ。

 だから、危機感が薄いのかもしれないとも思う。

 具体的に「これが終末のシナリオです」と提示されればリアクションも取りやすいだろう。でも、そうじゃない。隕石が落ちてくるのか、病気が流行るのか、地球が割れるのか、あるいはもっと別の何かなのか。

 世界が滅びるなんて規模の大きすぎるものに対して、想像力がついていかない。だから、未だにこうして平気な顔で学校に来ることができてしまっている。

 ただ、同時にこうも思う。みんながみんな、ヒーローやヒロインではない。それが消えて行くと気付く事すらできず、日常の幻影に浸ったまま最期を迎える者だっている。

 真に愚鈍なものは、きっと、終末にすら重い腰を上げられないのだ。

 そして、この教室に残っているのは、そうした救いようの無い人間ばかりに違いない。

 もちろん、私も含めて。


「このは、おはよう」

 自嘲に沈めていた意識は、唐突にかけられた声に引きずり上げられた。

 振り返れば、隣の席にはよく見知った顔が座っていた。制服を軽く着崩し、ダークブラウンの髪を括ってポニーテールにしている、見目麗しい女子生徒。

「おはよう、つばめ」

 水城つばめ。

 私の幼馴染で、かけがえない親友。

 世界が滅びるというのに、いつも通りみたいな顔で学校に来ている生徒の一人。

 そして、世界が滅びるというのに、私が安心していられる理由の一つ。

「……あれ、なんで一組に?」

 まるで当然みたいにそこにいたので、少し気付くのが遅れた。

 つばめのクラスは四組――私の居る一組があるA棟ではなく、渡り廊下で繋がったB棟にある教室のはず。

 ホームルームが終わってもしばらくぼーっとしてしまっていたのか、時計を見れば、あと三分もせずチャイムが鳴って授業が始まるところだった。

 走れば間に合うとは言え、つばめがこのタイミングで棟を渡った教室に居るのは不自然である。

 その私の疑問に、どこか呆れたようにつばめが答えてくれた。

「聞いてない?B棟はもう三人くらいしか残ってないから、こっちへ編入になったって」

「ああ、なるほど」

 先生の話なんて全然聞いていなかったけど、多分説明はあったのだろう。

 かつて、この「白糸高校」の三年生のクラスは六つあった。それが、空が赤くなってから少しずつ併合が進み、A棟とB棟それぞれ一クラスになったのが先週の事。

 そろそろ、全クラスが統合されてもおかしくはなかった。それでも、この一組の教室に居る生徒は私とつばめを含めても十人程度しかいない。

 ネイビーカラーのスクールバッグから筆箱を取り出し、つばめは続ける。

「先生たちが廊下で話してたんだけど、一年生は、もう誰も来てないんだって」

「そりゃあそうなるよね、こんな時なんだし」

 相槌を打って、机の中に置きっぱなしだった古典の教科書を取り出すと、一枚の小さな紙がひらひらと机の中から落ちた。

 私が手を伸ばすよりも先に、つばめがそれを拾ってくれる。そして、紙片を見るなり、おかしそうに肩を揺らして笑った。

「これ、結果返ってくるのかな」

 何のことかと思いながら、手渡された紙に視線を落とす。

 それは、模擬試験の受験票だった。

 夏休み中に受けた、全国規模の模擬試験。大学受験の最後の指針にもなりうる大事な物だと先生も言っていた。しかし、例年ならばとっくに志望校の判定も含めた採点が返ってきている十月に入っても、結果が返ってくる気配は無い。

「採点は終わってるんじゃない?結果を送ってもらう方法が無いけど」

 インターネットも電話も、回線が途絶してしまって久しい。交通網がめちゃくちゃになったことで郵便サービスも維持が叶わなくなった。

 それを受けて「水や電気のライフラインもそろそろ途絶えるに違いない」と誰かが呟いたのを発端に、近隣のスーパーやホームセンターでは物資の奪い合いが起きた。

 私の家の二階から見えるコンビニでも、やはりそんな事件は起こっていた。様々な人が、他者を蹴落としてでも生き延びるために必死になっていた。制服を着た警察官も、その中には混ざっていた。

 たぶん、この辺りだけじゃなくて、全国的に似たような事件は起きているのだろう。

「模試を実施した会社に直接乗り込めば、どうにかならないかな」

 しかし、つばめは外で物騒な事件が起きているなど感じさせない、のほほんとしたつぶやきをしていた。

 様々なものとのギャップに、思わず笑ってしまう。

 そもそも、模擬試験の結果を待ちわびるなんて、今まで一度たりともしていなかったのに。

「そんなに気になるって、もしかして、かなり自信あったとか?」

「いや、その、怖いもの見たさというか?」

「ああ、そういうこと」

 つばめは、何から何まで私とは違う。

 おしゃれで、明るくて、綺麗で、友達も多い。複雑な家庭事情から、特別に学校から許可をもらってアルバイトをしているけれど、それを苦に思っている気配は決して見せない。

 その代わりと言っては何だけれども、学校の成績はお世辞にも良いとは言えない。特に苦手科目は、赤点ギリギリでなんとかしてきたような生徒だ。

 本人の名誉のために付け加えると、決して頭が悪いのではない。機転は効くし、注意深いし、行動力もある。ただ、勉強が嫌いなだけ。

 でも、学校の先生から見れば、「アルバイトをしているから成績が悪い生徒」でしかなかったのだろう。職員室や廊下で先生と話している姿を見たのは、一度や二度ではない。

 対して、私は自分を「空気のような生徒」だと思っている。成績は中の上、ほとんど活動のない文芸部に所属していて、志望校も自分の成績に合った何の変哲もない文系の大学。

 言うなれば、大多数の中の一人。親しい友人たちの記憶には残るだろうが、ほとんどの生徒や先生たちからは、数年もしない内に忘れられるような存在。

 だからこそ、幼稚園から始まり、小学校、中学校、高校と交友関係が広がっても友達でいてくれるつばめが、私は好きだった。

「あーあ、大学行きたかったなぁ」

 私がそんな事を考えているとは露知らず、つばめは大きく仰け反って天井を見上げながら言った。

 授業開始のチャイムは鳴ったが、先生が来る気配は無い。少し周りに目を向ければ、雑談に興じているのは私たちだけではない。

 普段ならば、「周りがどうであれ、私は関係ない」などと真面目に授業開始を待つが、今日の私は、つばめとの雑談を続けることを躊躇わなかった。

「オープンキャンパスも行ったもんね」

「そう!憧れの都会でのキャンパスライフを夢見てたのに……ああ、キャンパスライフって響きがもう良いよね。夢と希望に溢れてる」

「女子高生も、結構な夢と希望に溢れてそうな言葉だけど」

「あー、わたしも中学生の頃はそう思ってた。高校生は大人に近くて、もっと自由な感じだと信じてた。入学直後も、わたしももう大人なんだって思ったし。でも、全然だね。中学生の延長線上だった、結局」

 もう大人。それは、小さい頃からつばめの口癖だった。

 つばめには、年の離れた姉が一人いる。とても優しくて、子どもである私たちから見ればまさに「大人」と呼べる人だった。つばめと私が中学校に上がった年に就職で東京へと行ってしまい、それからは一度も会っていないが、昔は私も「お姉ちゃん」と呼んで慕っていたのを覚えている。

 その「お姉ちゃん」への憧れなのか、つばめは背伸びをしてでも大人になろうとしているように見えることが、多々あった。

 高校に入って髪を染めたのも、そこから来ているのかもしれない、と私は思っている。お姉ちゃんはもっと明るい茶色だったが。

「このはは、大学入ったら彼氏できそうだよね」

「なに、いきなり」

 あまりにも唐突な話題転換に、思わず声が裏返る。

 彼氏、恋人、そんなもの、今まで一人もいなかったのに、いきなり何を言い出すのか。

「だってさ、モテそうじゃん。おとなしいし、可愛いし、髪キレイだし」

「なんっ……ちょっと、本当にどうしたの?」

 髪が綺麗、とはつばめが私を褒める時の決まり文句で、聞き慣れた言葉ではある。いきなり言ってきては私を恥ずかしがらせて遊んでいるだけなんてこともあるが、今日はどうも様子が違って、何かあったのかと心配してしまう。

「なんとなく思っただけだよ。大学行ったら、優しい彼氏と付き合うんだろうなって」

 そう言って机に頬杖をついたつばめの横顔に、私は驚かされた。

 憂いを帯びた微笑。同性の私でも見惚れてしまうような、儚い美しさ。

 「大人っぽい」と評すれば、きっと、つばめは喜ぶだろう。

 でも、言葉にしてしまうのは躊躇われた。その美しさは、何か、言いようのない危うさを内包していた。そして、それはきっと、この優しい親友に自覚させてはならないものだと思った。

「……これは、自習かな」

 再び、前触れもなくつばめは話題を変える。

 今度は、それがありがたかった。

「自習だろうね。もっと言えば、今日の授業全部自習だと思うよ」

「全部かぁ。スマホの電池持つかな」

 的はずれな心配をしつつ、つばめは上着のポケットから取り出したスマートフォンの電源を入れて、「充電忘れてた」と眉根を寄せた。

 携帯電話からは、既に通信機器としての機能は失われているけれど、オフラインでも動くアプリケーションのお陰で暇つぶしにはまだまだ役立っている。

 ゲーム機にしたり、メモ帳にしたり、カメラにしたり。もう会えないかもしれない友人との最後の写真ですら、薄っぺらい携帯端末にしか入っていない人が大半だろう。

「まだ、それやってるの?」

 視線を向けると、つばめの机の上に置かれたスマートフォンの液晶には、思考型パズルゲームのシンプルなタイトル画面が映っていた。

 知る人ぞ知る名作らしく、つばめは「全然解けない!」と言いながらも、まだ世界が平和だった頃からずっとプレイし続けている。

「たしか、レビューには三百ステージあるって書いてあったかな。わたしがクリアしたのは百三十までだから、まだ半分も行ってない」

「……全部クリアできるといいね」

 つばめはあくまでも勉強が嫌いなだけで、パズル等に対しての勘は鋭い。そんなつばめですら苦戦するくらいなのだから、それはもう歯ごたえ十分のゲームなのだろう。

 頬杖をついてじっと画面を睨んでいる姿は、難問に立ち向かう学者のようにも見える。それを見ていると、せっかくなのだから私も困難なものに挑戦してみようか、なんて考えも浮かんできた。

 でも、残念ながら私の鞄に入っているのは、そこまで難しくはない一冊の小説だけ。海外文学ではあるけれど、優れた翻訳家の手によって和製の小説と変わりなくすらすら読めてしまう。

 本文は見ないように、慎重にその本の一番最後のノンブルを覗く。450。栞が挟んであるのは、212。偶然にも、私も「まだ半分も行ってない」だった。

 ページを開けば、起承転結の承に当たる箇所、主人公がヒロインと出会って徐々に距離を近づけていく日々が描かれている。私は、転と結まで行ったらもう一気に読み切ってしまいたいと常々考えているので、学校で読むことができるのもあと百ページあるかないかくらいだろう。

 チャイムという一区切りがある以上、自宅で読んでいる時ほど読書に対して集中はできない。でも、授業中に本を読むという行為自体には、悪戯にも似た楽しさがある。紙面の文章に心を浸しながらも、頭の片隅では、そんな自身の読書論を転がしてしまう。


 ふと気がつけば、教室内は静まり返っていた。

 本から顔を上げて見回すが、生徒が減ったわけではない。

 理由は分からないが、時々、こういう事はある。申し合わせてもないのに、教室にいる全員が口を閉じて、奇妙な沈黙が場を支配する。

 こういうのを「天使が通る」なんて言うのは、アメリカだったか、フランスだったか。

 そして、天使が通った後には、一回り大きくなった喧騒が戻ってくるのがお決まりである。

「……なんで、急に静かになるんだろう」

 液晶を睨み続けるつばめがこぼした疑問に、クラスメイトたちがくすりと笑う。それから、堰を切ったように雑談する声が教室にあふれる。

 水面に落ちた小石と、広がる波紋。そんなイメージがぴったりだった。

「全然分かんない。だめだ、休憩」

 丸めていた背を反らして、大きく伸びをしながらつばめはため息をついた。

 机の上でつけっぱなしになっているスマートフォンの画面を盗み見ると、端っこに「LEVEL 131」という表示が見えた。私が本を読んでいる間、ずっと同じステージで悩んでいたらしい。

「考えれば考えるほど、一生解けない気がしてきた。というか実は解けないんじゃないのこれ。解けるなら、それはそれで考えた人の頭がおかしいし」

「随分前にも、同じこと言ってたよね?」

「そうだっけ?じゃあ解けるのかな……」

 つばめがパズルの造りに文句をいうのは、今回が初めてではない。むしろ、今までの経験から言えば、「絶対解けない」は散々思考を繰り返してようやく出てくる言葉だった。だから、文句を言って頭の中をリフレッシュすれば、大抵は「もしかして……」と言い出し、

「……あっ、できた」

 と、文句を言っていたのは何だったのかと思うほどあっさり解いてしまう。

「いやー、良かった。これで成仏できる」

「あと170近く残ってるのに?」

「さすがに全部クリアするのは無理だって。まあでも、せっかくだしキリのいい所までは行きたいなあ」

 そう言いながらも、つばめはゲームアプリを終了し、つけっぱなしだったスマートフォンの画面を消してしまった。

「このはは、何かやり残したこととかないの?」

 パズルに飽きたからか、話したい気分になったのか、私へと話題を振る。私も、開いたままの本を手で抑えて、話に乗ることにした。

「んー……この本はたぶん読み切れるし……どうだろ、無いかも」

「ほんとに?将来、絶対やりたいって思ってた事とかないの?」

「将来……夢とか、そういう話?」

「そう。そんな感じ」

 やりたい事、夢、憧れ。

 状況が状況だからか、未来を思う頻度は随分と減った。意図的に、先を考える事などしないようにしていた。

 そんな中でも忘れないような夢。

 無い、と言えば嘘になる。でも、それはあまりにも曖昧で、口にするのは恥ずかしいものだった。

「笑わない?」と確認を取らないと、言いづらくて仕方がない。

 つばめも「笑わないよ」なんて言ってくれたけれど、それでもすぐには言えなかった。それくらい、子どもっぽいという自覚がある。

「……小さい頃から憧れてたんだけど」

「うん」

「その、将来は素敵な結婚式を挙げたいって……ずっと、思ってた」

「結婚式?」

「うん。私が小さい頃に行った、お母さんの友達の結婚式が、凄く綺麗だったから」

 それは、冗談として言われるような「将来の夢は素敵なお嫁さんです」という言葉にも似ていた。

 祝福の鐘が鳴る、真っ白なウェディングチャペル。花婿さんに手を引かれていたのは、綺麗なドレスに身を包んだ花嫁さんで、招待されていた友人たちから数え切れないほどの祝いの言葉を投げかけられ、とても幸せそうに、でも少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。

 私にはその結婚式こそが、あらゆる「人の幸せ」を凝縮したものだと感じられた。

 そして、その時の感動は幼い私に夢見がちな少女の素質を植え付け、時間と共に憧れの花を咲かせた。

「つばめの言ったとおり、私が大学に言って優しい恋人と結ばれたら、もっと現実味のある理想になったのかもしれないけど……そうだね、これが、私のやり残した事になるのかな」

 結婚には相手が必要なのに、私には相手のあの字も無い。誰と誰が付き合っている、なんて類の話は、だいたいそこに出てくる人物は決まっており、私はそんな話とは無縁な側にいる。

 でも、かえって「現実味のない理想」であるからこそ、諦めるのは簡単だった。これがもっと近い、それこそ大学に行ってどうこうなんて物だったら、私はもっと見苦しく喚いていたかもしれない。

 そう。諦めてしまえる夢でしかない。

「じゃあ、やろうよ。結婚式」

 だから、つばめの発言を理解するのには、少し時間がかかった。

「やろうよって……何を?」

「結婚式」

「……どうやって?」

「そこまでは分からないけど、結婚式場の案内って、以前一緒に映画見に行った時にやってたじゃん。CMやるくらいだから行けない距離じゃないでしょ?多分、ドレスのレンタルもやってるだろうし」

 ちょっと遊びに行くのと同じ調子で、ぽんぽんと案が出される。

 あまりにも話を強引に進めるため、油断するとすぐに理解が追いつかなくなってしまいそうだった。

「あーでも友達呼んだりもするんだっけ。それはちょっとキツいかな。神父さん?もいないだろうし……どうしよ、めっちゃ質素な式になりそう」

「いや、待って、ちょっとストップ」

 一度待ったをかけて、突っ走るつばめに追いつこうと思考を整理する。

 やり残したことをやるために、つばめは手伝ってくれようとしている。それは分かる。親友の優しさをあらためて実感して、お礼を言いたくなったくらいだ。

 でも。

「そもそも、その……結婚式って言っても、相手が、いないし……」

 根本的な所がどうにかならない以上、全ては机上の空論でしかない。

 結ばれた二人が愛を誓う場所を、模倣とは言え一人で歩くのはあまりにも寂しすぎる。

「それは、わたしがやれば良くない?だめ?」

 しかし、つばめはまだ止まってくれなかった。

 それどころか、完全に私を置き去りにする勢いの提案をしてきた。

「私が、って……それは、その、つばめが、私の……結婚相手役を?」

「いや、このはに当てがあるならそっちにするけど」

 この優しい親友は、どうやら何がなんでも私を困らせたいらしい。

 私には男子の友達はいないし、兄弟もいない、もっと言えば異性の知り合いがいない。だから、当てなんてない。

 そして、つばめに対して「嫌だ」なんて言うほどの理由はない。強いて言うならば、ごっこ遊びの延長とは言え女同士でというのはどうなのだろうと思う程度。だから、

「……嫌じゃない、けど」

「よっし!じゃあ、そうと決まればさっさとプラン考えよう!」

 色々な迷いを振り切れないまま歯切れ悪く言った私とは対照的に、つばめはぱん、と音を立てて手を叩くと、スクールバッグの中にスマートフォンと筆箱を放り込んで、勢い良く立ち上がった。

 いつにも増して突然の行動を、ただぽかんと見上げる事しか出来ない私に、ほら、と手を差し伸べる。

「行こう、早く」

「行こうって、どこに?」

「図書室。わたしは結婚式のことよく知らないし、このはも一から十まで完璧、ってわけじゃないでしょ?スマホもパソコンも調べ物には使えないんだし、そうなると図書室しか無いじゃん」

 勢い任せかと思いきや、妙な所で冷静で、それがまた私を振り回す。

「ほら、いつまでも燻ってないでさ。やりたい事、やっちゃおうよ」

 その言葉は、私だけに言ったのか、教室にいるみんなに言ったのかは分からなかった。

 でも、つばめの笑顔は間違いなく、強がりでもなんでもなく心から「やりたい事をやろう」と言っていて、「私は愚鈍だから」とここに居続けようとしていたことを恥じさせてくれた。

 私を引っ張ってくれる、優しくて強い笑顔。それにあてられてしまうのは、いつもの事。

 本に栞を挟んで、鞄の中へと入れて、つばめの手を取って立ち上がる。


 さあ行こう、と教室を出ると、思いの外清々しい気持ちになれた。

 授業中や放課後の誰もいない廊下は、通い慣れた学校であるのに違和感を覚える。

 上履きで歩く音がやけに大きく聞こえて、障害物も無くずっと先まで見える廊下には、どこか不気味さすら感じてしまう。

「図書室なんて行くの、一年の時にあった利用案内以来かも」

 階段を上りながら、つばめは言う。その声も、静かな校内には大きく反響していた。

 私は頻繁に利用していたけれど、確かにつばめが図書室で本を借りているところなど見たこと無いし、想像もできない。

「調べ物とか、しなかったの?」

「宿題とか出されてもスマホで調べられたし、わざわざ本でなんて調べないって」

「じゃあ、つばめ一人じゃあ図書室のどこに何の本があるかも分からないね」

「いやいや、それくらい分かるって」

 使ったことが無いのだから分かるはずはないだろうに、やけに自信満々に答えられて、笑ってしまった。

 その間にも、つばめは軽やかな足音を立ててB棟の四階にある図書室へ向かう。

 中学生だった頃は剣道部に所属していた事もあり、つばめは私よりもずっと体力がある。私がインドア派であるということを差し引いても、二階分の階段を駆け上がって、自習中の3―A教室とは対角線上にある図書室までの廊下を走って、それでもまだちっとも息を切らしていないつばめを見ると、基礎体力が違うのを感じてしまう。

「鍵は……よしよし、開いてる」

 つばめは自分の部屋にでも上がるように無遠慮にドアを開けてから、「失礼しまーす」ときょろきょろあたりを見回した。

 息を整えてから、念のため私も「失礼します」と声をかけて図書室へ入る。

「先生は……いないか。まあそりゃそうだよね」

 いつもは貸出カウンターに座っているか、隣の事務室でお茶を飲んでいた学校司書の先生も、もうここには来ていないらしい。

 先生が慌てて私物を持ち出したのか、誰かが荒らしたのか、事務室の引き出しという引き出しは開けられ、書類等は床に散らばっている。

 嵐が通ったような惨状は、図書室自体も同じだった。

「なんか、本棚の隙間多くない?」

 つばめの言うとおり、本棚には隙間が目立つ。

 流し見て記憶と照らし合わせると、人気のある作家の作品や名著のたぐいがほとんど抜け落ちていた。

「こんな時でも、火事場泥棒みたいなことをする人はいるんだね」

 ちょうど私たちくらいの世代に受けの良かった作家の小説は、根こそぎ奪い去られていた。

 ティーンズ向け雑誌のバックナンバーまで持っていってどうするのだろうかという疑問はあるが、この期に及んで本を読んでいたのは自分も同じなので、あまりどうこうとは言えない。

 しかし、百歩譲って持ち出しまでは許せても、床に本が落ちているのは見逃せない。

 本は読むためのものであり、ワックスの利いた床の飾りではないという事を、図書室荒らしの犯人たちは理解していないのか。

 にわかに生じた憤りは喉元まで出かかったが、つばめに聞かせても「相変わらずこのはは本オタクだねえ」と言われるだけであるのは目に見えているので、押し隠しておくことにした。

「火事場泥棒と言えば、購買と学食ははもっと凄かったけど、見た?」

 読書の秋、と題されたポスターを見つつ、つばめの言葉に首を横に振る。

「ううん、見てない」

「凄いよ、ホントに。窓とかケースとか割られまくり。学食はまあ食べ物を探してたんだろうけど、購買まで行くってそんなに鉛筆とかノートとか欲しかったのかな」

「お昼休みにパン売ってたからじゃない?外のパン屋さんが持ってきてたじゃない」

「ああ、なるほど。コロッケパン美味しかったんだけどなあ」

 つばめは、基本的にお昼は購買で買ったパンを食べていた。冷凍食品と晩御飯の残りを詰め込んだだけの私のお弁当を見ては、「わたしは弁当作るの絶対無理だ」と言っていたのを思い出す。

「それで、結婚式ってどういう本で調べればいいの?『世界の結婚』みたいな本とか?」

 そう言いながら、つばめは足元に落ちていた科学雑誌を拾い、ぱらぱらとページをまくってから、興味なさそうにマガジンラックの適当な箇所に戻した。

 どうやら、「本で調べる」という発想はあっても、「どの本を参考にする」までは考えていなかったらしい。計画性があるのかないのか、よく分からない。

 とは言え、私も小説を借りに図書室を利用することは多かったが、蔵書のすべてを把握はしていない。結婚式について調べろと言われても、やはり同じようにどういう本で調べれば良いのか、と困ってしまう。

「文化とか風習とか、そういうところからかな。あとは、マナーに関してとか」

「辞典的な?」

「的な」

 それでも、ここで「私もわからない」と言ってしまっては、早々に行き詰まってしまう。

「辞典ってどこにあるの?隅っこの方だっけ?」

「うん。あの……隅っこの閲覧台があるところ」

「よっしゃ。じゃあわたしは辞典で、このははその他ね」

 雑な担当範囲の分け方をしながら、つばめは早速辞典の棚に駆け寄り、大判の百科事典を閲覧台にどすん、と置いた。

 完全にしらみつぶしにページを見ていく姿勢である。あれならば、確かに私が「その他」を担当してもちょうどいいかもしれない。一応、背表紙とジャンルの分類から多少の目星を付けるくらいはできる。

 十進分類法における三百番台、社会科学の辺りをずらっと見ていけば、おそらく。

「……あった」

 並んだ背表紙を撫でる指が止まったのは、「世界の結婚」では無いけれど、「結婚式のマナー」なんて近からず遠からずな直球のタイトル。それを手にとって開いてみれば、予想通り、結婚式の流れと、細かな注意事項が図解付きで書いてある。

 基本はこれを参考にすればいいだろう。机の上に表紙を上に置いて、保留する。

 次いで、それらしいタイトルの本を適当に引き出して、机の上へ。

「ハッピーウェディング」「幸せな結婚をするために」「式場の選び方」

 司書の先生の判断なのか、生徒側からリクエストしたのか。いずれにせよ、進学者が多い公立高校の図書室に置くにはいささか気が早すぎるタイトルが並んでいる。不思議には思うが、今はその不思議さのおかげで調べ物が捗りそうなので、こんな本を入れることを決定した人たちに心のなかでお礼を言う。

「ねえ、このは」

 呼ばれたので視線を向けてみたが、つばめは俯いて閲覧台に視線を落としたままだった。大事な話ならばちゃんとこっちを見て話してくれるので、比較的どうでもいい話なのだろう。

 私も本棚に視線を戻して、「なに?」と返事をする。

「マーク付けたいんだけど、ページ折っていい?」

「駄目」

「だよね。そう言うと思った」

「カウンターに配布の栞がいっぱい余ってるから、それ挟んどけば?」

「そうする」

 昨年この高校に赴任した図書館司書の先生は、抽象画が趣味だった。その趣味の延長で、自分の描いた絵を印刷した栞を貸出カウンターに置いて、「ご自由にお持ちください」の札を付けていた。

 しかし、分かりづらい抽象画をあしらった紙製の栞は、私は好きだったのだけれども、全体で見ればあまり受けは良くなかったらしい。四角い缶に入った栞は春からほとんど減ることなく、秋の図書室に置き去りにされてしまっている。

「なんだっけ、美術の授業で見たな、こういうの。キュビズム?」

 その栞が入った缶ごと閲覧台に持ち去ったつばめは、一枚を取って首を傾げながら眺めている。

「何考えればこういう絵が描けるのかな。なんか、わたしとは頭の構造が違う感じがする」

 すぐに飽きてしまったようだけど、それでも、ここまで真剣に先生の絵を見た生徒はいなかったんじゃないだろうか。「あんまり人気ないねぇ」と減らない栞を見て悲しそうに笑っていた司書の先生も、少しは報われたに違いない。

 まるで故人に対する感想のようだと気付くと、急におかしくなってしまい、つばめに気付かれないように笑いをこらえた。

「ところで、このはの方はどんな感じ?」

 進捗報告のために口を開こうとしたら、こらえていた笑い声が空気となって漏れた。それを咳払いで誤魔化してから、机の上に保留しておいた本をちらと見る。

「何冊かあったよ。高校でもう結婚考えてる人って、結構多いのかな」

「いやー、無いでしょ。高校で付き合ってても卒業したらだいたいは別れるって、お姉ちゃんも言ってたし」

 お姉ちゃん。その言葉を聞いて、そう言えばと今度は私から話題を変える。

「お姉ちゃん、こっちに帰ってきてないの?」

 私は会っていないが、年に二度、お盆と正月には帰ってきているとはつばめから聞いていた。

 東京からここまでは、電車でだいたい二時間ほど。そこまで遠い距離ではない。

「来てないねぇ。電車止まってるし、車は持ってないし、来られないのかもしれないけど」

「そっか」

 僅かな異変を察知してすぐに行動に移せる人ばかりではないのは、この学校にまだ登校してきている私たちで実証されている。つばめのお姉ちゃんも、そんな中の一人なのかもしれない。

 そうでなくとも、大都会東京から片田舎への線路なんてものは、とっくに使い物にならなくなってしまっている。そして、山を越えて東京からこの町へ来るには、もう世の中は物騒になりすぎている。

 すっかり顔がぼやけてしまった記憶の中の「お姉ちゃん」の無事を祈っていると、つばめは「でも」と切り出した。

「まだケータイ繋がってた頃に、『来年には結婚するかも』って電話が来たから、カレシといるんじゃないかな」

「付き合ってる人、いるんだ。それなら安心かな」

「うん。ちょっとだけ話したけど、いい人そうだったし。あっ、写メあるけど見る?」

「見る見る」

 調べ物は中断して、カバンからスマートフォンを取り出したつばめに駆け寄る。

「ほら、これ」

 手渡された端末の画面に映っているのは、私の記憶よりも随分と大人っぽくなった「お姉ちゃん」だった。ウェーブのかかったダークブラウンの髪は、真っ黒なストレートヘアの私からすればずっと憧れだった。印象が違うのは、長かった髪をばっさりと切って後ろで短く括っているせいかもしれない。

 そして、その隣では、男の人がぎこちない笑顔を浮かべている。清潔感のあるワイシャツ姿に小奇麗な短髪。確かに、見た目から受ける印象は「いい人」である。

「銀行マンなんだけど、合コンで知り合ったらしいよ」

「えっ、こんな人でも合コンとか行くんだ」

「同僚の付き合いで行ったら、同じように友達に連れてこられてたお姉ちゃんと意気投合した……とか言ってた気がする」

「何か良いなあ、そういう偶然の出会いみたいなの」

 ありがと、とお礼を言って、スマートフォンをつばめへと返す。

 ずっと本を読んで物語の世界に半身を浸してきたからという理由もあるかもしれないけれど、私はいわゆる「運命の出会い」を夢見てしまっている。

 今計画しているつばめとの結婚式も、本当ならば運命の人と結ばれる時に行われるはずのものだった、と言うと、つばめには悪いのだが。

「お姉ちゃん、久しぶりに電話したらめちゃくちゃ真面目な感じになっててさ、びっくりした」

 返された端末を見て、懐かしむようにつばめは言った。

 その声色に、何かを語りたがっているような気配を感じて、短い相槌だけで先を促す。

「『早く一人暮らししたい』ってしょっちゅう言ってたし、何年も社会人として働いてるんだから不思議じゃないんだけどさ。なんか、家で一緒に暮らしてた時とはずーっと年が離れたみたいな感じだった。お姉ちゃんっていうか、お母さんに近い感じ」

 言わんとしていることは分からないでもなかった。私自身は一人っ子だけど、さっき「お姉ちゃん」の写真を見て思ったことは、つばめが言っていることとほぼ同じだった。

「わたしも大学行ったら一人暮らししてたんだろうけど、なんだろ、わたしがお姉ちゃんみたいになるのは、全然想像できなかった。と言うか、今でもできない。一生こんな子どものままの気がする」

 つばめの顔に張り付いた、曖昧な笑顔。その下あるコンプレックスが、言葉となって吐き出されていた。

「……あーあ!わたしも大人っぽい女の人になりたかったなー!」

 かと思えば、それまでの空気を払拭するように大声で叫ぶ。

 何を言うべきか考えながらも耳に集中していた私に、その声は耳元で叫ばれたのにも等しい衝撃となってしまった。

 のけぞり、たたらを踏み、顔をしかめる。

 一連のリアクションは、どうやらつばめには気に入ってもらえたらしい。

「ぷっ、ははっ、今のこのはの動き、売れない芸人みたいだった」

「そのたとえは酷くない?いや、別に売れる芸人目指してたりはしてないけど」

「そこは『誰が売れない芸人やねん!』でしょ」

「だから目指してないって」

 どうしようもないほどに下らなくて、実の無い会話。でも、それが今はこの上なく楽しく思えた。

 何よりも、つばめの笑顔が貼り付けたものではなく、私の知っている本当に楽しんで笑っている時の笑顔になったのが、嬉しかった。

「……あー、笑ったらお腹すいた。ご飯どうする?このは、何か持ってきてる?」

「持ってきてないよ。午前中終わったら帰るつもりだったし」

「じゃあ今日は帰る?どうせ明日も自習だろうから、時間はあるし」

 時間はある。つばめが何気なく言った言葉は、私の中ではそのまま消化できなかった。

 世界が終わる時は、誰も正確には知らない。

 もしかしたら、明日には地球が割れてるかもしれない。あるいはもっと早く、今夜には巨大隕石が落ちてきてるかもしれない。もしかすると、こうして話している間にも。

 時間は無い。私の中に生まれた不安は、そう言っている。

 でも、私はつばめを急かせなかった。

「そうだね。というか、本借りていけば明日わざわざ学校に来る必要も無いよね」

「確かに。じゃあ、明日このはの家に行っていい?」

「いいよ。せっかくだから、お母さんとお父さんにも色々聞いて参考にしたいし」

 明日の約束をすることで、今日はまだ世界が終わらないと望みを繋げる気がした。もちろん、終末は私の都合に合わせてくれたりはしないけれど、大事なのは気持ちの問題だった。

 だから、次に利用者が来ても顔をしかめないようにと、ブックエンドをずらして空きの増えてしまった本棚を少しでも見栄え良くしようと努力してみたけれど、大して意味はなかった。

 やっぱり、本がない図書室は寂しいものだと、ちょっとしんみりしただけ。

「うわっ、辞典めっちゃ重い……これ持ってこのはの家まで行くの結構しんどそう……」

 そうこうしている間に、つばめはすかすかだった鞄に入る限りの辞典を詰めていた。

 版型の都合上開けっ放しになってしまっている口からは「世界習俗辞典」の表紙が顔を出している。

「どうせ明日持ってくるなら、今日私が持って帰ってもいいけど」

「それだとこのはの肩外れちゃうでしょ。わたしも家でちょっとくらいは調べるかもしれないし」

「そこまで貧弱ではないよ」

 そうは言ったけれど、机の上に置いておいた本をすべて鞄に入れたら、持ち手が食い込むような重さを感じた。邪魔だからとショルダーストラップを外して手持ち専用の鞄にしていた事を、今になって後悔する。

「……ねえ、このは」

「なに?」

「思ったんだけど、これも火事場泥棒じゃない?」

「うっ……」

 非難しておいて、自分も同じようなことをやっている。あらためて指摘されると、中々刺さる言葉だった。

「……いや、これは読んだらちゃんと返しに来るから、セーフ」

「屁理屈だ」

「屁理屈じゃないよ。パソコンが無事だったら貸し出し処理してたからね」

「ほんとに?」

「……たぶん」

 日本人の文化は恥の文化だと言っていたのは、社会の先生だったか。自分の内にある神ではなく、他者からの目と恥によって行動を管理される。それなら、外人さんはちゃんとアナログの貸し出しノートにでも記帳していたのだろうか、とどうでもいい疑問が浮かんだ。

 いや、そもそも恥の文化というのはそういう説明ではなかった気もする。

 なんにせよ、今はどうでもいいことだ。


「つばめは、学校近くて良いよね」

 鍵のない図書室のドアを閉めて、リノリウムの廊下に足音を立てながら、私は思い出したように言う。

 学校から徒歩三分。つばめが高校受験でここを選んだのも「近くてちょっと寝坊してもどうにかなるから」と言っていたけれど、その言葉も冗談じゃなかったように聞こえた。

「せっかくだし、一回くらいはお昼に抜け出して家でご飯食べて学校に戻ってくる、ってやってみたかったんだけどねえ。遅刻でも早退でもそうだけど、朝と放課後以外に校門を抜けるのって勇気がいるよね」

「良かったね。ちょうど今お昼休みの時間だから、夢が叶うよ」

「いや、これはどっちかと言えば早退でしょ」

「ご飯食べて、学校戻ってくればいいよ」

「戻ってくる理由がないじゃん」

 それもそうだね、と答えて、右手で持っていた鞄を左手に持ち替える。ちらと見ると、指の関節が赤くなっていた。この調子では、家に着いた頃には両手とも真っ赤になっているかもしれない。

「このは、重そうだね」

「うん、ちょっとね……」

「ほら、貸して。校門まで持ってあげるから」

「悪いよ、そんなの」

「悪くない」

 抵抗むなしく、つばめは私の手から鞄を奪ってしまった。つばめも辞典の入った重たい鞄を持っているというのに。

 重たい鞄。ふと、小学校の終業式の事を思い出した。

 私はできるだけ分けて持ち帰っていたが、つばめは終業式当日になると決まって両手に荷物を抱えていた。あの時は「重いから半分持ったげる」と私がつばめの荷物を持っていたが、今は逆だ。思えば、小学生だった頃は、まだここまで体力の差もなかった気がする。多少の差はあっても、小学生の運動能力なんてたかがしれていただけかもしれない。

 はっきりしてきたのは、たぶん、中学に入ってからだ。私はいろんな部活を見学して、結局どこにも入らなかった。あの瞬間に、私のインドア派としての人生は確定したのかもしれない。

 一方で、つばめは「お姉ちゃんがやってて、かっこよかったから」という理由で剣道部に入った。近隣の中学の剣道部と比べても厳しい方で、正直に言うと私はつばめがやっていけるのか不安に思っていたが、それは杞憂だった。

 私の勝手な思い込みだっただけで、厳しい武道の空気はつばめに合っていたのかもしれない。後輩からも慕われていたようだし、三年生が引退した後には副部長として、時には部長よりも率先して部員を引っ張っていた。私は時々様子を見に行っていたが、部活中のつばめはとてもかっこよかった。

 それだけに、高校ではアルバイトのために部活に入れなかった、というのは惜しいようにも思えた。


「……このは?」

 名前を呼ばれて、はっと我に返った。

 いつの間にか、靴も履き替えて校門まで来ていた。景色を染める赤が目に染みる。

「大丈夫?ぼーっとしてたよ」

「うん、平気。ちょっと、昔のこと思い出してただけ」

「このははしょっちゅう昔のこと思い出してるねえ。まあ、こんな状態だし気持ちはわかるけど」

 苦笑いとともに、つばめは学校正面の通りを見渡す。

 かつては綺麗だったはずの桜並木には、事故を起こした自動車が放置されている。それくらいならば大人しい方で、もっと先には火災の痕や、血の跡まで残っている。

 はじめのうちこそそんな騒動を怖がっていたが、今はもう事件事故の起こる時期は過ぎてしまっている。外を出歩いているのは、私たちのような酷く鈍感な人間だけ。

「……あれ、つばめ、裏から出たほうが家近いよね?」

 渡された鞄を受け取って、首をかしげる。

 当然のように正門側に来ているが、つばめの家が学校から徒歩三分というのは、裏口側から入った時の話である。敷地内を突っ切ればいいとは言え、一度正門側に出てしまうのは、ただでさえ重い荷物を持っているのだから結構な手間であるはずだ。

「校門まで持つ、って言ったからね」

「そんな律儀に守らなくていいのに。でも、ありがと」

「ちょっと待ってくれれば、うちにある自転車も貸すけど、どうする?」

「そこまではしなくていいよ。明日、うちに来るんでしょ?その時に自転車無いと、つばめが大変じゃない」

「学校に置きっぱなしの自転車いっぱいあるし、それをちょっと貸してもらえばいいよ」

「友達を自転車泥棒にするくらいなら、歩いて帰るかな」

「そう言うと思った」

 つばめはニッと笑い、「それじゃ、また明日ね」とひらひらと手を振り、裏門の方へと向かっていった。

 私はしばらく手を振り返し、つばめの姿が見えなくなった所で、小さくため息をつく。

 重たい鞄を持って、徒歩三十分の帰路を行かなければならない。それを思うと、憂鬱になる。やっぱり、自転車を借りたほうが良かったかもしれない。

 せめて、電車が動いていれば。いや、動いていたとしても、乗らなかったかもしれないけれど。


 人通りのない通学路を歩きながら、手の痛みをこらえる。

 桜並木に突っ込んだ車の横を通り過ぎる際に、ちらと中を覗き見る。一度膨らんだエアバッグは割られ、ダッシュボードは開けっ放し。こういうのも車上荒らしと呼んでいいのだろうか。

 そこからもうしばらく歩くと、今度は女物の靴が片方だけ落ちている。周囲には赤い点が散り、何かに引っ張られたかのように歪んだ破線を植え込みへと引いている。

 寒気がした。私が想像したところまで行ったのかは分からないが、ここで誰かしらが被害にあったのは、間違いない。

 少しだけ、歩みを早める。

 煩雑な通りに出ると、町中の街灯が赤い世界に黄色や白の光を加えてくれていた。

 しばらく前から、節電やら電気代やらそんなものは知ったことかと言わんばかりに、町のあちらこちらでは電灯がつけっぱなしになっている。

 あるいは、それは赤くなった陽と月に対する、人類によるささやかな抵抗なのかもしれない。

 何はともあれ、昼間なのに灯りが煌々と照っている状況にも、今ではすっかり慣れてしまっていた。ほとんどの照明が、割られてしまっているのにも。

 学校が平和なのは、きっと、あそこには水も食料も無いと知っているから。交差点の向こうに見える、ウィンドウが割られたコンビニを見ながら、そんな事を思う。

 警報は作動したのかしなかったのか。店内に設置されているATMが壊れているのは、遠目にも分かる。レジや事務所の金庫も空っぽになっているはずだ。

 どうせ品物は奪っていくのに、今更お金を使う事などあるのだろうか。万が一世界が終わらなかった時のことを考えているのだろうか。

 空きビルの前で横倒しにされた自動販売機を避けて、割れたガラスの上を歩く。

 ありえないだろうけれど、もしも、この真っ赤な空がいつか元の青空に戻ったら。その時、私たちは日常に戻れるのだろうか。短くはない帰り道を、意味のない仮定を考えることで耐える。

 罪を犯した人は、たくさんいる。私だってあんな事を言ったけれど、図書室の本は無断での持ち出しと同じだ。お母さんはパート先から大量の缶ジュースを持って返ってきたが、どうやって手に入れたのかは言葉を濁していた。お父さんに至っては、時折どこかに出かけては、所々に傷を作りながら食べ物を持って帰ってきている。私にも、その意味くらいは分かる。

 でも、そのおかげで、私は飢えずに過ごせている。いつまでももつとは思っていないけれど、当分は飲み物にも食べ物にも困らない。

「……あ」

 ふと、気付いた。

 そういえば、明日、つばめは何時頃にうちに来るのだろうか。ちゃんと時間を指定していなかった気がする。メールや電話で確かめることもできない。

 何時に来るにしろ、お父さんとお母さんには言っておかないと。

 昔、つばめがよく遊びに来ていた頃には、お母さんは「つばめちゃんの元気さを分けてもらいなさい」なんて言っていた。でも、高校生になったつばめの姿は見たことがないはずだ。髪を染めてスカートも短くしている姿を見たら、つばめだと分からずに追い返してしまうかもしれない。

 慌てて事情を説明するつばめの姿を想像すると、自然と口元が緩んだ。そして、明日を楽しみにしている自分に気付き、少しだけ驚いた。

 夜明けを待つ理由がある。それだけで、こんな真っ赤な空の下でも、人はちょっと前向きになれる。

 さあ、早く帰ろう。部屋の掃除をしておかないと、「意外と部屋汚いんだね」なんて言われてしまう。

 荒れた帰路を駆けるうちに、あれだけ困らされていたはずの鞄の重さも、いつの間にか気にならなくなっていた。

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