何度でも好きなあなた
私には好きな男の子がいた。
そう、「いた」のだ。
私の好きな男の子は、ある日突然女の子となって私の恋は終わりを告げたのだ。
いや、終わってなんかいない。
ただ、好きな男の子が、好きな女の子に変わっただけの話で。
その恋は、私の中で消化される事なく、今も胸の中で燻り続けている。
「おはよー、美月」
朝、家を出ると隣の家に住む私の大好きな女の子、葛城優が玄関前で待っていてくれていた。
私と同じ制服を身に纏う優は私と同じくらいの背丈で、私と同じくらいの肩より少し長いくらいの癖のないセミロング。
私との違いは、私が黒髪なのに対して優が甘栗色の髪な事と、優の方が少し、……ほんの少し胸が大きい事くらいだろうか。
私の方が長く女の子をやっているっていうのに、何だか納得いかない、と時々思う事がある。時々。
私と優はいわゆる幼馴染みというもので、もっと言えば腐れ縁だ。
幼稚園から高校まで一緒の学校でクラスまでずっと同じ、席まで隣同士だなんてもう腐れ縁以外の何でもないだろう。
ただ、優が男だった時はやっぱり照れとか周囲の目線がある訳で、学校ではあまり話せなかったんだけれども、お互い女の子同士となった今では学校でも気兼ねなく話せるようになってちょっと嬉しい。
こうやって一緒に通学するようにもなったしね。
「おはよう、優」
自分でも分かるくらいうきうきした声で挨拶を返し、二人並んで通学路を歩き出す。
吐いた息は白く風は冷たい、まだまだ寒い日が続きそうだ。
それでも日差しは柔らかく、肌を刺すような寒さが和らいできている事にほんの少しの春の訪れを感じる。
一緒に登校をすると言っても優とは黙って歩いている事の方が多い。
と言っても、その沈黙は決して苦痛なものではなく、むしろ穏やかな気持ちにさせてくれる。
確認した事はないけれど優もそうだったら良いな、と付かず離れずの絶妙な距離で隣を歩く優をちらりと見ると、そこには微かに顔が赤く、挙動が不審な優の姿があった。
あちこちに視線を向けながら手を胸の前で組んで指をもじもじさせている。
「優、具合でも悪いの?」
「ひゃっ!?」
私が声をかけると優はびくっと体を震わせびっくりした声を出す。
最近はこういう無意識での行動も女の子らしくなってきたなあ、って思う。
「大丈夫?」
「う、うん」
優はそう答え一つ大きく深呼吸をし、しばらく俯かせていた顔をばっとあげる。
その目はまっすぐに私を見詰めてきて、決意がこもっているかのような視線に私はどきっとする。
「あのさ、バレンタインチョコの事なんだけど」
優は周りを気にしながら小さな声でそれだけを言うと、顔を真っ赤に染めて黙り込んでしまう。
そんな真っ赤に染まった優とは裏腹に、私の心は真っ黒に染まる。
何だろう、この優の行動は。
まるで好きな人がいて、その人にチョコを渡したいがために私に相談をしてきたかのような。
「美月?」
呆然としていたら、優の心配そうな声で我に返る。
心配そうに下から覗きこむその目線に私はどきっとしてしまう。
男の子だった頃はこういう時は乱暴に人の頭をわしゃわしゃやってきたくせに……!
そういう雑な構われ方が少し鬱陶しくもあり嬉しくもあったというのに、今のこういう心配のされ方も嬉しいし、可愛い。
「ば、バレンタインがどうしたの?」
何とか平静を装って私がそう聞くと、優は周りを気にしながらそっと私の方へと距離を詰めてきた。
その時にふわりと優の髪が揺れ、良い匂いが鼻をくすぐりどきりとする。
私が教えた、私も使っているシャンプーの香りなのに何で好きな人からの匂いだというだけで、こんなにも違って感じるのだろう。
「美月ってさ、その、バレンタインにチョコとか作った事ってある?」
「あるけど」
というか毎年優にあげていたチョコは私の手作りなんだけど、もしかして気付いていないのだろうか。
……気付いていないんだろうなあ。
こうやって手作りチョコの事を聞いてきたっていう事はその意味も分かっているんだろうし、気付いているのなら毎年の私の気持ちにも気付いてくれているはずだ。
まあ気付いてくれていなくても別に良いんだけどね、私も素直に渡せなくて、「義理だから」とか「腐れ縁だもんね」って言いながら市販品っぽく綺麗にラッピングした手作りチョコを渡していたんだから。
気付いてくれていなくてもそれは自業自得というものだろう。
「あのさ、お願いがあるんだけど」
私はその続きの言葉を予想できてしまった。
聞きたくない。私は耳を塞ぎたくなるが、それよりも優が早くその言葉を口にする。
「チョコの作り方を教えて欲しいんだ」
と、上目遣いでお願いしてきた。
ズルい、そんな風にお願いされたら断るに断れないじゃないか。
「うん、良いよ」
こうして私は誰だか分からない優の好きな相手のためのチョコレート作りのお手伝いを了承してしまうのだった。
私の馬鹿。
「と、いう訳でチョコを作るよ」
その日の放課後。
私と優はうちの台所でチョコレートを前に立っていた。
作ると言ってもチョコを湯煎で溶かして型に流して固めて完成、という比較的難易度の低いものだけど。
優は「そんな簡単なので良いの?」と聞いてきたけれども、今まで料理をした事がないという優にはこれが一番だろう。
そして特にトラブルもなく、無事にチョコレート作りは終わる。
あえて言えば制服の上からエプロンを着けた私を見て優が、「なんだかイケナイコトをしてる気がする」とか言った事だろうか。
何を言ってるんだろう、とはその時に思ったけど続いて制服の上からエプロンを着けた優を見て少し同意してしまった。
というか、ちょっと新婚さんみたいでどきどきしてしまった。
「ラッピングも教えようか?」
私がそう聞くと、優は首を横に振る。
「それくらいは自分の力でやりたいから、ありがとな美月」
ありがとう、か。
馬鹿だな、って思う。どこの誰か分からない優の好きな人のために、私が協力するなんて。
「喜んでくれると良いな」
そう言ってはにかむ優はとっても可愛くて、でもその熱っぽく潤んだ瞳は、ここにはいない誰かに想いを馳せているように見えて。
男の子から女の子になっても、優は優だった。
それから時間がたって、男の子だった時の性格や仕草が女の子っぽくなっていっても優の根っこの部分は変わらなくて、優しくて、そして鈍感だった。
私とも変わらずに腐れ縁でいてくれるどころか、男の子の時よりも一緒にいられる時間が増えて、知らなかった一面をいっぱい見つける事ができた。
男の子の時に好きだった一面が消えて、女の子っぽく変わっていっても、私は新しい優の一面にまた恋をした。
でも、そんな優が私の前から消えてしまう。
気付いた時には、私は優に抱きついていた。
「美月……っ!?」
驚いた声で優は私を受け止める。
「やだ、行かないで」
私はぽつりと呟く。
大好きだった大きな体は、今では私と同じくらいの背丈で。
大好きだった低いのによく通る声は、今では甘くてふわふわしたような声で。
大好きだった短く切ったつんつんしていた黒髪は、今ではさらさらの甘栗色のセミロングで。
大好きだった男の子は女の子になったけれど、今でも大好きで。
「私、優が好き」
私は馬鹿だ。
優がいなくなるかもしれないって時に初めて自分の想いを口にするなんて。
こんなの、優が困るだけで、私も苦しい思いをするだけで、今までの関係も壊れてしまうかもしれないのに。
「美月、あのさ」
「うん」
優は私の体をそっと離し、まっすぐに私の目を見つめてくる。
「俺の好きな人って、鈍感みたいでちょっと俺に似てるんだ」
「うん、優は鈍感だもんね」
私がそう言うと優は少し困ったように微笑むと、深呼吸をして真面目な顔になる。
男の子の時も、女の子になってからも変わらない、優の何かを決意したような顔。
「俺も美月が好きだよ」
「え……?」
「男だった時も、女になってからも、香芝美月が好き。でも、俺は美月が好きで良いのかな? 男じゃなくなった俺で」
私は続く優の言葉を唇に人差し指を当てて止める。
その唇は、荒れてかさかさだった時のものとは違い、潤いがあってぷるぷるしていて、私はそんな優の唇が好きだ。男の子だった時の唇も、女の子になった今の唇も。
全部の全部の葛城優が大好きだ。
「男の子とか女の子じゃなく、私は優が、葛城優が好きなの」
私のその言葉に優の瞳が揺れる。
「本当に?」
「うん、大好き。優は?」
「俺も美月が好き。男だった時から、女になってからも香芝美月が好きだ」
優はそう言うと私へ口付けてきた。
不意打ちな事と、優が照れて焦っていた事もあってか前歯と前歯がぶつかってかつんと音を鳴らす。
初めてのキスなのに、ちょっと不格好なところが私達らしくて少し笑ってしまう。
「ごめん……」
数秒の後に離れた優がバツが悪そうに謝る。
「謝らないでよ」
こういう女の子の扱いに慣れていないというか、ヘタレなところも相変わらずだなあ、って思う。
私は良いことを思いつき、容器に少し残っているチョコを薬指で掬い取って唇に塗る。
「ねえ、これが今年の私からのチョコレートだよ」
これは、数秒で離れてしまったヘタレな優への罰。
「私の優への本命チョコレートなんだから、味わって食べてよね」
その意味が分かったのか、優の顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
何も言わずにじっと優の顔を見詰めていると、覚悟を決めた優の顔が近付いてくる。
「んっ」
優の唇が、私の唇に触れる。
初めてのキスとは違い、しっとりと吸い付くように私達の唇は重なる。
この唇の熱さは優のものなのか、私のものなのか。
「ん……」
優の鼻から抜けていく息がくすぐったい。
優の唇が薄く開き、ぴちゃと小さく音が鳴る。
その音の振動が優の唇を伝い、私の唇に伝わって脳が、心が震える。何だか頭が甘く痺れてぼうっとする。
薄く開いた唇から伸びてきた舌が私の唇に触れる。
「んっ……!」
電気が走ったかのような錯覚に思わず離れてしまいそうになるが、優は私の顔を小さな両手で包んで逃がさない。
優の舌は唇に塗られたチョコをちろちろと、まるで焦らすように舐める。
うう……確かにチョコを味わってね、とは言ったけどさ。
ヘタレのくせに! と思いながら私は我慢できなくなって、そっと優の舌に自分の舌を差し出す。
その時に、ぺちゃりと小さく音が鳴り、まるで部屋中にその音が響いたかのような気がして凄く恥ずかしい。
舌と舌が絡み合い、甘い痺れが舌の先っぽから体全体に伝わってくる。
湿った音だけが部屋の空間を支配する。たまに部屋の外から聞こえてくる、風や鳥の鳴き声、車の通る音がこことは違う別の現実の音のように聞こえる。
時間が止まったような錯覚。
それでも、私達の吐息が秒針のようで時間の流れを感じる事ができて。
どのくらいの時間がたったのか分からないまま、私達は唇と唇を合わせ続けた。
しばらくして優の唇が離れていき、こくん、と喉が鳴る音。
頬に張り付いた髪を払う優がいつもの優じゃないみたいで、凄く色っぽい。
新しい優の表情を見ることで私の胸は高鳴る。
「ごちそうさま」
そう言って優は照れくさそうに笑って目を逸らす。
良かった、いつものヘタレな優に戻った。
「バレンタイン、まだなのにチョコ食べちゃったね」
優は残念そうな顔でぽつりと呟く。
その顔がなんだか子供っぽくて凄く可愛い。
「別に、またバレンタインに食べたら良いじゃん」
「えっ」
私がそう言うと優の真っ赤な顔は、更に真っ赤になって耳まで赤く染まる。
たぶん、私の顔も優と同じくらい真っ赤なんだろうな。
でも、そんな真っ赤な顔の優が凄く可愛くて、
「ねえ、優。大好き」
私はもう一度、優にプレーンなキスを落とした。