自死(スーサイド)
昨日来、ソフィーは、ろくに食事すらとっていない。
口にしたものといえば、せいぜいアーモンドミルクを一杯、口に含んだ程
度。
ポポフは心配して今日も様子を見にきてくれたが、彼の問いかけにも、ソ
フィーは気のない返事を返すばかり。
完全にお手上げの状態だった。
問題なのは、食事のことだけではない。
ソフィーは、ニコルの遺体の傍をかたときも離れようとせず、遺体脇の椅
子に腰掛けたまま眠ってしまうのだ。
寒暖差の激しい火星で、ろくな防寒もせずに寝てしまうのは、風邪をひこ
うとしているのに等しい。
昨日、座ったまま眠ってしまったソフィーを見かねたニコルは、こっそり
と毛布を掛けてやったのだが……。
今日もまた彼女は、遺体の傍らの椅子に座ったまま眠りこけてしまってい
た。
生活態度を、これっぽっちも反省している様子がない。
(こんな生活を続けていたら、本当に体を悪くしてしまうよ)
もうソフィーは、自分の体のことなど、どうでもよくなってしまっている
のだろうか。
ニコルは、姉の野放図な生活態度に危機感を抱いた。
(僕に夜更かしするなとか、ペチカの前で寝るなとか言っていた癖にさ。困
った姉さんだよ)
ペチカとは、ロシア伝統の壁埋設式暖炉のこと。
この家では、ダイニングに設置されていて、屋内に暖気を循環させている。
けれども、ソフィーが放ったらかしにしているので、既に火は消え、室内
温度はかなり下がってしまっている。
刻々と時は過ぎ、やがて屋内には、再び宵闇が侵入して来た。
このままだと、本当にソフィーが風邪をひいてしまう。
弟としては、やはり姉が体を悪くするのを、黙って見過ごしてはおけなか
った。
けれども現在のニコルは、家の中へおいそれとは立ち入れない身の上。
なにもポポフの魔除けが怖いからではない。
魔除けなんか、なにするものぞだ。
ニコルにとって厄介だったのは、魔除けなどではなく、死者の理だった。
帰還者となったニコルは、死者の面倒くさい理に縛られていて、家の中へ
ズカズカと入って行くわけにはいかなかったのである。
無理に家の中へ押し入ろうとすれば、生者と死者を隔てる不文律を犯すこ
とになり、ニコルの帰還者としての存在すら、危うくすることにもなりかね
ない。
そこでニコルは、昨日姉に毛布を掛けてやったのと同じ手段を使うことに
した。
『魔法の手の術』を使うのだ。
この術も、ニコルが帰還者となってから獲得した能力のひとつだった。
念動力などと呼べるような御大層なものではなかったが、この力を使えば、
ある程度離れたところにある物を動かすことができた。
屋外にいながらにして、屋内の物を動かすことだって可能。
ニコルは、気取られぬよう慎重に眠っている姉の体を『魔法の手の術』で
持ち上げると、そっと彼女自身のベッドへと横たえてやった。
やはり座ったままの不自然な姿勢では、よく眠れていなかったらしく、ソ
フィーは自分のベッドに寝かされると、スヤスヤと穏やかな寝息を立て始め
た。
ニコルは、眠っている姉の顔を、まじまじと観察する。
寝顔の泣きはらした瞼と、目の下の深い隈が、なんとも痛々しい。
もともと目が大きく、細面なだけに、やつれると酷くゲッソリして見えて
しまう。
折角の美貌が台無しだった。
でも、こんな風になるまで彼女を追い詰めたのは、誰あろうニコル自身な
のだ。
姉の憔悴しきった顔を見るたび、ニコルは自分のしでかした罪の重さを痛
感せずにはいられなかった。
そして悔恨の念が湧くたび、過去の記憶を思い返して、自分の選択は本当
に正しかったのかと自問自答するのだった。
◇
一年前。
体調を悪くしていたニコルは、二十四時間生命維持装置につながれる生活
を余儀なくされていた。
心臓や肺に負担がかかるので、運動もままならず、筋力は落ちていく一方。
移動にも、電動車椅子を必要とするようになっていた。
あまりに体力の減退が著しかったので、この頃にはニコルは、遠くない未
来に死が訪れるであろうと予感がしていた。
そんなときに舞い込んだのが、件のBMI手術の話である。
BMI手術は、開頭を要する大手術。
ニコルの肉体にも、かなりの負担を強いることになる。
医師に指摘されるまでもなく、死期を早めるリスクについては重々承知し
ていた。
それでも施術に踏み切ったのは、手術せずに寝たきりになったら、自分で
何もできない生ける屍と化してしまうのが目に見えていたからである。
それに、手術を取り付けてきた姉の労苦を思えば、ニコルはこの機会を無
にするわけにいかなかった。
◇
死ぬひと月前。
ニコルは、もはや余命いくばくもないと悟っていた。
居心地の良いペンタポッドのコクピット内から一歩でも外へ出れば、もは
や意識を保ち続けるのも困難になっていたからだ。
それでも完全に意識を失わないでいられたのは、どうしてもやり遂げてお
かなければならないことがあったからである。
その目的意識こそが、ニコルの生きる支えだった。
おそらく、この時点で容態の悪化を気取られ、病人ベッドに縛りつけられ
てしまっていたら、ニコルは目的意識を失い昏睡状態に陥っていただろう。
それでも、昏睡状態のまま安楽死させてくれるのならば、まだ良い。
意識を失っていれば、生きていても、死んでいても同じなのだからだ。
問題は、姉のソフィーが、ニコルの安楽死を絶対に望まないとこと。
たとえニコルが植物状態になろうとも、彼女は、弟の一日でも長い延命を
図るに違いない。
どれだけ費用が掛かろうと、どんな手段に訴えようともだ。
莫大な医療費を払い続けるために、それこそソフィーは、自分の身を切り
売りすることさえ厭わないだろう。
ソフィーとは、そういう女性なのだ。
でも、意思疎通の叶わない寝たきりの介護は辛いものだ。
介護に終わりが見えず、徐々に心を擦り切らせていくことになる。
介護の日々そのものが、生き地獄だと言っても過言ではない。
果たして、生きる屍と化した弟をわずかに延命させるために、姉がそんな
辛い思いをする価値があるのだろうか?
もちろんニコルの答えは『否』だった。
過去に姉に犠牲を強いたことは、犠牲を払った姉よりもむしろ、弟のニコ
ルの深い心の傷となっていた。
だからニコルとしては、下手に死に損なって、これ以上姉に犠牲を強いる
ような真似だけは何としても避けたかったのだ。
ただし、自分で人生のケジメをつけるにしても、できるだけ姉の精神的ダ
メージの少ないキレイな死に方をしなければならない。
そんなキレイに逝きたいニコルにとって、ペンタポッドは、おあつらえ向
きの棺おけだった。
ペンタポッドの上部コクピットは、降車姿勢をとらなければ乗り降りが難
しいため、姉にバレないように独りで逝くのにちょうど良かったからだ。
それに農作業の手伝いにかこつければ、マシンに入り浸っていても怪しま
れる心配もない。
ニコルは、体調が悪いのをバレぬように、ペンタポッドの中に籠もる時間
を徐々に増やしていき、逝くのに良い日を待った。
そして二日前、ニコルは遂に計画を実行に移したのだった。
◇
あの日、姉の手伝いで果樹園にやってきたニコルは、ペンタポッドで火星
アーモンドの振るい落とし作業に従事していた。
上部コクピットに乗り込んだニコルの目の前にあったのは、操作レバーと、
マシーンのステイタスを表示するタッチ式ディスプレイコンパネ。
ディスプレイ上部には、演算処理中を示す風車型のカーソルがクルクルと
回っていたが、ニコルの視界は霞んでいて、風車が何重にも重なって見えて
いた。
コクピット内に響くのは、生命維持装置の低い駆動音と、かすれた笛の音
のような自身の呼吸音だけ。
(いよいよ危ないかな)
ニコルが覚悟したとき、外で収穫作業をしている姉から声が掛かった。
「ニコル、大丈夫?」
でももはやニコルには、姉の問いかけに元気よく応えるだけの力は残され
ていなかった。
ところが。
「大丈夫だよ。なあに姉さん?」
ニコルが口も動かしてもいないのに、外部スピーカーからは、ニコルの声
で大きくて明瞭な返事が発せられたではないか。
こんなこともあろうかと、ニコルは、事前に自分の声をサンプリングして、
姉への返事を用意していたのである。
「そう。あたしは、向こうに落ちてるアーモンドを拾ってくるから、ここの
アーモンドの振るい落としはよろしくね」
ソフィーは、ニコルの元気な声の調子を聞いて安心したようだった。
下植えを踏む音と、アーモンドを運ぶ手押し車の車輪音が遠ざかって行き、
ソフィーがペンタポッドの傍を離れたのが判った。
「ああ、うん……」
ニコルは、やっとそれだけ喉から搾り出した。
サンプリングした声とは対照的な、かすれて弱々しい声だった。
天井へ目を向けると、そこから覗いていたのは、どんよりとした鉛色の空。
逝くのには、あまり良い日和とは思えなかったが、悠長に空に注文をつけ
ていられるほどニコルに時間は残されていなかった。
既にニコルの意識は、朦朧としていて、霞のかかったようになっていたか
らだ。
もはや居心地の良いペンタポッドの中でさえも、覚醒状態を維持できなく
なりつつあったのだ。
いつ意識を失って、昏睡状態になってもおかしくない。
姉と別れ難いからといって、これ以上決断を先伸ばしにしていたら、本当
に姉の人生を破滅に追いやりかねない。
(意識のあるうちに、なんとしても自分でケジメをつけなきゃ)
ニコルは、ディスプレイ上に生命維持装置の電源供給ボタン呼び出すと、
意を決してボタンを押した。
BMI手術を受けたニコルは、意思だけで生命維持装置のスイッチを切る
こともできる。
けれど、あえてそうせず、わざわざ自分の指で死のスイッチを押した。
そんな面倒くさい真似をするのは、もちろんワケがある。
ペンタポッドの記憶装置に、自分で命を絶つ瞬間を残しておけば、万一姉
に承諾殺人の嫌疑がかけられとき、この最後の瞬間の映像が、嫌疑を晴らす
証拠となるからである。
ニコルは、そこまで事後のことを考えていた。
生命維持装置の駆動音が止まると、ニコルは息をするのもままならなくな
った。
目を開けているにもかかわらず、視界がどんどん昏くなっていく。
瞼が重くて、もう眼も開けていられない。
やがて世界は、完全に闇に閉ざされた。
ニコルは、とうとう最後の時がやってきたのだと感じた。
命が燃え尽きようとするその瞬間、ニコルが瞼の裏に見ていたのは、姉と
一緒にペンタポッドの化粧直しをした、あの幼い日の記憶だった。
人は死ぬ直前、自分の人生を走馬灯のように見るという。
だが、ニコルの生きてきた時間は、あまりに短かく、内容も薄っぺらで、
人生をショートムービーに起こせるほどの充分な記憶の分量がなかった。
だから代わりに、七年前のあの懐かしい光景が、瞼の裏で差し替え上映さ
れたのだろう。
懐かしい日の記憶の上映が終了すると同時に、ニコルの意識はプツリと途
切れた。
数秒後、再び意識を取り戻したとき、ニコルは、さっきまでの自分とは、
まったく異質の存在に変わり果てていた。
そう。ニコルは、あの世から舞い戻った人外の存在『帰還者』になったの
だ。
◇
帰還者伝承からもわかるとおり、火星では自殺を罪とみなすコンセンサス
が醸成されている。
自殺に対する忌避感は、地球よりもはるかに強い。
にもかかわらず、ニコルは、自ら死を選んだ。
それも、ソフィーのように衝動的に死のうとしたのではない。
計画的に死のうとしたのだ。
なぜニコルは、若い身空で、そうまでして死のうとしたのか?
本当に姉のためだけに、死のうとしたのだろうか?
姉のためというのは嘘ではないだろう。
けれど、おそらく姉のためのみが理由ではない。
ニコルの『生』は、常に痛みと共にあった。
彼にとって生きるとは、即ち苦しみだったのだ。
特に晩年は痛みが切実で、どのみち死ぬのなら、早く楽になってしまいた
いとさえ願っていた。
そして前述どおり、死ぬこと以上に、死に損なって姉の重荷になってしま
うことを恐れていた。
だから彼は、自ら死を選んだのだ。
きっとニコルの痛みを理解しようとせず、彼の死を罪と断じる人もいよう。
だが、自殺といっても二種類がある。
世を儚んで死ぬ『受動的自殺』と、目的を成し遂げるために命を賭す『能
動的な自殺』である。
自殺を戒めている宗教でも、後者の能動的自殺に関しては、必ずしも禁じ
てはいない。
それに人の心とは、いろいろな想いが渾然一体となっているものだ。
そう簡単に人の心を、白か、黒か、スッパリ割り切れるものではない。
受動的自殺願望と、能動的自殺願望。
その両方の気持ちを抱えて死ぬ場合だって、勿論あるだろう。
ニコルの場合も、姉のために犠牲になろうという奉仕の心と、早く楽にな
りたいという利己的な心の、両方の心を持っていたのだ。
彼の死は、受動的自殺願望か、能動的自殺願望か。
明確にどちらかと断じれるものではなかった。
仮に教会が、ニコルの死を、世を儚んで死んだ受動的自殺と断じたとして
も、回復の見込みのない終末期患者の安楽死や、尊厳死を、罪と見なしてよ
いのかは、自殺をタブー視する火星社会でさえも議論がある。
自殺した人は、罪びとなのか?
自殺した人の魂は、本当に救われないのか?
能動的な自殺と受動的自殺を、明確に区別できるのか?
安楽死や、尊厳死までも、罪と断じてしまってよいのか?
自殺を一概に肯定もできないが、古い宗教の生命倫理観が、二十一世紀以
降の社会の世情にそぐわなくなってきていることもまた事実であろう。
もっともニコルにとっては、死後に自分が罪びと扱いされようが、されま
いが、どうでもよ
いことだったのだが。
そもそも彼は、魂を祝福されて天国に召されようなどとは、露ほども望ん
でいなかった。
むしろ彼が願ったのは、その逆。
成仏せずに、罪深き魂としてこの世に残ることだったのだから。
ニコルは単に、病苦から逃れるためや、姉の負担にならないために死んだ
のではなく、計画的自殺を計ることで、帰還者としてこの世に留まろうと目
論んだのである。
とはいえ、死んだとしても、帰還者として確実に蘇ることができる保証な
ど、どこにもない。
ニコルにとっても、この計画的自殺は、一か八かの賭けだった。
もっとも、こうして帰還者として存在しているのだから、計画はおおむね
成功と言ってよかろう。
覚醒時の記憶の混乱なんて、死という大事件を乗り越えたことに比べれば、
些細なトラブルである。
ただ、帰還者としての生活スタイルは、人間とだいぶ異なっていたので、
最初ニコルは戸惑った。
家のなかには容易く入っていけない。
他人に声が届かない等々。
不便な点が多かったからだ。
けれども、死者になったがゆえに得たメリットも大きかった。
まず、長年苦しめられてきた病苦から解放された。
姉の行く末を、末永く見守り続けられる体にもなった。
人にはない特殊能力も得た。
そして最愛の姉は、弟というお荷物がいなくなって、自分の幸せに専心で
きるようになった。
姉に認知されない存在になってしまったことが、寂しくないと言えば嘘に
なる。
けれども、遠くない未来に確実に死が訪れると悟ってしまった以上、他に
手立てはなかったのだ。
(姉さんを悲しませたのは心苦しいけど、やはりこの選択肢しかなかったよ
な……)
窓越に姉の寝顔を見つめながら、ニコルは思った。




