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帰還者(レブナント)


 ノックスの郊外には、広大な果樹園が広がっている。

 火星の農産物は、未だに地下や、半地下のプラントでの生産が主流。

 ノックスのような屋外農業が中心の都市は、まだまだ珍しい。

 火星の農業が、屋内型から屋外型へと、なかなか移行できないのには理由

がある。

 火星の特殊な環境のせいだ。


 テラフォーミング半ばの火星は、環境が過酷過ぎて、屋外でまともに生育

する植物といえば、地衣類、セダム類、キリンソウなど、火星緑化のために

導入された品種がほとんど。

 屋外での生育に耐えうる農業品種は、ほとんどなかったのである。

 その火星の過酷な環境に耐えうる数少ない作物のひとつが、ノックスの主

生産品である火星アーモンドだった。


 火星アーモンドの果実は、地球のものより何十倍も大振りで、アーモンド

というよりむしろココヤシに似ている。

 火星でも育てられるよう品種改良されており、地球種と違って低温に極め

て強い。

 テラフォーミング途上の貧弱な土壌でもよく育った。

 果実は、ペンタポッドのようなシェイカーマシンで揺らさないと収穫でき

ないほど枝にしっかり固着していて、火星名物の塵旋風が吹き荒れようとも

ビクともしない。

 天候不順にも、自然災害にも強い理想の作物であった。

 また栄養価も高く、火星で生きていくのには、なくてはならない重要な栄

養源となっていた。


 火星アーモンドの一大生産地であるノックスには、その火星アーモンド園

が無数に存在している。

 でも今は、どこのアーモンド園も雨に煙っていて、ひっそりとしていた。

 アーモンドの実は、樹から振るい落としたあとに乾燥させなくてはならな

い。

 だから、あえて雨の日を選んで収穫したりはしないのだ。

 農夫たちは全員、雨が降ってきた時点で引き上げてしまったのだろう。

 何処のアーモンド園にも、人っ子ひとり見あたらない。

 人影こそなかったものの、郊外の小規模なアーモンド園には、奇妙な青い

物体が佇んでいた。

 タコに似た独特のフォルム。

 トライポッドの作業用バリエーション機のペンタポッドだ。

 ペンタポッドは、地面に這いつくばるようにして車高を低くし、降車姿勢

をとっている。

 その丸い頭部はポッカリと開いており、中には幼子と妙齢の女性が体を重

ねるようにして横たわっていた。

 ニコルの遺体と、その遺体に寄り添うソフィーである。

 そこへ茶色い色をした別のペンタポッドがやってきて、青いペンタポッド

のすぐ脇へ停車した。

 茶色いペンタポッドの胴体部から出てきたのは、麦わら帽を被り、ツナギ

を着た人物。

 白い顎髭を蓄えたスラヴ系の老人だった。

 老人は、青いペンタポッドの上部コクピットに乗り込み、倒れ伏していた

ソフィーを抱き起こした。


「おい、どうしたんじゃソフィー。しっかりせい」


 抱き起こされたソフィーの顔には、涙の筋が光っていた。


「あ、ポポフおじさん。ニコルが、ニコルが……」


 ソフィーは、涙で言葉を詰まらせる。


「わかっておる。わかっておるよ、ソフィー。大変じゃったなあ」


 老人は、横たわる少年の遺体を見て、少女の言わんとしていることを理解

したらしく、彼女の頭を抱き寄せた。


「でも、いつまでも、ここにこうしちゃおれん。ともかくいったん家へ帰る

んじゃ」


 ポポフに即され、ソフィーは力なく立ち上がる。


「お前さんだけなら、ウチのに乗っけて行ってやってもいいんじゃが……ニ

コルを連れ帰る気なら、どうしてもお前さんのペンタポッドを動かさにゃあ

ならん。どうじゃ運転できそうか?」


 ポポフに問われ、ソフィーはコクリと頷く。


「大丈夫です。こんな所にニコルを独り置いていけませんから」


 コクピット外に出たソフィーは、コクピットを閉じようとして、半開きに

なっていたキャノピーに手を掛けた。

 と、キャノピーを閉じようとした手が途中で止まる。


「あのー、おじさん」


 ソフィーは、自分のペンタポッドに乗り込もうとしていたポポフに声を掛

ける。


「ペンタポッドのキャノピーを閉じましたか?」

「いいや。初めから半開きじゃったぞ。だいたいキャノピーが全開だったら

お前さんは、いまごろ濡れネズミになっとるはずじゃろうが」


 ポポフに指摘されて、初めてソフィーは、自分がほとんど濡れていないこ

とに気づいた。


「ですよね。でもキャノピーは、完全に上まであげたと思ったんだけど……」


 怪訝そうな表情を浮かべるソフィー。

 でも、キャノピーの開き具合など、ニコルのことに比べたら、どうでもよ

い些細な事柄である。


「きっと思い違いね」


 ソフィーは、そう自分に言い聞かせて納得した。

 やがて、のろのろと動き出した二台のペンタポッドは、雨に煙るアーモン

ド園をあとにした。


 ◇


 ノックス郊外に建つ、シンプルモダンな白壁の家。

 家の前には、茶色と青の二台のペンタポッドが駐機してあった。

 そのうちの青いペンタポッドのほうは、極端な前傾姿勢をとっており、上

部コクピットを地面スレスレまで近付けていた。

 そして上部コクピットからは、ステップ板が伸び、地面と接していた。

 ステップ板の上を、シートの前後を持って二人の人間が渡っていく。

 ソフィーとポポフである。

 二人は、コクピットシートごとニコルの遺体を、機外へと運び出すつもり

のようだ。

 といっても、シートは完全に宙には持ち上がってはいない。

 シートの底には、黒い車輪のようなものが見てとれ、それがステップ板と

接っしていた。

 ペンタポッドの上部コクピットは、バスや電車などに設けられている車椅

子用の駐機スペースと同じで、通常シートを取り外して車椅子を添えつけら

れる造りになっていたのである。

 コクピットシート兼車椅子が外へ運び出されて、ペンタポッドのコクピッ

ト内は、がらんとしてしまった。

 幽霊ゴーストのニコルは、ペンタポッドのキャノピー越しに、自分の

遺体が家の中へ運び込まれて行くのを黙って見つめていた。


 小一時間もして、雨が小降りになってきたころ。

 家の前に、一台の黒塗りのトライポッドが止まった。

 乗っていたのは、中高帽を被り、黒いトレンチコートを羽織った老紳士。

 手にはおおきな黒い鞄を持っていた。

 老紳士のことは、ニコルもよく知っていた。

 ニコルのかかりつけ医のモロゾフ医師である。

 おそらく、ニコルの死亡の診断をしに来たのだろう。

 モロゾフ医師は、台所と居間がひとつなぎになったリビング&ダイニング

キッチンを抜けた先の、一番奥まった部屋に通された。

 ニコルには、階段の昇り降りが不便だったため、姉弟の寝室は一階に置か

れていたのだ。


 幽霊的存在のニコルは、屋内には入らずに、窓越しに中の様子を窺う。

 寝室には、小さなナイトテーブルを挟んでシングルベットが二つ並んでい

て、片方にニコルの遺体が寝かされていた。

 ベッドの遺体の足元には、黒い往診鞄が広げられていた。

 そして遺体のすぐ脇では、モロゾフ医師、ソフィー、ポポフの三人が、立

ち話しているのが見えた。

 モロゾフ医師は、コートと帽子を脱ぎ、ポポフも麦わら帽をとり、禿げ上

がった頭を晒している。

 ソフィーも、上着は脱いでインナーの徳利シャツ姿になっていた。

 ニコルが耳を澄ますと、屋内の会話が、まるですぐ傍で聞いているみたい

に鮮明に聞こえてきた。


「では、心電図モニター以外の生命維持装置は、すべて切れていたと言うん

ですね?」


 モロゾフ医師が、ソフィーに訊ねる。


「はい。そうです」

「おかしいですね。機械には、どこにも異常はありませんでしたが……」

「先生、まさかニコルの死に、ソフィーが関係していると疑っとるのかね。

ソフィーに限って、そんなことするわけがなかろう。この子は、自分の身を

削るようにして弟を育ててきたんじゃぞ!」


 ソフィーの傍らで、一緒に話を聞いていたポポフが、モロゾフ医師に食っ

てかかる。

 面倒見が良く、情の深いポポフのことだ。

 自分が天涯孤独になってしまったこの娘を守ってやらねばと、使命感に似

た思いを抱いているのだろう。


「私だって、ニコル君のかかりつけ医ですから、お姉さんが弟さんのために

どれだけ心を砕いてきたかは知っていますよ」

「じゃあなんで、そんな詰まらんこと聞くのかね!」


 ポポフは、まだ怒りが収まらない様子だ。


「相手を思うあまり、苦しむのを見かねて……ということもありますからね」

「そんなことしません!」


 今度はソフィー自ら、モロゾフの言葉を言下に否定した。


「だってあの子、最近すごく調子いいって言ってたんです。ここのところ、

毎日ペンタポッドに乗って収穫作業の手伝いをしてくれてたくらいなんです

から。今日だって一緒に……」


 ソフィーの言葉の最後のほうは、震えていた。


「信じられませんね。病状は、以前私が診たときよりも、かなり悪化してい

たはずですよ。意識は混濁して、おそらく喋るのにも苦労するような状態だ

ったはずです」

「そんな素振りは微塵も……」

「でしたら弱っているところを見せまいと、かなり無理をしていたんじゃな

いですかね」

「あたしは、ずっとあの子を見てきたんですよ? いくら元気な振りをした

って、姉のあたしが気づかないはずありません!」


 ソフィーは、意見を固持した。

 彼女には、弟のことを一番理解しているのは自分だという自負があったの

かもしれない。


「では『姉のあなたでも気づけないくらいの血の滲む努力をして、平静を装

っていた』ということでしょうな」


 モロゾフのひとことが、感情を昂ぶらせていたソフィーに、冷や水を浴び

せ掛けた。


「弟さんの衰弱具合から診て、たとえ今日亡くならなくとも、余命はあと一

ヶ月ぐらいだったはずです。私は以前忠告しましたよね? 彼の体にBMI

手術を施すのは負担がかかりすぎる。悪戯に寿命を縮めるだけだと」


 BMIとは、ブレインマシンインターフェースの略。

 脳の発する微弱な電波をキャッチして電気信号に変換し、機械と人との相

互情報伝達を可能にする特殊なインプラント装置のことだ。

 この装置さえあれば、体の不自由な人でも、コンピューター制御の機械を

意思だけで自在に操れるようになる。

 ただし、脳に電極を埋め込む高度医療なので、施術にはそれなりの費用が

かかる。

 ニコルは、この手術を一年ほど前に受けていた。


「あたしは、あの子の喜ぶ顔が見たくて。ただ良かれと思って……」

「その様子だと、本当に弟さんが死にかけていたことを御存知なかったよう

ですね。ふむ、なるほど。どうやら私の思い違いだったようだ」


 得心した様子のモロゾフ。


「いや私も、つい言い過ぎました。そうですね、わざわざ警察に届けるほど

の案件でもなさそうですし、サインさえ頂ければ役所のほうには、こちらか

ら届を出しておきましょう」


 モロゾフは、書類をソフィーに手渡すと、往診鞄を畳み始めた。

 何が『なるほど』なのか。

 ソフィーは、モロゾフがひとりで何を得心したのか分からずに、困惑した

表情になっていた。

 寝室入り口のコート掛けに掛けてあったコートと帽子を手に取る医師。


「では……」


 さっさと帰り支度済ませたモロゾフ医師は、帽子を少し持ち上げ挨拶する

と、寝室を退室した。

 でもまだ納得の行かないソフィーは、玄関に向かおうとする医師の背中に

追いすがる。


「ちょ、ちょっと待ってください先生。どういうことですか? 生命維持装

置が壊れたのでも、病死したのでもないのなら、じゃあなんでニコルは死ん

だんですか?」


 モロゾフは、話そうか、話すまいか、しばらく悩んでいたが、やがてため

らいがちに口を開いた。


「不自然な死に方だったので、最初は弟さんが苦しんでいるのを見かねて、

あなたが嘱託殺人を犯したのではないかと疑ったのですが。そうでないとな

ると……言いにくいことですが、これは状況からして弟さん自身の決断と見

るべきでしょう」

「弟の決断って……先生、何を言っているんですか?」


 モロゾフ医師の見立ては、ソフィーには到底受け入れ難いものだったよう

だ。


「まさか弟が、覚悟の上で自殺したって言うんですか?! 何故? どうし

て?」


 動揺を隠せないソフィーは昂奮し、再び語気を荒くする。


「落ち着くんじゃソフィー!」


 ポポフは、モロゾフに詰め寄るソフィーの肩を、背後から抱き抱えて押さ

え込む。


「それは私にも判りかねます。あるいは病が苦し過ぎて、自分で人生の幕を

降ろそうとしたのかもしれませんね」


 ソフィーの迫力に、タジタジとなりながら、モロゾフは答えた。

 弟が自殺したという事実を受け止めきれなかったのだろう。

 ソフィーは茫然自失状態になり、その場にへたりこんでしまった。


「ご愁傷さまです」


 モロゾフは、最後にそれだけ言って、そそくさと玄関を出て行った。

 外は、再び雨の勢いが強くなり始めていた。


 ◇


 胸元で手を合わせ、ベッドに横たわる少年の遺体。

 ソフィーは、その枕元に座り、少年の金髪を撫でている。

 その頬は泣き濡れ、大きい蒼い瞳は、悲しみに曇っていた。

 ポポフは、掛ける言葉が見つからないらしく、立ち尽くしたまま、黙って

ソフィーの背中を黙って見つめている。


「体の不自由なニコルが、少しでも未来に希望が持てればと思って勧めた手

術だったのに。まさかこんな結末になってしまうなんて」


 ソフィーは、嗚咽を洩らす。

 彼女の流した大粒の涙は、頬からおとがいを伝い、亡骸の顔を濡らした。


「ソフィー。お前さんのせいじゃない」


 ポポフは、なんとかソフィーを慰めようとした。


「この子、手術を受けてからは、自分から率先して何でもやろうとしてたん

です。あたしもそれが嬉しくて。アーモンドの収穫を手伝いたいって言い出

したときも、少し頑張りすぎなんじゃないかって思ってはいたんですけど、

咎める気にはなれなくて……」


 ソフィーの言葉は、ポポフに言っているというより、自分自身に弁明して

いるようであった。


「でも元気にしていたのが、あたしを安心させるための演技だったなんて。

あたしが、あたしが全部悪いんです」


 嗚咽しているソフィーの肩に、ポポフはそっと手を置く。


「そう自分を責めるもんじゃあない。お前さんは、あの子に十分良くしてや

ったさ。きっとニコルだってあの世で感謝してるとも」

「でも……」

「ニコルが火星の環境に順応できなかったのは、お前さんのせいじゃあるま

い? 悲しいが寿命だったんじゃよ」


 ポポフは、諭すように言った。

 しかし、ポポフの慰めの言葉も、今のソフィーには、気休めにもならなか

ったようだ。

 少女は、その大きな蒼い瞳から、ポロポロと涙をこぼすばかり。

 これにはポポフも、ほとほと困り果ててしまった。

 ライトテーブルの上の置き時計は、夕方の五時を回った。

 ソフィーは、遺体の寝かされているベッドの傍らに椅子を置き、弟の手を

握ったまま、まんじりともしない。


「あー、わしは一度帰るけれども、また明日には様子を見に来るから。あん

まり気を落とさんようにな」


 ポポフは、ソフィーを独りにするのが気掛かりそうだったが、いったん自

分の家へ帰ることにしたようだ。

 火星は、昼夜の寒暖差が激しい。

 あまり長居していると、外はアッという間に厳冬の寒さになってしまうの

だ。


「おおっと、そうじゃ。忘れるとこじゃった」


 帰る間際。

 ポポフは、懐から眼のようなシンボルと、幾何学模様の描かれた長方形の

紙を何枚か取り出して、玄関のドアにペタペタと貼りつけ始めた。

 窓越しに、中の様子を窺っていたニコルには、その紙に見覚えがあった。

(確か昔、あれと同じ物が家に貼ってあったっけ。ああそうか。あれは、

『僕避け』だ)


 ニコルは、以前ポポフから聞かされた『帰還者』の伝承話を思い出してい

た。

 帰還者とは、生前に悪事を犯したり、非業の死を遂げた者がなる亡霊のこ

と。

 生きている人の記憶から忘れ去られそうになるとやってきて、不幸という

形で人の注意を惹き、自分たちの存在を報せるという。

 迷信深いポポフは、そんな帰還者の伝承を本気で信じていた。


(僕の両親が、軌道エレベーターの崩落に巻き込まれて亡くなったときも、

おじさんは同じように玄関にお札を貼り付けていったっけ)


 ニコルが、お札に見覚えがあったのは、以前にもポポフがお札を貼ってい

ったことがあったからだったのだ。


「これでよかろう。不慮の死を遂げた者は、帰還者になって戻ってくると言

うからな」


 お札を貼り終え、ポポフが言った。

 でもソフィーの心情は、ポポフとは違っていたようだ。


「戻ってきてくれるなら、ゾンビーでも、帰還者でも、何でもいい! あた

しは、もう一度ニコルと逢いたいよ!」


 ソフィーが、涙声で叫ぶ。


「気持ちはわかるが、そんなこと言っちゃあいかん! 死者は死者の国に、

迷わず行くべきなんじゃ」


 ポポフは、ソフィーを強い口調で諌めた。

 ポポフが去り、家にはソフィー独りだけが残された。

 かつて家に響いていた家族団欒の声も、現在はない。

 屋内に響くのは、叩きつけるような雨音だけ。

 ソフィーは、ベッド脇に置かれた椅子に座って、ニコルの死に顔を見つめ

ていた。


「ねえニコル。あたしを安心させるために、無理して平気な振りしてたの?

本当は死ぬほど辛かったの? でもさ、お姉ちゃんだって神様じゃないんだ

から、辛いなら辛いって言ってくれなきゃ分かんないよ」


 ソフィーは鼻をすすりながら言葉を続ける。


「本当言うとね。ずっと前から、あんたが先に逝っちゃうことは分かってた

んだ。だから考えないようにしてたの。でもまさか、こんなに早く逝っちゃ

うなんて。お姉ちゃんは、あんたのいない世界でたった独り、どうやって生

きていけばいいの? いっその事……」


 途中で言葉を切ったソフィーは、隣の部屋のリビングダイニングキッチン

のほうに目をやった。

 そして何を思い立ったか、いきなり立ち上がると、全速力でキッチンのほ

うへ駆け出す。

 キッチンに置かれたナイフ立ての前に、強張った表情で立つソフィー。

 彼女は、ナイフをスラリと引き抜くと、刀身に映る自分の顔をジッと見つ

めた。


「えっ?! ソフィー何を……」


 窓ガラス越しに、家の中の様子を探っていたニコルは、ソフィーの様子が

尋常でないことに気づいた。

 寝室に戻ってきたソフィーの手には、ナイフが握られたままだった。

 彼女は、弟の遺体の寝かされているベッドの枕元に座り、遺体に寂しそう

に微笑みかけた。

 それから目を瞑ると、ナイフの切っ先を自分の喉下へと向けた。


 挿絵(By みてみん)



「ちょっ、嘘でしょ?!」


 慌てたのは、その様子を外から見ていたニコルである。

 ソフィーは震える手で、徐々にナイフを喉元へと近付けていく。


「なんて早まった真似を! くっ、どうすれば。何かソフィーを助ける方法

は……」


 自ら命を絶ったニコルが、早まるななどとは言えた義理ではないのだが、

ニコルは自分の言葉の矛盾にも気づかないくらい、焦りまくっていた。

 そうこうしている間にも、ナイフはソフィーの喉もと目掛け、ジリジリと

近付いていく。

 一気に喉を突いてしまわないのは、まだ彼女に、死ぬことへの躊躇いが、

いくらかでも残っているからなのか。

 それでも、わずな時間彼女の命が引き伸ばされているにすぎない。

 もうニコルには、手段を選んでいる余裕はなかった。


「仕方がない。ぶっつけ本番で使いたくはなかったけど、緊急事態だ」


 ガラス越し、ニコルは指をナイフへと向けた。


「間に合ってくれ」


 ニコルは言って、指先に意識を集中させる。

 ついにナイフの切っ先は、ソフィーの皮膚に潜り込み始めた。

 少女の白い首から、ツーッと、鮮やかな赤い色をした蛇が這い出して来る。

 さらに、首にまとわりついた赤い蛇は、一本、二本と、数を増やしていく。

 いよいよ覚悟を決め、ソフィーが一気に刀身を押し進めようとしたそのと

き!


「痛っ!」


 ソフィーは、悲鳴をあげ、ナイフを取り落としていた。

 彼女が庇うように右手で押えていたのは、突こうとしていた喉元ではなく、

ナイフを両手持ちしたときに一番内側にしていた左手の掌だった。

 ソフィーは、意識していなかった左手に、突然痛みが走ったので、かなり

驚いている様子。

 でも、目を瞑っていたソフィーは、自分の身にいったい何が起こったのか、

まだよく理解できていないようだ。

 瞑っていた目を開いたソフィーは、すぐに痛みの走った左の掌を確認する。

 掌は、ほんの少しだけ赤くなっていただけ。

 特段異常は見られない。

 次に彼女は、床に取り落としたナイフの行方を探した。

 ナイフは、ベッド脇に落ちていて、すぐに見つかった。

 でも、それはもはや、ナイフと呼んでよいものか。


「なによこれ……どうしたらこんな風になるの……」


 ソフィーは、ナイフの有り様を見て愕然としていた。

 ナイフの刀身は、ドロドロに溶け、原型を留めていなかったからである。

 わずかに残っている刀身も、まだ赤熱化しており、刀身に近い柄の部分に

いたっては、黒く焦げて炭化していた。

 ナイフの転がっていた床にまで、黒い焦げ跡が付いていた。

 ナイフの刀身に、何らかの手段で、かなりの高熱が加えられたのは間違い

ない。

 ソフィーが、熱さよりも先に痛みを感じたのは、ほんの一瞬のうちに、ナ

イフが高熱と化したからだろう。

 しかし、刀身が溶けるほどナイフが高熱化したのに、ソフィーの手が赤く

なった程度で済んだのは、奇跡としか言いようがない。

 まるで、ソフィーの手を傷付けまいと、誰かの意思が働いたかのようであ

った。


 誰かとは、言わずもがなニコルの意思である。

 死者の理の中に生きるニコルは、生者の世界に積極的に干渉することはで

きない。

 人から存在を認識してもらうことも、自分から誰かに触れることも、姉に

慰めの言葉をかけてやることも、現在のニコルの立場ではできないのだ。

 人間だったころに比べ、不便になったように思えるが、その代償として得

た能力もあった。

 ナイフを溶かした発火現象も、そのひとつ。

 ただしニコルの発火能力は、オカルト映画に出てくる発火現象みたいに、

ところ構わず何処でも燃やしてしまえるような便利な代物ではなかった。

 まず、見通しが良いところでなければ使えない。

 使える距離にも限界がある。

 ようするに、使用条件がとてもシビアで、使い勝手の良くない能力だった

のである。

 何より問題だったのは、ニコルがこの能力の扱いに慣れていなかったこと。

 不測の事態で、やむなくぶっつけ本番で使ったが、狙いを誤てば、対象物

以外を燃やしていた可能性だってあったのだ。

 もしもナイフではなく、姉の頭を燃やしていたらと思うと、ニコルはゾッ

としなかった。


「ふーやれやれ。もう二度とこんなこと御免だよ」


 窓越しに姉の無事を確認したニコルは、ホッと安堵の溜め息をついた。


「いったい何が起きたの?」


 ソフィーはというと、溶けたナイフを見つめたまま、まだ呆然としている。

 幸い彼女の首の傷は浅く、表層の細い血管と、真皮をわずかに傷付けた程

度。

 重要な血管は、まったく傷つけられておらず、既に血も止まっていた。

 少しのあいだ呆けていたソフィーだが、急に何か思いあたったらしく、ベ

ッドに寝かされている弟の遺体のほうへくるりと振り向いた。

 そして遺体に覆い被さるように上体を折り、弟の死に顔に、自らの顔を寄

せる。

 弟の顔を見つめる大きな瞳からは涙が滴り、再び遺体の頬を濡らした。


「あんたに何もしてあげられなかったダメなお姉ちゃんなのに、それでもま

だ、死ぬなって言うの?」


 ソフィーは、弟の亡骸に問いかける。


「そうだよね。あたしのこんな死に方、あんたが望むはずないもんね。ごめ

んねニコル……ほんとごめん……」


 ソフィーはそう言って、死んだ弟の前髪をかき上げると、額に軽くキスを

した。

 そして、既に血の気を失っている唇にも、続けてキスする。

 ニコルは、雨の打ちつけるなか、窓外からその様子をじっと見つめていた。

 辺りには、ザーザーと雨音が満ちている。

 ソフィーの心のうちを映すかのように、まだ雨は止む気配を見せない。



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