ネコは内、猫は外
奇妙な白猫に見つめられた私は昔のことを思い出していた。
小学校を卒業するまで、私は夏休みやゴールデンウィークなどの長期休暇の度におばあちゃん家に遊びに行っていた。
その頃はまだ、今のようにたくさんの猫を見かけることはなかった。漁船の帰還を知らせるカモメたちの合図を待っている10から15匹くらいが漁港に放置された廃車を根城にしているくらい。
私は退屈しなかった。おばあちゃんが動物たちとの付き合い方をあれやこれやと教えてくれたからだ。木の枝に鳥籠を設置したり、山から下りてきたタヌキに餌付けをしたり、畑仕事中にもオタマジャクシを捕まえたり、ヘビへの対処法を教えてもらったり。
そして、いつも、いつもおじいちゃんの話をする。
「全部おじいの受け売りだけれどねぇ。」
私はおじいちゃんに会ったことはないけれど、きっと似た者夫婦なのだろうと思った。
もう十年以上一人きりなのに、おばあちゃんは少しも寂しくはないように見えたから。
おじいちゃんは、独り残してしまうおばあちゃんが寂しくないように色々と残して逝ったのだ。そしてそのお陰で、愛する人のいない世の中でもおばあちゃんはとても満足していられる。
私は仲の良い『二人』を見ていて羨ましく思った。
そして小学4年生の、夏休みのある日のことだった。私は島で奇妙な体験をした。
その日、島は、そのものが『サウナ』にでもなってしまったかのように感じてしまうくらいの熱帯低気圧に襲われた。
到着そうそう豪雨や暴風が島を横殴り、島のあちこちで土砂崩れなどの被害がでた。それらが通り過ぎた翌日、太陽は鬱憤を晴らすがごとく島を焼きにかかってきた。雨水を大量に飲んだ地面からはまるで雨が空に向かって降り注がれるように、蒸気が立ち昇る。
そうなると、そこはまるで異国。景色は常に波打ち、全身から水分という水分が絞りとられる。
そんな『超』異常気象に見舞われながら、島民の誰ひとり実害を被ることはなかった。
80を越える老人連中ですら、この茹だる暑さをものともしていないようだった。すれ違う獣たちもケロリとしている。参っているのは私だけなのだ。
「毎年のことだからねえ。もう島のもんは皆慣れちまったんだろうねえ。」
私だって毎年遊びに来ているのに、私だけがくたびれているのが悔しかった。
そして、滲む景色の中からそれは現れた。
「あ。」
野良のくせに、やけに艶のある毛並みをしている点で私の目を引いた。目脂もなかったし、他の野良とケンカした痕もない。まるでラッピングを剥がしたばかりの新品のヌイグルミ。
けれど、この熱気の中では立派な毛皮を着込んだ彼女をキレイと感じることはできなかった。暑苦しかった。
ヌイグルミは微動だにせず私を見つめている。次第に幻覚じゃないかと疑ってしまう。確かめるために手を伸ばしたその時だった。
「リエちゃん!」
取り乱したおばあちゃんを見たのはその時こっきりだった。私は予期せず腕を掴まれ、目を白黒させた。
「理絵ちゃん、よぐ聞いでな。」
おばあちゃんは二度、三度、深呼吸を繰り返して乱れた呼吸を整えると、ヌイグルミに向かって恭しく一礼した。
そして、私の手を握ったまま歩き出し、いつもよりも低い声で話し始めた。
「人間は動物や植物とはお話しでぎないね。でぎないがらごそ、私だちには大切な約束事があるんだよ。」
おばあちゃんはできるだけ私が混乱しないように、余計な話をはしょって…、それでも冗談にしか聞こえない話をし始めた。
「白猫はね、人間の魂を食べぢまうんだよ。だけど悪さをしようと思ってやる訳じゃないんだよ。根っごが水を吸うのど一緒のごとなの。」
振り返るとユラユラと揺れる景色の中、ヌイグルミはヌイグルミのまま行儀よくそこにあった。
「でも私、前にも触ったことあるよ。」
「皆が皆、白猫さまじゃあないのさ。食べちまう猫さまはジッとごちらを伺ってる。私だちがどんな味なのか見でいるんだよ。」
「食べられたらどうなるの?」
「夢を一つ、捕られるんだよ。できることができなくなって。それが続けば何も考えられなぐなっで、病気になっで、起きられなくなっちゃうんだ。」
私はまた振り返る。おばあちゃんは立ち止まり、私の両頬を手で挟んで私の視線を奪い返した。
「理絵ちゃん、約束だよ。お地蔵さまみたく見てくる動物たちには触っぢゃダメだ。いいね?」
様子の違うおばあちゃんに気圧されて、私は小さく頷いた。
「追いかけてきたら?」
「猫さまはそんな乱暴なことはしないよ。」
「でも、何も知らない人を食べるって、なんだか意地が悪いね。」
「しきたりを知らないのはとても悪いことさ。だからこの島に生まれた子はなによりも先に島の決まり事を教え込むのさ。だがら、遅くなっぢまってゴメンね。」
おばあちゃんの泣き出しそうな顔を見て私は思い出した。本当は前にも注意されていたことを。私が約束を忘れていただけだったんだ。
私は心の中で「ごめんなさい」と呟く。
「おかあさんも知ってるの?」
「もちろん。紗菜も知っでいるよ。」
「そうなんだ。」呟いてみると、喉が渇いていたことを思い出し、おばあちゃんを行きつけのお店に誘った。
氷水に浸けられたラムネは暑さを忘れるくらいに冷えているはずだった。だけど、手に取った瓶の冷たさも、喉を刺す炭酸水も、とても白々しく感じられた。