インターネット時代の素敵な人間たち
未完のお話。
整理していたら出てきたのでこれを機に公開。
友情(http://ncode.syosetu.com/n3031ca/)と似たような意識で書いたはず。
インターネット時代の素敵な人間たち
1.
「どどどどど、どういうことだよ、クラウド・レディが閉鎖とか、あああ、ありえねーだろ」
ということが言いたかったのだが、ぼくの口から出たのは、
「ど、よ……く、れ、へいさ、ーっろ」
といった、すでに日本語になっていない音声だった。
クラウド・レディ。
老舗のゲーム・レビューサイトだ。
ゲームといっても、売り物のゲームではない。
インターネットからダウンロードできるフリー、つまり無料のゲームのレビューだ。
ぼくが中学生だったころ、今よりもずっとフリーゲームにはまっていたころ、よく利用させてもらっていた。
大好きだったのに。
さみしい。
とても、さみしい。
ぼくが、中学生だったころ、ぼくは、パソコン部に所属していた。
パソコンやインターネットは、小学生のころから、だいたい四年生のころからやっていた。
小学校のころは、簡単なシューティングゲームをやったり、当時、学校で流行っていた将棋関係のホームページを見ていた。
中学生くらいになると、『隊商』というオンラインゲームをやりはじめた。
はじめてチャットをやったのは、そのときだった。
『隊商』で知り合った、まったく知らない人たちと夜遅くまでチャットをした。
すごく興奮した。
失礼にならないように、チャットにおける特殊なしゃべり方や、マナーを勉強した。
ネチケットとかぶる部分もあったので、そんなに困りはしなかったが。
『隊商』にも、もちろんはまっていたのだが、『隊商』には、そんなに時間を取られなかった。
オンラインゲームは、当時、有料のものがほとんどで、ぼくには手が出せなかった。
『隊商』は無料であり、なおかつ特徴として、ネットに無制限に接続しなくてもいいという利点があった。
ログインとログアウトのときのみ、インターネットにアクセスすればよく、実際のゲームプレイにおいては、リアルタイムの事象が反映されるのではなく、ログイン時の情報が反映された。
当然、チャット機能は存在せず、オフラインのRPGに、オンライン要素を足したようなところがあった。
人によっては、オンラインゲームとは呼べないという人もいるかもしれないが、リアルタイムではないにしろ、不特定多数の人たちと協力してプレイすることからすると、ぼくは、オンラインゲームと呼んでさしつかえないと思っている。
『隊商』は、一日でやれることに、制限があるゲームであり、時間無制限でプレイできるゲームとは違っていた。
だから、ぼくは、『隊商』に取られなかった時間を、ほかのフリーゲームにあてたのだ。
そのときに、役だったのが、『クラウド・レディ』をはじめとする、フリーゲームのレビューサイトと、フリーゲームをダウンロードできる、フリーゲームサイトだった。
もちろん、自分のサイトから、ゲームをダウンロードさせることもできなくはない。
しかし、ゲームの容量の大きさや、当時の無料プロバイダのサーバー許容量などを考えると、どこかのサイトに置かせてもらうのが、一般的だったように思う。
そこで、ぼくは、毎日のようにフリーゲームを楽しんでいた。
RPGやアクションを楽しむことも、なきにしもあらずだったが、ぼくが一番やったのは、ノベルゲームだった。
音と絵のある小説。
蔑称として使われることもあるが、電子紙芝居。
ノベルゲームを短く説明すると、こういう言葉になるんじゃないか。
ただ、ぼくは、電子紙芝居は、別に蔑称ではなく、むしろおしゃれな言い方だと思っている。
だから、そのころ、ぼくが今までの人生で最も幸せだった時期のものが、消えてなくなってしまうというのが、ぼくには、なんともいえず悲しかったのだ。
今のぼくは、酒もたばこもやらない。
ものも買わない。
お金を使うことが、不自然なように思われるから。
そして、今のぼくは、もはや以前ほど、インターネットをしていない。
ぼくたちは、インターネットをあまり使わない生活に、これからは移行しなくてはならない、と言いたい気分だ。
なぜなら、インターネットは、ゆっくりと考えることを、させてくれないから。
根拠のないデマが流れているから。
ネチケットをわきまえない人がたくさんいるから。
大衆化すると、あらゆるものは陳腐になる。
だから、大衆化したインターネットは、平凡で、つまらない、あじけないものになってしまったのかもしれない。
グーグルで何かを検索すると、なにかのウィキや、2ちゃんねるのまとめサイトやアフィブログがほとんどで、ブログが出てくればいいほうで、個人サイトが検索にひっかかるのは、よほどそれなりのキーワードで検索をかけないとダメな時代になってしまった。
ぼくは、もはや、二十一世紀の最初の十年が終わったあとのインターネットに、魅力を感じない。
この陳腐化の傾向は、2007年ごろからはじまったと思う。
ミクシィとツイッターとフェイスブックとアフィリエイトブログが、それに拍車をかけ、もはや、ぼくの愛したインターネットは、影も形もない。
そこへきて、クラウド・レディの閉鎖だ。
本当に、かなしい。
もはや、ほとんど誰もアクセスしないようなインターネットの辺境で遊んだり、本当に何かが好きな人たちが、ひっそりと集っているような場所に行くなり、それくらいしか、インターネットでしたいことはない。
結局、現在のインターネットでは、創造性を、圧倒的な平凡さや陳腐さが、駆逐しているように見える。
いや、それでも、小説サイトや、ピクシブなどがあるから、それだけではないのかもしれない。
しかし、たとえば、ピクシブのランキングの上位にあがるのが、二次創作であることが多いことを考えると、やはり陳腐化しているというべきなのか。
2010年代のインターネットは、ソースを確認しようとしない愚かさと、コピーアンドペーストと、どこかの書籍やテレビの引用から、成り立っているように見える。
大衆化したインターネットは、もはや、ぼくが以前に知っていたインターネットではなくなっていた。
こと、ここにいたれば、現在の最先端の生活とは、インターネットを使わない生活なのだと思う。
それが不可能であっても、インターネットをあまり使いすぎない生活。
ぼくは、インターネットが、どんどん自分の気に入らない場所になるのを見るにつけ、ある人のことを思い出す。
ぼくは、その人を直接には知らない。
その人が言っていたことを、伝えるだれかの文章を、インターネットのどこかで見たのだ。
その人は、1980年代くらいから、インターネットを使っていた人だったはずだ。
ハンドルネームではなく、実名で研究者同士がやりとりしていたころの人だったのかもしれない。
あるいは、ニフティサーブのころだったのかも。
それは、わからない。
しかし、その人は、90年代か、00年代の時点で、「インターネットはもうだめだ」と言って、ネットの世界から離れたらしい。
だけど、ぼくは、90年代にも、00年代にも、インターネットを使っていた。
使っていて、それを楽しんでいた。
ぼくにとって、インターネットはだめじゃなかった。
だけど、その人にとってはだめだった。
だから、ぼくにとってだめな、今のインターネットも、他のだれかにとっては、全然ダメじゃないかもしれない。
昔のぼくのように、インターネットがとても楽しいところに思えているのかもしれない。
もし、そうなら、それはすばらしい。
ぼくはもう、それを失ってしまった。
しかし、楽しめるのはいいことだ。
ぼくは、もう、楽しめない。
だけれど、ぼくは、確かにインターネットを愛した。
そこにいた人たちが好きだった。
だから、ぼくは、その人たちのことを、これから書きたいと思う。
2.
車いす。
車いすに乗っていた男の子を思い出す。
車いすに乗っていて、たしか不治の病だった。
それとも、一生、歩けなかったのだったっけ。
本当のことではなかったかもしれない。
その男の子を知ったのは、インターネットを通してだったのだから。
今では、あのサイトを見たことが、夢だったのか現実だったのかさえ、どうにも判然としない。
しかし、これが空想であれ、現実であれ、僕は覚えている。
車いすに乗った男の子が、インターネットで、小説を書いて、公開していたことを。
なぜか宇宙や夜空や星のイメージが浮かんでくる。
そのサイトの壁紙だったのか。
それとも、その子の小説に、夜空や星が出てきたのか。
もう、いまいち覚えていないのだが、いつでも、そのサイトのことを思い出すと、やさしい気持ちになれる。
*
真田さん。
さなださん。
たしか、そんなハンドルネームだった。
ちゃんと活動できたのは、五年だけの、ウェブ上の知る人ぞ知る詩人、小説家。
Spring Bringerという詩が有名。
でも、もはや、話題にされることも、ほとんどない。
十二時の鐘の音 シンデレラ
希望が失われた世界
かんぺきな神さまの名前
廃墟となったショッピングセンター
なにか、こんな感じの詩や小説を書いていた。
ある夏のあつい日 もし一人でも
ぼくを愛してくれたなら
ぼくはしあわせになれる
一瞬と永遠のあいだ おどりたいのはだれのせいだ
右にあげた言葉が、ぼくは好きだった。
この人の言葉は、ぼくの想像力を刺激する。
もし、ひとりひとりの心の中に、自分だけの特別な「絵」があるとしたら。
心象風景、深層原像、なんといってもいいけれど。
ぼくは「イメージ先行」と呼んでいるけれど。
なぜか自分の心の中にある、離れない風景。
これが自分の本質だとさえ思えなくもないような、心の中にあるイメージ。
図像。
画像。
風景。
心の目で見える、心の中の景色。
もし、ひとりひとりの心の中に、自分だけの特別な「絵」があるとしたら。
きっとそれは。
いや、それはまちがいなく。
ぼくの、それは、まちがいなく、五月の青い空の下、学校の屋上だろう。
イメージ先行について思い出す。
すると、イメージ先行について話をしたときのことを思い出す。
イメージ先行について、せんぱいと話したときのことを少しだけ思い出す。
たしか、こんな感じの会話。
「なにを考えていたの?」
「自分の思考方法について。
イメージ先行。
体現どめ。
自分の思考がイメージ先行と体言止めで、できていることについて。
ぼくは目でみたもので考える。
耳できくものや、体でかんじるものは、あまり自分の思考にあがってこない。
文章もあまりあがってこない。
イメージがぱっとでてくる。
五月の青井空の下の屋上。
それから、この風。
この気持ちいい風。
さけびたくなる。
さけびたくなるほど気持ちいい。
死ぬまでにあと何度、こんないい風に出会えるだろうと思う」
きっと、もっと、どんくさくしゃべったはずだ。
とぎれとぎれに。
自分の話すことを自分で確認するように。
いや、それとも、本当に、こんな風に話したかもしれない。
熱にうかされたように。
とにかく、頭に浮かんだことを、かたっぱしからいうように。
ぼくは、論理的に話さない。
感覚的に話す。
たぶん。
ぼくにとって、言葉は論理的なものではない。
いや、ぼくはかなり確信をもっていうのだが、言葉は、すべての人にとって、そんなに論理的なものではない。
ぼくは、言葉を信用しない。
それが論理的であるという点において。
だって、言葉は、全然論理的じゃない。
論理的な言葉も、もちろん存在する。
論理的に話すこともできる。
しかし、ぼくは、言葉が論理的だとは感じられない。
感じられない。
証明の必要はない。
これは、ぼくの感覚だ。
たとえ、完璧に、言葉が論理的であると、だれかが論証したとしても、ぼくは自分の感覚のほうを信じるだろう。
ぼくは、それを感じられないのだから。
証明とは、論理的なものではなく、感覚的なものだ。
あの「わかった」がないなら、論理的に筋が通っていようが、無意味だ。
あえて、論理的な話をすれば。
言葉が論理的であると、論証しただれかが、間違っているのに、その論証した本人も、ぼく自身も、気づいていない、気づいていても、うまく言葉にすることができないために、それに反対することができないことだってある。
でも、これらすべては、どうでもいいことだ。
ぼくにとっての真実。
言葉は論理的でない。
証明は、最終的には、感覚的なものである。
しかし、そのことを、言葉をたくさんついやしておしゃべりする必要はない。
ぼくは、こういうことについて、話すたびに、自分が悪い人間になったような気がする。
論理の暴力を使う人間になったような気がする。
それが気のせいならば、人間の生命力を削っているような気がする。
そんなことはどうでもいいんだ。
そんなことより、人間のはだかの話をしよう。
せんぱい。
せんぱいは、部活のせんぱいだった。
そして、美術部でもあった。
部活のかけもちは、めずらしい。
正確には、パソコン部だった。
たまに、美術部に出入りしていた。
せんぱいは、絵を描くのが好きだった。
絵を描く仕事をしたいのだけど、そのためには、ホームページを作れるほうがいいと聞いたから、その勉強のためにパソコン部に入ったのだそうだ。
せんぱいは、海外から転校してきた。
ぼくが、せんぱいに、ウェブサイトの作り方を教えた。
簡単なHTML。
ハイパー・テキスト・メイクアップ・ラングウィッジ。
ホームページビルダーなんか使わない。
タグ打ちだ。
タグの手打ちだ。
テキストに、ちまちま打ち込むのだ。
テキストファイルを、名前を変更で、拡張子を変えて、HTMLファイルに変えるのだ。
もう、今では、ほとんどやっている人は、いないのかもしれない。
いや、きっと、細々といるはずだ。
ぼくは、そういうやり方を、HTMLファイルの作成法を、ファイルのアップロードの仕方を、ウェブサイトの作り方を、個人サイトの作り方を、教えた。
ブログも、当時は、まだなかったんじゃなかろうか。
少なくとも、一般的ではなかった。
そう、ぼくのインターネット黄金時代は、個人サイト全盛期だった。
美しいおもいで。
そう、間違いなく、美しいおもいでだ。
さわって。
せんぱいは、あるとき、そういった。
せんぱいの部屋で。
はじまりは、だれもいない部室だった。
何も考えず、机の上に出していたぼくの手に、せんぱいは、自分の手をかさねた。
ぼくは、そのうえに、ぼくのもう一方の手をかさねた。
それにたいして、せんぱいは、もう一方のせんぱいの手をかさねた。
ぼくたちは、顔をみあわせて、にっこり笑った。
それから、ぼくたちの手はさよならして、せんぱいはパソコンをシャットダウンした。
ぼくは、そのとき、すでにパソコンをシャットダウンしていた。
外、出よっさ。
せんぱいは、この地方の方言で、そういった。
方言を使う帰国子女もいる。
もちろん、そうだ。
そして方言はかわいい。
せんぱいもかわいい。
かわいい方言を使うかわいいせんぱい。
平和と調和。
幸福は、ぼくたちのすぐ近くにある。
絵を描いているんだ、とせんぱいはいった。
知っている。
絵を描いて、それを全世界に同時公開するためのウェブサイトを作る。
それがせんぱいの目的なんでしょう?
最近、人の絵を描いてるの。
女の子は、だいたい描けたの。
わたしが女だから。
ね、モデルになってよ。
ぼくは、せんぱいの部屋に行き、モデルになった。
はだかになって。
ぼくは、全然、性的に興奮しなかった。
はだかが、性的なものだと、ぼくは思わない。
はだかになって、絵を描いて、服を着て、そこでせんぱいは、いった。
さわって。
せんぱいは、心臓を指さしていた。
ぼくは、心臓の上をさわった。
どきりどきりと音がなる。
生きている。
せんぱいも、ぼくの心臓の上をさわる。
もし、だれかが、これを変だというのなら、それはその人が、ぼくたちのことを理解していないということだ。
3.
せんぱいのおねえさんに会ったことがある。
すごく女の子女の子したかっこうをしていた。
すごくかわいらしい服装だった。
しかし、おねえさんは、たばこを吸う人だった。
どこでその話をしたのか、いまいち思い出せない。
せんぱいの家だった気がする。
おねえさんが、ライターをいじっているのを見たのだ。
そこから、たばこの話になった。
「意外?」
おどろいた顔をしていたのかな。
そんな声をかけられた。
「少しだけ。でも、ぼくの勝手なイメージだから、全然いいと思います」
にっこりと笑う。
「他人が持つイメージは、本人の実像とあわないことだって多いよね」
おねえさんは、どこかの大学に、そのとき在籍していたように思うが、友だちのきょうだいのことを、ぼくはあまり覚えていないから、これは、もしかしたらまちがいなのかもしれない。
しかし、大学教育を受けたことがあるのは事実だ。
ドイツ語では、大学を卒業して学位を持っている人間のことを、「あかでみかー」というのだ、とそのとき言っていたのを覚えている。
話の本筋には関係ない、どうでもいいようなことが、何年も何年も忘れられず、自分の知識の一部分になってしまうということは、ぼくにかぎらず、けっこうあるんじゃないだろうか。
おねえさんは、大学教育を批判していた。
たとえば、こんな感じだったはずだ。
臨床心理学のひどいところは、「あなたは心の病気です」というところだ。
傷つくじゃないか。
わたしはわたしなりにふつうに生きているのに。
もちろん、心が傷ついているときには休んでいいのだし、それは悪いことではない、とぼくは思うし、おねえさんも思っていただろう。
そういうことじゃないのだ、せんぱいのおねえさんが言っていたのは。
正確になんといったかは、録音なんてしていないから、わからないけど。
病気だと診断して休んでもらうのが悪いことではない。
つらいときには、やすんでいいし、やすむべきだし、だれにもそのことでせめられるべきではないだろう。
そういうことではなくて、まるで社会の異端分子のようにして始末するかのようなあり方が、気に入らないというか。
むしろ、病気だといっている正常を自認するあなたがたはどうなのか。
ふつうなんて、一番数が多い異常なんじゃないか。
つらい人がつらくないようにするのは、とても大事なことだけれど、病気とすることで、社会からつまはじきになるのなら、それはやっぱりよくないんじゃないか。
そういうことを言いたかったのかなあとぼくは思っている。
思っているが、これはぼくの解釈であって、おねえさんの思いとは違うかもしれない。
おねえさんが言ったことで、頭に残っているのは、臨床心理学のひどいところは、「あなたは心の病気です」というところだ、というセリフだ。
解釈をいれると、なにか変な意味になってしまうような気がする。
あのとき、おねえさんと一緒にしゃべっていたぼくは、言葉では伝わらない雰囲気とか、声の調子とか、なにかそういうもので、それが、「精神病は甘えだ」式のことを言っていたわけでないことくらいはわかる。
おねえさんが、心が傷ついている人に対して、助けなきゃと思っていたことは確かだ。
だから、これは、精神病と診断された人に対して言われたものではなく、臨床心理学というものに対して、言われたものなのだ。
ああ、思い出した。
たしか、心の病気だということで、劣っているとか、壊れているとか、そういうことを示しているようなのが、ひどいじゃないかと言っていたのだ。
がんばって生きているのに、ひどいじゃないか、と。
心の病気じゃない人が、まるで心の病気と診断された人よりも「えらい」かのような風潮を作り出しているようなところが、気に入らないのだと、そんなことを言っていた。
たとえば、また、こういうこともあった。計量社会学のひどいところは、「なんとかの属性を持つ人は、なんとかの傾向があります」ということだ。
年収の低い親を持つと、子供の学歴が低くなる傾向があります。
もし、親の年収が低くて、自分の学歴も低い人がそれを聞いたらどう思う? そういうこと考えたことある?
実際に、社会学の教授から聞いた話だけど、社会学は社会をよくしようなんて思っていないんだって。
ただ分析するだけ。
実験動物をあつかうみたいに、分析するだけ。
それって情がないんじゃない?
優しくないし、愛がない。
たとえば、こんな話。
大学生の70%は、学生生活に満足しています。また、満足している人ほど、就職率も高いです。
とかいったりする。
事実というより、統計によりはじきだされた傾向。
仮に事実だとして、救いなんて何も言わない。
学歴が低いんですけど、なんとかなりませんか? それは想定されていない質問。
ただ傷つけているだけで、無意味だ。
まるでたちの悪いうらないのようだ。
こういう人は不幸になります。おまもりを売りつけないだけ良心的だろうか?
統計は傾向について語る。
傾向。例外については話さないし話せない。傾向を話すだけ。でも傾向ってなに?
そんなものは存在するの?
国とか貨幣みたいなレベルの存在であって、机や右手のレベルの存在ではないのでは。
P値、両側検定、片側検定、カイ二乗検定、z値、偏差値、標準偏差、帰無仮説、5%水準で有意、1%水準で有意。専門用語で表現される統計技法を用いて、ひとりひとりが数字に変換されて、統計処理され、「傾向」があらわれる。
あらかじめ設定させた答えに、すべての気持ちが回収される。
「そう思う・ややそう思う・あまりそう思わない・そう思わない」式の枠にはめこむ解答欄。
そう思うんだけどそれにはちょっとした留保条件があって……。
はい、わかりました、そう思うんですね。
これは血の通った人間同士のあたたかい会話ではない。
アンケートを出す人間は、あらかじめ答えを用意している。
罠。これは罠だ。
言葉にならないものは、抜け落ちていく。
言葉で説明できないものはないものとしてあつかうかのように。
ことばにならないこころへの、むごいやりかた。
統計の中では、人は人ですらなくなり、集合となって分析される。
パーセンテージで区切られる、一人一人の人間。
それはもはや人間扱いされていない。
ひとりひとりの顔は消えて、数字の羅列があらわれる。
冷たい。
個別事情は、すべて集合に埋もれる。
まるでマスゲームのように気持ち悪い。
ぼくは、マスゲームが嫌いだ、そこには自由がないように見えるから。
だれかの命令で整然と動く人たち。
そこには、魂の自由が感じられない。
奴隷の美しい行進。(いや、ほんとうは美しくなんかない、吐き気がするほどみにくい)
ぼくは耐えられない。
いつも、マスゲームがテレビに映るたびに、チャンネルを変えたり、テレビを消したり、その場から離れたりする。
人間の自由な精神に対する侮辱。
ぼくは、ほんとうに、耐えられない。
今でもだ。
ほかにも、おねえさんは、大学に関係するいろいろなことを批判した。
社会科学は技法だけ自然科学をマネしているが、再現性がないので、サイエンスの名には値しないとか。
大学の教授陣の人格は尊敬に値しないので、先生とは呼べないとか。
大学では幸せになる研究をしていると思ったのに、幸せになる研究をしていなくて、本当に失望したとか。
おねえさんは、そのあと、大学の教える側の人たちは批判することを教えるけれど、私は肯定することのほうがずっと大事だと思うよ、と言った。
さっきまでさんざん批判しておいてなんだけどね。
でも、ぼくはおねえさんのつらい気持ちを聞くのも大事だと思ったので、別にさんざん批判したあと、そういうことを聞いても、なんとも思わなかった。
なんで、批判するより肯定するのが大事だって、おねえさんは言ってたんだっけ。
たしか、そっちのほうが、幸せになれるというような話だった気がするけれど。
もしかしたら、記憶違いかもしれない。
あとで、おねえさんの大学批判が、自分にも実感として理解できたことがあった。
それは、哲学について、なにか話があったときの話だった。
ぼくは、哲学が好きだった。
でも、どうやら、大学では、哲学者の思想の研究をしているようだった。
ぼくは、そういうことには興味がなかった。
ぼくは、おねえさんと同じように、どうすれば幸せになれるんだろうとか、どうやって生きていこうかとか、そういうことを考えていた。
個人的な幸せ。
個人的な道徳。
結局のところ、ぼくたちは、あまり普遍性に興味がなかった。
ぼくの人生。
わたしの人生。
固有の人生。
固有性に興味があったのであって、普遍性に興味はなかった。
昔の哲学者が何を言ったかが、決定的に自分に重要になることもあるのかもしれない。
しかし、まずは自分で考えることが最重要だと思った。
ぼくが、今、どう考えるか。
それは、たぶん哲学と呼んでさしつかえないのだと、ぼくは思うけれど。
それは、授業料を払って学ぶものではないようだった。
それがいいことなのかわるいことなのか、いまでもぼくは判断がつかない。
そういえば、ある日、おねえさんは、数学について、面白いことをいっていた。
数学は、漢学的なものだと思う、といったのだ。
少なくとも、多くの人が思っているほど、理性的なものではないんじゃないかな、と。
ビー玉を、左から右へならべていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
いち、に、さん。
声を出して、ぼくに教える。
それから、あたらしいビー玉を取り出す。
ひとつのビー玉と、もうひとつのビー玉を出す。
いちたすいちは、に。
そして、みっつならんだビー玉の下に置く。
「でも、なぜか、こう感じるのが自然な人がいたら、どうだろう?」
いちたすいち。
そういって、ふたつのビー玉を、新しく取り出す。
は。
わ、の発音のときに、もう一個取り出す。
さん。
いちたすいちは、さん。
「どういう理屈だかわからないけど、足し算のときには、並べたときとはちがって、もういっこたす、のが自然だと考える人がいたら、そのひとにとって、いちたすいちは、さん」
なんじゃない?
この話を聞いてから、ぼくは、そういう人間が、実際にいるのかどうか、たまに考えるようになってしまった。
もし、そういう人間がいるのなら、宇宙人とは数字でコミュニケーションはとれないかもしれない。
現実にいる人間、ということでいえば、神童、という存在が、数字に関しては、特殊能力を持っているらしいと聞いた。
そういう子は、場合によっては大人になってからもだけれど、ありえない速度で計算できたり、素数が一瞬でわかったりするらしい。
これは、理論や計算とは、たぶん違うなにかだ。
数学は感覚的なものだ、という、おねえさんの言葉を聞くたびに、この話を思い出す。
ぼくの思い出には、風景が希薄な思い出がある。
まったく思い出せないわけじゃないけれど、ぼくの心に、言葉が大きく残って、風景がほとんど消えているようなことがある。
逆に、風景が残っていて、言葉が消えていることも。
そして、どちらも残っていることもある。
考える。
これは、同じことなのか?
風景が残る、と、言葉が残る、は、なにか違うような気がする。
しかし、これは、ぼくの気のせいかもしれない。
ぼくが昔のことを思い出すと、風景のことがよく思い出せなくて、昔、考えていたことが思い出されることがある。
でも、これは、昔の遠足を思い出しているのではないのかもしれない。
昔の思考を思い出す。
これは、昔あった出来事を思い出すのとは、違う「思い出す」なのかも。
でも、それってそんなに大事な違いではないように思う。
少なくとも、今、この段階では。
4.
ブログ、ウェブサイト、ツイッター、SNS。
文字がたくさんで、画像も映像もたくさんで、ぼくは混乱してしまう、くらくらする。
頭が。
ぼくの考えが消えて、それらの考えにぬりつぶされてしまう、みたいな。
国語。
国語の文章でも、そういうのがあった。
現代文、つまり、評論や小説などの中に、きどったような、鼻につくような文章があって、ぼくはもう読めなくなってしまう。
しんどいのだ。
どうしてこんなにむずかしく書くのだろう。
こんな難しい言葉に意味なんてあるのか。
これは中身がないものや、ぼくにとって価値のないものを、むずかしく書いて、すばらしいものに偽装しているだけじゃないのか。
どうして、この言葉を選ぶのか。
それはあまり美しく思えない。
荘厳な宮殿のような文章に押しつぶされそうになる。
グローバリゼーションの進展により我々は西欧近代資本主義の末期的症状を、うんぬん。
意味がわからないわけじゃない。
そういうことじゃない。
でも、読むと吐き気がするようなときもあって、ぼくは、ある型の文章がよめなくなることがあったのだ。
それはたとえば、自分の嫌いな音楽を聞くような。
それはたとえば、自分の嫌いな絵を見るようなものだ。
目をそむけたくなるような絵、これ以上は聞きたくない音楽、そういう絵や音楽を知っているなら、ぼくの言っていることがわかると思う、たとえ文章で同じ経験をしていなくても。
その絵から目をそらすように、ぼくはその文章を読みたくない、読むのがつらい。
ぼくの精神に障る。
ブログかなにかで、いろいろな言葉がはきだされていた。
そんなとき、どうしていいのか、わからなくなって、とほうにくれることがあった。
つらいとブログでいっている人がいて、ぼくはその人たちを助けられないのが、かなしかった。
認識領域の、(たぶん不健康なほどの)拡大。
見えるけれど、手が出せない。
あるときふと思ったのだけど、人が認識できるのは、視界におさまるところだけで、二十一世紀の日本だと、それはだいたい半径三十メートルくらいだと思う。
もしだだっぴろい平野と、すばらしい視力があったら、半径数キロメートルになるだろうけど。
しかし、半径三十メートル以上のことを、新聞、テレビ、インターネットによって知ることができる。
そこに書かれてある、悲しい話。
ぼくは、無力感を感じる。
自分が、そのかわいそうな人たちにたいして、なにもできないことを、残念に思い、つらい。
かわいそうというのは失礼だ、という言葉を、どこかで聞いたことがある。
それはきっと、アニメとか小説とかで聞いたことがあるんだと思う。
現実に、かわいそうだといわれたくない、という人にはあったことがない。
そして、ぼく自身は、かわいそうだといわれたい。
こまっているとき、つらいときには、かわいそうだと言われたい。
同情はうれしい。
本当につらいときは、つらいよねって言ってくれたほうがいい。
別につらくないときに、かわいそうだと言われたら、ちょっと混乱してしまうけど。
かわいそうだと自分のことを心のどこかで思っているとき、ほかのだれかにもかわいそうだと思ってほしい。
感覚の共有。
かわいそうって言って。だって、ぼくはかわいそうだから。
精神の混乱。
インターネットと、国語の試験の文章によってひきおこされるタイプの混乱。
そういうとき、ぼくは数学をした。
数学は閉じている体系に思えた。
おねえさんのいうとおり、数学が感覚的なものなら、ぼくだけの世界で閉じている、ぼくだけで成り立つ世界に見えた。
ぼくの外は関係ない、ぼくだけがいれば、きちんと成り立つ世界。
そこには感情がなく、そこには明確なルールがある。
心うごかされることなく、数式を解いていくことが、解けないときは答えを見ながら解いていくことが、ぼくの精神安定剤がわりになった。
精神が不安定なとき、フリーゲームをやるのは、悪くない考えだ。
インターネットの中には、無料でできるゲームがたくさんある。
昔から、ぼくのお気に入りは、ノベルゲームだった。
物語を読むことが好きだったから、RPGやシューティングゲームや、格闘ゲームよりも、自分のはだにあっていたのかもしれない。
もちろん、フリーだから、有料のものよりも見劣りするところもたくさんあった。
でも、それでよかった。
ぼくは、文章をノベルゲームの要素の中で、いちばん大切にしていたし、しろうとの文章には、しろうとのよさがあった。
(それは図書館や本屋さんにはないタイプの文章だったかもしれない。
アール・ブリュット。
アウトサイダー・アート。
に、少しだけ近いかもしれない。
そんなものとは、ぜんぜん違うものかもしれないけど。
ところで、似ているって、どうやってぼくたちは認識するのだろう? ふと思いついただけなんだけど)
しろうとの世界には、平等があった。
そのゲームを作っている人たちは、殿上人ではなくて、作家センセイといわれる人たちでもなくて、ぼくたちと同じ「フツーの人」なのだという感覚。
実のところ、ふりーげむであっても、ゲームを完成させるのはなかなか難しく、そのときぼくが思っていたほど「フツー」のことではないと、のちに自分でフリーゲームを作ろうとしたときにぼくは理解するのだけど、そのときのぼくには、全然わからなかった。
でも、それでも、商業ほど作り手と読み手が別れているわけではないのはたしかだし、そこがぼくは、大好きだった。
大好き。
あたたかみを感じた。
インターネットでゲームを無料で作っている人たちは、なにかいい意味で「がんばっている」と思ったし、かがやいていた。
難しい言葉を使うのを許してもらえるなら、「崇高」で「高貴」な感じがした。
そして、フリーゲームをプレイしたら、感想を言い合ったりする。製作者に直接。「ここがよかったです」「ありがとうございます」などなど。
こじんまりとした、あたたかな幸福。
5.
インターネットで、エスペラント語を勉強したことがあった。
これも楽しかった。
幸福な時間。
エスペラント語とは、すべての人に平等な第二言語として作られた人工言語だ。
つまり、おのおのは、自分の母語を持つ。
しかし、おたがいの意志疎通のために、簡単に学べる言語があったらいいな。
ないなら作ってしまおう。
ということでできた言語だ。
もちろん、完全な平等というのは難しく、使っている文字がラテン文字だとか、語彙の収集先にかたよりがあるとかはある。
しかし、ヨーロッパの人間でも、勉強しなければ話せない言葉であるし、議論ができるレベルにまで語学力を上昇させる労力が低いことも、また確かなようだのだ。
だから、惹かれた。
人工言語というのがまずかっこいいし、相互理解とか世界平和とかのために作られたのがかっこよかった。
なんだか、ロマンを感じてしまった。
しかし、ぼくは、いまだに、エスペラント語を使いこなせていない。
それは、ひとことでいってしまえば、勉強不足なんだろう。
いくら簡単だといっても、ひととおり練習問題を解いただけでは、マスターすることはできないのだろう。
でも、このまえひさしぶりにエスペラント語を見てみたら、まったくわからないわけではなく、ところどころわかる単語があったのにはおどろいた。
数年来使っていなくてもわかるところはわかる。
前に、どこかでロシア語学者がいっていたように思うが、外国語を勉強しては三日坊主でやめて、勉強してはやめてを繰り返すうちに、そのうちのいくつかは、いつかものになるという話をしていた。
もちろん、一気に勉強するのが一番いいのだが、それが無理でも、うすくうすく積み重ねることで、どこかにいけるという話は、ほんとうに心があたたまる。
うすくうすく積み重ねる。蓄積。
ぼくは、この積み重ねというものを、あまり信じられなくなるときがある。
ぼくは、英語がわりと好きだったのだけど、しばらくやっていないうちに、英語が昔ほどできなくなっていたと気付いたとき。
昔わかった数学の問題が解けなくなっていたことに気づいたとき。
自分の体力が落ちていると気付いたとき。
RPGであげたはずのステータスが落ちていたかのような衝撃。
衝撃というか、無力感。
積み重ね、蓄積なんて、この現実では存在しないのではないか?
使うものだけが成長し、使わないものは衰える。
しかし、衰えている能力でも、使っていかないとますます衰えるとしたら。
そうしたら蓄積なんてものはなくなってしまうのではないかと思ったのだ。
それに、この能力では役に立たないといわれても、役に立たないといわれたままなら、そのままひたすら落ちていくだけなのではないかという絶望もある。
どこかで、能力をみがいておかないと、さびついてしまうというのは、心冷える話である。
だから、つみかさねが意味を持つのだという話、つみかさねたことが無駄にはならないという話は、とてもうれしい。
一度やったことは、二度目にやるとき、最初にやったときより、きっとうまくやれる。
そういうものなのだろう。
そういえば、エスペラント語の文法は、けっこう覚えやすくて好きなのだが(冠詞も使いたくなければ使わなくていいというのはとてもよい)、性別を区別するのがよくないところだと思っていたのだけれど、それをより性的に平等にしようという「riismo」という運動があるらしい。
ぼくは、また、エスペラント語をやってみようかと思っている。
今度は、本を使って。
インターネットは万能ではないのだから。
でも、インターネットがあることで、できるようになったこともあるし、エスペラント語が学びやすくなったのも、たしかなことだろう。
ただ、基礎は本でやろうと、ぼくは思っているだけで。
ファンタジー小説を、書こうと思った時期がある。
それは、一番ネットにはまっていた中学生のころのことで、エスペラントもこのころにはじめて知った。
ファンタジー小説を書こうと思った理由は簡単だ。
一番好きだったから。
物語のジャンル分けで、一番好きだった。
やっぱり、現実ばなれしているのがいい、とぼくは思っていた。
世の中には、なんでフィクションが面白いのかわからない、だってうそじゃないか、という人がいる。ぼくは会ったことがある。
ぼくは、ノンフィクションはつまらないと思うたちで、その理由は、それが現実のことを書いているからなのだった。
ここには、根本的な価値観だか感性だかものの見方だかの違いがある。
現実じゃないから価値がない。
現実じゃないからこそ面白い。
ぼくは、現実じゃないからこそ面白いと思っているし、現実じゃないものを空想することで、現実だって変えていけると思っているふしがある。
今、目の前にあることと、昔あったものごとを、現実という人が多いかもしれない。
でも、今、目の前でおこりそうになっていることや、これから起こりそうなこと、今あたまのなかで空想したことだって、立派に現実なのだと思う。
ともかく、身の回りの世界ではない、ここではないどこかに、ぼくはとてもわくわくしていた。
そして、そのわくわくを一番くれるのが、ファンタジーだった。
地理は、あまり好きではなかったのに、なぜか空想の地図だけは、よく覚えることができた。
ファンタジーの本の表紙をめくると、そこにあらわれる架空の地図。
本の中で、主人公たちが、ここを冒険するんだと思うと、とてもわくわくした。
今でも、架空の地図は大好き。
そういうわけで、ぼくは自分が大好きなファンタジーを書こうと思ったのだった。
ちょうど、そのころは、ネット小説の投稿サイトが流行っていた。
パラダイスとか。
ファンタジー小説だったら、自分たちが登場人物になりきるようなサイトもあった。
しかし、書けなかった。
つまり、自分の力で完成させることができなかった。
一話か二話くらい書いて、どうやって続ければいいのかわからなくなって途方にくれた。
ぼくは、そのネット小説を、部活で作っていたウェブサイトに載せていた。
ちょうどそのサイトのカウンターのキリ番を、友だちがとった。
キリ番って、わかるだろうか。
カウンターがキリのいい数字になったら、おめでとうと言ってもらえたり、掲示板で報告したり、なにかプレゼントがもらえたりするという、個人サイト全盛期の風習のひとつだ。
中には、キリ番を踏んだら(そう、キリ番は踏む、という表現なのだ)、絶対報告してください、踏み逃げはダメです、というようなサイトもあって、ぼくは、でもカウンターを見ない、たまたまたどりついた人にはどうしようもないよなあ、気づいていないんだから、と思っていた。
気づかないといったら、そもそも、その踏み逃げ禁止の言葉を読まない人だっているんじゃないだろうか、なんてのも思ったりした。
そう、それで、そのキリ番を取った、上坂くんという友だちが、続きを書いてくれ、と言ってくれたのだ。
だから、無理やり続きを書いて、終わらせた。
ファンタジーって難しいんだなあと本当に思った。
ぼくは、そのあと、滝本竜彦さんの「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」に影響を受けて、「あ、こんな風に自分の考えたことを書いてもいいんだ」と思えるようになってから、物語を完成させることができるようになった。
できあがったそれは、ファンタジーとは違うものだったけれども。
というか、正直にいえば、どうジャンル分けしていいのか、自分でもよくわからなかったのだけれど。
小説といえば、小説家には、大学を中退した人間と自殺した人間が多いと思う。
少なくとも、国語の資料集を見る限り、それは正しい。
大学中退、自殺、の文字は、国語の資料集をひもといてみれば、すぐに出てくる。
きっと、大学には、小説家の素質があるものを耐えられなくするなにかがあるのだと思う。
おねえさんは、だったら、小説家の素質があるのかもしれない。
大人はみんな大学が楽しいというが、きっと、資料集に出てきた小説家の一部と、おねえさんにとっては、そんなのうそっぱちなんだろうから。
自殺はなぜなのだろう。
きっと、この世界には、小説家の素質をもつものを耐えられなくさせるなにかがあるのだろう。
あるいは、耐えられないと思う、その感受性こそが、小説家の素質なのかもしれない。
ところで、小説家と小説の関係には、対立するふたつの考えがあるように思える。
ひとつは、作者と作品は別なので、作者がどんな人間であろうと、作品は作品として見るという考え。
もうひとつは、作者と作品は分けることができるようなものではないので、作品を見るときは、その作者がどんな人であったのかということをふまえて見るという考え。
ぼくは、どちらかといえば、後者の考えに近い。
作品は結果でしかない。
作者が重要であり、作品とは、作者が世界につけたひっかき傷のようなものだ。
だから、作者がひどい人格であるならば、それだけ作品の評価もさがる。
そういう考えは、作品そのものの面白さをないがしろにする考えだと思えるかもしれない。
それはあながち間違っていないとぼくも思う。
しかし、ぼくは、人間にとって一番大事なのは、本人の徳であって、本人の作り出したものがいかにすばらしくとも、それでは本末転倒ではないかという気がする。
ぼくは、徳のある人間になりたい。
画家のゴッホ。
ぼくは、あの人の生き方は割と好きだ。
だけど、実は絵はあまり好きじゃない。
どこが好きか。
がんばってがんばって、生きているうちには、何一つすばらしい結果を得ることができず死んでいったにも関わらず、手紙を見ると絶望していないところ。
ゴッホのことを考えるたびに、自分にふりかかっている不幸は、あまり大したことないんじゃないかという気がしてくる。
結局、ゴッホは自殺してしまったのだから、最終的には絶望したのかもしれない。
だけど、ぼくはこう思う。
ゴッホの中にあった自殺衝動のようなものが、ある程度の時間、生存よ級を上回ってしまったのだ、と。
もし、もっと短い時間しか、自殺衝動が続かなかったなら、きっとゴッホは生きていただろうと思う。
ただ、ゴッホにも気に入らないところがあって、それは、娼婦を買っていたらしいということだ。
娼婦と結婚するのは別に問題じゃない。
娼婦を買ったことがかっこわるいと言っている。
しかし、これもネットで見た話なのだ。
ネットには、うそも本当もある。
本当にゴッホが娼婦を買ったのかの信頼できる証拠を、ぼくはまだ見つけていない。
でも、ゴッホが耳を切ったあと、なじみの娼婦に送ったという記述が本にあるところを見ると、やはり娼婦を買っていたのだろうと思える。
画家といえば、そこまで生涯を知らないので、純粋に絵の好みになるけれど、カンディンスキーがぼくは好きだ。
自分が、抽象画を好きになれるなんて思いもしなかったので、びっくりしたが、たしかに、ぼくはカンディンスキーが好きだ。
インターネットがある今は、画像検索すれば、有名どころの絵はすぐに見ることができる。ぼくがいいと思ったのは、「composition VIII」だ。
理屈はわからない。でも、いい、と思った。
ちょっと本を読むと、そういう風に、理屈はわからないけどいいと思えるようなものをかきたかったらしいので、作者の目論見どおりといったところだろうか。
同じ抽象画でも、モンドリアンよりも、カンディンスキーのほうが、ぼくはずっと好きだ。
友だちは、モンドリアンのほうが好きだと言っていた。
あとは、ベルト・モリゾが好き。象徴主義の作家たちが好き。たとえばハインリッヒ・フォーゲラー。フェルナン・クノップフ。エドワード・ロバート・ヒューズ。クプカ。シュワーベの百合の聖母子。イヴリン・ド・モーガンの月の女神。ジョージ・フレデリック・ワッツの希望。などなど。
漫画やアニメの絵も好きなのがある。
美しいものが見られるというのは、幸せだ。
インターネットでは、中学生のころ、同級生とメールのやりとりをしたりしていた。
そこで、たまに「呪いのメール」を送ってくる人がいた。
昔、はやったといわれる「不幸の手紙」の電子メール版だ。
不幸の手紙、ご存じだろうか。「この手紙を何人に送らないと、あなたは不幸になります」式の文言が書かれた手紙らしい。
ぼくは一度も、もらったことがないのだけれど、「呪いのメール」とは似たようなものだ。
つまり、「このメールを何人にまわさないと、あなたに不幸が訪れます」式の文言が書いてあるのである。
その友だちは、それが怖くて、それを送っていたらしい。
それは迷惑メールだからやめろといったような気もする。
しかし、結局、送り続けていたはずだ。
でも、もらっても、ぼくは気にしなかったので、メールボックスのゴミ箱に直行させていた。
おもえば、あのころは、アウトルック・エクスプレス(Outlook Express)がメールの主流だったはずだ。
グーグルのメールサービスはまだなかったか、あまりつかっている人がいなかった。
ホットメールやヤフーメールを使っている人もいたけれど、ふつうにプロバイダと契約して手に入れたメールアドレスを使っている人も多かった。
うちの地域では、ケーブルテレビの加入率が高く、ケーブルテレビがプロバイダも兼ねている例が多かった気がする。
メールといえば、自分が送る側になってしまったこともある。
たしか、くまみたいなアイコンが、あるフォルダの中にあるなら、それはウイルスだから消さなくてはならないというものだった。
実は、それはふつうの、何の害もないファイルで、それは嘘のメールだったのだ。
それを友だちの上坂くんから指摘されて、ぼくは、大変あわてたものだ。
思い出しても恥ずかしい。
他人にまちがいを指摘されるのは、はずかしい。
ごめんね、と言えばいいんだろうけど、なかなか言えないときもある。
ゆっくり頭で考えればわかることが、心ではわからない。
ぼくはどうしても、自己保身を一番に考えてしまうくせがある気がする。
そういうところが、自分の信用ならないところだ。
あのころ、出していたメールを、数年後くらいに読み返す機会があって、ぼくは、すごく赤面したのを覚えている。
顔に血がのぼって、すっごくほっぺたが熱くなった。
独特の気恥ずかしさがある。
別に変なことは書いていないのに。
恥ずかしいということは、とても真剣だったのだ。
あのころは、とてもさみしかった。
中学生のころが、一番、ぼくはさみしさを感じていたと思う。
人間に、さみしさの限界というものがあるのなら、もう少しで、その限界を突破するところだったと思う。
あまりのさみしさに、少しおかしくなっていたところもあったように思う。
でも、その狂気が、ぼくは今でも好きだ。
それほど追い詰められていたことによる、独特の真剣さが、ぼくは好きだ。
追い詰められたいわけでは、もちろんないけれど、あのときの真剣さが、ぼくの胸を熱くする。
さみしいといったけれど、ぼくの考えでは、ひとりぼっちはさみしくない。
だれか好きな人と別れるのがさみしいのだ。
あたたかいだれかが消え去ったあのつめたさがさびしさなら、なんの温度変化もない状態は、さびしさをもたらさない。
だけど、長いことひとりでいると、頭がおかしくはなってくるかもしれない。
さみしさとは、また別のなにか。
ゆっくりと、精神が、けずられていくような。
だれか来てほしいという思いがさみしさなら、あれはなんといえばいいんだろう。
ひたすらに憂鬱な気分をもたらすあれを、ぼくは孤独やさみしさとは呼ばない。
ぼくは、自分がつらいと認識するのが苦手だ。
気づいたときには、たいてい、体のほうに何か不調が出ていることが多い。
我慢しすぎる。
もっと、自分にやさしくなりたい。
中学校の夏休みは、ぼくにとっては、さみしさとの戦いだった。
ぼくは、中学校が幸せだったので、夏休みはあまり好きじゃなかった。
好きなみんなに会えないから。
だから、とてもさみしかった。
そして、なぜだか、夏休みの途中で、死の恐怖に襲われた。
自分の記憶や感情がなくなって、もう目が覚めないんじゃないか、その無を想像して怖くなった。
その怖さが、意識のある間、ずっと続いた。
それは、あまりにも苦痛な意識状態。
あとで、精神科に行ったときは、病気だとは診断されなかった。
神経症の境界例ですね、と、ぼくは言われた。
病気でないのはよろこばしいのかもしれない。しかし、ぼくはつらいままだ。
その恐怖に耐えるだけの時期もあったが、しばらくのちに、ぼくは対応策をいくつか編み出した。
たとえば、瞑想をするとか。
瞑想は、自分の意識を、呼吸や思考そのものに向けるので、自分の考えにのみこまれるのが防げる。
これは、助かった。
あとは、科学的な死後存続についての文献を読んだ。
どうしても、宗教は救いにならなかった。
ひたすら信じなさいばかりで、説得力がなかった。
インターネットで、いろいろ調べた。
納得できるものもあり、全然納得できないものもあった。
その中で、一番納得がいったものが、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりに関する研究と、マイケル・セイボムなどの臨死体験に関する研究、さらに、臨終時幻覚や霊姿の研究だ、
これは、とても自分の精神を安定させるのに役に立った。
笠原敏雄さんという人が、死後存続に関する本の翻訳をたくさんしているのだが、その人の書いた本も、精神を安定させるのに助けになった。
インターネットは、中学のころに一番はまっていたような記憶がある。
そのときに使っていたOSが、ウィンドウズのMEで、だから、ぼくはMEが一番好きなOSなのだ。
よくフリーズするのも、そんなに気にならなかった。
一番、インターネットにはまっていたのは、中学生のころだったけれど、はじめてふれたのは、小学生のころだったはずだ。
記憶があいまいなのだけれど、小学校四年生のころには、もうインターネットに足を踏み入れていたんじゃなかったかな。
そのときは、ウィンドウズの98を使っていたはずだ。
ぼくは、ウィンドウズ95も、見た記憶はあるのだけど、まともに扱った記憶はない。
そのころ、あまりまわりにパソコンを持っている人間はいなかったから、うちの父は、そういうことに鼻が利く人間だったのだなあと思っている。
そういえば、小学生のころから、JAVAスクリプトで構成された、『隊商』を作ったのと同じサイトが提供していたブラウザゲームをやっていた記憶がある。
小学生のころは、ブラウザゲームがはやっていたのだ、インターネットの中で。
あれはなかなか面白かった。
レベルのすごく高いものもあって、びっくりすることしきりだった。
十年ぶりくらいにのぞいたら、昔はなかったように思う、ゲームを途中で中断しても続けられるセーブ機能がついていた。
そんなセーブ機能はふつうついているんじゃないかと思うかもしれない。
しかし、ぼくの記憶があっているなら、ブラウザを閉じるとセーブデータが消えるうえに、セーブスロットはひとつしかないというゲームだったはずだ。
とても難易度が高くサイトのランクで殿堂入りしているゲームがあって、妖精が主人公のやつなのだけれど、それを十年ぶりくらいにクリアしたときは達成感があった。
本当に達成感があった。
小学生のころのインターネットは、フラッシュ全盛期だったんじゃないか、と思う。
ネットのはやりなんて、ぼくはそのころ、全然わからなかったし、そもそも、インターネットは、興味関心によってすみわけができているところがあるので、はやりなんてものが意味をもつのかもわからない。
しかし、フラッシュが一番「熱かった」とされている時代を、ぼくは少しだけかすめたはずなのだ。
だって、フラッシュなんて知らなかったこどもでも、「おもしろフラッシュ動画」的なものにアクセスできたのだから。
あのころ、学校で将棋がはやっていて、将棋関連のページを見ていたのを思い出す。
あのころの、個人サイトの手作り感、とても好きなのだ。
自分で作りましたというあの感じが。
あのころは、ちょうど、テキストサイト全盛期ともかぶっていたのかもしれない。
ぼくは、ほとんどテキストサイトを見なかったけれども、それでも、風のうわさでその面白さは聞こえてきたし、あとで実際にアクセスしたサイトもあった。
あの手作り感は、まさにあの時代ならではだな、と思う。
そして、ぼくは、いろいろ問題はあの頃だってあったのだけど、あの頃が一番好きなのだと思う。
だけど、昔はよかった、なんていう大人にはなりたくないと思っていたので、本当にくやしい。
結局、ぼくは、あのころのインターネットに、一番愛着を感じている。
それは、あのころのインターネットが一番すばらしかったからではなくて、あのころのインターネットが、一番ぼくを幸せにしてくれたからだろう。
それとも、あのころのインターネットの思い出が、ぼくの幸せな思い出に、むすびついているから。
せんぱいのイラストサイトも、手作り感にあふれた、個人サイトのひとつだった。
洗練されていないデザインなのは、ぼくにデザインセンスがなかったからだろう。
しかし、ぼくは今でも、あのとき作ったあのサイトを、けっこう気に入っている。
しろうとくささが、ぼくはやっぱり好きなのだ。
平等の味がするから。
気楽な味がするから。
さて、技術的にはわりと低いレベルのタグで作られたサイトだったが、おかれてある絵は、けっこうレベルが高かった。
あの時代に、スキャナをどうやって調達したのかわからないが(存在はしていたはずだが、あまり一般的ではなかったと思う)、いい絵だな、と思った。
インターネットではよくあることだが、無断転載されたりもして、絵にサインをいれるようになったり、途中から絵のアップロードを一時停止したり、いろいろあった。
無断転載されているんだけど、どうすればいいだろう、と相談されたりもした。
相手のサイトの掲示板に行って、紳士的にやめてくださいと書きこみをして、それなりにひと悶着あったけれども、やめてくださいとひたすら紳士的に対応した。
せんぱいは、ぼくが助言して、絵をアップロードするときに、サインをいれるようになった。
絵に直接サインをいれるわけじゃなくて、パソコンに取り込んだあと、サイトのアドレスを書くのだ。
電子データの上に書くので、大元の絵は汚れない。
いつのまにか、無断転載していたサイトは閉鎖した。
これも、わりとよくあることだった気がする。
ネットは、サイトを閉鎖すれば、消息を絶つことが簡単にできる。
そういうわずらわしい人間関係を断ち切りやすいところも、ぼくがネットを好きなところのひとつだ。
そういうことは、現実世界では、やりたくても、ネットほどにはできないのだから。
高校に入ったら、インターネットで、あまり遊べなくなった。
でも、せんぱいは、フリーゲームを一緒に作ろうぜ、と誘ってくれた。
せんぱいがイラストを描いて、ぼくがプログラミングとシナリオを担当する、といった風に。
音楽はてきとうにフリーのものを使った。
インターネットには、フリーで手に入るものが本当にたくさんある。
プログラムがあまりできなくても、ゲームをつくるツールは、フリーでけっこう転がっている。
ノベルゲームなら、フリーのツールはちゃんとある。
RPGやシューティングなどだと、少し難しくなるようだけれど……。
ちまちまと、一年か二年くらいかけて作ったそれは、それなりに受けて(ぼくのシナリオではなくて、せんぱいの絵が)、そのあと、せんぱいが絵の仕事をするのにちょっとだけ役立ったようなのだけど、それはまた別の話だ。
そんなことより、ぼくは、せんぱいと楽しく何かを一緒に作れたのが、とても幸せだった。
一緒にしゃべりながら、これからどういう風に作ろうかと試行錯誤するのは、とても楽しかった。
6.
せんぱいのおねえさんは、ドイツ語を勉強していたらしい。
フランス語かドイツ語かで迷ったらしいのだが、フランス語は英語と同じく植民地主義者の言語だから、学ぶのをやめたそうだ。
フランス語や英語が、世界の多くの国で使われているのは、フランスとイギリスが、世界の多くの国を侵略し、植民地にしたからだ。
北アメリカには、先住民たちが暮らしていたのに、今はイギリスの言葉が話される国になっている。
南アメリカにも、先住民が暮らしていたのに、スペイン語と、ポルトガル語がつかわれている。
アフリカには、フランス語が公用語の国がたくさんある。もちろん、植民地支配の結果である。
そういうわけで、おねえさんは、ドイツ語を勉強することに決めたらしい。
かっこいいなと思った。
そういえば、おねえさんも、エスペラント語を話すのだった。
おねえさんも、と言ったが、ぼくはエスペラント語をちゃんと話せないので、この言い方は不正確だ。
おねえさんは、ぼくとは違って、ちゃんと話せる人だった。
ちなみに、エスペラント語とは、人工的に作られた、国際補助語だ。
母語としてではなく、簡単に学べる意思疎通のための言語として作られた。
おねえさんは、語学の才能があるようで、海外旅行が好きというわけではないんだけれど、言語が好きと言っていた。
でも、どこか遠い国に行きたい、とお姉さんが言ったことがあって、それはぼくは、とても共感できた。
ここではないどこかに、とても行きたい気持ち。
インターネットの大衆化の歴史について、ぼくなりに考えたことがある。
考えたというよりは、自分の感覚に基づくものなので、これは信用できない話かもしれない。
でも、ぼくの感覚では、インターネットの大衆化の歴史は、すっごくざっくばらんに分ければ、20年間の前半と後半に分けることになる。
だいたい95年から2005年の十年間と、だいたい2005年から2015年の十年間。
まあ、とても適当な感覚なんだけど。
最初の十年間は、主に個人サイトの時代で、大衆化したのはしたけれども、そこまでみんな使っているという感じではなかったんじゃないだろうか。
インターネットをやる小学生はけっこういたと思うが、みんなが当たり前に使っているという感じではなかった。
次の十年間は、インターネットがあるのが社会にとって当たり前になってきた時代であるように見える。
SNSも出てきたし、大型掲示板のまとめサイトも出てきた。スカイプやブログが一般化したのも、このころだったように思う。
最初の十年間であれば、インターネットには接続していなかったような人たちまで、インターネットに参加するようになった。
だから、ぼくは、最初の十年間のほうが、好きである。
もちろん、技術的には、次の十年間のほうが、ずっとずっと進歩しているのだけれど。
ぼくの、そのころのインターネットに関する美しい思い出が、その十年を、美しいものに思わせている。
ぼくにとってのインターネット時代とは、どうしてもこのころになる。
そのころのインターネットにも、そのころのインターネットなりの問題があった。
でも、それでも、思い出の中のインターネットは美しい。
まさか、自分が、「昔はよかった」という考えを、実感できる日が、こんなに早くこようとは。
思ってもみなかった。
大衆化したインターネット。
ぼくも、ユーチューブでビデオを見たり、まとめサイトを読んで時間をつぶしたり、スカイプで友だちと話したり、フェイスブックで外国人と交流したりした。
インターネットが大衆化したからこそ、できた経験。
でも、不思議と、生まれてはじめてチャットしたときのドキドキは、あまりなかったのだった。
でも、そう、思えば、ちょっとだけ。
ちょっとだけ、似たような経験もあったけれども。
友とは腹なり。
そういう言葉を、国語の授業に、聞いたことがある。
本当の友達とは、おなかがすいているときに、ごはんをくれる人のことだ。
たしか、日本とアメリカの人類学者が、アフリカかどこかに行って、そこの人に友だちの定義を聞いて、この答えが返ってきたのだった。
今、ぼくはとても納得している。
これこそ、真の友だちの定義だ。
おなかがすいているときに、助けてくれない人は、友だちとは、ちょっと呼べないんじゃないだろうか。
遊び相手、という言葉がぴったりくるけれど、この定義としての友だちにあてはまらない人を、ぼくはきっと知っている。
インターネットで、インターネットラジオを聞きながら、夜の雨の中、時間をつぶしている。
素人のラジオ。
ネットラジオは、声優のものが有名だが、ぼくは素人のもののほうが、好きだったりする。
もちろん、人によるのだけど。
最良の意味での素人。
優しい声、優しい内容、傷つくようなセリフのないラジオ。
すばらしい。
聞いている人もあまりいないのだろうけど、ぼくはこういうのが好きだ。
おねえさんは、ボードゲームが好きだった。
7.
黄金の水面
汚い言葉を、もう、ぼくは耳にしたくない。