プロローグ
冬月 神奈は自身を凡人だと思っている。
例え、そのことを吐露した幼馴染に『は? 何言ってんの、お前。凡人は朝礼中の校長にシャイニングウィザード決めねぇし、学校の屋上からヒモ無しバンジーを無傷で成功させねぇよ。控えめに言っても、お前は化物だよ、気持ち悪い』などと言われたとしても、アルゼンチンバックブリーカーで勘弁してやれる自分は、ごく一般的な寛容さを持つ凡人だと信じている。
そう、例え――
「きししししっ! やべぇよ、和樹! あれ、絶対魔法陣だって! あの中に入ったら異世界に行けるって!」
「うるせぇ! んなもん、一人で行け! そして、俺を巻き込むな!」
「やだ、和樹君冷たい……美少女で幼馴染な私がか弱く助けを求めているのにっ!」
「急に猫なで声になるんじゃねぇよ、気持ち悪い! つか、こっちにくるな! あの魔法陣っぽいのは絶対お前を目当てに追尾してやがるから!」
「私一人だけでこんなイベントを楽しむのはもったいない! 幼馴染のよしみでお前にも味あわせてやるよ、異世界召喚!」
「やめろや! つか、異世界召喚と決め付けるなよ! 攻撃魔法とかかもしれないだろ!?」
「そうだとしたら、私だけに理不尽が振りかかるのは許せない」
「くっそ、神様お願いでぇーっす! 次生まれ変わる時は、こいつの居ない世界に生まれさせてくださぁーい!」
幼馴染と二人で、謎の魔法陣から逃げ回っている最中だとしても。
それはきっかけも何も無しの、ある日の朝の事。
毎日の慣習となっている、幼馴染――保延 和樹との罵詈雑言の応酬をしながら、神奈が通っている高校へ向かっていた時だった。
『来たれ、異界の勇者よ』
どこからともなく神奈の耳に届いた、不可思議な声。
女性とも男性とも判別がつかない、ひどく中性的な声を神奈が認識したかと思うと、神奈の足下に、ちょうど神奈がすっぽり入る程度の幾何学的な文様で描かれた光の羅列、魔法陣らしきそれが出現したのである。
「あぶねっ」
とりあえず避けれたから、魔法陣を避けてみたが、どうにもその魔法陣は追尾性能を持っているようで、どれだけ神奈が疾走しようとも、決して離れることなく追い続けて来ている。
「んー、どうすっかなぁ」
当然の如く和樹も巻き込んで、魔法陣と追いかけっこをしていた神奈だったが、薄々、理解していた。
この魔法陣からは逃げられない。
例えるのなら、選択肢が用意されているように見えても、無限ループで一つの選択肢を強いるような理不尽なイベントのように。
そして、この魔法陣に追いつかれたところで、致命的な出来事にはならない。精々、多少死に掛ける程度だろう。
「くそう! もう嫌だ! 高校を卒業したら、神奈が居ない場所に引越しするんだ! 二週間に一回の割合で厄介事に巻き込まれる日常から脱却するんだ!」
問題は、涙目で神奈と並走している和樹だ。
神奈の直感は、和樹がこれに巻き込まれたら、間違いなく死ぬか、死んだ方がマシな目に会わされると告げている。未来予知染みた神奈の直感が、容赦なく和樹にとって無慈悲な事実を示しているのだ。
「……さすがに、からかうのはここまでにしておくか」
幼い頃から容赦なく和樹を厄介事に巻き込み続けてきた神奈だったが、さすがに、死の危険のある出来事にまで巻き込むわけには行かない。そう、自分は常識人だから、そこら辺の判別が出来る良い子なのだ、と神奈は心の中で頷くのだが、
「隙ありぃ!」
「うおぅ!?」
神奈の一瞬の隙を突き、和樹が神奈に足払いを掛けた。
生まれた時からずっと、神奈の厄介事に巻き込まれ、それからずっと逃げ続け、時には無理矢理にでも突破口を開いて生き延びてきた和樹の妙技――足払いはもはや神がかっており、さすがの神奈もバランスを崩してアスファルトの地面へ転倒してしまう。
「はーっはっは! ばーか! 油断するからそんなことになるんだよ、神奈! たまには俺を巻き込まず一人で厄介事を解消しろや! ついでに二度と俺の前に戻ってくるな!」
珍しく奇襲が成功したからか、和樹はこれでもかとばかりに高笑いしながら、その場から風の如く立ち去ろうとする。
「……ほう」
「ぬおっ!?」
しかし、それは暗い笑みを浮かべた神奈によって止められた。
獲物を仕留める蛇のように、神奈の右手が和樹の足首をしっかりと掴み、離さない。
「人が折角気を使ってやろうとしたというのに……」
「くそっ、離せ! 離しやがれっ!」
和樹が左足で神奈の顔面を蹴り飛ばそうとするが、素早く神奈の左腕がそれをガード。
「きししし……この際だ、一緒に死線を潜ろうぜぇ、和樹ぃ! やったね、幼馴染+異世界召喚+命の危険=フラグだよ! 場合によってはハーレムもあるかも!」
「うるせぇええええええっ! お前のフラグを立てるぐらいだったら、ヤドカリにフラグを立てるわ! 後、ハーレムは不誠実だと思う、俺!」
「それは同感!」
「だろ? 好きな人全員を選ぶとか、好きになってくれる全員と結婚するとか……本人同士がそれでいいなら、いいんだけど、でも、それってすげぇ気持ち悪く破綻していると思うんだ。なんつーか、愛の定義が根底から違うというか……」
「和樹ってば、そういうとこマジ真面目だよなー。男だったら、酒池肉林ぐらい目指せばいいのに」
「馬鹿言え、将来の夢は独身貴族だ」
「それはそうと、魔法陣がすげぇ光ってるぜー」
「……あ」
そんなこんなで、冬月神奈の異世界召喚は、幼馴染と罵倒し合い、足を引っ張り合い、実に締まらない始まりとなったのである。
●●●
其処は広大な本棚だった。
見渡す限り様々な背表紙の本が本棚に並べられていて、果てが無い。
床や天上は木目調だが、材質は木材ではない。そういう映像を転写した、ディスプレイのような何かだった。だからなのか、窓も灯も無いというのに、この空間が明るいのは。いや、灯という言い方もおかしい。
なぜなら、光源が在るとしたら、それと対になるべき影が、この空間には存在しないのだから。
「やぁ、ようこそ、勇者殿」
そして、本棚が並ぶ広大な空間に、向かい合う者が二人。
二人は本棚で敷き詰められた空間の間隙、そこに置かれたアンティークのテーブル、椅子に腰掛け、意匠の凝らされたコップに注がれた琥珀色の液体を飲んでいた。
古本の匂いが香る空間で、琥珀色の液体からは、香ばしく、上品な香りが二人の間に漂っている。
「にがっ!」
そして、しかめっ面で渋々それを飲んでいるブレザー姿の少女が、神奈だ。
神奈は自分のことを凡人と言っているが、その容貌にいたっては、間違いなく彼女を知る者は全員否定するだろう。ざっくばらんに切られた天然茶髪のショートヘアに、凛々しい勝気な瞳。朱に彩られた口元は、見る者にため息を吐かせるほど艶やかだ。すらりと伸びた肢体には、無駄な脂肪は一切ない。
そう、外見だけで判断するのなら、間違いなく神奈は美少女の部類に入るのだ。
もっとも、神奈の幼馴染である和樹が補足するとしたら、『ただし、性格は大抵の人間に対して害悪にならねぇから、気をつけろ』なのだが。
「おや? お口に合わないかな?」
「ああ、砂糖を飽和限界まで突っ込んでやりたい気分だぜ」
「やれやれ、君にかかっては最高級の珈琲も形無しだね」
文句を言いつつもしっかりとカップに注がれた分は飲み干す神奈。
それを苦笑しながら眺めているのが、ダッフルコートを纏う少女――いや、少年かもしれない――だ。
彼女は酷く中性的な顔立ちをしていて、体つきもだぼついたダッフルコートに隠れて判別がつかない。声も女性とも、男性とも判別がつかない。ただ、ダッフルコートの下にスカートという、女性よりの服装をしていたので、神奈は目の前のそいつを『女性』として定義して進めることにした。
もっとも、決して寒くは無いこの空間で、こうも重装備をしているその少女は、うさんくさくて仕方ないのだが。
「で、誰だよ、アンタ」
神奈は珈琲を飲み終えると、本来ならば、真っ先に問わなければいけない内容を少女へ問いかけた。
「名前かい? そうだね…………こんな状況だし、神様とでも名乗ってみるかな?」
少女は薄く笑い、肩を竦めておどけてみせる。
「つまらない嘘を吐くな」
「おやおや、なんで嘘だと思うんだい? こういう状況には付き物じゃないか、神様。神様の手違いとか、神様のお願いとか、その他色々。神様と定義してしまえば、ある程度、いろいろ面倒な事情は省かれるものだよ?」
はんっ、神奈は少女の言葉を一笑に伏し、切り捨てる。
「そんな都合のいい存在なんているか」
「そりゃ、ごもっとも」
機械仕掛けの神様なんて存在しない。
現実にあるのは、現実だけ。
主人公補正で多少のご都合主義はあるかもしれないが、強引過ぎるのはいただけない。
なにより、神奈は自らの身に起きた出来事を『神様』という便利な理由に依りかからなければ理解できないほど、弱くないのだ。
「じゃあ、改めて名乗ろうか。ボクは遊水。岸辺 遊水さ。神様と言うほど万能ではないけど、生活に役立つささやかな知識ぐらいは持っている賢者さ」
「……うさんくせぇ」
「あはは、よく言われるよ」
からからと乾いた声で笑う少女――遊水。
表情こそ笑っているが、その笑顔には中身が無い。少なくとも、神奈が観察した限りでは、遊水の表情は全て、殻を被っているどころか、その殻だけで、中身がまるで無いがらんどうに感じた。
「さて、本題だね」
遊水はがらんどうの言葉で神奈へ告げる。
「君はどうして自分がこの場に呼ばれたのか、とても不思議に思っているだろう。無理もない。いきなり平穏な暮らしから、こんなわけの分からない場所に呼び出されたのだからね。こんな理不尽極まりない事をすれば、どんな善人だろうと怒っても仕方ないだろうが、こちらにも止むに得ない事情があってね。出来れば、卑小なる我が身の懇願を聞いて欲しいんだけど、どうかな?」
「……話してみろよ」
舌打ち混じりに応えた神楽へ、遊水はにこやかに言葉を続けた。
「ありがとう。うん、実は君にね、世界を救ってもらおうと思うんだ。ああ、君の住んでいた世界とは別の……いわゆる、異世界という奴になるんだけど」
「勇者で異世界を救えとか、またベタだな」
「仕方ないよ、いつだって物語の始まりはベタなものさ」
まるで他人事のような口調。
軽薄というよりは、空虚に近い。
「君にこれから救ってもらう世界の名はジパング。混沌渦巻く魔性の世界さ。その世界には魔法もあるし、科学だってある。正義も、悪も、夢も、希望も、絶望も、神も、魔も、何もかも皆、かき混ぜられて存在している。文字通り、何でもありの世界さ。けどね、何でもありということはつまり、『世界の危機』すら当然の如く存在してしまうということなんだよ」
「いちいち回りくどい。三行で説明しろ」
「君にこれから行ってもらう世界の名前はジパング。
何でもありの世界だけど、だからこそ、危険に満ちている。
その危険が今回はとてもやばいから、勇者である君にその危険を排除してもらいたい」
「うし、いいぞ、救ってやる」
「軽いし、返答早いね」
「悩むほどのことでもないだろ、別に」
ぱちくりと目をしばたかせる少女に、神奈は肩透かしなほどあっさりと言う。
「勝手に勇者だ、何だ言われるのはむかつくが。ま、異世界召喚っていうシュチエーションにも一度は憧れていたからな。いいぜ、観光ついでに世界でも救ってやるよ」
「……これはまた、随分と素敵な性格だね、君は」
「だろ? これでも人格者で通ってたんだぜ」
和樹が聞いたら、とても渋い顔をした後、唾を吐き捨てるだろうが、なぜか神奈は自信満々に胸を張っていた。
「そもそも、ボクがどうして勇者として君を呼んだのかも言ってないのに、そして世界の存亡が関わる出来事に巻き込まれるというのに、随分肝が据わっているんだね」
「失礼だな。ゴキブリ見たら可愛らしい悲鳴を上げる程度には乙女だぞ?」
「絶対黄色い悲鳴を上げながら、ゴキブリを抹殺しているよね?」
「なぜわかったし」
むしろ、神奈の性格と所行を知っている者ならば、誰だってわかるだろう。
恐ろしく勘が鋭いくせに、こういうところはとことん鈍い神奈だった。
「んじゃ、快く返事も貰ったことだし、そろそろ君に与えるスキルでも選ぼうとするかな」
「おおう?」
しゅんっ、と何かが収束するような音と共に、遊水の手元に一冊の本が出現した。
それは手品の類ではなく、神奈の目の前で、何も無い空間へ一冊の本を取り寄せるという超常の技だった。
「開け、叡智の本」
革表紙の分厚い本は、無風だというのに一人でにページをめくっていき、とある項目でぴたりと止まる。
其処に書かれていたのは、ジパングという世界に存在するありとあらゆるスキル。
才能の一覧だ。
「さて、これから君にスキルポイントを30点割り振るから、このスキル一覧を見て、自分のスキル構成を考えて――」
「いらん」
「……へ?」
半口を開けて、思わず疑問の声を洩らしてしまった遊水。
それは、今までの演技染みた所作ではなく、完全に素の物。
「だから、んなもん、いらねぇっつってんだろ。つーか、スキルポイントを割り振るからスキルを獲得してキャラ作れとか、TRPGかっつーの。TRPGは好きだけどよ、生憎遊び気分で行くつもりはないんでね」
「いや、さっき君、観光ついでとか言ってたよね? ……うん、でもそれは別にいいんだ。でも、大切なことだから確認を取るね。本当に要らない? スキル」
神奈はこれでもかと大きなため息を吐くと、半目で遊水の問いに答えた。
「通りすがりの他人に『三億やるよ』なんて言われて、信用できるか、馬鹿が」
「んー、確かにそうだけど、信用云々は置いておいて、これから君は強制的に危険溢れる異世界に行くわけだから、正直、こういうの貰っておかないと、死ぬよ?」
「死なねぇよ」
あっさりと、神奈は遊水の忠告を切って捨てた。
「私が死ぬわけねぇだろ。私は平々凡々な人間だけどよ、死に際程度は自分で選べる人間だぜ? たとえどんな理不尽に晒されようが、関係ないね。私が死なないと言ったらそれは真実になるし、その真実が事実になるように私は努力する」
淡々と、まるで子供に交通安全のルールでも説くかのごとく、『当たり前』に神奈は言葉を紡いでいく。
「もし、万が一。お前の言うとおりに、スキルを取らなくて異世界で野たれ死ぬことが会ったとしても、それはそれで上等だ。少なくとも、誰かの操り人形として生きるぐらいならな」
「……君は、強いね。強すぎる」
「はぁ? 私以外が勝手に卑屈になって、弱くなっているだけだろうが」
神奈は自分を凡人だと思っている。
自分が出来ることは、他人だってやれることばかりだと、そう思っている。
実際、出来ないことはないだろう。鋼の意志と揺るがぬ覚悟、たゆまぬ鍛錬を重ねればかろうじて。
常人がそうしなければ出来ないであろう事を、神奈はまるで呼吸の如くあっさりと当然の如くこなしていくのだ。
他の人間でも出来ることをやっているから、自分は凡人だと言うのだ。
それがどれだけ残酷で、厳しい物かも知っているというのに。
「そうかい。なら、ボクは君の意志を尊重しよう。君が何処まであの世界に通用するか、楽しみにさせてもらうよ」
「おう、精々楽しんでろ」
犬歯を剝き出しに、野獣の如く笑う神奈に、ニヒルな笑みでそれを受ける遊水。
どちらも負けず劣らずの異常であり、異端だ。
いや、この場合を考えるのであれば、正体不明の賢者である遊水に一歩も引かない神奈がおかしいのだろう。
「それじゃ、スキルは無しということだけど、せめて具体的な敵についてだけは教えておこうかな。さすがに、世界の敵を倒せ、だけじゃ曖昧すぎるしね」
ぱたん、と自動的に本が閉じると、出現した時と同様に、瞬く間に本はその空間から消失した。一度目は多少驚いた神奈だったが、二度目となるともう対応してしまったらしく、反応すら示さない。
ただ、代わりに、
「いいや、その必要は無いぜ」
遊水に反応も許さない早さを以て、テーブルを蹴り上げた。
「っつ!?」
次いで、蹴り上げたテーブルごと、神奈は遊水に強烈な回し蹴りを放つ。遠心力と体中の駆動力を澱みなく載せた一撃は、空を裂き、テーブルを割り、遊水の顔面を砕かんと襲い掛かる。
「さすがに、このショートカットは失敗か」
「…………説明してもらってもいいかな?」
しかし、その一撃は遊水の顔面に、ちょうど眼鏡の赤い縁に触る程度で止められ、動かない。神奈の蹴りは、遊水に触れる前に、不可視のゴムのような感触に遮られてしまい、眼鏡一つ弾くことも出来なかった。
それでも、遊水の額から冷汗が一筋流れていることから、完全に遊水の意識の間隙を縫った攻撃だったことは確かだ。
「ふん、別に説明するほどのことでもねぇだろ」
神奈は足を下ろすと、にぃ、と不敵な笑みを作って神奈へ言う。
「お前の言う世界の敵って奴は――――他ならぬ、お前だろうがよ」
貼り付けていた薄い笑いを消し、無表情で遊水は神奈へ訊ねる。
「理由は?」
「ねぇよ、んなもん。強いて言えば、私の勘が囁くのさ。『このうさんくさい奴はとりあえずぶち殺しておいた方がいい。つーか、黒幕じゃね?』ってな」
「そんな適当な理由で人が死ぬ蹴りを放つのかい? 君は」
氷のような無表情の遊水に対して、神奈は烈火の如き笑みで答えた。
「当たり前だろ? 私の勘は生まれてこの方外れたことが無いからな」
「末恐ろしいね。名探偵ってレベルじゃないよ」
「まぁな。その所為で推理小説やドラマがつまらないことこの上ないぜ」
神奈が肩を竦めておどけて見せると、観念したように遊水がため息を吐いた。
「まったく君って奴は…………どこまで規格外なんだ」
「おいおい、凡人を前にしてその感想は無いだろ」
「むしろ、その自己評価がありえないよ」
ぱちんっ、と気軽に遊水が指を弾くと、人差し指の先から生まれた光が軌跡を描き、幾何学的な文様を描いていく。
そう、神奈がこの空間に呼ばれたときと同じ魔法陣を。
「まったく、君はボクの予想に当てはまらない。きっと、何処までもボクの計画や思惑をぶち破る存在だ。でも、だからこそ、ボクの敵に相応しい」
魔法陣は一瞬で神奈を捕らえ、再び、眩いほどの光を放ち始める。
「さぁ、行きたまえよ、ボクの敵。混沌渦巻く世界の中で、君はどこまで足掻くことができるかな?」
挑戦的な遊水の台詞を、神奈は一笑。
親指を下へ向け、べろりと長い舌を出してみせた。
「お前こそ、いつまで私から逃げられるかな?」
やがて、神奈の視界は全て白い光に塗りつぶされて――――
「ったく、随分適当な場所に送りやがって」
気付くと、荒野のど真ん中に居た。
見渡す限り、灰色の大地が広がっており、おまけに神奈の周囲には見たことも無い生命体が蠢いている。
赤い目が三つ存在する狼。
ちょっとした小山ほどの一つ目の巨人。
空を舞う三つ足の鴉の群。
獅子より大きく、頑強な赤い殻を纏った蠍。
異常のオンパレードだ。
対して、神奈は綿の制服。
武器は素手。
一般人なら絶望し、神に祈るどころか、神を呪う状況だろう。
「はっ、上等」
しかし、神奈によってはまったく考慮に値しない。
これくらいの逆境、むしろ生ぬるいくらいだ。
むしろ、この程度で冬月神奈が止まると思うことこそ、おこがましい。
「さぁ、これから私の異世界譚を始めようか!」
異常の怪物達へ、むしろ嬉々として向かう神奈。
風よりも早く、勇気なんて必要としないほど自然に、神奈は疾走する。
目の前の障害を、立ちはだかったことを後悔させてやるために。
そう、これは自らを凡人だと思う超人、冬月神奈の異世界譚。
混沌とした世界、ジパングで、彼女が高笑いしながら逆境を粉砕していく物語――――
「あ、そういや和樹はどーなったんだろうな?」
ではない。
さて、そろそろ本当の主人公へ視点を移そう。
●●●
其処は一見すると、普通の街に見えた。
街と言っても、都会ほどビルディングが建ち並んで折らず、田舎ほど自然に溢れている物ではない。精々、都心から少し離れた程度のベッドタウン程度。
でかでかと何処かの店の看板に書かれた文字は判別できる。
彼が慣れしたんだ日本語だ、判別できない方がおかしい。
そう、建物だけを見るのならば、ある意味、ここは彼が元居た世界に一番近い場所だった。
――獣の耳を付けた少女、額に角を生やす男、もはや人型ではないドラゴン、形すら保っていない不定形などが街を闊歩していなければ。
ありとあらゆる人種どころか、ありとあらゆる生命体が混ざり合い、生活を織り成している風景は、まさに混沌。
そして、その中に一人、中肉中背で、やや三白眼以外は特徴の無い少年――保延和樹が呆然と立ち尽くしていた。
「…………………………どちくしょう」
呟く怨嗟も当然、神奈には届かず、街の喧騒の中で消えていった。
これは自らを凡人だと思う超人の異世界譚ではない。
そんな、快刀乱麻の如く障害を打破する少女は凡人と定義されない。
凡人とは――中肉中背で特に運動神経が良いとも言えず、かといって特に頭が切れるわけでもない。特別なツテなんて持っていないし、女の子にもてる要素なんてありゃしない。
間違っても、主人公などと言う大役を果たせる器ではない少年、和樹のことを指す言葉だ。
これはそんな凡人が足掻く物語。
混沌溢れる世界で、己の限界以上の性能を引きずりながら、ひたすら生き延びて、元の世界へ帰還することを至上目的とする、ありふれた凡人の物語である。
悲劇になるか、喜劇になるかは、わからない。
ただ、役者たる和樹は、
「ああくそ、やってやる! やってやるよ、あのクソアマぁっ! 次会ったら、今度こそ殺してやるからなっ!」
少なくとも、舞台を降りるつもりはないようだ。
――――では、幕を上げるとしよう。