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目をつぶりながら、色々考えてみた。以前、何かの本に、緊急事態が発生した時には焦らず、先ず最悪の事を想定して、次に最善の事を考えるよう書いてあった。たいていは最悪の事を考えても、命までは無くならない。そう思うと安心して心が落ち着くというのである。しかし、今回は最悪の場合、死ぬかもしれない。最悪の事を考えるのはやめた。
次に考えたのは、このまま救助が来るのを待つ事であった。この道は深夜でも時々車が通るはずだ。もし雪山にでも突っ込んだのであれば、他の車が異変に気づかない訳はない。少なくとも朝になれば付近の店に勤める人たちが出勤する。交差点から雪山に続くタイヤの跡を発見するに違いない。時計は午前4時を示していた。3時間、朝7:00までの辛抱だ。そう思いながらも携帯電話を開いて確認する。やっぱり圏外であった。待つしかない。
少し心が落ち着いたせいか、急に喉が渇いてきた。会社を出た後すぐにコンビニに寄り、コーヒー牛乳とポテト・サンドを買って、食べながらここまで運転して来た。まだ少しは残っているかもしれないと紙パックを持ち上げてみたがコーヒー牛乳は既に空であった。こんな事なら、お茶の1本も余計に買ってくれば良かったと思ったが、まさかこのような事態になるとは思わなかった。
私は片方だけ開いていた紙パックの口を両方とも開き、双方の口を対角線方向に引っ張り、真ん中のつなぎ目をはずして、上部をすっかり開けた。車の窓を少しだけ開け、雪を掴んで紙パックの中に数回入れた。雪は真っ白できれいだった。これを溶かせば飲めるだろう。車のヒーターのダイヤルを回し、足元を意味するマークに合わせた。雪の入った紙パックは助手席側の足元に置いた。
少し経つと、紙パックの中の雪が解け始めた。私は雪が完全に溶け終わるのを待たず、底の方に溜まった雪解け水を飲んだ。少しだけコーヒー牛乳の味がした。飲み終わると、また目をつぶった。足元が暖かいせいか、しだいに眠くなってきた。こんな時でも眠れる自分を褒めながら、完全に意識が遠のく前に、万が一の事を考えて車の窓をほんの少しだけ開けておいた。酸欠と一酸化炭素中毒を避ける為だ。それを最後に私の意識は夢のかなたへ消えていった。
起きてしばらくは、ここが何処なのか判らなかった。やっと車の中だと気づき、続いて昨夜の記憶が蘇った。たった今まで見ていた淡い夢から現実に引き戻された。どんな夢だったのか思い出せない。たった今まで覚えていたような気がするが思い出せない。何とも言えない懐かしいような切ないような気持ちが残っているだけだ。どんな夢だったか思い出せないのに、夢から覚めたのが残念でならない。目から涙があふれ出ていた。もう少しぼんやりしていたかったが、今は夢を思い出している場合ではない。
朝になっていた。車のデジタル時計は8時を示していた。いや、時計を見る前から朝だと気づいていた。そうだ、サン・ルーフからかすかに光が差し込んでいるのだ。
私は慌ててサン・ルーフを開けてみた。昨夜と同様、雪がどどっと車内に落ちてきたがその向こうに空が見えている。頭から雪を被ったまま、私は座席に上り、サン・ルーフの外へ頭を出した。そして目に飛び込んできた景色に思わず体が硬直した。しばらくは息もできなかった。
周りはまるで原始林だった。私の車は雪山に埋まっているのではなく、雪の下に埋まっているのだ。目の前には私の目の高さと同じ高さで雪の水平面が見えている。景色をこの高さで見たのは恐らく生まれてはじめてである。昆虫が見ている世界である。きっと外から見ると、私は雪の地面から頭だけ出しているように見えるだろう。私の車の高さは身長くらいあるので、ここらへん一体は2メートル弱も雪が積もっているという事か。頭が錯乱していたが、目だけは忙しく辺りを見渡していた。
店など一軒も無い。あるのは木だけだ。車の左側に大きな木がある。樹齢100年は超えているような大木だ。他にも大きな木があちらこちらに見える。見渡す限り木しか見えない。無作為に生えている木々の様子は、まさに原始林だ。主に針葉樹だが、中には広葉樹もある。それらが朝日に照らされて輝いている。空気は澄んで、張りつめている。普通なら5分と耐えられない寒さであったが、私はしばらくの間呆然と見ていた。例えるなら、野幌原始林に車を止めて、真冬まで車の中で過ごし、雪が2メートルくらい積もった後でサン・ルーフから頭だけを出して眺めるような景色だった。
向かって右側に太陽が見えると言う事は、車は北向きに止まっていると言う事になる。すると左側は西かと思って左側の巨木の向こう側に見える木々を見ているうちに思わず「あっ」と声を上げた。木々の間からうっすらと手稲山が見えているのである。いつも見ている手稲山とは少し違うような気がするが、あの稜線は間違いなく手稲山である。いつも自宅の窓から見ている見慣れた形である。
少し違うと思った理由はすぐに判った。手稲山の山頂付近にあるはずの建物や鉄塔が無いのである。しかし、山頂から北側の稜線、はるか山方向への緩やかな造形はまぎれもなく手稲山である。体の向きを更に左側に向けて、今度は手稲山の南側に目を凝らしてみた。大きな木々が邪魔して稜線がはっきりしないが、円山、藻岩山らしき山影がはっきりと確認できた。そしてそれらの山々が見える角度から察して、ここは紛れも無く屯田付近である事を確信した。
一瞬、タイムスリップか、と思った。でもそれはSFの世界である。現実にそんな事がある訳は無い。では、なぜ一瞬にして景色が変ったのか。どうして手稲山の山頂に建物が無いのか。どうしてこんなに雪が多いのか。
体が芯まで冷えきっている事にやっと気づいた私は、とにかく車に戻りサン・ルーフをしっかり閉めて、ヒーターを最強にした。そしてそのまま目を閉じた。これが現実でない事を願いながら。